2015年04月23日

風と桜(風に散りやすい桜ーこの何日かの桜を歌う)


風と桜(風に散りやすい桜ーこの何日かの桜を歌う)


今しばし残れる花を見むとすも風の荒くも散らしけらしも
今日もまた風吹き荒れて花散れるあとにしなおも唸りけるかな
華やかに咲きしと思えば散りにける夢にあれしや花にしあるかな
この道の桜のはやも散りぬらむ曇れる夕べ時はすぎゆく
この道に残れる花やあわれかなくもれる夕べ老いゆくものに
我が郷(さと)に知らぬ桜やはや散りぬ知られぬ道を今日我が行きぬ
ここにしも桜咲きぬ知らざりき夕べひそけく見て通りけり
山桜夕べの風にしきりゆれ暗雲や屋形の謂われなおも消えじも
今日一日残れる花や風もなくおだやかにして陽のさし暮れぬ
あわただし今年も花の終わらむやなお遠く弘前へ我花を見むかな



風が唸りふき桜は昨日は結構残っていたが今日はほとんど散った。
余花として見ようとしたがそれも風が強く散って見れなかった。
今年の桜の時期は荒れ模様だった。
それで花吹雪を見たのはめずらしかった。
荒れ模様でないにしろ桜は何か散りやすいのである。
咲いたらたちまち散るのが桜である。
そこに他の花とは違った風情がある。
散るときは美しいのである。
だからどうしても死にたとえられるのである。

限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風 蒲生氏郷

風が吹かなくてもすぐに花は散るのに風が吹いて散らしてしまうのが桜なのである。
桜の命はあまりにも短いのである。

華やかに咲きしと思えば散りにける夢にあれしや花にしあるかな

桜は一時夢のように咲いている、でもたちまち散ってない、そこが桜の一番の特徴なのである。風に散るとき桜は美しいのである。
だから今年は風が吹き荒れたから桜らしいのを見たとなる。

春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり 西行

桜はたちまち風に散るから風とともに歌われるのが多いことがわかる。
一面をおおうように咲いてもたちまち花は散って夢の跡になってしまうのである。

大坂城よそおふ桜夕べ散る名残りを惜しみみちのくに帰る

大坂城の桜は見応えがある、あれだけの大きい城に桜が咲くの見物である。
でも秀吉は京都の伏見城の方で謁見などをしていた。
これも間違いやすいのである。醍醐の桜と言ったら京都なのである。
秀吉は京都とと縁が深いのである。
淀君の子の秀頼の城が大坂城だった。
だから淀君と秀頼は最後大坂城で死んだのである。
ともかく大阪城の桜は夕日に映えて美しかった。
ただそれもあまりにも遠い日のことになってしまった。
京都大阪は遠くなってしまった。確かに新幹線でも距離的には短いにしろ時間がないから遠くなったのである。
時間があれば今は便利だから遠いということはないのである。

ここにのせた桜の短歌は天候の変化に応じて詠んだものである。
とにかく今年は天候の変化か激しかったのである。
昨日は暗雲であり屋形で山桜を見たがあそこでは岩松氏の悲劇の場であった。
500年前にしても一族子供まで惨殺されたので未だにこの土地ではその祟りとかを恐れることになる。
なぜなら惨殺した家来の一人は姓を変えたしその人はこの土地に住んでいるからだ。
だからこれは物語とかドラマに土地のものはできない
惨殺した方の子孫がまだ住んでいる、それも姓を変えたということでわかるのである。
このことは歴史にも明確に残っているから消しようがないのである。
郷土史が面白くないというとき郷土の人はみんないい人であり悪いことは言えない
それが5百年前の話でもそうなのである。
郷土史には悪人がいないから面白くないというとき悪人であっても子孫が残っているのだからそのことをあからさまに語れないのである。
郷土では500年前のことでも悪いことは語りにくいいうことである。

ともかく故郷のこの辺の桜は終わった。
明日は今まで見ていなかった、弘前城の桜を見に行きたい
なんとか留守を頼むことができた
介護になってから一番のショックは外出することが一番むずかしいことになった。
介護のために離れなくなるからだ。
家族に代わるものがいないと介護はちょっと遠くに出るのもむずかしくなる。
だから新幹線で一日行って泊まりなんとかとんぼ帰りとなるから
ゆっくりはできないし旅とはならない
新幹線で青森まで行っていないから新幹線に乗るというだけになる
つくづく自由な時間は人間に与えられるのは限られている
勤めていたら連休くらいしか自由な時間はないのである。
だから旅などはできない、やらりと途中下車が旅だとしたらできない

今年の春はこれまでの介護や病気や一身上の災いから脱して楽になった春だった。
だから一段と春を感じた、でも天候は変わりやすかった。
今になって何かおだやかになった。
弘前の桜は城が改修工事に入る前に見ておくのがいい
弘前には冬に行ったが桜見ていない、あそこの桜を見れば全国をほぼ見たことになる
ただ九州とか富士山に映える桜など見ていないしとても桜は近くでも見切れないのであるそれだけ桜はいたるところに咲いているからである。
名所だけでとない、まだ発見されていない桜はいくらでもあるし見れないのである。
ただ桜前線をたどる余裕があるなら一カ月は見れる
稚内では6月までも咲いていたからである。
今年の春はあわただしい、だから桜に集中して書いたがその他は書けなくなっている
いづれにしろ時間がないとゆっくり見ないと旅にもならないし記憶にも残らないのである今回は旅ではない、新幹線に乗ることと弘前の桜を見るという目的を果すだけである。

タグ:風と桜
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