冬の月光を放ち今日も澄む
冬籠書斎にひしめく本の山
本の山埋もれし本の一冊をとり出し読める年の暮かな
あるプログの「分け入つても分け入つても本の山」というのはうまい表現である。
http://yondance.blog25.fc2.com/
一種の川柳になるしこうした句にも著作権あるから引用するのがむずかしい。人間は年取ると誰でも何かがたまる。最近ゴミの家で話題になっているがどんな人もゴミをためこむのだ。これは異常なことではない、それが極端に肥大化したのがゴミの家なのだ。私も本が一部屋以上たまり整理しきれないし捨てるのも捨てきれずに困った。本というのはどうしてもたまる運命にあるのだ。知識が本となっている限りたまる。本で知識を貯えるほか知識の仕事はできないようになっていたからだ。物を書くには自分の家が図書館になっていない限り書けない、なぜなら常に何かを参考にしなければかけないからだ。だから必要以上に本はたまるのである。インタ-ネット時代になるとこれが変わってきた。何かを書くときインタ-ネットから探す、「本の山」と入れたら4万もグ-グルにでてきた。それだけ本の整理に苦労している、本をためこんでしまった人が多いのだ。そして同じを本を家にあった本を買ったりもした。本とはそれほど整理つかないものになる。でも千冊ある本の中味をどれだけ読んでいるかというと一割にも満たない、もう一回読んでみたらこんないいこと書いてあったのかとかふりかって読んでいるのだ。知識の世界は膨大なものであり人間はその本の一部しか理解できないのである。
本は人間を書いたものだから読んでくれ理解してくれとひしめき騒いでいるのかもしれない、でも個々人で利用できる知識の範囲は極めて少ないのである。知識は本来利用されるときに価値がでてくる。利用した人が価値を与えることが多いのだ。だから知識とか本とかを商売にするのは向いていないものだった。ベストセラ-というのは宣伝により買わされるものでありほとんどの人にとって必要なものではなかった。個々人に必要な知識とか本はそれぞれ違っているのだ。基本的なものは古典は読むとしてその他はみんな違っているである。だからこそ個性が生まれる。インタ-ネットによって読書環境は激変した。体験談なんか例えば本当は無料でするのが一番向いている。体験談を聞いてくれる人の方が貴重なのである。金払ってまで聞くきしない体験談なんかいくらでもあるからだ。そもそも体験談は何か伝えたいものがあるからでありそれを出版とか商業化するのはなじまないものだったのである。プログでも読んでくれる人の方が読者の方が貴重なのである。今や読まれないということがインタ-ネットでは大問題になっているからだ。今年もそろそろ終わりだけど人間は最後にゴミの山になること考えておいたほうが良い、最後に結局ゴミばかり残るということがありうるのだ。だからゴミの家は一見特殊な人のように見えるが老人になればわかるが特殊なものではない、ただそれが極端化、肥大化しただけなのである。
2005年12月12日
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