2015年04月22日

桜は日本人の心 (ともに栄えるのが格差がないのが日本の文化)


桜は日本人の心

(ともに栄えるのが格差がないのが日本の文化)

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峰々を望みて高く桜咲き日本の栄いやましにけむ
日本なれ桜の国そ美しく共に栄えて心に染まむ
日本なれ富士の嶺の高く東海に朝日昇りて桜映ゆるも
東海に朝日昇りてきらめきぬ桜の映えて沖に船行く
桜咲き高嶺を仰ぎ大空に鳥の翔けゆく境を越えて
日本にそ生きる喜び桜咲く我も生きにつ栄え加えむ
ともに生きともに栄えむ桜かな燕飛び交いよその人も見ゆ
日本なれ見ぬ桜なおあまたかな隠されし栄また現れむ
人の世の常なかりけり風荒く一時に散る桜花かな
城守り敗れしもののその心城に託すや昔偲びぬ
残る花なお散りにけりこの道に雨しととふり夕暮れにけり
ここに生きここに死すなれ桜かなまた咲くべしや年はめぐりぬ
戦争に散りし命のあまたかな魂(たま)の帰りて桜と咲かむ
里の人見ずして散りぬ桜かな帰り来るを待ちて咲きしも


(栄の意味)

[音]エイ(漢) ヨウ(ヤウ)(呉) [訓]さかえる はえ はえる
[学習漢字]4年
1 草木が盛んに茂る。「栄枯」
2 物事がさかえる。「栄華/共栄・清栄・盛栄・繁栄」
3 ほまれ。名誉。「栄光・栄誉/虚栄・光栄」
4 体の活力を盛んにする。「栄養」

日本では栄えるというとき栄の字をあてた。栄えるはおそらくさかるからきている、盛りである。
これに栄をあてたのは中国文化と共通したものがあるからだろう。
木に栄えるとは植物が栄えること植物が繁茂することでありそれは日本の風土にあっている。
もともと桜は中国が原産だという、中国には二十種類もの桜があるからである。
木が栄えるというのもそういう中国文化と日本の文化が融合したためだろう。
日本の国は山の幸と海の幸の文化であり山の幸は植物であり海の幸は魚であった。
桜は山桜となると山に咲く桜なのだが桜は海にも映える、海にもにあわっている。
それは明治以降に染井吉野が咲くようになってからだろう。
西行が歌ったのは吉野であり山深い山桜である。
何かそこが桜に関して誤解しやすいのである。
明治以降は桜に関しての日本人の感覚は相当に変わってきたのである。
つまりあらゆるものはものの見方は変わるのである。
もともと城に桜が咲いていなかったのに今は城を桜がおおっているから桜が咲いていたように錯覚している。

敷島の大和心を人問はば、朝日に匂ふ山桜かな 本居宣長

大和魂とは、ひ弱な人工栽培植物ではない。
自然に生じた、という意味では野生のものである。
それは日本の風土に固有のものである。

これは山桜のことであり染井吉野ではない、自分が見たかぎりでは山桜ではこういうふうにきれいに大きく見えたものはない、隠されて咲いているのを見ている。

山の上に朝日さしそめ隠れ咲く山桜かな巌そそりて (自作)

山桜は一つの樹に華やかに広がり咲いているのを見ないのである。
そういう桜は今はたいがい平地に咲いている桜の古木なのである。
江戸時代までは山桜が称揚されていた。ただ日本人の心として桜があることをこの歌で定着した。
日本人の心にともかく桜があるということになった。
ただ江戸時代までは日本の世界感覚は日本国内でも閉鎖された封建社会だった。
だから視野も狭いのである。日本全国を見たら桜は無数にある。
知られない桜は未だにいくらでもある。桜は別に有名な所だけではない、吉野だけではない、日本ではいたるところに咲いている。福島県内でもいわれのある桜があっても桜の時期は短いから見れないのである。
会津などは奥深いから桜でも見れない、どうしても桜の時期には見やすい場所に行くから見れないのである。
桜の古木がある所は身近な所でも知らないのである。それだけ日本では桜が多いのである

折口信夫は言う。

昔の人が考えているたまは、威力のある魂が物の中に内在してゐて、それを發揮して人の體に入れる、さうするとはじめて靈力を發揮するといふ考え方、魂が動物の體を通してくることも、また物質の中に這入つて、人間に發揮させることもある。(『古代人の信仰』昭和十七年二−五月『惟神道』第二巻第二−四號)
たまの方は、これが分化して、かみとものになったらしい。(『原始信仰』昭和六年九月『郷土科學講座1』)

▼体内から拔けだして動く(遊離)霊 ◇「にぎたま(和魂)」「ことだま(言霊)」「ひとだま(人魂)」 ◇『万葉集』三〇〇〇「魂合はば相寢むものを小山田の鹿田(ししだ)禁(も)るごと母し守(も)るごと」 ◇『万葉集』三二七六「天地に思ひ足らはし玉相者(たまあはば)君来ますやと」 ◇『古今集』四四八「空蝉のからは木ごとにとどむれどたまのゆくへをみぬぞかなしき」

「空蝉のからは木ごとにとどむれどたまのゆくへをみぬぞかなしき」

この歌も不思議である。うつせみとか言うけど死んだら魂はどうなるのか?
何かに転生するとかどこに行ってしまうのかとなる。
だから死んだ人の魂が美しい桜の花となって再び生き返るとかイメージしても不思議ではない、また外国でも死んだ人が花になったという伝説もある。
戦争で死んだ日本人の無数の魂はどうなるのか?
戦争で日本人は実際は残酷非道なことをしたことは確かなのである。
ただ外国で無惨に死んだことも確かでありそういう人たちの魂はどうなるのか?
その人たちはとにかく日本に帰りたいということは確かだったのである。
日本の桜をもう一度見たいと思って死んだとなる
その魂の返るべきなのが日本の桜であることがにあわしいのである。

桜に関する言い伝えとか話は無数にある。それらを全部知ることはできないし桜を見ることはできない、ただ現代はどうしても全国的視野で見るのが桜である。
桜は桜前線となるから桜前線をたどって見ることがふさわしいのである。
すると全国を旅して始めて桜を知ることになる

日本なれ稚内までにも咲く桜我は見ゆかな栄あれかし

桜については語り尽くせないものがある

わきて見む老木は花もあわれなり今いくたびか春にあふべき 西行

桜は年によって見え方が違うのである。天候も違うので見え方が違う。
今年は荒れ模様の中での桜だった。花ふぶきを見たのはめずらしかった。
あれも美しかった。花ふぶきのように散るというのはこの辺では津波で死んだ人たちがいたからそれと重なるのである。
そういう人たちの魂もまたどこにゆくのか?故郷の桜と咲けばなぐさめられるとなる

ここに生きここに死すなれ桜かなまた咲くべしや年はめぐりぬ

これは土着的な桜である。ただ桜は何か土着的なもの一カ所に動かないものとしてあるだけではない、桜は全国に咲くから全国に今は心が向いてくる。
自分は富士山が見える場所での桜が見たい、富士山はあまり見ていないからだ。
富士と桜もまたあうし海と桜もあうのである。
この辺では桜はまた故郷に咲いているのだけど原発事故で避難して人が住んでいないのに桜が咲いている。
そして桜が散ってゆくのも淋しいとなる。
それは津波の跡に特に庭に残された樹の不思議だった。
何かそれがいまでもその土地から離れがたくあり人間に見えたのである。
それは松原の松とは違っていた。人間化された樹だったのである。
これは実際にそこに住んで見ていないとその感覚がわからない
それは津波の結果として樹だけが残されたことで感じることだったからである。
避難した町でも村でもそこに咲く桜があり樹があるがそれは人間を帰ることを待っている、人間化した樹だからそうなっているのである。
原生林の樹だったらそうはならないのである。

木のもとに住みける跡を見つるかな那智の高嶺の花をたずねて 西行

花山院の庵をたずねて歌ったものである。
桜に関しての歌はこれだけではない,無数にある。これからも日本では桜に関しては見方が広く深く拡大してゆく
ただ日本人の心は今や桜のようになっていない、守銭奴であり心は江戸時代の時より汚れている。
繁栄というとき経済的にしか語られないのである。
今や課題は経済的なことではない、日本人の心を建て直すことなのである。
桜というときどうしても美的な側面だけが強調される、モラル的なものは見逃されるのである。日本人が今いかに心の面で荒廃しているか?
一人一人が考えていることは金のことしかないし欲がますます深くなっているだけである原発事故の原因もそうした限りない欲の追及の結果でもあった。
日本人の心は共栄の心でもあった。日本では貴族がいなかった。
それはもともと共栄の社会でありそれだけの富もなかったからだとなる。

桜花ともに栄えてともに見ゆ日本の心桜にあるべし

だから日本では格差社会になると社会は乱れる、大陸的な中国やアメリカの手法が日本には向いていないのである。






タグ:桜の心
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