病室になお生きて会う春の星
春なれど一軒留守やけがの老
励ませし隣の老人その人も病院に入る春になれども
一軒家に住んでいた80くらいの老人が自転車に乗り車とぶつかり大怪我をした。今はリハビリ中だという、すでに三カ月以上になる、なぜわかったかというとこの人のことを家族が認知症になってから知っていて交際していたことがあったからだ。骨をいためたらしくかなり重傷だったのか?老人はいづれどうなるかわからん、せっかく助けてくれた隣の老女も入院した。この人は「がんばぺっな」(がんばろう)と励ましてくれていたから情ある女性だった。でも返すわけには行かないからと病気のことは知っていたのである。認知症の人とはたいがいつきあう人はいなくなるのだ。この二人は認知症になってからも心配してくれたのである。長年つきあった人でも認知症になるとつきあわなくなるのが普通である。だから情ある人だなと思った。人間はなかなか外見だけみてもわからないものだと思った。頭のいい人でも情に欠けた人が多い、一般的に頭のいいと言われる人は情に欠けている人が多いかもしれない、庶民は情が厚い人が多いかもしれないが現代は庶民でも情が薄くなっている。金を借りたくて親切にしたということもあるが別に他でも金を貸していてもつきあわなくなった、一切関わりがなくなったのだ。老人が老人を介護することはむずかしいのも問題だ。病院にきてくれた人も風邪になったとか老人はなんらか病人になり病人が病人を介護することができないからだ。
ともかく人間で大事なのは情がある。日本は義理人情の国だった。それも廃れた。これは方言が廃れたとにているのだ。方言は情の言葉なのだ。標準語は英語のように合理的知の言葉でありそこに情がない冷たい理知的な言葉である。数字的な言葉なのだ。標準語は英語のように必要なのだが方言でしか情を通じあわすことができない、そこに方言の重みがあるのだ。
地方の医療現場では今、標準語を話す若い医師や看護師が増え、方言を使う高齢者が、身体の痛みや心の悩みを伝えにくくなっているという問題を抱えている。こうした中、医療や看護の場面で多く使われる方言をデータベース化し、世代間や地域間の“言葉の壁”を取り払い、お年寄りが住みやすい地域作りを進めようというユニークな取り組みが行われている。
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1205038123/1-100
医者にも方言を覚える必要があるのだ。むずかしいにしても方言だと情が通じやすいからだ。方言は文化であり医学は共通の科学なのだが方言は情を通じ合わせるのに不可欠なのである。特に年寄りを相手にするときはどうしてしも方言が必要なのである。方言が消えることは文化が消えることであり情も消えて行く、希薄化してゆくという深刻な問題があるのだ。言葉は数字ではない、情を通じ合わすものとして言葉があることを忘れてはならないのだ。この問題は文化を追求してきたので後日詳しく「時事問題」で書いてみる。本もアマゾンで注文したからだ。こういうときすぐに関連の本を安く読めるからいい、これも本屋では売っていないものだった。