花に雨
(桜の時期は短いから見る桜は限られる)
用ありぬ飛び交う燕雨にぬれ
貧しきや住宅の側に梨の花
介護して晩年あわれ花に雨
石により水仙咲きぬ雨しとと
ぽかぽかと春の日に猫いつくかな
今年の桜は何か天候が悪くて見る時間が少ない、花に雨である。
年によって桜は見る感覚はその心境や天候によって違ってくる。
それをプログに七年くらい書いてきたからあとをたどりふりかえる
人間は何度も言うが自分の書いたものすら忘れている。
それで自分の書いたものプログでも読んでこんなことを書いていたのかと自分が書いたものでも感心している。
だから人間の生というのはあとは記憶だけになる。
その記憶もあいまいとなり思い出せなくなる。
それで生真面目な自分の母親は九二歳のときノートに書いていたことは貴重だと思った。でもないことでありただ誰が来たととかだけである。
それをカタカナで書いていたのである。
今になるとそのカタカナで書いたことでも貴重である。
なぜなら今は全く何も書けないし耳も聞こえないから対話ができない
やっと書いた字を読んでわずかに理解するだけだからである。
九〇歳になると半分は認知症になる、もう百歳になったら90パーセントは認知症になっている。
そしてもう誰なのかもわからなくなる。
だからつくづくその前に正気の時に重要なことと遺産のことでも何でも書いておくべきである。
それは筆跡がわかる手書きがいいのである。
今は手書きはしないが何か重要なものは手書きがいい
長い文は印刷して重要なものを残す作業が必要である。
ただこうなると相当に手間がかかりめんどうになる。
今日も一日家事で忙しかった。何か震災以降家の中が未だにかたづいていないのだ。
かたづけてもかたづけてもかたづかないのである。
つくづく一人暮らしとかがゴミ屋敷になるのがわかった
いろいろなものがたまりなかなか捨てることもできない
家族のものでも死んでもそれをすぐ捨てていいのかわからない
その写真には古いものだと白黒写真で貴重なものがあった。
ともかく捨てない限り整理がつかない、本でも本文捨てたけどまだ捨てないとかたづかないのである。
何か老後はいろいろなものに囲まれるよりシンプルな生活があうようになる。
いろいろなものを新しいことでもやりにくいのである。
ただこれまでしたことを整理するだけで大変なのである。
詩でも軽く石について百編書いているがこれも一つにまとめることとかこれまた手間なのである。
だから今日も雨の中二回外出して買い物した。市営住宅は貧乏人が住んでいる。
その側に梨の花が咲いていたが何かあっていた。
介護というとき何か花に雨である。
介護の問題は十年とかつづくことがある。今は手当てするから長くなるのだ。
その十年を世話するとなると容易ではない,それだけの時間を奪われるとういことにもなる。
だから介護してからゆっくり旅したことがないしできない
三食食事出すとか手間なのである。
でも明日一目千本桜をまた見にいこう、岩沼から近いから行ける
なんとか日帰りで行けるだろう。
介護の一番の問題は家族に代わる人がないと近くすら自由に行けない
なぜなら認知症だったりしたら一人でいると危険にもなるからだ
誰か側にいないと不安になる人もいるし出かけても心配になるからだ。
留守は頼む人がいたから一日くらいは行けるだろう。
桜がいくらでも近くで見るのがあっても見れない
なぜなら二週間の間には散ってしまうからである。
つまり見る期間が短いから見れないのである。
だから会津の桜はほんの一部しか見ていないのである
桜の名所は日本では無数にあるが桜の時期に見ることがむずかしい。
それだけの暇があった時は過ぎてしまったのである。