2015年02月27日

土着的生活の喪失が思想をゆがめる (シュペングラーの思想は都市民と農村の対比で展開ー(1)


土着的生活の喪失が思想をゆがめる


(シュペングラーの思想は都市民と農村の対比で展開ー(1)



都市は農村の生活と思想とから分離できないところの土地という原始価値に代えるのに財から遊離した貨幣という概念を持ってこれによって経済の指導権を握るようになる。

農村の魂の中には祖先の子孫としてまこ後世の子孫の祖先としてここに根をおろしている彼の家、彼の所有、これはここで短い数年間における肉体の財産との一時的な組み合わせではなく永久の土地と永久の血との永続的な内的な結合を意味する

数百年にわたる恐るべき人口減少の時期がはしまる、それは頂上から崩壊し始める。
第一に世界都市がつき次に地方都市が最後に農村が崩壊する。
農村の最良の住民が度はずれに離村してゆく・・・・
文明とは都市の勝利であって文明はこれによってと土地から解放されるとともに自ら没落してゆくのでてある。
人種には根がある、人種と土地とはともに一体となっている。
植物はその根をおろしたところで死ぬ

世界都市的住民の共通語は精確で冷たく理知的で実際的で方言と詩を嫌悪するのである。それは人種とか宗教の精神ではなくただ単に経済の精神なのである。
「西洋の没落第二巻ー都市と民族」



シュペングラーは現代の文明の没落を予言していた。その内容が多岐にわたるからわかりにくいので理解することができないものだった。
人間の生存のアイディンティティの基盤は農村にあり農民こそが人間の原型であり都市民はむしろ亜人間とみていた。
文明はそうした人間の存在基盤を否定して離脱して成長して没落してゆく。
それが世界都市民でありそこで共通なものは貨幣であり言語でもそれはその土地土地から生まれた母国語とは違う、商売用の言葉でありそれは数字とにている。化学式の記号ともにている。そこにはもはや詩はない、言葉が最初詩語だったというとき言葉は日本語でもそうだがその民族の根本的なアイディンティティなのである。
もしその言葉を失えば民族のアイディンティティは失われるのである。
日本の言葉でも大和言葉は古語にはそれがある。それは神道に通じているのである。
日本の神道とは日本の土地と自然に通じた言葉なのである。
それは万葉集に残されている言葉である。今では解釈できないものがあるのは日本がすでに母語なるアイディンティティを失っているからである。

文化が何かというときcultureでありcultivate(耕す)からきているときまさに文化は土地から生まれてくるのである。だからシュペングラーが植物から建築が生まれたというとき建築は植物的なものである。大地に根をおろして不動だからである。
ドイツの文化が霧深いゲルマンの森から生まれた。その森厳な樅の木の森が音楽と哲学とゴシックの石の大聖堂を生み出したのである。
中世でも人の入れない森が延々とつづいていたのである。その森は文化となる前には生活の糧を供給していたのでてある。つまりドイツ人は森の民だったのである。
ドイツ人の実直さとか真面目さとか哲学者が生まれたのは森があったからだとなる
人間はその土地の自然をcultivate(耕す)してゆくことで文化が育まれ成長してゆくからである。都市民にはそうした根となるものがないから土地から離れてしまったからただ貨幣でもってグローバルに展開する経済の精神しかないのである。
そこから文化や詩が生まれようがないのである。

カルト宗教団体画あるかそれも現代では政治と経済の精神しかないのである。
なぜなら現代のカルト宗教団体からかつてのような文化が創造されるようがないからだ。仏教でも歴史を見ればわかるが重厚な文化を創造したことが残されたものを見ればわかるそれは現代の経済商業の精神ではない、文化が育まれ創造されたからである。
現代は確かに経済的には繁栄しているが文化的に衰退している。
「西欧の没落」と感じたのも人間の終末的感覚から生まれたからである。
人間がグローバル化して貨幣がそれも紙幣が数字となってこれだけ支配しているというのもそのためである。
アメリカは経済と科学の国でありまさに現代を象徴している国でありそのアメリカが世界を支配するというときアメリカ的に一様化されるのである。
グローバル化によってその土地土地の文化が消滅してゆく。
そして金だけが紙幣が数字と化した金が世界を席巻するのである。

アメリカが世界の国々の文化に無頓着で文化財を破壊するというときアメリカには文化がないから文化を理解しないとなる。
ただアメリカにしてもホイットマンの時代は日本の江戸時代とにていて今の文明とは全然違っていた。その時代は農本主義だから土地に根
ざす農民が主役だからそうなっていたである。
その時でもすでにソローが出たように文明化は急速に襲ってきていたのである。
ソローは森の湖で思念を深めて森の生活を書いたのである。
その時代はまだまだニューヨークのうような大都会は生まれていない、日本なら江戸時代から明治時代、大正時代なのである。

日本でも誤解しているのは大正時代には人口が六千万しかなかった。
この影響が大きいのである。東京すら百万でありそうなると東京も回りには自然があり今からすれば田園都市だった。
だから都会も賛美されていたのである。百万都市は東京にしかなくあとは五万くらいの都市であった。都市の規模は極めて小さいのである
都市文明を否定するにしても中世からのヨーロッパの都市は数万とか五万以下とか人口が今と比べる少ないから田園都市だったのである。
フィレンツすら五万くらいだったからなぜあそこにあれだけの文化がルネサンスが生まれたのかとなる。
一千万の都市が世界中にあってもそこから今は文化は創造されていないのである。
ただそこには経済の科学の精神があるだけなのである。

江戸時代でも明治でも大正時代でも何か貧乏だけがとたあげられるけどそれは経済の比較だけから見るからそうなる。文化の比較だったら日本でもアメリカでも江戸時代から明治の方が豊かだったともなる。
だからそこで暮らしていた人は満足していた顔をしていた、平和的だったというとき何か貧乏でもそれを補うものがあった。
その時代はそもそもその時代に生きてみないかぎりわからないのである。
その時代に生きた価値観も今ではわからないのである。
ただ今の時代から類推するから常に歴史には大きな誤解がつきまとっているのである。

タグ:土着
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