2015年02月26日

現代文明は何でも数字化されて非人間化される (米職業ランキング1位は数学者)


現代文明は何でも数字化されて非人間化される

(米職業ランキング1位は数学者)


米職業ランキング1位は数学者、最下位は? 2014年版
http://jp.wsj.com/articles/SB10001424052702304126604579504901060510912

<ベスト職業と中位所得>

1. 数学者、10万1360ドル
2. 大学教授(終身在職権付き)、6万8970ドル
3. 統計学者、7万5560ドル
4. 保険数理士、9万3680ドル
5. 聴覚訓練士、6万9720ドル
6. 歯科衛生士、7万0210ドル
7. ソフトウエア技術者、9万3350ドル
8. コンピューターシステム・アナリスト、7万9680ドル
9. 作業療法士、7万5400ドル
10. 言語聴覚士、6万9870ドル


これも現代という社会を象徴したものだろう。会社に就職したら必ず数字を処理する。数字を処理する仕事が多いのである。例えば銀行でもこれは紙幣を数えるのと数字を処理することに追われる。毎日が数字の世界で生きているのである。
金とは今では数字のことであり紙幣のことでもない、数字が増えれば豊かになったとなり数字がへると貧乏になる。
そしてゼロになったとき何もないものとなる
あらゆるものが現代は数字で計られている。経済も常に数字で計られている。
グローバル経済になると世界が数字で判断されているのである。
金という現物より数字で世界の経済が動いている。特に金融関係は毎日数字の世界で仕事しているのである。
こういう世界になると数字に弱いものは不利になるのは当然である。
だから文系は使い物にならないとかなるし文系でも数学できる人は高収入になる。
数字をみて統計などを見て判断することが多いからである。
株なども常にグラフをみているからやはり数字の世界なのである。

財政といっても金塊をどれだけ貯えているとかそうした具体性がまるでない世界である。たいがい富は具体性を帯びたものとして持っていたのである。
日本たったら米であり米俵を蔵に貯えている人か金持ちだとなる
小判でもそれは金だとしたら紙幣とは違ったその小判自体に価値あるものとして貯えられていたのである。
富は具体的な物として貯えられていて価値があった。
現代の問題は金融の世界では実際の富とは結びつかない数字で現され数字の変動で莫大な富が入る世界になっていることが指摘されるのも当然である。
富の裏付けとなるのは紙幣ではない、紙幣は紙でありそれも日本銀行で勝手に作り金融政策でデフレ脱却としてばらまかれる。
紙幣などいくらでも作れる。でもそれが国の富になったり世界の富になったりしないのである。
石油とか資源があればそれは具体的な富になる。紙幣をいくらもっていてもそれはいつか紙屑になる。現実に急激な時代の変わり目にはデフォルトして金の価値は極端に下落して紙屑になったことを世界恐慌など経験している。
戦前から戦後でも紙幣の価値はゼロになった。
戦前に金をもっていて土地を買っていたがその土地だけが価値として残されたということを知っている。
つまり紙幣はただの紙屑になるリスクが常にある。

具体的な富は土地とか資源とか今では技術力とかにあり紙幣を操作して金融を操作して富を作り出していることは現実の経済から逸脱している詐欺にも等しいともなる
架空の数字を操作して金融業者が莫大な富を得ていると感しるからである。
汗水たらして働いている人からみると一夜にして億の金が入ってきたとかなるとそれを理解できないだろう。
資本主義社会とは元金がないといい目は見ない、まさに資本がもの言う社会だとなる。
資本を蓄積できないものはまずいくら働いても富を得られないという社会である。
資本があれば一億円でもあれば投資していればもうかるようにできているのである。
元金がないことには資本主義社会では金持ちにはなれないのである。

何でも数字に換算される世界は何か抽象的になる。そこには切れば血もでる生身の人間が感じられなくなるのである。
戦争で三百万人死んだと言ってもそこに何も感じないのである。
要するに十万人の死者を積み上げる、死体や骸骨を積み上げたら具体的に感じる。
カンボジアではそうした骸骨を積み上げた所があり記念館になっている。
人間は数字から現実を感じられないである。
そこに現代の大きな落とし穴があり非現実を現実と錯覚する危険性がある。
イスラム国のあの残虐な殺し方を見ていると恐ろしくなる
そんなことができるのかと恐怖する。
ても空爆で六千人殺したとき何か感じるものがないのである。
でも六千人の死体を積み上げたらそれは残虐な殺し方より残虐だと見える

現代の情報環境でもテレビの報道でも具体性が感じられない、テレビで写る映像でも何かそれがドラマのように見ているし現実味が感じられないのである。
だから沖縄で洞窟から戦死者の骨を大学生が発見したというとき戦争の悲惨さを実感したというのもわかる。
戦争で三百万人死んだといってもそれがなんだとなり実感できないのである。
そういうことが現代では多すぎるのである。
放射能でもそれはただ数字でしか計れないし感じようがないのである。
毒があるとしてもそれが吸って死んだとかもすぐにはない
もし奇形の生物が続々生まれたとなると実感できる。
そういうこともないと放射能は実感できない、ただまさに数字としてしか意識できないのである。
人間が数字化されることは量としてしか見れない、それは非人間化社会である。

それは政治の世界でもただ数字でしか一票でしかない、一人の人間の重みはそこに何もないのである。
政治でも経済でもただ数字として計られる、一人が買うより十人が百人が買えばもうかる多数を相手にするのが政治と経済である。一人の価値などそこにはない。
一人は個人は何の力もない、だからカルト宗教団体でも創価でもどこでも数を集めて政治力となる。
まさに「数は力なり」であり数は現代では権力なのである。
何でも数で計られる、マスコミでもテレビでも新聞でも視聴率で計られる
どれだけ多くの人に見られるかで影響力をもつのである。
だからこそマス(集団)なのである。
だから本当は数字から社会を見て人間をみることは危険にもなる。

ともかく一人一人の個別事情などに対応できない、数を集めればそれか即権力につながる数を集めるには大衆を操作することだとなる。
それにはめんどうをな理屈はいらない、ハイルヒットラーとか題目を唱えれば何でもかなうとかともかく簡単でわかりやすいのがいいのである。
それによって大衆は操作されて戦争でも何でも権力者の指示通りにされるのである。
現代は常にこうして大衆、マスとして数として見る社会だからファシズムの危険がある社会になる。
この危険から逃れるのは社会の外に立つアウトサイダーとなってしまうのである。
そこには個なるものが巨大化してゆく、大衆社会の非人間性の補いとして
自然の真善美がそのアウトサイダーを通じて表現されてゆく
それは大衆社会の数化した社会から人間の巨大性を神が与えているともなる。
ニーチェとかヘンリーミラーとか上野霄里(うえのしょうり)の原生人間とかは文明人には理解できない巨大なものとして文明に対峙するのである。それはまた偶像化でもあり危険である。

そこには文明という大都会という政治経済化した数字化した無機質化した世界に対峙しているのである。
大衆化マス化した社会は何か人間の真善美とは関係ない世界である。
政治的経済的活動が数字化したものでありそこに自然の真善美は反映されないのである。大衆消費社会とは人間も消費される、数字として消費されるともなる。
人間は数字でしかないとなる、顔もないし個性もない、抽象的な数字として人間が消費される社会なのである。数字化ささた無機質な世界である。
それはシュペングラーの言うように大都会に象徴されている。
田舎的土着的なものが文化であり都会には文化はないのである。



シュペングラー(1880−1936)は「数学は幻影である」と書いた。

「重ねて言うが、数学は幻影である。」(シュペングラー『西洋の没落』)
シュペングラーは数学者だった。パスカルもラッセルも理系であり数学者であった。
数学は知的な探求の基本がある。だから「西欧の没落」ではしきりに数字化している世界を最初に書いている。それは人間の無機質化であり非人間化なのである。
まさに数学は数字は実態ではない、幻影なのである。
シュペングラーには文化は土着的であり田舎的なものである。
都会と田舎の対比の中でも語られていることが興味深いのである。
これを読みこなすことは相当にむずかしいけど自分は理解できないなりに読んでいた。
若いときは理解できなくてもむずかしい本を読んでおくべきなのである。
あとで理解できるようになるからである。
今なら自分なりかなり解説することもできる。
本は自分なりに消化しない限り読んだことにならないのでてある。



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