2005年12月07日

枯木と廃屋

karekihaioku.JPG

廃屋に枯木一本今日も暮る

今日も通る倉庫の上に冬の月


何度も言ってきたけど俳句は写生なのだ。ここで写真の通り何にも作っていない、見たままを俳句にしただけなのだ。その方が意味あるものなのだ。ただ説明すればこの廃屋は製材所でその会社の人を知っていた。破産してどこかの団地の管理人になったとか風の噂に聞いたがずいぶん前なのでそれもわからなくなった。廃屋は山の方に多いが知っている人はそこに誰が住んでいたか語られる。私は知っているから語ったのである。この辺の町には人家では廃屋はない。ただこの枯木一本が今も廃屋を見守っているのだ。

倉庫というとこれが俳句になるのかとなるが倉庫について前も俳句にしたが倉庫も生活の重要な場だから俳句になる。生活の場になっているところはそれは活きた場所なのだ。例えば函館では観光用に倉庫を利用しているか観光用になったとき実は死んでいるのだ。馬籠や妻籠でも映画のセットのようになって現実味がなくなっている。そこに生活が活きているとき深い趣がでてくる。特に自然とともに生活していたものはそこに生活がなくなると空虚になる。そこに現代の過疎の大きな問題があるのだ。観光とは生活ではない、観光化したときかえってそこは魅力ないものになっているのだ。
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