常夜灯一つ残して冬の海
常夜灯雪に埋もれて野辺地かな
沖に船野辺地や遠く冬の海
ただ、司馬遼太郎の「菜の花の沖」読んでくれると判りやすいと思うんだが、函館が蝦夷地開発と通商の中心になる以前は、野辺地や青森がその役割を担っていた。
野辺地には冬に行った、駅前が雪に埋まった常夜灯があった
江戸時代は野辺地が通商の拠点だった、これ意外とみんな知らないね
江戸時代は青森は北前船とか来て栄えていたんだよ
東北の宮古とか仙台とか相馬からも物産が運ばれていたらしい
明治になり函館に通商、貿易が移動してしまったんだね
野辺地と沖縄の辺野古が地名としてにているしどちらもかなりの果てにある辺境にある。
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1155789068/l50
(【青森】落ち込む県人口、減少幅年々拡大…出生率急落だけでなく、若者の流出も止まらない )
野辺地と辺野古の違いは野辺地はかつて栄えた貿易港だったことである。辺野古は全くそうしたことがない山原のジャングルを抜け出ると最初にでて来る鄙びた町だった。ここは米軍の基地としてしか経済的に豊かになる方法がないのである。
北前船が野辺地までもきていた。その証として一つだけ常夜灯が残っているのもあわれである。津軽藩は野辺地の湊などから船で交易をしていた。津軽は遠いから船が便利だった。ここから歩いて江戸まで本当に遠い。荷物は運ぶこともできない、だから船での交易は重要だった。まあ、ここになぜ日本中央とかの碑が発見されて騒いだりするのは嘘ではなくここが縄文時代から古代にかけて日本の中央と自負する一つの大きな国を形成していた名残りがあるからだ。実際結構広い土地があることを実感したのである。狩場沢とかあるのもその名残か獣なども豊富でとれていたしなにより海の幸には恵まれていたのだ。東北は秋田、青森とまわると広いと実感した。東北という地域を知るだけでもなかなかむずかしいのだ。白神山地などもまったく知らない地域だった、これだけ旅をつづけても日本だけでもまわりきれないのが現実なのだ。
函館は明治に脚光をあびて外人も集まりモダンな建物や文化が入ってきたのだ。青森はそれと同時に忘れられてしまった。函館は本当に青森とは余りにも違ってモダンな西洋風の街になっていったのだ。野辺地から見えたのは船一艘だった。貨物船かなにかだったのか、北前船が行き来していた方がもっと船は出入りしていたのだろう。旅も俳句でもこの歴史的背景を知らないと深い鑑賞ができないのだ。函館を知るには青森を知る必要があったのだ。青森を知っては函館のモダンな西欧文化の街が際立って見えて来ると同時に江戸時代に栄えた古い港である野辺地が思い浮かぶのである。
旅の思い出として2ちゃんねるでヒントを得て簡単に回顧した。プログはこうして簡単なメモのように書いていくのが便利である。ただ記事が多くなりすぎるのだ。その記事もみんな短いし読みごたえがあるものでなくても一つの記事になっている。記事数だけがふえて中味は何行しか書いていないことが多いのが問題である。私の旅の記録は膨大だからそれらをまた回顧してまとめてゆくと新たなものとなっているのである。