小高はどうなるんだろう
(それは無責任→各人がどうするのかが問題)
小高はどうなるんだろうーと書いたけど考えてみれば無責任だった。
それはよそ事であり自分とは関係ない言い方だった。
前にも書いたけど日本語には未来と過去がはっきりしない
英語では未来はwillでありこれは意志であり
未来は各人の意志で決まってくるものなのである
それは別に小高のことでなくても全部そうである
大きく考えれば日本はこれからどうなるんだろうと言うのも同じである。
日本をこうするんだと一人一人が意志をもつことが未来を決めてゆく
会社でもそうだろう、自分の会社がどうなるんだろうと言ったら
その会社員とは言えない、アルバイトととかならいいが正社員だったら
自分の会社を一員をこうしてゆくんだとならないと会社も成り立たない
小高を例にとると狭い範囲だからわかりやすいのである。
なぜなら一人一人がどうするのか問われているからである。
もちろんそれは南相馬市全体とも深くかかわってくる
南相馬市の一部だから無関心ではいられない
だから俺は帰って小高に住むというとき
それは小高の未来にもなる
俺はもう年だしめんどうだしかかわらないというのも意志である。
現実に早い時期から他に土地を買って帰らないと決めた人もいる
それはそれなりの意志をもって未来を決めたのである
その選択は許されているからどうのうこうのとはいえない
それは小高の一人一人が決めることなのである。
小高に帰れと自分は言ったが強制はできない
そう言ったのは補償金で遊んでいるからそう言ったのである
ただ小高をどうするのかというとき小高だけの問題ではない
南相馬市全体の問題になっている
小高がどうなるんだろうとか切り離して考えることはできない
それは相馬藩の歴史からもそうなる
人間は一人一人が歴史を刻んで生きている
ただそれがみずからの意志(will)で決めているかどうかはわからない
戦争のときでも一人一人の意志で決めたのかはわからない
権力に強制されたということもあるからだ
原発にしても一人一人の意志がかかわったとはいえない
権力に強制されたというのが現実だった
むしろ原発で得する豊かになるということで住民の意志は積極的誘致を決めたともなる。すると原発は住民の一人一人の意志の総合で決められたとなる。
南相馬市全体の問題になっている
小高がどうなるんだろうとか切り離して考えることはできない
それは相馬藩の歴史からもそうなる
人間は一人一人が歴史を刻んで生きている
ただそれがみずからの意志(will)で決めているかどうかはわからない
戦争のときでも一人一人の意志で決めたのかはわからない
権力に強制されたということもあるからだ
原発にしても一人一人の意志がかかわったとはいえない
権力に強制されたというのが現実だった
むしろ原発で得する豊かになるということで住民の意志は積極的誘致を決めたともなる。すると原発は住民の一人一人の意志の総合で決められたとなる。
ともかく原発事故以後に問われたことは本当に様々あるのがこの辺である。
住民の一人一人の意志によって決めるとしたらそれが民主主義だとしたら
原発に関して情報開示が必要だったがそれも成されないから決めようがない
また原発は地元の人でもかかわりえないという問題もあった
お前らには原子力のことなどわかりようがないから黙っていろで終わりになり
住民はかかわることもできないものだった。
そこにもはや民主主義もなにもなくなっていた
ただみんなそんなに小高の住人でもいろんな人達がいる。
遊び人もいた。そういう人は小高などどうでもいいのである。
どこでも補償金でももらって暮らした方がいいとなる
あとは生活保護だとか言っていた
そういう人も地元にとっては今は迷惑になるだろう
ただどうしてもそういう人は一定数どこでもいる
そういう人も排除できないのが現代社会である
かえってこんな事態になるとそういう人は目立つことも損だった
つまり小高に住むならそんな人はいらないとなるからだ
遊び人もいた。そういう人は小高などどうでもいいのである。
どこでも補償金でももらって暮らした方がいいとなる
あとは生活保護だとか言っていた
そういう人も地元にとっては今は迷惑になるだろう
ただどうしてもそういう人は一定数どこでもいる
そういう人も排除できないのが現代社会である
かえってこんな事態になるとそういう人は目立つことも損だった
つまり小高に住むならそんな人はいらないとなるからだ
そういう人でなくても小高の人にもいろいろいてもう若い人なら帰らないと決めた人もいる
それも一つの決断であり未来を決めたのである。
つまり小高でも避難区域でも何かそこに住むということともう住まないという二つに分断される
その差が大きいのである。
そこに住むという人はやはり何かしらそこにこだわる愛着あり住みたいとなる
一方で一億円もらえたからもう他で住んだ方がいいという人はもう帰らない
そういう人も別に原発事故の前からいたのである。
現代は広域社会でありどこに住んでも自由だからである。
だから東京の年寄りが田舎で暮らしたい田舎の老人ホームで暮らしたいともなる
そういうふうに地域性が希薄になっているから金さえあればどこでも暮らしていいとなると移り住む人も遠くなるということである
ただ人間はこういう事態になるとそこに住むということはそれ自体が決断であり未来を決めることになる
ただ老人だとそこに住むという決断というよりそこに住むほかないということある
長年住んでいたからそこに住むということである
また土地も家もあるのだからそこに住むとなる
それでも小高に住むということは不便でありマイナスが多いから一つの決断になり意志になり未来を決めることになる
十津川村では全員が北海道に移住することを決めた、全員の意志で決めた、そして困難に立ち向かったのである。それがこの辺とはまるで違ったものとなっている
そんな条件の悪いことには参加したくないというのが多い
老人になると楽な方を選びやすいからである
だからシルバータウンになりそんなところで町が成り立つのかという疑問が生まれた
市としては行政としては小高に住んでもらいたいということはあっても
それを強制はできない、それか民主主義であり広域社会である
だから一地域で困難が起きればその地域が維持しにくくなる
ともかく何か小高だけではなくこういう困難な状態になると一人一人か問われるようになる
今までだったらそれぞれ勝手にやればいいですんでいたのである。
要するに故郷は何なのだとかそんなこと問うことは今までありえない
第一故郷は普通にあるものでありなくなるということ住めなくなるなどありえないからである。
だからこの辺で問われることは深い哲学にもなるし歴史も関係してくる
故郷は何かなのかなどと問うこと自体それは深い哲学であり歴史をかえりみることにもなるからである。
そういうことは歴史をふりかえれば戦争の時最も深刻に現れた
なぜならその時は生きる死ぬかの選択を迫られたからである。
それも若い人がその選択を迫られたから故郷に住むか住まないかの選択より命懸けだとなった
それで若い人は苦悶したのでありその手記などか残っている
自分の命を国にささげることのを意味を真剣に問わざるを得なかったのである。
それと比べると今回は小高に住む住まないで生死を決めるわけでもない
そこまで故郷に愛着もしない、命があれば楽な方でもいいとなる
そういうふうに最初から決めた人はそれで良かったとなる
でも戦争だったらそうはならない
たいだい若い人も死んだのだからあとがない選択を決意させられたのである
タグ:原発避難者