原発事故はなぜ起きたのか(続編4)
(世界の平和のためにはエネルギー問題の解決が必要)
一地方で起きることが世界でも起きるというとき、丸森の木材資源を米沢藩と伊達藩と相馬藩で三つ巴で争ったことがその象徴でもある。木材の入会権が大規模な戦争の発端、戦国時代を作る契機になったというのもそうである。
つまり古代からエネルギーが文明を作っていたのである。
だから文明史から世界史を見ればどこの国がどうだとかどこの国が悪いとかならない
そういう文明を採用した作り上げたことが争いの基になる。
なぜなら今は石油文明だとするともし石油がないとしたらどうなるだろうか?
石炭にすればいいというがその石炭すらないとするとどうなるだろうか?
まず石油がなかったら車も動かない、もちろん飛行機も動かない、船も動かないのである零戦は燃料のガソリンがなくて片道飛行であり帰ることができないのに突撃した。
そんな状態では戦争はできない、大和魂だけでは現代は戦争はできないのである。
その最も恐ろしい現実は原爆が落とされたことだったのである。
あれをみて完全に日本人はギブアップしたからである。
石油がないと車も使えない、もちろん最新式の武器も使えない、そうなるとどうなるのか結局歴史をさかのぼるとモンゴルの帝国のような馬が最大の輸送手段になり世界を制覇するとなる。
石炭にすればいいというがその石炭すらないとするとどうなるだろうか?
まず石油がなかったら車も動かない、もちろん飛行機も動かない、船も動かないのである零戦は燃料のガソリンがなくて片道飛行であり帰ることができないのに突撃した。
そんな状態では戦争はできない、大和魂だけでは現代は戦争はできないのである。
その最も恐ろしい現実は原爆が落とされたことだったのである。
あれをみて完全に日本人はギブアップしたからである。
石油がないと車も使えない、もちろん最新式の武器も使えない、そうなるとどうなるのか結局歴史をさかのぼるとモンゴルの帝国のような馬が最大の輸送手段になり世界を制覇するとなる。
そういうふうに世界史を文明史の観点からふりかえると見えてくるものがある。
まず中東に石油がなかったらどうなっていたか?
何ら今のような紛争は生まれていないのである。
中東では世界とはかかわらない、砂漠をラクダの隊商が通っていたりあとは羊を追ったりして暮らしている、そんなところに誰も関心をもたないのである。
でもそこは江戸時代の鎖国のように平和が保たれていたのである。
ただ隊商は財を運んでいたから盗賊が生まれた。それは現代に通じている。
つまり石油があれば石油を欲しいために盗賊も生まれる
その大盗賊がアメリカだともなる。
丸森で木材資源を米沢藩と伊達藩と相馬藩で争ったことはそれはヨーロッパとアメリカとロシアが争っているとかとにているのである。
アメリカが圧倒的な軍事力で石油資源を我が物にしているから世界を支配できる。
桃源郷というけどそれは時代からも社会からも隔絶されて隠されていた所にあった。
それはまさに石油でもそうしたものがない素朴な生活で暮らしていたから桃源郷になっていたのである。
この辺では飯館村はそれと多少にていたのである。
あそこはやはり貧しい村であり不便な場所だからである。
そういう場所は秘境は昔はどこにでもあった。隣の村自体が秘境にもなっていた。
それは交通が不便で人々が今のように車で往き来したりしないからである。
たまに行ってみればそこは秘境になってしまう。
こんなところにも村があるのかと不思議になるのである。
時代の発展とともにそうしした昔が失われたからそれが桃源郷への憧れを作り出したのである。ただ人間は時代をさかのぼって生きることはできない、その桃源郷でも幻滅は必ずある。
ここで考えることは原発事故でなぜ故郷にすら住めなくなったのか、そういう悲惨なことが現実に起こった。では原発はいらないとしたらどうしても石油文明でも問題になる。
必ず江戸時代のような不便な時代にもどれるのかということになる。
それは書いてきたようにアメリカの建国時代の理想が江戸時代だったのである。
そこには身分制がないにしろ極端な農本主義の社会を目指していたのである。
そのような社会だったらそこは楽園であり広いにしても桃源郷になっていた。
でも今からすると誰も江戸時代などにもどりたいとはならない
でも原発のない社会、石油がなくても世界戦争がない平和な世界を志向するとき
エネルギー問題が重要な課題となる。
それで太陽光エネマギーとか風力発電とか地熱発電とかシェールガスとか藻がエネルギーとなるとか水素エネルギー社会とか石油や原発に代わるエネルギー社会を模索する結果になった。
でも太陽光発電でも石油に代われるものではない、膨大な定期的な電力は供給できない、家庭をまかなうことが辛うじてできるくらいだからである。
石油に代わるものそれが危険でなくて得られるものだったら文明は変わる
石油や原発はあまりにも危険なものでありそのために犠牲が大きかったのである。
エネルギー問題が重要な課題となる。
それで太陽光エネマギーとか風力発電とか地熱発電とかシェールガスとか藻がエネルギーとなるとか水素エネルギー社会とか石油や原発に代わるエネルギー社会を模索する結果になった。
でも太陽光発電でも石油に代われるものではない、膨大な定期的な電力は供給できない、家庭をまかなうことが辛うじてできるくらいだからである。
石油に代わるものそれが危険でなくて得られるものだったら文明は変わる
石油や原発はあまりにも危険なものでありそのために犠牲が大きかったのである。
人間は平和に暮らしたい世界が平和であってほしいというときそれを実行するためには最も身近な所に日々の生活を見直すことにあった。
合理的に考えてゆくと石油や原発に頼ることが紛争の種になり災いとなっていた。
もちろん木材に頼っていても紛争にはなっていた。
それは国内とか一地域とか小規模にすんでいたのである。
丸森では殺し合いにはなっていなかったのである。
つまりエネルギーは燃料でもそうだが食料でも自国でまかなうことさらに地方地方でまかなうこと自給自足的なものがいいという結論になる。
過去の自給自足は村が単位だとすると広域化社会からすると極端に狭い範囲で生活していたからそんな狭い所で良く生活できたのが不思議だと今ではなる。
そういう狭い範囲で水道もなくガスもなく電気もなくて暮らしていたのである。
かえってそういう生活は回りのもので暮らしているから石油がなくなったら終わりだと電気がなくなったら終わりだとか戦争するしかないとかならないのである。
災害でも津波でも裏山の清水を運び薪で米をたいていた所があった。
外から物資が入らなくてもしばらくは生き延びたのである。
これが東京のような所だったら水も飲めない電気もないとなると生き延びられない
だから今回のような災害になったらいかに東京を脱出できるかが問題になる。
一切の交通機関は使えない、車も使えない、だから自家発電の災害用の自転車などが売り出された。自分も自転車で相馬市でスーバが開いたとき買い物した。
つまり便利な文明生活が断たれたときどうなるのか、徒歩か自転車かなどに交通手段ももどってしまうのである。それが最強の手段になってしまうのである。
いづれにしろ今まではこういうことを真剣には考えない、津波という大災害があり原発事故があり真剣に考えるようになった。
石油に頼る文明は危険なのである。そこで石油をめぐって必ず争いにまきこまれるからである。原発も危険である。だから身近にあるものをエネルギー源にしていれば世界紛争にはまきこまれない、現実に集団的自衛権で中東に自衛隊が派遣され戦争に加担させられるイスラムのテロでもなぜ起きたのかというとイスラム社会はイスラム文化圏で暮らしていればそうはならない、グローバル化経済で混じり合うからそこに無理が生まれ殺し合いまでなる。それぞれに棲み分けしていれば紛争は起きないのである。
グローバル化した結果20世紀は大殺戮の時代になってしまった。
誰でも平和を望んでいる、その平和がどうして保てるかとなるとその根底にエネルギー問題があり文明の問題があった。
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