ベトナムのフエの王宮跡(合歓の花と王宮跡)
昔日の王宮の城壁にそい
合歓の花の木なべて散り
牛門入りて栄華の跡や
その殿舎の礎の残りて
あわれ白き椿や散る一輪
心にしみて寂しかな
我遠き外国の人なれ
その離宮、帝都の代々の王の墓
何故かことさらに侘しき
ここに土産とフランスの硬貨を買いぬ
ただ栄華も墓の中に入りて虚しき
合歓の花咲き宮廷の美女微笑む
その日は遠く堅固な長い城壁は古り
中国、フランスの支配重なり
ベトナム戦争の悲しき跡の癒えじ
傷兵のホテルを回り銭を乞う
日本のカメラ会社のここに建つと
案内されて小さき飛行場をたつ
ぬかりなく一ドルは案内料にとられ
土産はかのベトナム兵士のヘルメット
今もみなかぶりて往時の戦勝の誇り
ベトナム人はバイクで道にあふれ
旺盛な生活力を示し新たに前進するかな
象潟や雨に西施が合歓の花(芭蕉)
合歓の花のイメ−ジは美女である。合歓の花は南国の花であり南国の美女のイメ−ジなのである。蓮の花も暑い陽ざしのなかに明るい真昼に池の中に咲いているときにあっている南の花である。つまり花には南国系統が非常に多いし南国系統の花は暑いところにあっているのだ。北系統の花もある。北海道に咲くのはハクサンチドリとか高山に咲く花が平地に咲いていた。稚内まで行ったとき宗谷岬に雨に濡れて咲いていたのだ。南国系統と北系統の花はかなり違っているのだ。一般に花は南国系統が多いのである。インドの蓮がエジプトに移りロ−タスとなりオベリスクに刻まれた。その花はやはり砂漠の明るい空に向かって咲いている。日本では蓮が咲くときは梅雨の時期であっていない、泰山木も大陸の広い大地と空に咲くのにふさわしいのだ。花も咲くにふさわしい場所は原産地なのだ。ただ薔薇などは日本の四季に溶け込んだが本来は乾燥地帯に咲いていたのである。
ベトナムのフエは大河がゆったりと流れ遠くに青山を望む、息をのむような山水画の光景が広がっていた。見たこともない南国の美しい蝶が舞っていた。ただ王宮はなんともいえぬ寂寥感が漂っていた。長い王宮の城壁にそって合歓の花の木が街路樹のように連なっていたのだがすべて散っていたことから余計にそう感じたのかもしれない、牛門を入っても中ががらんとして記憶としては殿舎の礎の跡に立ったことを覚えている、それから離宮を回っても豪華な王朝の墓を回っても寂寥感が漂っていた。まさにそれは芭蕉が平泉を訪ねた時と同じように栄華も一睡の夢の跡のような風景だったのだ。そこでお土産として売っていたのがフランスの硬貨だった。あの長い城壁はフランス式で頑丈に作られていた。フランスの植民地になったから立派なカトリックの教会もあるのだ。
ベトナムは中国に支配されフランスの植民地にもなった。次にはアメリカとソ連中国の冷戦で国が二つに分断された。これは朝鮮と同じである。小国はみなこうした悲哀を味わう、日本もアメリカとソ連で分断されることが計画されていたのだ。もし分断されたら日本もベトナムや朝鮮と同じ運命の悲劇を味わうことになったのだ。日本が明治維新でとにかく植民地にならないよう努力したのは日本の歴史にとって偉大だったのである。明治が偉大というとき植民地にならないために最善の努力をしたということである。サムライスピリットが生きていたからできたともいえる。
ベトナム人もベトナム戦争ではサムライだった。その徴しがあのヘルメットなのである。今でも誇らしげにかぶってバイクにのって街を突っ走っているのだ。あれは日本刀のようなものなのだ。日本人も日本刀をふりまわしたが今や残虐の徴しとなってしまった。日本刀にはサムライスピリットの象徴ではなく残虐のただ人を切るだけの凶器となってしまった。ベトナム人はアメリカと戦い勝ったということで誇りをもっているが日本人はどうしても持てないから未だに靖国問題とかでもめているのだ。日本は大国たらんとして背伸びしすぎたのだ。それ相応の国として独立を維持していれば良かったのだが無謀な戦争を止めることかできなかったのだ。
ベトナムでも日本でも朝鮮でもどこでも戦争の傷痕は深い、合歓の花は安らぎの花であるがいたるところが戦場になってしまったのだ。合歓とか蓮は南国を象徴する花でありそれは南国に行ってみてはじめてその花は映えることがわかるのだ。花についても外国まで旅行しないとわからない、日本国内はほとんど旅したが外国はまだまだだったから惜しい、花の世界も広いからこれを知るだけで一生は費やされるから無駄に時間は使えないことを知るべきである。
時事問題の深層(バイクの洪水)
http://www.musubu.jp/jijimondai.htm#こ
ベトコンの墓
http://www.musubu.jp/jijimondai.htm#s