正月(松と葉牡丹)
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正月や松に葉牡丹末永く
残月や百才生きて冬芒
大原に老木一本冬の暮
正月は松がいい、松はときはぎ【常磐木】である。
これの元の漢字は
常緑だからそうなった。松は日本では一番親しんでいる樹である。
葉牡丹も冬にふさわしくこれも花というものでもないが何か質実で長持ちする
つまり末永くということにふさわしいのである。
人間はやはり交際でも末永いことを望む、簡単に切れるのはいいことではない
ただ人間の付き合いは長続きしない、切れやすい、現代は特に切れやすい
大勢の人と交わっても一過性なのである。ネットでもそうだしそもそもそういう一過性の中で日頃暮らしているからそうなる。
ただ人間の付き合いは長続きしない、切れやすい、現代は特に切れやすい
大勢の人と交わっても一過性なのである。ネットでもそうだしそもそもそういう一過性の中で日頃暮らしているからそうなる。
要するに正月は農耕時代の時間の中で生まれたものなのである。その悠長な自然のリズムで今は生きていない、だから松でももともとは正月に飾られたのは農耕的なものの中から生まれたもので常磐木となった。
正月がなぜただ年が変わるだけのものになったかというとそういう農耕的生活が消失してしまったからである。農耕はただ米を生産するだけではない、生活全般にわたる文化であった。それは精神生活にもなっていたのである。
今の職業は多様であり農業が主役ではない、だから都会だと余計に農業的なものから離れるし自然とも遊離しているから正月が何であったのかもわからなくなる。
正月がなぜただ年が変わるだけのものになったかというとそういう農耕的生活が消失してしまったからである。農耕はただ米を生産するだけではない、生活全般にわたる文化であった。それは精神生活にもなっていたのである。
今の職業は多様であり農業が主役ではない、だから都会だと余計に農業的なものから離れるし自然とも遊離しているから正月が何であったのかもわからなくなる。
人間はともかく何でも末永くあることを望む、現代は何でも変わりすぎるから精神が安定しないのである。老人になると変わらないもののなかで暮らすことが安定する。
だからめまぐるしくく変わる現代は向いていないのである。
百才生きていたら枯芒から冬芒になる。朝に残月がでていたけど最近毎日のように見ていたから百才となるとあの残月であり冬芒だと思った。
冬芒は死んだわけではない、故郷の大地に根付いている。だから萱根とかいう地名もあるのも面白い、萱の根っこはかなり強く張るのである。
人間は明らかに長く住んでいるとその土地と一体化してくるから大原の老木は一人の老人に見えるのである。あそこで知り合った老人も死んだけどそうした老人を思うのでてあるともかくまだ正月の内、松の内だけどどうしても正月の気分はたちまち消えやすいのが現代である。「松の内」などどんと言う言葉も死語になっているのだ。
そういう農耕的生活が消えれば自然とそれとともに言葉も死語化してゆくのである。
タグ:正月