http://u-chan-ghc.at.webry.info/200608/article_1.html
●介護は体験しないとわからない
介護というのは現場で経験した人しかわからない、介護は言葉で愛が大事だとか言うのとは違う、即行為としての愛の行動が求められる。下の世話であり認知症の世話になると暴言とか暴力にすらひたすら聖人のよう耐えて介護しろとなる。人を愛しなさい、神は仏は愛だ、慈悲だ、それを実践しなさいというのは誰でもできるのだ。実際に牧師であれあらゆる宗教家が言っているのだ。ところが介護の現場では愛とは糞を処理する重労働であり暴言暴力に耐えることであり何のために薄給でこんなことやっているのかという疑問につきあたる。それが家族なら家族には長い歴史があるしそれぞれに育んできた愛ある生活の延長として病気になってもやはり愛の生活の継続しようとする必然がある。しかし施設になるとそうしたものが家族で育んできた愛の世界ではない、賃金で雇われた人でありその人たちはただ当座の糊口をしのぐための仕事としてやっていく人が多いとある。介護職は誰でもできる最低の職とかされて仕事のきつさに比べると給料が安すぎるのだ。介護の仕事は何か資本主義的労働観と合わないのだ。介護するということは今どこも仕事ないし金がなくてはこまる、介護職は人手不足だからひとまずその辺で働いて世間体を保ち食っていこうとかの動機では介護はうまくいかない、崇高なものを介護に求めるのも酷だが余りにも職業意識が使命感が低いのが一因なのだろう。
●介護は動機が大事になる
働く(はたらく)−端(はた)を楽にすることが働く動機となっている。家族が働くのを見て楽にさせたいというのが働く動機なのだ。今でも貧乏な国では親が苦労して働いて食わせているので親を楽にさせたいというのが子供の働く動機なのである。介護というのは家族で重度の人をみていればこんなにひどいなら楽をさせたいと自然となる。介護の働く動機になる。介護には単なる賃金労働とは違う、別な動機が必要なのである。介護とか福祉とか働く動機が大事になるのではないか?他の仕事はいい物を作り高く売りもうけて利益を増大させて給料を高くもらうというのでなんらかまわないしそのために働いている。しかし介護の仕事は直接個々の人間を相手にしている。物作りは直接人間を相手にしていない、介護は弱い、障害者や認知症になると正常な人間のコミニケ−ションができない人まで対象になっている。そういう人たちを介護するということは賃金労働とは違ったものとなる。賃金労働だったらヘルパ−でも介護の手助けするにしても掃除や食事の世話はしますがあとは金はもらいませんのでしませんとかなるのとは違う。そういうふうにできないのが介護なのである。でも介護も賃金労働の中に組み入れられる。家族が介護するような動機に欠ける人がするようになる。
介護するということは、もちろん被介護者と戦いのようなものですが
一番の苦しみは自分自身、自分の気持ちとの戦いの日々です。
介護の現場で働いている人でないと介護についてどうだこうだと言えないほど介護がむずかしい問題だからなのだ。愛だとか慈悲だとか口で言うのは楽である。では糞の処理をしてみろ、愛をもってしてみろと言われてそれを実行できればいい、なぜこんな汚いことを赤の他人の糞の処理をしなければならないのか、給料も安いのに・・・こんなボケ老人がこの世に生きている意味があるのか?本当は死んだ方が世の中のためなんだよ、まあ、金のために働いているんだからしかたなくやっているんだから目をつむるけど・・・・こうした自問自答があっても不思議ではない、家族の介護すら重度になればそうなる・・・なぜこんなに犠牲になるのか、若年アルツハイマ−を親にもった若者はその恨みを延々と書いている。余りの介護の重圧でただ親への恨みしか残らなくなってしまったのだ。
●介護は限りない謙虚さが要求される
そして介護には要求されるものは精神的にも犠牲的なものになる。介護されるものは弱者なのである。認知症であれ知的精神的障害者になるとどんな人でも軽蔑的な感情を持つ、こんな馬鹿に尽くして何の意味があるんだとか普通になる。こんな馬鹿がこの世に生きている意味があるのかとか自問自答することは確かである。こういう人を介護する世話することは限りない謙虚さが要求されている。こんな馬鹿を相手にしてどうなるんだとなる。こういう人にへりくだって使えることは簡単にはできない、それも赤の他人であり何の世話を受けたものでもないとしたら余計にそうなのだ。だから施設では虐待が日常化している、親戚の特養に勤めている人も自分の家族が認知症になったらそんなとことつきあうなと縁が切れてしまった。特養に勤めている人自体、認知症の重度の人を世話して嫌悪感で一杯になっているからそう言ったのだろう。そしてそういう介護職の人はかえって非情になってしまった人が居残るとかの発言もあるからいかに現場が体験しなければそのひどさをわからない世界だということが問題なのである。介護には明らかに宗教心が要求される。
また、最後の晩餐の前に、イエスがペテロや弟子たちの足を洗う
その時、「あながたがうち偉くなりたいものは、仕えるものになりなさい」
とおっしゃっています。
つまり弟子の足を洗うより以上のことが介護には望まれているのだ。痴呆化した無能化した人なのか人でないのかわからない人にひざまづき足を洗うというほど謙虚にならないとできない仕事なのである。それができないから実際は施設では虐待になっている。それを社会に要求しても無理だとなるのだ。参考にした介護職のプログのように施設と家庭を分離するのではなく施設と家族とを結びつけるような計らいが必要なのだ。施設にあずけぱっなしになれば虐待されてもしょうがないとなる、介護は施設だけではない、家庭とか地域とか社会全体で対処すべきものであるのが理想である。でもそこでも大事なのは動機なのである。
お互いが謙虚に、「面倒を見ていただいてありがとうございます」という気持ちと、「入所していただいて、ありがとうございます。おかげで我々お給料いただけます」という気持ちがあったとしたら・・・・ 今回のような事は起こらなかったかもしれません。
こういう意志疎通がないことが問題であり施設にあづけぱなしの家庭にも問題があった。介護は施設にあづけるだけでは解決しないむずかしい問題だという認識が必要なのである。
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