伊勢から名張から奈良へ(秋の旅路の短歌十首)
(名張(なばり)の地名の不思議の考察)
伊勢湾に秋の朝日のさし昇る波音ひびき我がたちにけり
なおあまた秋の燕の群れ飛びぬ名張を越えて奈良に向かわむ
名張にそしばしたちどまりその名にそ心に残す秋の朝かな
名張にそしばしたちよる旅人の影そとどめて秋の日あわれ
旅人の名張を越えむ奈良遠く飛鳥を目指す秋の夕暮
奈良に着き飛鳥に望む夕暮れの二上山や秋の夕映え
飛鳥にそ天武天皇の墓ありと伊勢より来る秋の夕暮
奈良に来て剣の池の古りにけるその謂われにそ秋深むかも
みちのくゆ伊勢に来たりて奈良に来ぬ陵大きく秋の夕暮
奈良に来てみちのく遠し誰とあふ古の人や秋深むかな
「那婆理稲置(なばりのいなぎ)」の記述があるので、名張の音としては「なはり」と「なばり」の両方について解析する必要がある。
@古くから名張の地が、鮎の産地として有名であったことから、漁師たちが縄を張って領域を独占したことから「ナワバリ」と意味され、鮎の縄張り的な習性、あるいは鮎漁猟者間の縄張り(なわばり)が転じたとする説。
A初瀬より山の中へ入り、三本松辺りの高地から名張を望むと、一大盆地が開け晴々した気持ちになることから、原始林などを開墾するという意味がある、新墾(にいばり)が転じたとする説。
(1)古事記 ⇒ 「那婆理」の表記
『古事記』安寧天皇の段には、皇子師木津日子命(安寧天皇の諱《いみな》=実名)の子の一人が、伊賀の須知の稲置、那婆理の稲置、三野の稲置の祖先であるとする伝承が記されている(「稲置」はヤマト政権の地方官で、屯倉(ヤマト政権の支配制度の一つ)や県の管理にあたる)。須知・那婆理・三野は、いずれも現在の名張市域の地名で、安寧天皇(正確には「大王」などと表記すべきだが、便宜上慣例に従う)の子孫が稲置としてこの地に配備されたという伝承は、かなり早い段階からヤマト政権の勢力がここまで及んでいたことを示唆している。
天万豊日天皇 孝徳天皇(二年春正月)
凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山より以来、兄、此をば制と云ふ。西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を、畿内国とす。
・
凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山より以来、兄、此をば制と云ふ。西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を、畿内国とす。
・
A巻第二十八 ⇒ 「隠」の表記
天渟中原瀛真人天皇 上 天武天皇(元年六月)
夜半に及りて隠郡に到りて、隠駅家を焚く。因りて邑の中に唱ひて曰はく、「天皇、東国に入ります。故、人夫諸参赴」といふ。然るに一人も来肯へず。横河に及らむとするに、黒雲有り。広さ十余丈にして天に経れり。時に、天皇異びたまふ。則ち燭を挙げて親ら式を秉りて、占ひて曰はく、「天下両つに分れむ祥なり。然れども朕遂に天下を得むか」とのたまふ。即ち急に行して伊賀郡に到りて、伊賀駅家を焚く。伊賀の中山に逮りて、当国の郡司等、数百の衆を率て帰りまつる
夜半に及りて隠郡に到りて、隠駅家を焚く。因りて邑の中に唱ひて曰はく、「天皇、東国に入ります。故、人夫諸参赴」といふ。然るに一人も来肯へず。横河に及らむとするに、黒雲有り。広さ十余丈にして天に経れり。時に、天皇異びたまふ。則ち燭を挙げて親ら式を秉りて、占ひて曰はく、「天下両つに分れむ祥なり。然れども朕遂に天下を得むか」とのたまふ。即ち急に行して伊賀郡に到りて、伊賀駅家を焚く。伊賀の中山に逮りて、当国の郡司等、数百の衆を率て帰りまつる
天武天皇(?−686)の条。 天武元年(672)六月二十四日、総勢わずか三十余人で吉野を発った大海人皇子は、伊賀、伊勢、美濃をめぐって各地の豪族を糾合しながら大津宮に攻め入り、反攻をしのいで大津宮を陥落せしめた。七月二十三日、大友皇子は縊死を選ぶ。勝利した大海人は翌年、飛鳥浄御原宮で即位、天武天皇として律令国家の建設を推進する。 大海人軍は吉野を出た六月二十四日の夜半、名張に入り、駅家うまやを焼いて衆を募るが、誰一人として応えない。横河(名張川)に至り、空にかかる黒雲を見て、大海人は自分が天下を得ることを占う。一行は伊賀郡に入り、積殖で朝を迎える。
−
−
底本頭注は、「隠郡なばりのこほり」を「伊賀国名張郡。今の三重県名賀郡の西半部・名張市」、「隠駅家なばりのうまや」を「三重県名張市の地にあった駅家か。大宝・養老令制では、駅家は諸道三十里(約十六キロメートル)ごとにおかれ、一定数の駅馬を常置した」、「横河」を「現在の名張川か。大化改新当時の畿内の東端」
「名張は伊賀国名張郡。今、三重県名賀郡の西半部、名張市。厨司は天皇の食膳に供する鳥・魚・貝類などをとらえるためにおかれた施設。名張の場合は年魚(あゆ)・雑魚などをとらえるためのものか」とする。
吾勢枯波 何所行良武 己津物 隠乃山乎 今日香越等六
吾(わ)がせこは 何所(いづく)行(ゆ)くらむ おきつもの 隠(なばり)[名張]の山(やま)を 今日(けふ)か越(こ)ゆらむ
名張(なばり)という所に注目したのはなぜか、それは自分が確かにここを船で仙台から名古屋に来てそこから自転車で松坂と志摩を回って名張を通り奈良についた記憶がある。
ただこの記憶も定かでなくなった。旅でも記憶があいまいになる。
名張という名が何かめずらしく心に残った。そこでは確かに秋であったが燕がなぜこんなに飛んでいるのかといぶかったことを覚えている。すでに去ってもいい時期だったからである。こっちは温暖だからまだ残っているのかと思った。
ただこの記憶も定かでなくなった。旅でも記憶があいまいになる。
名張という名が何かめずらしく心に残った。そこでは確かに秋であったが燕がなぜこんなに飛んでいるのかといぶかったことを覚えている。すでに去ってもいい時期だったからである。こっちは温暖だからまだ残っているのかと思った。
その名張の意味も良くわからない、しかしこの地域が飛鳥時代はまだ東国であり飛鳥の時代に支配権が及んでいない、境目になっていた。それも古い時代だが奈良と伊勢の中間地帯にあるから地理的には納得がいく。
歴史でもこの地理感覚が大事なのである。これが車だとなかなかわかりにくいのである。徒歩の感覚だと歴史も体にわかるということがある。現代は便利すぎてかえって地理の感覚がわからなくなる。遠さの感覚がわからなくなる。車で飛ばせば遠い感覚も旅が苦労だということもわからない、自転車だと何とか遠さとか旅の苦労がわかる。
自転車だと相当に疲れるからだ。そして自転車だとあとで記憶に残っていて回想して短歌を作ったり詩を作ったりできる。これが車だとできない、あそこにとどまっていたなという記憶がなくなるのである。
そして旅は伊勢から奈良から飛鳥という行程、道行の中にある。だから旅の短歌は一連のものとして鑑賞するものとなる。その長い行程の中に旅がある。
だからその行程を記憶する旅をしないとあとでも記憶にも残らないのである。
確かに名張で秋の燕がなぜこんなに飛んでいるのだということが一つの記憶として残っていた。そのことが旅の貴重な記憶だったのである。
それは名張にふさわしいということもあった。なぜならそこは奈良に近く飛鳥に近いから古代でもここを越えれば東国から奈良や飛鳥へ入るという感覚になるからである。
名張の地名はナラーハリかもしれない、奈良は均す(ナラス)であり平らにするとか耕作するのに適したように均すことは開墾することでもある。つまり飛鳥や奈良から開墾に入ってきた人達がいたのかもしれない、そういう記録もあるからだ。
一大盆地が開けていたということもそうである。そこは開墾するのに適地だったのであるだから名墾という名にもなった。開墾するということである。
ただナワバリーナハリという説もある。
名張市。厨司は天皇の食膳に供する鳥・魚・貝類などをとらえるためにおかれた施設。名張の場合は年魚(あゆ)・雑魚などをとらえるためのものか」とする。
ナワバリはこの由来なのか?川があったとするとその川で魚をとっていた人達がいてその名がついたのか?
ともかく新しく開墾された地が名張であり張るは開墾する意味である。田などを作る意味である。それで名張となった。吉隠(よなばり)ともにているからこれが有力になる。
地名の解読はむずかしい、でも自分は旅をして何か駅名とかこうした地名が心に残る不思議があった。名張というのも何か変わっていたから心に残るのである。
あまりにもありふれていると心に残らないというのもまた人間の心理なのである。
ともかく新しく開墾された地が名張であり張るは開墾する意味である。田などを作る意味である。それで名張となった。吉隠(よなばり)ともにているからこれが有力になる。
地名の解読はむずかしい、でも自分は旅をして何か駅名とかこうした地名が心に残る不思議があった。名張というのも何か変わっていたから心に残るのである。
あまりにもありふれていると心に残らないというのもまた人間の心理なのである。
旅というのは奈良から伊勢へと旅するのと伊勢から逆に奈良へ旅するのは全く変わった感覚になるのだ。古代から江戸時代でも西から東の旅、京から陸奥への旅は枕詞などがあり旅をしているが逆に陸奥から西へ京へ旅することはしていない、そういう記録も文学もほとんどないのである。ほとんどの古典は西から東への旅なのである。
ただ万葉集でも防人の歌は西に向かう旅を歌っていたのである。
現代はむしろ東から西に向かう旅が普通なっている。
旅というのは福島県でも浜通りから会津にゆくのと会津から浜通りに来るのとは全く違ったものとなる。なぜなら浜通りから会津は山国への旅であり会津から浜通りになると海へ出るからまるで違ったものとなる。
この七年間は近くすら自由に行っていない、それまでは自由に旅していた。今は回想する旅である。それも自転車でしていたから回想して短歌などでも作れる。
回想するときの旅はその土地のことを歴史などをインターネットなどでも知ることができるからそこからその土地のことを思い出して作る。
でもやはり人間は忘れやすい、どこをどう行ったかもわからなくなる。
ただ旅はある一カ所にゆくのではない、一連のものとして旅がある。行程に旅がある。
そういう旅がない、江戸時代なら別に旅でなくても歩いていたのだから日常が旅なのである。度々ゆくから旅だともなる。現代から旅が消えたのは過程がないからである。
そして旅はつくづく今はかえって労力がかかる。自転車の旅でも相当に時間もかかるし労力もかかる。だから勤め人だったらできない、そして江戸時代だったら歩くことが旅なのだから別に作る必要はない、演出する必要はない、今は旅は演出する必要があるのだ。
便利すぎるからわざわざ不便な旅をするようにしないと旅にならないのである。
でも歩いて旅している人も必ず途中で電車に乗ったりしている、遍路の人もそうだった。だから歩き通す旅をしている人はほとんどいないのである。むしろできなくなっているのである。
ただ鹿児島から青森まで歩いて旅していた人には驚いた。公務員をやめて自由になり旅したのである。よほど自由な旅をしたかったことがわかる。
やはり勤めていれば自由な旅を今はできないのである。