2014年12月06日

巨大会社化グローバル化経済や金融操作社会の悪 (江戸時代を見直して現代を考える)




巨大会社化グローバル化経済や金融操作社会の悪


(江戸時代を見直して現代を考える)


●社会は継続して築かれている

社会というのは今を見ているだけではわからない、なぜなら今は過去から生まれてきているし過去から連続してできてきたものである。どんな革命でも過去を一掃することはできない。社会は積み重ねでできているのだから過去を無視すると社会の平安は保たれない。例えばその土地の有力者が金持ちがいたとするとそれは地域の富を一人じめした悪者だとなるとその富を奪ってもいいとなる。
そういう家もあっても富を生み出すにはそれなりのその土地の理由があって富者になっている。
それを何でも平等の原理で平等であらねばならないのだからその富を奪ってもいいとなったときどうなるのか?その家が富んだ理由はそれなりにあり積み重ねが必ずある。
それを否定することは積み重ねで富を築いたその土地の歴史を無視することに通じる。

必ず草分けが百姓がありそこに人が会社のようになっていて集まり村が作られていた。
中世の館はそういう土地の中心として要としてあった。
だからその家が富んでいることは回りも富むようになるものがあった。
その家だけが富むということはありえないのである。
それぞれで富む家があれば回りもその富にあづかることがありうる
特に江戸時代などはその土地で生産したもので生活していればある家が富むのはその土地に由来しているからその家だけが富者となることはない
だからそうして富者になった家を不平等であるから奪えばいいとは回りでも必ずしもなっていなかったろう。
現代の富者はまた別になったから不平等感が強くなっているのである。

日本では江戸時代が鎖国であれ300年間もありその間に戦争が国内で起きていない、これも世界史からみればまれなことだった。そして鎖国だから他国に頼らない自給自足であり国自体もそうだが村自体も自給自足社会だったというのが理解できなくなっているのだ。どうしてそんな小さな村で経済が成り立っていたのか理解できなくなっている。
なぜならグローバル化したとき世界から物が入ってきて成り立っているからなぜそんな村のような社会で人間生活が成り立つのだろうかと理解できなくなったのである。
自分も毎日買い物であり通販でも毎日のように買っている生活になった。
こんなに物を買うのだから金がかかる生活なのである。
だから誰でも金金金が欲しいという生活になっている。
江戸時代からすれば百倍ものものを買う生活になっているだろう。
江戸時代はほとんど買うということは限られていて農家では納豆まで作っていた。
農家自体が一軒で自給自足的な生活をしていたのである。

●自給自足経済の江戸時代を見直す

ただ江戸時代のことは歴史でも明治維新以来急速に忘れ去られたということがある。
その一番いい例が身近にどうして小さな狭い村で自給自足できたのかということが理解できなくなったことにある。
その時はすべて燃料でも薪であり炭であり電気も使っていない、ほとんど自給自足であり外から買うことは極限られたものしかなかった。
だからその時代と比べると今の社会は何なのだろうととなる。
ただそれだからこそ極端な貧乏ということもあったし医者にかかれず早死にであり悲惨なものがあった。その暗黒面も大きいから江戸時代やヨーロッパの中世でもあ暗黒時代だったとされるのでてある。
この辺でも醤油を使うのは正月用だったと明治生まれの人が書いている。

小作の生活は悲惨であった。そうした生活からすると誰もそんな時代にもどりたいとは思わないことは確かである。醤油なんか捨てるくらいあるし塩分が多いから使わないようにしている時代である。だからその差も大すぎるから昔が理解できなくなる。
つまり明治維新後に醤油も使っていないとなると江戸時代は醤油を使っていないとなる。そんな生活があったのかとなりそんな暗黒時代にもどりたくないなとるのもわかるのである。
一方で江戸時代や中世でも見直されるのは現代のグローバル化社会と対比したとき、その矛盾が見えてくる。
現代は人間的社会から全く逸脱した非情化した社会になったとなる。
江戸時代の継続として戦後十年もあったのだ。なぜなら燃料は炭であり薪であり自給自足だったからである。それが急速に高度成長化したときグローバル経済化したとき
過去のものとなり理解できなくなったのである。
要するに確かに未曾有の豊かさに現代は生きている、でもまた失ったものも精神的には大きかったのである。
それを象徴していたのがこの辺の原発事故の災禍だった。まず故郷に住めなくなるなど想像もできなかった。それこそ最大の災禍である。故郷に住めなくなるなどかつてあったのかとなる。その範囲も広いから考えられないことだった。
現代文明の矛盾が自分の住んでいる所に極端化して現実となったのである。

●巨大会社が国家のように支配する社会

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原発事故が起きた原因はいろいす語られる。それはすでに文明の災禍でありその矛盾が集中してこの辺に現実化したのである。
東電という会社があれほど巨大なものとは知らなかった。そもそも地方で生活している人は大きな会社のことを知らないだろう。社会自体どう動いているのかも見えないしわからない、だからかえって巨大会社でも国家でも大衆を操作しやすくなっているのだ。
それはあからさまな圧政ではない、何か国民に支持ささてやっているのだという感覚になる。巨大会社や国家に操作されているのではない、国民の支持の上に行っているという感覚にされているくのである。
でも実際は巨大会社が社会を支配しているのでありそれが現代の特徴でありだからこそロスチャイルトとかロックフェラーがアメリカを支配していると言われる。
国家を操作しているのはアメリカで日本でも巨大会社になっている。
今や小さな村社会に人は属しているではない、ほとんどなにがしかの会社に属している。だから昔は社に介する社会だったが今は会社員になったのである。その差も大きすぎるのである。巨大会社が何かということも東電でもそうだったが理解できないものなのである


会社とはそもそも自らの引き起こす結果に責任をうまく逃れるために作られたものである重役や社長はたとえ自分の過失で損害を出しても会社がかけた保険で守られているため
個人的に賠償する必要はない、会社の違法行為も罰せられない、個人的には死刑になるようなことでも会社が犯した場合には痛くもかゆくもない、罰する法律もない・・」
(グローバル経済という怪物ーデビットコーテン)

東電の会長であり社長はそうである、海外の支店で優雅な生活をしているという。何らこれだけの災厄をもたらしたのに罪は問われないのである。法律でそもそも会社は罰せられないのである。これもおかしなことであり会社だったら何でもしてもいいとさえなる。
会社が最大の権力者であり検察すら無視できるから国家よりも上だとなる。
小さな会社の事業で失敗したら自殺している人が多いけどこれだけ巨大会社になると誰も罰せられないし東電で何か深刻に今回の原発事故を反省する人もいないのも不思議なのである。
これだけの甚大な被害を与えても何ら罰することもできない、そして百円盗んでも刑務所に入れられるのである。かえって億の金を盗むような人は罰せられないようにいまのし会はなっているのだ。だから庶民は働くのも馬鹿らしくなるのである。

金融でもそうであり何ら実質的に富をもたらさないものが数字のやりとりで巨万の富を得ているのもそうである。そういう恩恵に株をもっている人はあづかっている。
自分もそういう社会にとりこまれているから矛盾している。
ただこの本では株が上がろうが実際は今や経済が良くなるのではない、ただ数字上でそうなっているのであり別に富は増大していないという。
だからアベノミックスもそうした金融のトリックに過ぎないのである。何ら実質の経済が良くなっていないのである。

●金融の操作では何ら実質的な価値も富も作り出せない

現代における開発とは貨幣経済にしかありえない生活をしている人々ー会社重役、マーケティング業者、弁護士、投資家、会計士、投資ブローカーなどであり彼らは金をあつかう人々であり本質的に価値あるものは何一つ生産していないが多額の報酬を得ている。
(グローバル経済という怪物ーデビットコーテン)

何ら価値すら生み出していない人々が巨額の富を得ている。ただでは東電などはどうかとなると電力を作っているのだからこれらの人たちとは違うともなる。
ビルゲイツとかバソコンを発明した人なども根本的に違っている。
ただ金を右から左に移して金融の操作でもうけている人たちのことである。
ただマネーゲームでもうけているにすぎない、アベノミックスも実はマネーゲームの延長の政策でありただ日本銀行が紙幣をばらまいても景気などよくならないのである。
紙幣をすって景気がよくならとしたらこれほど楽なことはないからである。

そもそも江戸時代の方が働くことが金のためだけではなかった。職人気質が形成されたのはただいいものを作るということに熱心であり自分だけの作品を作ることに励んでいたから職人は芸術家でもあった。ひたすら仕事に打ち込むことであり金のためではなかった。だから実際は多様なものが作り出されていた。下駄でも何でも作った人の名前が残っていたりする。その人だけが作れるものをその土地だけから作れるものがあり多様な社会であり文化的には豊かだったのである。貧乏などの暗黒面を語ればまたきりがなくなるが良い面を語ればまた今にはない職人の幸福があったのである。
江戸時代というのは何か否定的な面ばかり語られる。江戸時代300年は何であったのか?それを見直して現代を考える作業が必要になっている。

なぜならなぜ原発事故のような災禍がありこれから社会をどうするのかというとき江戸時代が参考になるからである。
現代の物を買っては捨てることや消費文明を見直すことに通じている。
ただそれだからといって江戸時代に貧乏にもどれとはらない。
結局歴史は全く同じような過去に戻ることはない、フィードバックして螺旋状に進む。
直線的には進まないのである。一旦過去をふりかえりもどったり停止したりして進んでゆくのである。だから江戸時代を見直すにしても同じ社会には戻らないのである。


これは「グローバル化という怪物」という本の要点
http://www.ne.jp/asahi/manazasi/ichi/keizai/globaleco.htm

虞美人草から地方の産物を読む
http://www.musubu.jp/jijimondai13.htm#gu

ここに自分が書いたように多様な産物が江戸時代にはあった。
その価値は大きいが忘れられたのである。
posted by 老鶯 at 20:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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