2014年10月28日

秋薔薇 (写真はまさに写生そのもの、見えないものが見えた)



秋薔薇

(写真はまさに写生そのもの、見えないものが見えた)

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一輪は散りて二輪や秋薔薇
やがて散る二輪のここに秋薔薇
街の灯のともしや二輪秋薔薇
秋薔薇芒と映えて散るらしも
秋薔薇なおも一つや蕾見ゆ
秋薔薇明日は散るらむ夜のふける
昨日今日我は感じぬ秋時雨
山脈の翳りて暗し秋時雨


秋薔薇になぜひかれるのか?それはやがて散ることが意識されるからである。
夏でも散るのは散るのだが秋薔薇はまさに散るというとき何か人間にすれば死を感じるのである。
だから俳句というのは短いから感じないものは感じないし鑑賞もできない
(やがて散る景色は見えず蝉の声)ー芭蕉
死んだら何も見えないでも蝉の声は聞こえているというこれは臨終の句でもある。
ともかく何度も書いているように老人は60代でも常に死を意識させられる年代なのであるもう死んで行くんだなというのが実感でありこれが若い人にはわからない
若いときいくら死を自覚しろといっても実感しえないし時間が限られていてなくなるということも実感しえないのである。
老人になると時間もあっというまに消えてしまったという感覚になる。
そしてあとは死ぬだけだとなる。

ああ この秋薔薇もここで散ってゆく、死んでゆくんだなと思う
人間は死ぬ場所も相当重要なのかもしれない
生まれた場所があり育った場所があり死ぬ場所かある。
ああ、自分はここで死んでゆくんだというのを意識する
だから原発で避難した人たちは今どういう気持ちているのだろうと何度も思う
死ぬ場所はやはり故郷だったのだろう。
その気持ちは計りしりえないものである。
感受性豊かだったら啄木のような望郷になる。
相馬恋しや・・となっているのかもしれない。
啄木の場合の望郷は東京だから余計にそうなったのである。
福島県内だったら別にそんなふうにはならないかもしれない。
ただ老人の場合はそうなりやすい、でも実際に老人は避難区域になったところには帰らないという人がほとんどである。
便利な時代には住めるような所にならなくなったからである。

ともかくこの写真はうまくとれた。調整したらこうなった。
芒がこんなふうに写っているとは思わなかった。
現実のものとは違っているのだ。写真は現実そのものとも違うのである。
この芒と秋薔薇があっていたのである。
薔薇はもともとヨーロッパのものであり芒は日本である。その二つがここで融合しているのである。

写真はまさに写生俳句になる。写真そのものが語るものが俳句であり詩にもなる。
写真芸術の時代だというときこうして時々に刻々に移る景色を変化をとらえて記録する。それができるうよになったのはパソコンとかインターネットとかデジカメの技術が生まれたからである。
ただ他人の写真を見てなかなか俳句は作れない、やはり写真は風景を一部きりとったものだからだろう。俳句でも作るときは全体の光景を見て作っているからである。
そしてそこには必ずその人の内面が反映しているのである。
老人だったら明日死ぬかもしれないという感覚で見ているから違ってくる。
写真は見えないものが見えるというとき蕾がまたあったというのもそうである。
芒もこんなふうには見えなかった。

今年の気候は何か変である。昨日まで日ざしが暑かった。今日は急に西風になり寒くなった。南下冬は急に来たみたいだ。秋時雨というのを昨日も今日も感じた。
時雨だからすでに冬になってきているのである。
秋時雨なのか時雨なのかわかりにくい、俳句と季語がありすぎて使いこなせないのである



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