2014年10月17日

秋薊(介護も家事も七年間になると長いーみんな重荷を負わされている)


秋薊


(介護も家事も七年間になると長いーみんな重荷を負わされている)



故郷や今日も買い物秋薊

秋薔薇見る暇なきに散りにりけり

秋の灯や復興団地人入る

何人も重荷負わされる生きるかなあざみ根を張り秋風の吹く



人間は誰でも重荷を負わされている。ある人は確かに生涯貧乏で障害者の世話とかで苦しんできたことを語るけどその人だけではない、何らか重荷を負わされて生きている。
仕事すること自体重荷である。もう7年間も介護や家事に追われてきた。
七年間となるとやはり長いから苦労したなと我ながら思う。
人間も仕事でも十年くらいしていると苦労して仕事したなとかなるだろう。
そこに生活の実感が生まれることは確かである。
やはり長くなればなるほど苦労してやったなとかなる。
自分はこれまでそうした苦労からまねがれていたのは幸運だったのである。
だから旅も自由にできた。他の人はみんな苦労を背負って生きてきたのである。
自分の母親90年間苦労の連続だったとなる。それが人生であり何の楽しみもない
ただ食べるものだけは贅沢したのである。
だから庭はいらないとか花も興味ないとかそんなもの無駄だとか狂気のように騒いだのである。それもまた異常だった。

ただ何も苦労もない人もまた人間としてまともでないことは言える。このバランスがうまくとれていればいいのである。一方に偏るからおかしくなるのである。
駅前の秋薔薇は散っていた。前は見ていたけど見ない内に今年は散った。
それもそれだけの余裕がないから見る暇がないからそうなる。
今日は北風が吹いていた。急に寒くなった。
いづれにしろこの七年間本当に苦労の連続だった。
まず人を雇うのは本当に苦労である。家の中で働いてもらうほどめんどうなことなはい。家事などしてくれる女性は何か問題を金銭的なもので必ずかかえているのである。
今では昔の人のようなモラルが正直な人とかいないからあまりにも金だけに目をつけられている。それが露骨になっている。


俺に金くれ、俺は金とりにきたんだとばかりに入ってきてその通りにした女性がいたことには驚いた。こんな女性がいるのかと信じられなかったし他にも「おばちゃんは金があるから金でめんどうみろ」とか血相変えて遠い親戚の女性は去った。
その女性は金持ちだったのである。あとは金がなかった。一人は裁判にすると切れた。
これほど金に困窮して異常になっているのが現代である。
もう一人は借金でおいつめられて自分に入院しているときも要求してきた。
それは脅迫だったのである。これらの人は犯罪の一歩手前であり実際は犯罪者でもあったのだ。
こんな女性が近くに田舎でも普通にいると考えられなかった。
そういう考えられないことが自分にはこの七年間起きてきたのである。
津波も原発もこれも考えられないことだった。
こんなに次々に異常なことが起こることが信じられないとなる。
つくづくこの世も末だというのを感じた七年間だったのである。

街中の墓地の前の復興団地には人が入りはじめた。ほとんど部屋は埋まっているから待っていた人が多かったのだろう。子供のいる家族もかなりいる。
小高の人も入っていた。津波の被害を受けた人が優先なのだろう。
復興住宅でも団地でもまさに復興したという感じを受ける。
仮説とは違いここで生活してゆく基盤できたとなるから違っている。

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