2014年10月16日

百寿者100万人時代 (nhkー長寿者の心は幸福感に満たされている?)


百寿者100万人時代


(nhkー長寿者の心は幸福感に満たされている?)

百歳を生きている人がどんな気持ちでいるのか不思議である。
身近に確かに百歳になる人を介護している。
自分の母親が幸福かというと今まで家庭では不幸だったから自分が世話しているので喜んでいる。これは自分の家族とその生い立ちでそうなっている。
人間は百歳生きてもみんな違っている。
百歳で幸福だというときそれなりの条件が備えているからかもしれない。
家庭で世話する人がいるとか施設でも親切に見てくれる人がいるとかである。
nhkの放送ではそうだった。やはり家族が受け入れる体制がないと幸福感はいだけない。
そういう家庭環境がみんなこれから得られるかどうかわからないだろう。

精神的な面から老人がどういう心境にあるのか?
それは還暦をすぎると誰でもわかるのだ。
共通していることは時間が特別貴重に思えてくるのである。
今日一日が貴重に思えてくる。
なぜなら百歳まで生きるにしてもやはり死を身近に感じる年代だからである。
明日がないかもしれないということから時間が特別貴重に思えるのである。
見るものでもこれが最後とか思うし会うのもこれが最後とかなる。
実際に老人になると別れることが多くなり永遠に合わなくなることが親なども死別するからそうなる。
人間が会うということは誰であれ不思議な縁があって会っていたとなる。
なぜなら死んだら永遠に会わなくなるからだ。
そういうことを理屈ではなく実際のこととして起きてくるからである。


若いとき一番浪費しているのは時間である。時間は何か具体的に見えないとらえられないからそうなる。金だといくらいくらとか計算できるが時間は計算できないから必ず浪費しているのである。そして老人になるとその時間の貴重さにみんな気づくのである。
過ぎ去った時間が帰ってこないということである。
時間とは体験し出会い学びと何かを費やすことである。
そして前にも書いたけど本当に人間は何に時間を費やしたかが人生なのである。
あらゆることに時間を費やすことはできないのである。
だから江戸時代などをふりかえるとたいがいは親の跡を継いでやっている人が多かった。でも農業でも大工でも職人でも侍でもみんなが向いているとは限らないのだ。
それでもそうして向かいない人も親の跡をついで時間をかけて学んで跡を継いでいたのである。要するにそれだけの時間をかければ人間は与えられた仕事でも適応して覚えてゆくということである。どれだけ時間をかけたかが人間を作るのである。
ただどうしても仕事は若いとき覚えやすいから若いときを逃すと仕事ができないということはある。

奇妙だけど自分は旅ばかりしていたけどそれも今になると貴重な体験であり時間だったなとつくづく思う。なぜなら今やこの7年間近くすら行けなくなっていたからである。
ふらりと自由に行けたのが行けないショックは大きかった。
ただすでに会社人間とは違い自由な旅をしてきたのだから後悔はない。
会社人間はそういう面で会社ばえりに尽くして働いていたのも今になると何だったとかなるだろう。そうはいってもそういう時間は帰ってこないのがショックなのである。
老人になると金があってもその金すら使いこなせなくなる。
いい自転車買ったけど体力がないから長い旅もできないとかパソコン買っても使い方がめんどうでできないとか何か買ってもできないとういことが多くなるのだ。
何でも買えるけど使いこなせないということになるのだ。
だから老人は金を持っていても使わないのである。
ただ病気のために使うのが一番多くなっているのだ。


旅などは別に金はさほどいらないのである。自転車でもバイクでも野宿していたりしたら飲み食いの会だけである。それだって贅沢しなければ金はかからないのである。
電車だと交通費がかかるけど青春18切符だとさほどかからないが時間が必要なのである。つまり金より時間が貴重だったということがわかるのである。
そして人間はみんな不平等だと思っているけど時間だけは平等に与えられているのだ。
だから人生とはそれぞれの時間を何に費やしたかで決まるのである。
若いとき金持ちだから一億円あったとしても結局費やす時間は同じだから金によってすべてが左右されないのである。
老人が幸福感にひたされるのは百歳くらいになるとただ今生きているということが幸福なのである。なぜなら死んでいるのが生きているとなればそうなる。
そういうふうに若いときは絶対に思わない、生きているだけ存在しているだけが幸福などと絶対に思わない。なぜならそんなこと当たり前だかからそうなる。


幸福だというとき金があることとか恋人がいるとか何か得ることでありただ生きているあることが幸福だなどとならないのである。
その感覚がわからないのである。明日はこの世にいないかもしれないというとき今こうしてある時間が貴重になってしまうのである。
「今日も生きていたな、存在していたな」というだけで幸福だとなってしまう。
百歳の幸福感は外見は悲惨なのだが心の中は余計にそうなってしまうのである。
何か見るにしても末期の目でみているからもうこれっきり見れなくなると思ったらあらゆるものが貴重になるだろう。自分は富士山を見たいというときそうだった。
富士山すら見れないのかと思ったときもう一度富士山を見て死んでゆきたいと思った。
ガンになっても冨士登山した人の気持もわかる。自分はただ遠くからその姿をもう一度みたいということである。
いつでもあるとかいつでもできるとかいつでも会えるとかになると貴重に思わない。
この辺では故郷すら住めなくなったから故郷は何だろうとか考えるようになった。
故郷なんか当たり前にあったからである。
当たり前にいつでもあるものは貴重に思わないのである。
そういうものはなくなってみてはじめて貴重さがわかるのである。

百歳まで生きても日本人の健康寿命が男で71とか女で74とかなっているのは本当に長生きとは言えないだろう。虚弱化するとそれも長生きできないし生きた感じもしなくなる。
自分だったら自転車である程度遠くまで乗れるというとき幸福である。
それができなくなると生きている幸福感が減退してしまうだろう。
現実に筋肉痛になってきたのはそういう兆候が現れてきたのである。
そうなると長生きしたくなくなるのである。
だから長寿社会でもその中身が大事である。寝たきりで長生きしてもつまらないとなるし本当に長生きなのかとなる。
人間は確かに生きたように死ぬというのは本当なのだろう。
自分は旅ばかりしていたから旅しながら風に吹かれてどこかへ消えるのがふさわしいとなる。病院のようなところで死ぬのはふさわしくないとなる。
なんか今でも峠を越えようととして歩いている自分がいる。
認知症の農家の認知症の女性が布団じ田植えしていたというのもわかる。
人間は過去にどう生きたかが大きな影響を残しているのである。

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 芭蕉

まさにこうなるのである。最後死ぬときどう生きてきたかが死にざまとなる。
どう死ぬかはどう生きるかにあるのだからどう死ぬかなどと老人になって考えても無駄だとなる。人間はどう生きたかでありそれを今更決められないとなるのだ。
ただ延命治療してくれるなとかそういうことは決められる。
でもどう死ぬかはどう生きたかでありもうその生きた時間ば取り戻せないのだから
自分の思い通りにはもう死ねないということになるから恐怖なのである。
そういうふうに若いときに思わないのである。
ただ老人になるとそうした残酷な現実から逃れなくなるのである。


タグ:百歳
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