2014年10月08日

秋の蝶(俳句は写生だから平凡でも価値が生れる)


秋の蝶(俳句は写生だから平凡でも価値が生れる)


秋の蝶飛び来る一羽朝に見ゆ

静けさや秋の日さして石二つ

なお一羽帰らざるかな秋燕

畦道を歩みて農家秋薊


秋の蝶が一羽飛んでくるのを朝に窓から見ていた。これは全く写生の俳句なのだ。
蝶が一羽が飛んでくるではこれは外国では理解できない、まず秋の蝶という季語ゆえに俳句文学生れたのである外国だったら蝶といえば春であり夏であるが秋は意識しないし区別しないだろう。

そしてこれが何を意味しているかというと田舎では誰か歩いていても見てないようで見ているのである。
あの人どこにゆくのだろうかと見ている。だから地元の女性はこの道をゆくのが嫌だなとというとき誰かに見られることを意識するからである。
その女性はどこでも見られていることを意識して何かを言われるのを嫌がっていた。
田舎は人間が監視カメラのことには変わりなかったのである。

田舎は人間関係ではこのように狭隘なものになるのだが自然を見ていれば一羽飛んでくる蝶はきれいだしそれを見ているのは心和むのである。自然を観察するには空間的にもリズム的にもいいのである。
でもこれはあまりにも平凡だから俳句とはなりえないと思うだろう。
それが写生俳句でありその写生に価値と意味を見いだすのである。
秋の蝶がひらひら一羽は飛んでくる。それをゆっくりと見ている。
その余裕がないと俳句もできないのである。

石二つとなるとこれは想像の句である。ただそういう場面を田舎ではどこでも見ているだろう。
人間つくづく年になれば落ち着きたいということがある。
だから仲のいい老夫婦などはいいなと思う。
老人はそうして長年一緒に暮らしてきた人や土地と一体化するからはなれがたくなる。
だから原発事故で避難した人たちは老人は辛いし帰りたいとなるのである。

燕が一羽飛んでいるのみた。まだ帰らないと思った。夜は寒かったにしろ昼になると何か日ざしが暑い、やはり何か今年も暑くなっているのだろう。これも温暖化の影響なのだろう。
暑く感じるからまだ燕も帰らないということがある。

薊は畦道に咲いているのがふさわしい花である。ところがこの辺では田んぼが草ぼうぼうになっている。
だから田んぼがないということは荒れ果てた感じになるのだ。
小山田の辺りで除染していた。あの辺もしていたのかと思う。山側からしている。でも草を刈り取っているだけであり土はとっていないからまた草は生えたら同じじゃないかと思った。
庭の土はとっている。除染というのはまず大変な労力であり人手がかかる。一兆円もかかるというのもわかる。でもその成果は少ないだろう。草を刈っても土をとらない限り同じである。
その土をとることは膨大なものとなり不可能になる。捨てる場所だって確保できない、だから放射線量が低ければあきらめて暮らすほかないという感じもする。
それよりそこで生活する方が大事に思える、いつまでも荒地になっていたら心まで荒地になってしまうからだ。
タグ:秋の蝶
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