2014年10月08日

金とは何なのか(2) 人間の思いがこめられたものは価値は金では公平に決められない


金とは何なのか(2)
人間の思いがこめられたものは価値は金では公平に決められない

人間の思いというものが意外と作用して影響が大きいことを意識しない。
ある人が殺したいとか強く思ったとき関係ない人にも影響して殺人起こるというのはそれだけ念が影響しているからそうなる。もしそういう悪い念が満ちてくると何か自然災害でも今回の津波でも起きてくるというのはそれが人間界だけではなく自然界にも影響してくるということもありうるのだ。
清浄な自然界で耐えられなくなりその悪い念を打ち消そうとして巨大災害が起きる。
どうしても今は田舎も都会もないのだが都会に悪い念が集まりやすい。
だから都会で大災害が起こると被害も甚大になる。
東北の大震災は津波はなぜ起きたかとなるとおそらく今後来る東京などの大都会の災害が起きる前兆かもしれないのだ。
思いは念は距離を越えて働く、だから外国からでもその念が影響することはありうる。一種の強烈な電波のようにもなる。ある人のことを常に思っていたらその人と会うということがよくあるだろう。
それも思いが通じているからそうなる。ある人を思ったとき電波が発信され相手に届き会うということもある。念は距離とか空間を越えて働いている。
そして金というのは一見人間の念とは関係ないように見える。
日々使っている金にどんな念が思いがこめられているか意識する人はいないだろう。
金にもそうした思いが働いているのだがその思いが普通は感じられない。
ところがよく箱に寄付金などに金を入れるとき一〇〇円でも何かすごくその金を意識しないか?
「俺は百円入れた、寄付したぞ」となるがその金は全く個人として記録されないし匿名なのである。
でも寄付金にその金には特別な思い入れがこもる。それは普通の生活で使う金と違っているからだ。
そこには何も代価を得られないから無償だからこそかえって思いと願いがこめられているのである。
だからそういう金を取り扱うことになると相当な注意が必要である。
寄付金というのは実際はどういうふうに流れてゆくかわからないのである。
そこで寄付金を管理する団体がその寄付金を私用するということもかなりある。
なぜならそこには普通の経済生活で行われている監査などされないからである。
つまりどこにどう金が流れて使われたのかわからないのである。
ただその集められた金には人々の思いが強くこめられているから百円でも普通に使うのとは違うのである。

だからそれを管理する団体は相当な信用がないとできないのである。
本当は収支をはっきりするのがいいのだが集めれた金がどれくらいあるかなども明確にされなくてもいい。
営利事業でないのだからかえってずさんになり金の行方がわからなくなる。
この辺の東北の震災の義援金を五万くらいもらった。それもこの辺では感謝すべきものだったのだろう。
原発補償金はまた別でありこれは義援金でなく補償金だから権利だから違っている。
だから義援金なぎ寄付金を集める団体が赤十字ですら何か疑われるのは収支がはっきりしないからである。
不正に使われてもわからないし私腹こやされてもわからない、そういうのは相当な罪になるだろうけどかえって善人にされる。でもそういう強く人間の思いがこめられた金を悪用するとそれは犯罪にもなり社会自体がゆがめられる。その影響も大きいのである。

大きな金を集めるとなると税金があるけどそこにも人間の思いがためられている。だからこそ税金を無駄使いしているのではないか、官僚や公務員だけがいい思いしているとか常に批判がある。税金にもなんらかの人間の思いがのりうつっているからである。だからそういう金を正当に利用しないと国すら腐敗し頽廃してゆく。
現代は金の世界だと常に言うとき金のあること自体がすでに責任を課せられている。金をもっている人が現代では一番偉いとされているからである。江戸時代は別に武士は貧乏でありそれでも偉いとされたのは庶民とは違い高いモラルを追求するものとしてあったからである。今は金をない人を誰も相手にしないし偉いともしない。
金があらゆる価値の基準になった時代だからである。だからどんな人であれ金をもっている人が偉いのでありまた責任も課せられている。億の金を持っている人は億の責任を課せられている。百億もっている人は百億の責任が課せられている。それだけの責任を負えるかとなるとかえって重荷になるから拒否する人さえでてくるだろうすでに金のあるところには人がよってきて金を有効にもっていな人のために使うことを要求さているからだ。
その金をためこんでいたりすると盗まれたり強盗にあったり殺されることまでされるのが現代である。
それは金中心の社会だからそうなっているのである。江戸時代でもそういうことがあっても別な価値基準もあったのである。今は全くその価値基準がないのである。だからみんな金だけを追求しているのである。

思いがこもる金として例えは年金は保険金だという人もいるが普通の保険金なら何かあったとき災害であれ事故であれ病気であれ払ってもらえるから払っている。保険は相互に協力するものとしてあった。災害のときなどは被害者が保険金を受けるとるが何もない人は受け取らない、みんなで助け合いとして資金を出し合ってリスクに備えている。
それがわかたっのは近くで同じ農協の保険に入って人が津波の被害で五〇〇万もらっていたのでわかった。自分は三〇万くらいしかもらっていない、でも被害が大きい人は高いのしょうがない、それでもその差が大きいと思った。それは互いの助け合いだからそうなっていたのである。ただそれを意識しないのが意識できないのが現代なのである。保険に入っている人は膨大でありそんな人同士がつながっているなど思わない、ところが江戸時代の講などは顔の見えるものであり協力していることが具体的に見える
現代のような広域社会は保険でもグローバルになると巨大であり数も膨大なにるから顔が全く見えなくなってしまうのである。

ともかく人間は思いが念が常に影響している。個々人でもそうであり社会でもそうである。誰か思っているとき念が働いている。そして意外と人は思うことは簡単であり目に見えないから注意しないのである。
それでも思うということはそれぞれの個人でも思うことは結構なエネルギーを使うものだということを知る。
なぜならたいがい思うというときその思いの働く対象が限られている。
ある人を思うとなってもその思いを働かせる人が極めて少ない、だからある人を思ったり思われることは得難いことだともなる。奇妙なことは憎しみも相手を思っていることなのである。何も関心がなければ憎しみもない、憎むことは相手を強烈に思うことなのである。だかち愛の反面は憎しみであり憎しみが愛に変わることもありうる。
無関心から愛も何も生れないのである。

「あなたは今誰のことを思っていますか」こう問う時、愛であれ憎しみであれ思いで通じ合っているというのも不思議である。なぜならこの世に数十億の人間がいても思っている人は数人にととまるだろう。
とくに老人になると交わる人が減ってくるから余計にそうなる。たださよならだけが人生だとなりやすいのである。もう思う人が死者だったりするわけである。だから墓が一番親しいものとなっているのが老人なのである。思っているのは墓に入っている死者だとなってしまうのである。
ただ死者を思い続けることも反応がないのだからやがて忘れやすい、いつまでも思いつづけることはそれだけ愛していたからだとなるだろう。
祈るとか願うとか宗教と関係してきたけどそれも思いが現実に働くから実際に効能があるからこそ今でも祈るのである。

ともかく金は単なる金属でもないし紙でもない人間の思いがこめられたものでありそれが金属となり紙となっているものである。ただその思いが感じられないのが問題なのである。
毎日買っている無数の商品にも作る人の思いがこめられているだろう。単に売れればいいというだけではない、自分の苦労して作ったものが使われて喜ばれたとなるとうれしいとなる。そういう思いが商品にあってもただ金で媒介されるとき市場原理だけが働くだけになりその思いが消失してものの物神化になり疎外されるというのがマルクスの理論であった。

だから金というのは何か極端な不公平をみんな感じている。金持ちが例えば百万円使ってもなくしても何にも感じない、一方で貧乏人はそれで自殺もするし相手も殺すことも平気でする。金の重みが貧乏人と金持ちでは全く違うのである。ものの値段であり労働の値段でありあらゆる値段はそれがその価値に相当するかというとそうではない、ただ便宜上便利だから金に換算しているにすぎない。物の価値であれ人の価値であれ人間の価値観は刻々変わっているからだ。今価値あってもすぐに一年も一カ月もたたないうちにもう一日でも価値が変わるのが現代である。江戸時代は土地とか山の木材とか価値の変わらないもので生活していたから価値観がさほど変わらないが現代はめまぐるしく何でも変わる。
もともと商売だったら中国人や外国では物の値段は決まっていない、値切って決めるのが普通だというとき物の値段はその時その人その場によって一定していないからである。
だからポランニーの言う人間の経済というのが現代から見るとそんなことありうるのかというけどあういうのが本当の経済だったのである。

この世にはものがあってもそのものは常に人間の思いがこめられている。だからものは心と同じ意味になっていたのが日本語だった。ものが憑くとかになるからだ。
自然の石でも古い伝説となっている石などは何か本当に違っている。何かまさに心が憑くような感じになっている。全くの自然の石とは違って見えるのである。
実際にすでに何からの人間の心がついてものなのである。津波の跡の不思議を常に書いてきたけど庭の石とか樹が残っていたけど家がなくなったときそれが主人がなくなったがその忠実な家来が残っている感じになっていたのである。それはまるで人間だったのである。普通の自然の樹とは違っていたから何度見ても不思議だなと思ったのである。それは何か言いようがないものだったのである。


金とは何なのか(2)


人間の思いがこめられたものは価値は金では公平に決められない

人間の思いというものが意外と作用して影響が大きいことを意識しない。
ある人が殺したいとか強く思ったとき関係ない人にも影響して殺人起こるというのはそれだけ念が影響しているからそうなる。もしそういう悪い念が満ちてくると何か自然災害でも今回の津波でも起きてくるというのはそれが人間界だけではなく自然界にも影響してくるということもありうるのだ。
清浄な自然界で耐えられなくなりその悪い念を打ち消そうとして巨大災害が起きる。
どうしても今は田舎も都会もないのだが都会に悪い念が集まりやすい。
だから都会で大災害が起こると被害も甚大になる。
東北の大震災は津波はなぜ起きたかとなるとおそらく今後来る東京などの大都会の災害が起きる前兆かもしれないのだ。
思いは念は距離を越えて働く、だから外国からでもその念が影響することはありうる。一種の強烈な電波のようにもなる。ある人のことを常に思っていたらその人と会うということがよくあるだろう。
それも思いが通じているからそうなる。ある人を思ったとき電波が発信され相手に届き会うということもある。念は距離とか空間を越えて働いている。


そして金というのは一見人間の念とは関係ないように見える。
日々使っている金にどんな念が思いがこめられているか意識する人はいないだろう。
金にもそうした思いが働いているのだがその思いが普通は感じられない。
ところがよく箱に寄付金などに金を入れるとき一〇〇円でも何かすごくその金を意識しないか?
「俺は百円入れた、寄付したぞ」となるがその金は全く個人として記録されないし匿名なのである。
でも寄付金にその金には特別な思い入れがこもる。それは普通の生活で使う金と違っているからだ。
そこには何も代価を得られないから無償だからこそかえって思いと願いがこめられているのである。
だからそういう金を取り扱うことになると相当な注意が必要である。
寄付金というのは実際はどういうふうに流れてゆくかわからないのである。
そこで寄付金を管理する団体がその寄付金を私用するということもかなりある。
なぜならそこには普通の経済生活で行われている監査などされないからである。
つまりどこにどう金が流れて使われたのかわからないのである。
ただその集められた金には人々の思いが強くこめられているから百円でも普通に使うのとは違うのである。

だからそれを管理する団体は相当な信用がないとできないのである。
本当は収支をはっきりするのがいいのだが集めれた金がどれくらいあるかなども明確にされなくてもいい。
営利事業でないのだからかえってずさんになり金の行方がわからなくなる。
この辺の東北の震災の義援金を五万くらいもらった。それもこの辺では感謝すべきものだったのだろう。
原発補償金はまた別でありこれは義援金でなく補償金だから権利だから違っている。
だから義援金なぎ寄付金を集める団体が赤十字ですら何か疑われるのは収支がはっきりしないからである。
不正に使われてもわからないし私腹こやされてもわからない、そういうのは相当な罪になるだろうけどかえって善人にされる。でもそういう強く人間の思いがこめられた金を悪用するとそれは犯罪にもなり社会自体がゆがめられる。その影響も大きいのである。

大きな金を集めるとなると税金があるけどそこにも人間の思いがためられている。だからこそ税金を無駄使いしているのではないか、官僚や公務員だけがいい思いしているとか常に批判がある。税金にもなんらかの人間の思いがのりうつっているからである。だからそういう金を正当に利用しないと国すら腐敗し頽廃してゆく。
現代は金の世界だと常に言うとき金のあること自体がすでに責任を課せられている。金をもっている人が現代では一番偉いとされているからである。江戸時代は別に武士は貧乏でありそれでも偉いとされたのは庶民とは違い高いモラルを追求するものとしてあったからである。今は金をない人を誰も相手にしないし偉いともしない。
金があらゆる価値の基準になった時代だからである。だからどんな人であれ金をもっている人が偉いのでありまた責任も課せられている。億の金を持っている人は億の責任を課せられている。百億もっている人は百億の責任が課せられている。それだけの責任を負えるかとなるとかえって重荷になるから拒否する人さえでてくるだろうすでに金のあるところには人がよってきて金を有効にもっていな人のために使うことを要求さているからだ。
その金をためこんでいたりすると盗まれたり強盗にあったり殺されることまでされるのが現代である。
それは金中心の社会だからそうなっているのである。江戸時代でもそういうことがあっても別な価値基準もあったのである。今は全くその価値基準がないのである。だからみんな金だけを追求しているのである。

思いがこもる金として例えは年金は保険金だという人もいるが普通の保険金なら何かあったとき災害であれ事故であれ病気であれ払ってもらえるから払っている。保険は相互に協力するものとしてあった。災害のときなどは被害者が保険金を受けるとるが何もない人は受け取らない、みんなで助け合いとして資金を出し合ってリスクに備えている。
それがわかたっのは近くで同じ農協の保険に入って人が津波の被害で五〇〇万もらっていたのでわかった。自分は三〇万くらいしかもらっていない、でも被害が大きい人は高いのしょうがない、それでもその差が大きいと思った。それは互いの助け合いだからそうなっていたのである。ただそれを意識しないのが意識できないのが現代なのである。保険に入っている人は膨大でありそんな人同士がつながっているなど思わない、ところが江戸時代の講などは顔の見えるものであり協力していることが具体的に見える
現代のような広域社会は保険でもグローバルになると巨大であり数も膨大なにるから顔が全く見えなくなってしまうのである。

ともかく人間は思いが念が常に影響している。個々人でもそうであり社会でもそうである。誰か思っているとき念が働いている。そして意外と人は思うことは簡単であり目に見えないから注意しないのである。
それでも思うということはそれぞれの個人でも思うことは結構なエネルギーを使うものだということを知る。
なぜならたいがい思うというときその思いの働く対象が限られている。
ある人を思うとなってもその思いを働かせる人が極めて少ない、だからある人を思ったり思われることは得難いことだともなる。奇妙なことは憎しみも相手を思っていることなのである。何も関心がなければ憎しみもない、憎むことは相手を強烈に思うことなのである。だかち愛の反面は憎しみであり憎しみが愛に変わることもありうる。
無関心から愛も何も生れないのである。

「あなたは今誰のことを思っていますか」こう問う時、愛であれ憎しみであれ思いで通じ合っているというのも不思議である。なぜならこの世に数十億の人間がいても思っている人は数人にととまるだろう。
とくに老人になると交わる人が減ってくるから余計にそうなる。たださよならだけが人生だとなりやすいのである。もう思う人が死者だったりするわけである。だから墓が一番親しいものとなっているのが老人なのである。思っているのは墓に入っている死者だとなってしまうのである。
ただ死者を思い続けることも反応がないのだからやがて忘れやすい、いつまでも思いつづけることはそれだけ愛していたからだとなるだろう。
祈るとか願うとか宗教と関係してきたけどそれも思いが現実に働くから実際に効能があるからこそ今でも祈るのである。

ともかく金は単なる金属でもないし紙でもない人間の思いがこめられたものでありそれが金属となり紙となっているものである。ただその思いが感じられないのが問題なのである。
毎日買っている無数の商品にも作る人の思いがこめられているだろう。単に売れればいいというだけではない、自分の苦労して作ったものが使われて喜ばれたとなるとうれしいとなる。そういう思いが商品にあってもただ金で媒介されるとき市場原理だけが働くだけになりその思いが消失してものの物神化になり疎外されるというのがマルクスの理論であった。

だから金というのは何か極端な不公平をみんな感じている。金持ちが例えば百万円使ってもなくしても何にも感じない、一方で貧乏人はそれで自殺もするし相手も殺すことも平気でする。金の重みが貧乏人と金持ちでは全く違うのである。ものの値段であり労働の値段でありあらゆる値段はそれがその価値に相当するかというとそうではない、ただ便宜上便利だから金に換算しているにすぎない。物の価値であれ人の価値であれ人間の価値観は刻々変わっているからだ。今価値あってもすぐに一年も一カ月もたたないうちにもう一日でも価値が変わるのが現代である。江戸時代は土地とか山の木材とか価値の変わらないもので生活していたから価値観がさほど変わらないが現代はめまぐるしく何でも変わる。
もともと商売だったら中国人や外国では物の値段は決まっていない、値切って決めるのが普通だというとき物の値段はその時その人その場によって一定していないからである。
だからポランニーの言う人間の経済というのが現代から見るとそんなことありうるのかというけどあういうのが本当の経済だったのである。

この世にはものがあってもそのものは常に人間の思いがこめられている。だからものは心と同じ意味になっていたのが日本語だった。ものが憑くとかになるからだ。
自然の石でも古い伝説となっている石などは何か本当に違っている。何かまさに心が憑くような感じになっている。全くの自然の石とは違って見えるのである。
実際にすでに何からの人間の心がついてものなのである。津波の跡の不思議を常に書いてきたけど庭の石とか樹が残っていたけど家がなくなったときそれが主人がなくなったがその忠実な家来が残っている感じになっていたのである。それはまるで人間だったのである。普通の自然の樹とは違っていたから何度見ても不思議だなと思ったのである。それは何か言いようがないものだったのである。


タグ:人間の思い
posted by 老鶯 at 10:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題
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