2014年10月07日

金とは何なのか (思いがこもっている金とこもらない金)


金とは何なのか


(思いがこもっている金とこもらない金)


金というのは何なのかこれも実際毎日使っていてわからないものである。金の重みは使うときとそれを労働など得る時わかる。労働していればこれだけ働いてやっと自給が七〇〇円とか不満になるのがわかるのだ。
何かしらの労働の代価として金が得られる。その時金の重みがわかる。
一方で全然金の重みがわからないで金を得られることも資本主義社会ではある。
株とかで億とか一気にもうけたとかギャンブルでもうけたとか遺産が入ったとか何か金の重みを感じないで得る金もかなり現代ではある。グローバル経済化したとき、世界に人間の思いから離れた金が莫大に流通してマネーゲームで稼いでいることが批判される。でも金の力は大きいから金は金になるところに流れてゆく。
今はアメリカが景気がいいからアメリカに投資される傾向が大きくなる。
グローバル経済とはアメリカ中心になっていることは変わりなかった。
もし中国が中心になれば中国の貨幣が世界のマネーになるからだ。依然としてドルが世界のマネーなのはアメリカが世界を動かしているからである。政治経済の中心はアメリカなのである。

金はともかくグローバル経済になるとマクロになると人間の思いから離れて人間の経済から離れて動いているから金が何かわからなくなってしまう。金はミクロ的になると金がどう働いているのかわかりやすいのである。
例えば家族の金として使うときなど一番わかりやすいのである。子供のためとか妻や夫のためとか親のためとかその金が誰のために何のために使うか明確でありそこに思いがこめられているからである。
それは親戚でも入学祝いとか何かの記念に送る時はやはりそこに思いがこめられている。
立派に育ってもらいたいとかの願いもある。親ならもっとあるだろう。
自分は子供を育てたことがないからそういう感覚がなかった。でも親戚の子供に金を渡したときそれを感じた。個人単位と家族単位とかで使う金には必ず思いがこめられているのである。
そういうことをもらっているときは意外と感じないしありがたいとも思っていなかった。
それが親になれば親の気持ちがわかる。今は親を介護しているから食事を作りだして洗ってとか結構大変だと思い親の苦労がわかった。

金というのは例えば雇うものと雇われるものでも思いがこもる。雇う人はやはり金を支払うのにはそれなりに苦しい時がある。経営が苦しいときでも支払うということがある。人を雇うということでもそこで金には雇い主の思いがこめられるている。よく働いてくれたから加算したとか働いてもらうことに感謝して払う場合もあるし
これからも長く働いて会社のために尽くしてもらいたいとか家で働く人だったら家のことを思い働いてもらいたいとかなる。一方で雇われている人はただ金がもらっているから働いているだけだともなる。
だからもらう給料には常に不満になるのだ。ただ雇い主からすると本当に苦しくても過分に払っている場合もある。それはその人を見込んでそうなる場合もある。その支払う金にはそれだけ思いがこめられているのである。ただ給料をもらうだけの人はそんなことは思わない、給料が少ないし働かせすぎだと思っている。
ブラック企業などになると確かにそうなる。
だけど中小企業とかでは従業員のために苦しいやりくりをして経営している人もいる。
つまりかそ家族経営とか何でも小規模だと金がどう働いているか実感としてわかりやすいのである。

商品には本当は多くの人の労働がかかわっているとすると単に金があれば買えるというものでは本来なかったのだろう。小さな村社会などでは物々交換とか小規模な社会だったらそうだった。品物を売買するにもどうしてその品物がもたらされたかをその苦労などを語るからその物の価値にこもっている思いが見えていたのである。
つまり人間の思いから離れた経済は何か暴力的になり侵略的でもあり人間の思いなど無視されている。
非常な無機的な世界的市場経済で人間の思いは排除されて物だけが流通して金が支配する社会になる。
まさにこれはマルクスの言う物神化というとき、その思想が宗教のようになったのは今の社会の矛盾を的確に指摘したからである。物によって人間の心が疎外され無視される社会だということは確かだからである。

人間はものを考えるとき卑近なことからミクロ的なことからマクロ的なものと思考を拡大すべきである。
金にしてもそうなのである。思いがこもっている金には単に金だけでなく人の思いがこめられているからそれを無視することはできない、無視された方もその思いが無視されたことで傷つくのである。
だから苦労して子供を育てた、金を使ったというときそれに親の思いがこもっている。その親の思いを無視されることは親にとって辛いのである。
ただ金を権利として要求するような人が増えてきた。民主主義は権利の主張のみをあらゆる欲望も是認されるものだとなりモラルが喪失した。
遠い親戚の人に金をやっても全く感謝しない、その子供にやっても感謝しない、なぜなら権利だと思っていたからである。複雑な事情があっても権利として要求しているのだから感謝などしないわけである。
「俺の金をよこせ」しかないのである。だから裁判に訴えるとまでなって関係は切れたのである。

何かこうして今は金の問題で人間の関係が切れることが本当に多い。金の切れ目が縁の切れ目になることが多すぎるのである。そういう自分もそれでもう人間関係は次から次と切れてしまったのである。
金を与える人の思いを理解しない人が多い。人間はもらうだけではない与える方になると違った観点から人もみるようになる。子供などはただ与えられるだけだから愛されるものだから愛のことはわからない。
愛とは与える愛になってはじめて愛だというのもわかる。
それは金というものにも思いや愛や労働の汗や期待もこもっているのである。
だから金を盗むということはそうした思いも盗むし裏切るから罪深いとなる。
強盗とか殺人までして得た金がどうなるのか?それがまともに機能する金とはなりえないだろう。
その金は呪われた金となる。その金には殺されたもの奪われたものの強い怨念がためられているからそうなる。いい思いがこもった金とそうでない悪い怨念がこもった金もあるのだ。

金というのは何か具体的なものとして現れるからわかりやすいから金を通して人間性も現れてくる。
生活保護の人と二組ばかり知ったが生活保護の人がモラルが頽廃している人が多いのはなぜか?
貧乏ということもあるがまず生活保護の人は金をもらっていてもそれを権利だと思っているから感謝などしない、遠い親戚でも権利だと思っているから金をやっても何の感謝もしない、強引に俺の金をよこせとなるだけである。その権利もないのに誤解してそうなっていてもそうである。
今の人間は特に団塊の世代以上はまず権利を主張するのが民主主義だとして育ったから共通性がある。
生活保護も権利であり憲法にも条文があるから当然だなとる。
ではなぜ生活保護の人がモラル的に頽廃しているのだろうか?

もちろん貧乏な人も現代ではそうなりやすい、それは生活保護の金にはどういう思いがこめられているのか考えればわかる。生活保護の金を国民が出しているのはしかたがない、出したくないのに出している、何かそこにはマイナスの思いしかこもっていない、本当は出したくない、何の思いもないのだがしかたなく出している。
そんな生活保護の人などいなくなった方がいいと思っている。
つまりそういう金で養われているから生活保護の人のモラルは頽廃しているのである。
そんな金をもらっても感謝などしないのもそのためである。
生活保護で誰かに世話になったという感情も生れないのである。誰に感謝していいかもわからない、国民に感謝しろと言っても感謝しようがない、やはりマクロになると人間の思いというのは働かない、ミクロだと働きいやすいのである。人間の思いは人間と人間の個々の間では一番働きやすいのである。
そこに金に対しても思いがこめられることになるのだ。


 
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posted by 老鶯 at 13:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題
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