2014年09月08日

深野(ふこうの)(ユッサの湯)から大原から橲原(じさばら)の秋の俳句短歌 (人が住んでいるから自然も活きる)


深野(ふこうの)(ユッサの湯)から大原から橲原(じさばら)の秋の俳句短歌

(人が住んでいるから自然も活きる)


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ユッサの庭

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大原

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秋日さし石の五つや枯山水
山陰に枯山水や秋の蝉


秋の蝉五つつの石にひびくかな


five stones in the garden
sounding in autumn
Voices of the cicadas


水引やユッサの湯に入り帰る道
故郷の村々あわれ虫の声
山に雲深野の野や花薄
大原の秋や人住み夫婦山
牛に馬秋の日さして里めぐる
家の中広く虫の音ひびくかな

深野の墓地の古しも秋日さし知りにし人のここに住むかな
病院に知り合う人の眠るかな大原の秋虫の鳴くかな
大原ゆじさバラに行く月見草ソバナの花咲き山は曇りぬ
橲原に立目石ありいつよりやここに動かず秋の日さしぬ
山路来てソバナの花の雨にぬれ磐の重くもここにあるかな
ソバナの花あまた咲きにつ一輪のフジクロセンノウ隠され紅し
雨ぬれてソバナの花に一輪のフジクロセンノウ隠れて紅し
雨ぬれてソバナの花に磐に咲き隠れし家を誰か問わなん



小池から深野に行く道は森の道である。あの高台は家はまれでありもともとは野であった。
謎なのその小池の奥に江戸時代の古い墓地があることなのだ。そこは江戸時代の
墓が多くあとは少ないから墓地としては継続していない、あの辺を見れば家がまれであるのになぜ江戸時代の墓があるのか謎なのである。明治以降の開拓に入った人の墓に見えた。
ただ深野は古い土地であり大原広くもともと原町は大原方面から開墾された土地だった。
原町の市街地は江戸時代まで野馬の放牧場だった。そこから野馬追いの祭りが始まった。
原町の江戸時代は深野から大原の方が中心だったのである。

深野はフコウノと呼ぶ、なぜフコウノになったのか謎である。深野はフカノである。なぜフコウノとしたのだろうか?深野から石神に嫁に行っ女性を知っている。
小池から深野に行く高台には古い墓地がある。薄が茂っているけどあそこも畑だったのだろうこの辺は放射線汚染で耕作しないから原野化して芒や芦が茂るようになったのである。
深野のユッサには今は外部の人も入るから混んでいる。あそこには食堂があるからいい。
そして今日注目したのは石の庭であり秋の日がさしていて落ち着いた山陰にあるのもいい。
小川も流れていたから自然を活かすもっといいだろう。
そこから大原の方に向かった。水引が咲いていた。大原の二つの並ぶ山は双子山なのか、夫婦山がいいと思った。大原は実際は相当広い、130軒ありもともと原町の中心部だったのである。そこの前田という土地に南相馬市立病院で知り合った人が住んでいた。

その人は79歳とかで古い家であり猫とともに一人で住んでいたのである。
息子は市街に住むようになったからである。後継ぎがいない農家になっていたのである。
すぐ近くに廃屋もあったから山村はそうなりやすい。空家が一番多いのは長野県なのはやはり山国だからである。
その人の墓杉の木立に隠されるようにしてあった。大原では半分くらい一時は避難した。
鹿島区の仮設にも住んでいる。家を見たら今は帰っている人が多いみたいだ。
実際大原放射線量が高かった。原町は街中でも本陣、雲雀が原0.5とたかいのである。
だいたい0.2を基準にしているから0.5でも高いとなる。
いずれにしろ人が住まなくなった村や町はどうなるのか?そこでは自然も活きず死んでゆくということにもなる。人が住んで自然も活きる、例えば全国にある夫婦山とあればそこには人間の暮らしがあってその名があり山も人間化しているのである。
だから人が住まなくなった村でも町はどうなるのか、飯館など芦に埋もれてしまったのである。
浪江や双葉になればその荒廃はもっとひどいのである。

大原から橲原に行く新しい森の道を行くと変な大きな鳥が出てきた見たことのない大きな鳥だった。なにかまだ知らないものがひそんでいる。
橲原の立目石は小池との境の石だという、ここはもともと江戸時代から木材の供給地だった。
この名前が変わっていて注目されている。自分の家も姉がよく言っていたけど同級生の人が木こりで家の柱は橲原の木だと自慢していたのである。
これはどこでもそうだった。みんなその土地のものを利用していたのである。それが自然な生活だった。日本全国に網の目のように張り巡らせた森林鉄道網がそれを語っているのである。
原町機関区からも東京に木材を供給していたのである。
葛尾(かつろう)村の落合まで通じいたのには驚いた。そこには明暦と元禄の碑があったから
葛尾(かつろう)村も古いのである「

橲原の川に降りたらソバナの花が一杯咲き一輪フジクロセンノウが咲いていた。
その花が際立って美しかった。やはりデジカメはいいのでないときれいにとれない。
鹿島に帰ると仮設だらけである。仮設はやはり本当の生活ではない。やはり日本ではもともと村が中心であり自給自足していた時に自然とも調和していたのである。
牛と馬が秋の日を浴びているのは気持ちがいい、飯館にも牛がいたがいない、馬はこの辺では野馬追いのために飼われている。
確かに貧しいのだが村は自然と調和していたからなごむということがあった。

原発事故はそいう村々や町すら根こそぎ消失させたのある。
それは何を意味しているのだろうか、それは大きくは現代の文明を問うことでもあった。
現代の科学文明はそもそも第一次産業をもともとあった村の暮らしを破壊してきていたのである。それが現実化したのがこの辺の惨状だったのである。














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