2014年09月05日

秋の蝉の短歌十首(故郷に尽きる命とならない不幸)


秋の蝉の短歌十首


(故郷に尽きる命とならない不幸)


秋の蝉なお一つ鳴く屋形かな


この森や夏の終わりに集まれる蝉の鳴くかな命尽きるまで

蝉の声ひびきあいつつこの森に夏も終わりて命尽きなむ

秋の蝉せつなきまでに鳴きにける命の尽きる日の短しも

故郷は荒れにけるかもその跡を誰か継ぎなむ秋の蝉鳴く

歯の一つまた欠けにしや我が老いぬ残る命をいとおしむかな

人はみな尽きゆく命何故に争い別る時こそ惜しめ

その命いづこに尽きむ常なき世他郷に死すもあわれなるかな

故郷は荒れにけるかもその跡を誰か継ぎなむ秋の蝉鳴く

揚羽蝶朝に出会いて舞いにけり草原広がり風そよぐかな

しばしの間光れる月も雲隠れ猫はいづくにまた消えてなし

山陰の道にとびにき黒揚羽いづくに消えむ雨しととふる


歯がまた欠けた、前にも三つくらい欠けた。年になるとだんだん歯が欠けてゆく、年がとるということは命が尽きてゆくということなのだ。
その心が反映して蝉の声を夏の終わりに秋の蝉の声を聞く、蝉の声は聞こえなくなるときそれは死なのである。
人間もまたはかない短い命なのである。その短さが若いときには感じない
時間なんかいつまでもあると思っていたが時間はあっというまに消失してゆく
そして残された時間はわずかとなってゆく


確かに長生きの時代でもやはり老いは迫ってくる
そうなるとやはり自然でも感じ方が違ってくるのだ。懸命に蝉が鳴いている、もう限りある命を精一杯鳴いているなと聞くようになる。
老年の一日は何か時間が凝縮されたようになってゆく
若いときは何か時間は緩慢として浪費されてゆく時間だった
老人になると時間は浪費できない、時間が消失して死んでゆくからである。
若いときは感じやすいというけど死をまじかにした老人の方が感じやすい。
自然を末期の目で見るようになるからである
もうそれぞれに尽きてゆく命だとなるときその命は凝縮されたものとなる


この辺ではもう故郷に帰れない人たちも多くなると他郷で死すことになる、故郷で死ねないというのも悲劇なのかもしれない、それは流浪するもの、旅人のように普通の人がなってしまったのかもしれない。先祖代々の故郷で死ねないというのも考えられないことだった。
これもまた無常だったのである。仮設に五年もいるのは長い。その間に働かない期間も長い、
伊達の桃売りに来ていた農家の人はもう二年仕事から離れると体がなまり働けないと言っていた。
それが5年も過ぎたらもう働く気力もなくなるし老人が多いからあきらめになりどうでもいいとなってしまう。あとは生活保護だと言うのもそのたぬなのである。


故郷がこんなふうに荒れてしまうことは信じられないことだった。
その無常はあまりにも大きかったのである。ただ呆然としてしまう無常である。
田んぼが草原化してしまうなど想像すらできないことだった。
千年とかも田んぼの風景はあったのである。
いづれにしろいくら長生きでも無常迅速である。それは蝉の声とにていたのである。
蝉のように一時鳴いて人はたちまち終わるのであり無常なのである。





タグ:秋の蝉
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