2014年08月19日

鴻(こうのとり) 地名のの謎 (浪江のこうのくさ(鴻草)は砂鉄を求めてきた渡来人の跡?)



鴻(こうのとり) 地名のの謎

(浪江のこうのくさ(鴻草)は砂鉄を求めてきた渡来人の跡?)


こう 【×鴻】

[人名用漢字] [音]コウ(漢) [訓]ひしくい おおとり
1 鳥の名。オオハクチョウ。「鴻鵠(こうこく)・鴻毛」
2 鳥の名。ヒシクイ。ガンの一種。「鴻雁(こうがん)」
3 大きい。「鴻恩・鴻基・鴻業・鴻儒」
[名のり]とき・ひろ・ひろし

ひし‐くい 〔‐くひ〕 【×鴻/×菱×喰】

カモ科の鳥。全長83センチくらい。体は褐色、くちばしは黒く先に黄色帯がある。ユーラシア北部で繁殖、日本には冬鳥として飛来。ヒシの実や草を食べる。天然記念物。沼太郎。おおがり。《季 秋》

出典:小学館 この辞書の凡例を見る



『日本書紀』巻第6、垂仁天皇の条、「鳥取の姓」には、物言わぬ誉津別皇子が、大空を飛ぶ白鳥の鵠(くぐい)を見て声を発するエピソードが紹介されています。これまで、白鳥とばかり思っていましたが、鵠をコウノトリとする説もあるようです。

『古事記』垂仁天皇の条、「本牟智和気王」で、鵠は紀伊、播磨、因幡、丹波、但馬、尾張、信濃、越を飛び回ります。これらの地は、鉄の産地をさすのではないでしょうか。

大阪府の池島・福万寺遺跡の、国内で水田稲作が本格化した約2400年前、弥生時代の水田跡から発見されていた足跡が、コウノトリのものとわかり話題になったことがあります。

コウノトリが身近な鳥で、桜ケ丘銅鐸などに描かれた鳥がコウノトリである可能性が高まりましたが、銅鐸の絵は簡略で、足跡だけで鳥を特定するのは難しいようです。

弥生時代の銅鐸に記された鳥がコウノトリであるなら、単に身近な鳥として描かれただけでなく、弥生時代に稲作とあわせ砂鉄採取が行われ、良質な砂鉄が大量にとれることを願い、銅鐸を鳴らしていたのかも知れません。
http://tajima2000nenkatsura.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-b114.html

鴻沼(こうぬま)は、埼玉県さいたま市の旧与野市から旧浦和市にかけて幅が100〜400m、長さが4km、約75haに渡って広がっていた沼である。市内にある見沼、伝右衛門沼に次ぐ大きさだったと言われている。江戸時代に干拓され、田圃となり、現在は宅地化が進む。現在も地名などに残る。高沼(こうぬま・たかぬま)とも呼ばれている(下記)。

鴻沼、コウノトリやサギなどの鳥が飛来することから付けられたと言われている。 鴻という字は画数が多く難しいため、古くから高に変えて、高沼と書かれ、のちにたかぬまとも呼ばれていった。農民の文書には専ら「高」の字を使うことが多かった。 今でも、鴻沼川に鴻沼橋、高沼橋が架かっている。

鴻巣(こうのす)の地名の由来と鴻神社


 「こうのす」という地名は、古代に武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)である笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が現在の鴻巣市笠原のあたりに居住したとされ、また、一時この近辺に武蔵の国の統治を行う機関(国府)があったのではないかと推測されることから、「国府の洲(中心) こくふのす」が「こうのす」となり、後に「こうのとり」の伝説から「鴻巣」の字をあてるようになったと思われます。
 国府のことを「こう」と呼ぶのは、他の地名(国府台[こうのだい]、国府津[こうづ]など)からも類推され、国府のお宮を国府宮(こうのみや)と呼ぶのは、愛知県稲沢市にある尾張大国霊神社、別名国府宮(こうのみや)など、全国でも例があります。
 このことからこうのとりのお宮「鴻の宮」は「国府の宮(こうのみや)」であったのではないでしょうか。

※笠原直使主(かさはらのあたいおみ)

 6世紀に活躍した豪族で行田市の埼玉古墳群の中の稲荷山古墳にまつられています。そこから出土した大和朝廷から拝領したとされる金象眼銘の鉄剣は国宝に指定されていま

鴻巣の地名は古来からのもので、この地のほかに茨城県や栃木県、福岡県にも同様の地名が存在する。古来からの地名ゆえその由来は不明だが幾つかの仮説が存在する。
高台の砂地を「コウ(高)のス(洲)」と言い換えて、その言葉が由来となったと言う説があり、これは大宮台地上に位置する古来からの鴻巣郷(現在の鴻巣市南部から桶川市北東部にかけての地域)および他地域の同一地名の地域の地形的特徴と合致する。
日本書紀に出てくる武蔵国造の乱で鴻巣郷に隣接する埼玉郡笠原郷を拠点としたとされる笠原直使主(かさはらのあたいのおみ)が朝廷から武蔵国造を任命され、一時この地が武蔵の国の国府が置かれたところ「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「鴻(こうのとり)伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったとする伝承もある。

鴻池家の始祖は鴻池新六(直文)である。家伝では、新六は尼子氏家臣の山中鹿介(幸盛)の子という(#山中幸盛との関係参照)。

新六には多数の男子があり、鴻池村の本家(鴻池村山中総本家)と醸造事業は七男の新右衛門元英が嗣いだ。大坂における醸造・海運事業は、次男の善兵衛秀成、三男の又右衛門之政、八男の善右衛門正成がそれぞれ引き継いだ。



浪江町には中世の鴻草館(こうのくさ)があり相馬藩政記の文禄二年の士禄高調に記されている。クサとあるとき草野神社でもクサは製鉄に関係していたとも言われる。
そこに末のとか熊のとかありそれは末森であり末(陶)氏であり末続駅とある末続とも関係している。熊とあれば大熊なのである。この辺はすでに文禄には相馬藩の領域だった。
その前にも中世には標葉氏が請戸館などを領していてさらに古代にさかのぼる。
鴻草館とはすでに「このうくさ」という地名があった名付けられたのである。
その地名は古代にさかのぼり渡来人系の製鉄の技術集団の移動の跡なのである。
鳥とつく地名は製鉄と関係していると言われるからである。南相馬市の金沢でも鳥打沢とかいう地名がありそこでは大規模なの製鉄が行われた地として有名になった。

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文禄二年相馬藩政記の士禄

●浪江の棚塩の津大明神はつのみやーツノガノアラシトから来ている

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津大明神(浪江町棚塩)
大宝二年(702) 棚塩村 津大明神(貴船大明神) 高霊神(たかむすび)
(貴船宮 祭神 高霊神(たかおかみのかみ)
祈雨・止雨の神として水を掌る神)

この読み方がわからない、津神社となるのは相馬市の松川浦の津神社でもそうだったが
(つのみつ)神社と読んでいて三大実録に記されている古いものだとされていた。
これは津波とは何ら関係ない、ただ高台にあり津波と関係づけられた。
もともとは「つの」がつくからツノガノアラシトの製鉄にかかわった渡来人に由来するものだった。なぜなら津神社は全国にあり海岸だけではない山の方にもある。
海に関係したものが多いとしてもこの津神社は「つの」と読んでいた。津の神社となりまぎらわしくなって誤解された。

そのアラヒトの字は、阿羅人、荒人ともなり荒木姓にも転訛しているともいわれています。荒茅という地名があるそうですが、阿羅加耶の転とされ、またアラシトの阿羅斯等であり、ツヌガ阿羅斯等「都怒我阿羅斯等」は意富加羅(おほから)の王子  と『日本書紀』にはあります。「都怒我阿羅斯等」のまたの名は、于斯岐阿利叱智干岐ウシキアリシチカンキで"ウシ"の字が見えています。 天之日矛や、都怒我阿羅斯等(日本書紀)の説話にも、牛の話がありました。牛頭天王とはスサノヲのことですが、牛頭や角のある人とは、三日月型の兜をかぶった人が渡来したと読む人もいるようです。スサノヲが新羅で天降ったところが「曽戸茂梨」であり、ソシモリは牛の頭の意であるそうです。新羅といえば。天之日矛は新羅の王子でした。
http://whalesongs.web.fc2.com/iwato/tunuga.html

その名前が古事記ではアメノヒボコ日本書紀ではツヌガアラシトで書かれているのです。そしてアメノヒボコが持ってきたという神宝からみてみると、また新たな人物が同一神ではないかと疑われてきます。
 日本書紀ではこのような記述があります。
 アメノヒボコは新羅の国の王子で、七つの神宝を持ってやってきた。
 七つの神宝とは、羽太の玉、足高の玉、鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉、出石の小刀、 出石の鉾、日鏡、熊の神籬(ひもろぎ)である。
 古事記では八種類の宝をアメノヒボコが持ってきています。

 珠が2つ、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の八種

http://blogs.yahoo.co.jp/caroline_a_go_go/37419318.html    

浪江の津神社は700年となると相当に古い,ではなぜこれほど古い神社の謂われがあるのかとなる。それは大熊から双葉から浪江の海岸には砂鉄がとれていて渡来系の製鉄技術者が来たことに由来しているのだ。それはツノガノアラシトに由来している。
なぜなら小高の村上の角部とあるがそれはもともとはつのほうと呼ばれていた。
これはツノガノアラシトに由来するのである。つまり渡来系の製鉄の技術者集団の跡なのである。
浪江町の名前も火事があって改名されたとしているがこれも不明である。

古事記では八種類の宝をアメノヒボコが持ってきています。

 珠が2つ、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼

ここに浪が二つでているからこの浪に由来しているのかもしれない、とするとすでにツノガノアラシトなどの渡来系の製鉄の技術者集団が700年には来ていたとなる。
みちのくの真野の草原(かやはら)が万葉集の奈良時代の750年ころに読まれたものとされている。だからすでに真野の草原(かやはら)というのは地名でありすでに真野の草原に渡来人が到達する前に浪江町にその痕跡を残していたのである。
地名は意外と古く古代にさかのぼる場合がある。
一見新しいようでも古いのである。だから浪江という地名は古代にさかのぼり小高もオタカというのは蝦夷(えみし)の名前だとされている。この辺で南相馬市鹿島区の海老村も実はエミシが住んだ場所だったとしたとき古代にさかのぼるのである。
ツノとつく地名も神社もすべてではなくても津神社となっていればその傾向が大きいのである。

●みちのくの真野の草原(かやはら)は地名であり渡来人の製鉄集団の移動の跡

都怒我阿羅斯等は意富加羅(おほから)の王子 とありこの意富(おほ)と大でもない多でもないこれは当て字手ありオホとは韓国系一族の言葉である。加羅はまた伽耶ともなる。
「こうのす」という地名は、古代に武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)である笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が現在の鴻巣市笠原のあたりに居住したとされ、

この笠原はカサ氏のことでありこれも韓国の渡来系の氏である。笠の笠とはなんの関係もなく当て字なのである。笠女郎(かさのいらつめ)となるとそうした先祖が渡来系につながっているのである。
大和王権は技術集団の渡来系が深くかかわって成立した。だから騎馬民族征服説とか渡来系のかかわりが常にとりざたされる。
天皇すら伽耶系だとかまで言われる。そして伽耶国は実際は古代は日本の一部でありだからこそそこから前方後円墳が発見されたとか逆の見方もするようになったのである。
地名は意外とこうして古代に由来するのが多いのである。
双葉とか浪江町は何か新しい地域に見れらるが実際は700年代からその歴史ははじまっている。
地名もそこまでさかのぼるということなのだ。

いづれにしろ津神社は何か津波があって津波と関係されたがもともとは何の関係もなかった。それは津神社を津(つ)の神社としたからである。実際はツノミヤと呼ぶのが多いのである。一語でツとしていればツノミヤではない、でも何かまぎらわしいから誤解されたのである。
北海道のアイヌ語地名が漢字の当て字によって奇妙なものになったのと同じである。

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文禄二年相馬藩政記の士禄
タグ:こうのとり
posted by 天華 at 21:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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