白木槿(お盆には死者集う)
波の音夏の星座や太平洋
白木槿あまたや死者の集う盆
石静か月こそ照らせ災いの起こらざるべし虫の音を聞く
お盆には死者をとむらう、死者が還ってくるというのも日本的な風習であり仏教とは関係なかった。これは仏教が入る前からあった日本人の風習なのかもしれない。
その感覚は日本人でないとわからないだろう。こういう文化は理屈ではないからだ。
文化とは宗教はまた違ったものである、神道は宗教というより日本人の文化なのである。でも御札とかくばるとそれは宗教のおしつけになる。
なぜなら御札をもらえば簡単にゴミのように捨てるわけにいかなくなる。
何かそれは宗教の押しつけにもなっている。
その感覚は日本人でないとわからないだろう。こういう文化は理屈ではないからだ。
文化とは宗教はまた違ったものである、神道は宗教というより日本人の文化なのである。でも御札とかくばるとそれは宗教のおしつけになる。
なぜなら御札をもらえば簡単にゴミのように捨てるわけにいかなくなる。
何かそれは宗教の押しつけにもなっている。
今になると戦争が天皇が神とされてカルトだったとか平気で言っているけど当時にそんなことを言ったら憲兵につかまり刑務所に入れられた。
ただ戦争のことは以前として日本人自体で何であったのか検討されていない
だから天皇の責任でも何でもあいまいにされてあの三百万人死んだ戦争のことがなぜ起きたのかも良く日本人自身が歴史的に解明していないのである。
お盆には死者の霊がもどってくるというのはやはりそれは理屈ではない、その時死者を偲び墓参りするのはいいことである。死者を思うことはだんだん日にちがたつと忘れてしまうからである。死ぬとたちまち全く忘れられるということも起きてくる
その人の存在が希薄化してその人が生きていたのかどうかもあいまいになってしまう。
死者は日に日に忘れられてゆくものなのである。
死人坂というところがあってお盆になるとぞろぞろ死者が歩いているのを見えるという。死んだ人の数も多いのだからお盆に死者が還ってくるとなるとそうなる。
この話はそんなこと今の時代にありえないよとかかたづけられない、何か信憑性があって迫ってくるのも不思議である。それだけお盆には死者が還ってくるというのが日本人には見えていたのである。
お盆には何か白い木槿の花があっている。死者の花にふさわしい花のなのである。
白にもいろいろな白がありこの木槿の花の白は和紙のうよな白さで何かまた違っているのだ。
正直自分はこの六年間とか一身上でも災いの連続だった。もう嫌になるほど苦しんできたそれは回りでもそうである、津波だ原発事故だとか今でも延々ともめている。
そういう災いの場所と住んでいる場所がなってしまったのである。
だから災いないことが平和である。アフガニスタンの少女が戦争ないことが平和でありその平和がほしいということは痛切だった。毎日爆撃だったらそうなる。
ある意味でこの辺はそうした戦争状態とにていたのである。
だからつくづく不動の石がありそこに秋となり月の光がさしている。そうした穏やかな日が戻ってほしいとなる。もうこの辺はこうした混乱状態で疲れてしまった人たちもいるだろう。
あまりにも変わりすぎてしまったのである。
今日は涼しかったので楽であり秋を感じた一日だった。
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