福沢諭吉の文明論は弱肉強食の世界となり現実化した
(文明は利害得失しかない世界になった)
「天下衆人の発達」とは「民情一新」と言い換えることがで
きる。蒸気船車、電信、郵便、印刷の四つの発明が民情を一
新させた。
きる。蒸気船車、電信、郵便、印刷の四つの発明が民情を一
新させた。
西洋諸国の文明開化は、徳教にあるのでなく、
文学にあるのでもなく、また理論にあるのでもない。どこにあるのか。
私がこれを見ると、その人民交通の便にあると言わざるを得ない
(福沢諭吉)
江戸時代は村単位で生活していたから境界が大事だった。一つの関所のようになっていて人々が簡単に他の村に出向くことはない、よそものとして隣同士の村でも扱われたのである。だから明治になり村が合併するとき常に民情が違うので合併しなかったとある。飯館村辺りでも大倉村と佐須村が民情が違うので合併しなかったとなる。
江戸時代から明治になる時の変化は激しかった。だからその変化に対応するために言葉も変わったし新しい言葉も生れた。その新しい西欧の概念を漢字で翻訳したのが日本人でありそれを中国で使用するようになった。
だから民情というのもその意味は何なのだろうとなる。おそらく江戸時代にはなかった言葉なのだろう。民衆とか大衆とか民間とか人民とか自由民権とか民主主義とか・・・何か民とつく合成語は明治以降作られたものだろう。日本には民(たみ)という言葉はあっても民衆という言葉はなかったからである。つまり民とつく字が増えたことはそれだけ民が主役になってきたから増えたのである。
そもそも民情という言葉は実際は死語になっていて理解しにくい。民権とか民主とかは理解できる。それは常に今でも用いられる言葉だからである。常に民の権利を主張するのが現代だからである。だから民情という言葉は何を意味しているのかわかりにくい。
そもそもなぜ大倉村と佐須村は山の中で隣り合っている村である。
それが民情が違うから合併できないというのがわかりにくいのである。何か利害があって合併できないというのはわかる。入会権で山の木材をとる権利を失うからだとなればわかる。民情が違うから合併できないということが今では理解できないのである。
現代の人間はすべて個々人であろうが市町村であろうが利害得失で動いている。
何かもめる争いがあるとしたらたいがい利害得失なのである。
原発事故でも補償金でもめるのは利害得失が原因しているからである。
宗教さえ集団化権利化して利害得失なのである。カルト宗教団体は創価でも政治化しているように利害得失しかない、世界平和だとなんだとか言うけどそんなことは何の関係もない、つまり個々人の御利益追求があってあれだけ増えたのである。
では他の宗教が利害得失と関係ないかというとみんな同じである。
京都の寺は観光利権で組合化して力をもっている。それはすでに奈良時代からはじまっているから根深い、他の宗派でも戒名利権とかでありいかにも戒名が大事かと説くのは利権のためである。第一釈迦は一言もそんなことを言っていないからである。
だからそんな意味のないものがもうつづくとは思えないから檀家も衰退してゆくだけになる。
現代は民情などでは動かない、すべて利害得失でありあらゆることが得か損かで動いている。日常の生活そのものがその繰り返しである。
だから原発を作るにしても地元でも官僚でもマスコミでもそれが自分たちに得か損かで決まった。その利害があまりにも巨大なものになっていたからすべての人が目がくらんでしまったのである。それで富岡町長の五億円の金庫が流れたとか噂になったのもそのためである。今でもこれだけの巨額の賠償ができるということが驚きだった。
今や原発事故の避難区域や30キロ圏内とか飯館村などはただ補償金交渉の場となってしまったのである。
文明とは何か?それは交通の発達の影響も甚大だがすべては利害得失でありそれ意外の規範はモラルはなくなったということである。資本主義でも民主主義でも個々の欲望の全面的解放であり自由とはあらゆる欲望が得られる自由なのである。
その欲望と利害で一致して協力して団結して組合化する。それが民主主義である。
宗教団体も同じである。
西洋諸国の文明開化は、徳教にあるのでなく、
まさに文明とは利害得失意外何もないということが明治維新からすでに150年になろうとして現実化したのである。しかし人間が利害得失だけになったら野獣になる。
人間は人間にとって狼になる。自分があった人間はそうして狼になった人間たちだった。眼中には利害得失しかなくなればその人が弱った時が最大のチャンスとなる。
弱いものは餌食になり子供でも食べられてしまうのが自然界だからである。
そこにいたわる気持もなにもない、金でめんどうみてもらい、金をくれ、裁判にしてやる・・ついには大金を盗み自分の欲望と利のためには相手も平気で殺すことになる。
これが文明人なのかとなればまさに福沢諭吉の見た西欧文明であり現実化したのである。文明とは最大の野獣化野蛮化であり人間が互いに狼になっているとしたらいかに豊かでも心安らかになってはいられないのである。
だから富裕層はアメリカのように塀をめぐらして貧乏人とはつきあわないようになる。
そんな文明社会に住んでも安心も得られない、かえって貧乏でも安心社会の方がよかったともなる。ただどうしてもこれだけの欲望があふれているときそれを制御することは至難になっているのだ。誰だって金があった方がいいし金がなくてもいいなどとは言えない、その限度はあるにしても清貧などという生活はありえないのである。
自分でも毎日買い物に追われていることでもわかる。買うことが生活になっているからだ
蒸気船車、電信、郵便、印刷の四つの発明が民情を一新させた。
確かにそれはさらにインターネットかと進歩しつづけているからそうである。でも一方で無限に欲望も拡大してその欲望も留まることも知らないものとなりそれが原発でも生み出して危険なも省みないものとなった。グローバル化とは欲望の無限の拡大ともなったのである。その欲望は知的視野の拡大などいい面もあるが一般的には物欲の拡大化であり
その欲望に歯止めがないから原発も作られ故郷にすら住めなくなったということも現実化したのである。
文明の利器が発達しても人間の欲望がグローバルに無限に拡大して人を殺してもその欲望を得るのだという文明人は野獣であり最大の野蛮人でしかないのである。そういう人間に囲まれていたらいくら豊かでも金があっても心は一瞬たりとも休まらない地獄にいると同じなのである。現実自分はそういうこと身をもって一身上のことで経験してきたのである。金のためなら自分の利害得失のためには相手のことなどどうでもいい、むしろ相手が弱った時こそチャンスだとなる、人間は人間にとって狼だというのが現代の文明でありそういう社会にいることは地獄にいるのも同じだとなる。
常に牙をむきだして相手を威嚇していないと食われるかも知れないという恐怖の中で生きているということなのだ。