2014年08月01日

小高には湊があり大船が出入りしていたが津波で消失した (文禄二年の相馬藩の士禄の記録が語るもの)



小高には湊があり大船が出入りしていたが津波で消失した

(文禄二年の相馬藩の士禄の記録が語るもの)


●文禄から慶長年間の記録の再考

慶長地震とは一つの地震ではなく、慶長年間(1596年-1615年)に日本列島で起こった地震の総称だった。更に正確に言うと、文禄5年9月1日、4日、5日と大地震が連続したので、慶長と改元したが、その後も地震が連続したのだそうだ。慶長地震(ウィキペディア)から抜粋する

慶長伊予地震 - 文禄5(1596)年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0
慶長豊後地震(大分地震) - 文禄5(1596年)9月4日、M 7.0〜7.8、死者710人。
慶長伏見地震 - 文禄5(1596)年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0〜7.1、
京都や堺で死者合計1,000人以上。
慶長大地震 - 慶長9(1605)年2月3日、東海・東南海・南海連動型地震でM 7.9〜8.0。さらに房総 沖までが連動したと考えられ、M 8.4〜8.5の説も存在する。地震動による被害は少な かったが現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1〜2万
慶長会津地震(会津地震) - 慶長16(1611)年9月27日
慶長三陸地震(慶長三陸地震津波) - 慶長16(1611)年12月2日に三陸沖を震源として発生した地 震でM8.1。

この時九州や東海に大きな地震が起きている。その結果として今度は東北に大きな地震が起きて慶長津波が起きた。だから今度は東北地方に大きな地震と津波が起きて逆にプレートが地殻変動があり東海地震や津波が予想されるのである。

●多数の舟と相馬藩政記の記録が語るもの

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小高郷塚原村に「郷中の年貢を大船に積み、当海より東都に運送」するための「蔵院」が置かれた。その間の流れる河口には
「湊 幅十間、深さ4尺、・・・・空船出入りす」

小高郷塚原村に「郷中の年貢を大船に罪、当海より東都に運送」するための「蔵院」が置かれた。その間の流れる河口には
「湊 幅十間、深さ4尺、・・・・空船出入りす」

その岡田氏が力をもった背景は何かというとき、それが慶長津波と深い関係があったのだ塚原や村上には海運をになう湊があり物資の流通があった。
そこにそれだけの湊があったからこそ村上に城を作ろうとした。
それは朝鮮出兵で名古屋城に行くと瀬戸内海を見聞して海に接した城、海城を見てヒントを得た。「湊 幅十間、深さ4尺、・・・・空船出入りす」が存在した。

また義胤はその海運のために銚子とか海上へ役夫を出している。

そこまでやるということは当時の舟運は思った以上盛んだったとなる。

この文禄二年の記録は何を語るのか?村上に舟おんというのがこれだけ記されている。海運にたずさわった人たちがこれだけいたということなのか?
この時、松川浦に関しては全く記されていない、小高が先に小高城もあり湊が整備されたのである。相馬藩は文禄とかなると小高中心にあり村上城に城を移そうとしたのはそういうためである。松川浦には士禄が記されていないからだ。
そしてそのあと小高については湊のことや舟おんということなどの記録が全く消失した。相馬藩政記に記されているけどもその後の記録がないということは慶長の津波で全く今回の津波のように跡形もなく消滅したとなる。
これだけ舟おんとしるされているのだからその後にも何か記録が残ってもいいはずだがないということは慶長津波で今回のように壊滅して消失した。
不思議なのは村上城を火事があり不吉として牛越城に移った。
もし村上に城下町を作っていたら慶長津波で壊滅したのである。

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●なぜ慶長津波の前に移動している館や神社の不思議

慶長元年、相馬藩16代義胤は東に蒼海を望み、西に湖沼をめぐらし、四願一望、最要害の地と定め、十累を築き、濠を巡らしまさに殿舎を建てようとした前日、火事がおき、山積した材木がたちまち灰になったと伝えられる

慶長2年(1597)、義胤は居城を牛越城に移した。小高の地に築いた村上城が移転直前に火災で焼失し、そのため不吉として牛越城を修築して入城したためである

「宇多の湊に比定される松川浦の南端位置する磯部を支配したのは佐藤好信は岩城氏の旧臣であったが佐藤一族は「岩城之船」にかかわる氏族であった。
中村城も松川浦(宇多の湊)に面した城館であり南北朝時代に熊野堂や館腰遺跡には「瓦宿」=河原宿という地名も残っている。
http://musubu2.sblo.jp/article/99739032.html

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この諏訪神社が今の場所に移ったのは天文7年(1538)だから慶長津波からはかなり前である。ここに舟が流されてきたという津波伝説がある。それは松川浦にこの神社があったときのことなのかどうかわからない。慶長津波の時だったらあそこまで津波が来るとは思えない。
ただ中世の城館があったのは磯部の方でありその時、松川浦がどうなっていたのかわからない。佐藤好信が鬼越館に移ったのもやはり慶長津波の前である。
理由は浪の浸食を受けたからだという。そのことは八沢浦で実際に津波の前に台風の波の浸食で防波堤が壊されて家に浸水した被害があった。
あの時、移動していれば津波の被害にあわずにすんだのにとつくづく思った。
あそこは土地が低く津波が来ないにしろ波の浸食を受けやすい場所だったのである。

ともかく海岸の海の歴史は変化が激しく記録として残りにくいということがる。
浪に浸食されたり自然の変化も長い間に必ず起きてくる。海岸線はもともと自然の変化を受けやすい場所だったのである。

天文年中に津波によって社殿が壊れ、山の上へとそのご神体を移し、江戸中期に泉藩の祈願社となり、安寿と厨子王の祖父とも言われる岩城判官政氏公の旧舘跡に奉還。
古からこの土地を見守って来た泉諏訪神社の神の使いは龍。そして、この神社の今の跡取は姉妹の神主だ。
http://www.praylife.net/fukushimavoice/archives/iwaki/post_8.html

磐城の方でも度々慶長津波の前にも後にも津波の被害があり神社が移動していると記録にある。つまり磐城の方では津波の記録がそれなりにあるけど相馬藩内ではほとんどないのである。津神社が津波の神社でもなかった。ツノミヤ神社でありツノガノアラシト系統だったのである。

だから津波のことを探りようがないのだけど何か文禄から慶長と地震などが多く津波もあり不穏を東北でも感じていて移動したということも考えられる。
とにかく海とか海運とか海岸は自然の変化を受けやすく記録が失われやすい。
それで小高の湊は壊滅してあとに記録が残らなかったのかもしれない、藩政記には記されていても今はそれだけの湊だったという痕跡すらなくなっているからだ。
今回の津波で壊滅した磯部や海老や烏崎村でも萱浜でも同じことが起きたからである。
一瞬にしてこの世から消失してしまったという恐怖である。
そういうことは海岸線には起こりやすかったのである。
 
飛鳥湊と呼ばれた。名の由来は、古今和歌集の「世の中は 何か常なる 飛鳥川 昨日の淵ぞ 今日は瀬になる」という歌だといわれている。

湊もまた消えやすいのである。湊はまた船が来なくなったりすると廃れるから湊の繁栄は変わりやすいのである。


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posted by 天華 at 19:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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