2014年07月25日

八沢浦に面した北海老に立った野馬追いの旗 (行列の前からはじまっている野馬追い)


 
八沢浦に面した北海老に立った野馬追いの旗

(行列の前からはじまっている野馬追い)

 
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この旗は□だけの模様のが二つあった。旗帳で調べたが北海老にはない、カラーではないので正確ではないが北屋形に斜めの線が二つ入ったのが出ていた。
海老村が南海老から北海老から上海老、下海老と別れたのは海に面して湊や塩場ができて人口が増えても養えたからである。
ただ八沢浦の方に伸びているから八沢浦だと勘違いしてしまう。
八沢浦は明治になって干拓されたのである。
だから屋形からの山のつつぎはその裏でも八沢浦ではない、海に面した所は昔は湊であり八沢浦のような干拓した田はなかった。
北海老にはニコニコ堂の喫茶店のある所も海老だった。屋形村と接しているからあそこが海老村の内だということでわかりにくくなる。

なぜ斜めの線が二つ描かれた旗が海老村にないなのか?
北屋形にあるとなるともともと北屋形が本家としてその旗主であり海老村にあとで分家した人がいたのかもしれない、ただあそこは北海老村でも何かあそこに野馬追いに出る人が集まる。上の方にもいくつか旗が立っている。
だから北屋形の人も集まるからあの旗がたった。
黄色に黒地の日の丸は出ていない、カラーの旗帳でないから判別できない、
ともかくあそこの旗は北屋形の人も集まっている
だから北屋形の旗が出ているのである。
北屋形も八沢浦に面している。
北屋形も海老でも海とかかわっていたのである。

この旗のたった所は前に山があって津波がさえぎられてさほど被害がなかったみたいだ。津波は地形に左右される、八沢浦は地形が入江になって入り組んでいて複雑なのである。だから海の近くでも前の山にさえぎられて助かった部落もあった。
南海老村が壊滅したのは前にさえぎる山がなかったから直接津波を受けた所は村自体が壊滅したのである。烏崎村でもそうだし磯部村でもそうである。
つまり津波から逃れる助かるには高台も必要だが前に山のあるような地形に家が立っていれば死んだり壊滅したりはしなかったのである。
そういう村にはなっていなかった。
津波のことなど全く考えて家も村も作っていなかった。
いづれにしろ野馬追いは野馬追いの行列だけではない、その前から野馬追いに出る家に旗がたつ時からはじまっている。その野馬追いに出る家がなかなかわからないのである。
相馬藩内でも広いからどこの家から出てその家の旗印がどういうものか知ることができないのである。
ただ今回は北海老村の家に旗が立ったのを見た。あの家は古い家だなとわかった。


タグ:野馬追い
posted by 天華 at 17:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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