松川浦の「松け江村」の謎
(松が浦の浦はあとからできたものなのか)
地図を見ていくと面白い、インターネットだと本のようではなく海岸線をたどってゆく、どういうわけ三浦半島は浦とつくごとく浦が多い、ここは浦が多いし現実に人々が浦で古くから生活していた。何か江とつく地名は少ない、面白いのは江の浦という地名があったなぜ江の浦なのかとなる。江が先にあり江の中に浦がある。
それは地形的にそうである。江川とあるとき、川が江になっている。江はもともと中国では川であるから不思議ではない、でも江川と二つつくと何なのだろうとなる。
海岸線に川はあるところが江となりやすい、江が広い範囲のものであり川がその中にある江の浦も江が広いからその中に浦がありうる。
浜野浦とか浜浦も浜という広い地域があって浦があった。
ただ浜とつけられた地帯は非常に多い、日本には浜清み・・・という万葉集にあるごとく浜の多い国だった。その浜は白砂の浜であり美しかった。そこには防波堤などなかったのである。
だから「松け江村」もそういう地形の中にあった。松川浦はもともと江でありその中に川が二つ流れ込んでいてそこに松ケ江村がある。浦と認識していたのではなく最初は江と見ていたから松ケ江村となった。
松川浦とはあとから名付けられた名前である。川をつけているのはやはり二つ川が流れ込んでいるからだろう。
それで万葉集の松が浦の歌が松川浦を歌われたのかどうか疑問になる。
浜というのは海岸線をたどるとわかるがそこは砂浜のつづく人が住んでいないような地帯である。だから浜というのは新しい地名だというのがわかる。九十九里浜などが典型的な浜である。どこまでも砂浜がつづいて人気がないのである。
ハマというのは端(はし)であり間(ま)である。だから人が住んでいないよう地帯だった。かえって人が住んでいないと浜市とか浜町とか市がそこに開かれたかもしれない、河原も中世では人が住んでいないので市になっていたからだ。
日本の地名が多様なのは地形が複雑だからである。大陸のようにどこまでも平坦な地が山もない何もない平坦な地がつづく風景はない、変化に富んでいるのである。海あり山あり川ありと変化に富んでいる。こういう風土は世界的に少ない。満州に行ったらどこまでもトウモロコシ畑でありこんなにトウモロコシを作ってどうするんだと思った。
平坦な地帯が延々とつづきその中を馬車一台ゆく、そして小さな村があり川は泥川である何か見ていて変化でなくあきてしまった。ただ広いというだけなのである。
あういうところに住んでいたらあきる。地形に変化ないからだ。
日本は狭くても地形に変化があるから自転車で行ってもあきないのである。
相馬藩内だけでも相当に変化に富んでいるのだ。だからまだ未発見の土地がある。
いづれにしろ松川浦を歌われた東歌も謎でありそれが松川浦だとは確定されない。
万葉集自体が謎が多いし東歌自体もどうしてできたのか謎であり解明されていない。
方言があるといってもそれが松川浦地帯の方言かというと「なも」は東歌全体にあるのだから東は浜名湖辺りも東になる。名古屋もそうであり広い範囲なのである。
そこで「なも」が使われたとしてその広い東の共通的方言だったら方言なのかとなる。
そもそも方言はほとんど青森でも沖縄でもそうだが大和言葉を変化させたものであり
だからこそ大和言葉の古いものが辺境に残っていたのである。
すると万葉集時代に方言があったということはすでに全国的に大和言葉が普及して方言化していたとなる。そしてそこから方言になるのは時間がかかる。
東歌ができたのはそれだけすでに東でも大和言葉が普及した結果だとなる。
それもさらに辺境の蝦夷のみちのおくの地域で使われたというのはどういうことなのだろうとなる。
つまり松川浦まで東の方言があることはそんなに広く使われているものだろうかとなる。
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