2014年07月14日

原発事故の避難区域などは復興できない (高齢化やこれまでの社会構造がコミニュティを破壊)




原発事故の避難区域などは復興できない

(高齢化やこれまでの社会構造がコミニュティを破壊)

小さなる畑にとれし不揃い(ふぞろい)のキュウリをくれし土地の女(ヒト)かな

都路でも避難した人が自分で自給自足しているのがいいと言っていた。
つりま田舎では農家なら米でも野菜でも基本的な食料になるのは自給自足だった。
それが買うだけの生活になると違和感を感じるようになった。
田舎では食料は単なる消費者ではなく生産者としてあった。
生産の喜びがあった。その土地からとれるものを食べる
それはいくら金があって買えるからといって生活の充実感はそこにはない
「消費者は王様」だとなってしまったが王様には収穫の喜びが得られないのである。
そしてその土地から何も得るものがなけれも人間は豊かになりえようがないのだ。
その土地でとれるものがあってこそ豊かになれる。
それは肉体だけでなく精神的な面でもそうである。

ただ現実問題としてはその小さな畑でとれるのはかえって何倍もの労力と金がかかる
そして収穫はわずかだから誰も農業をやりたくないというのがわかる
労力や肥料でも何でも小さな畑でもつぎこむエネルギーにしても収穫が少ないのである。でも土地からとれる、土地のものが食べられるということは替えがたいものがある。
なぜなら遠くから外からばかり食料を買っていたら何の豊かさも作り出せないのだ。
その土地からとれるものがあって豊かになれるのである。

だから今原発事故周辺はもう復興はできないように思う。
多額の補償金で働く気がないのと高齢化で将来をどうしようとかならない、
残りのわずかの時間の人生を楽しみたい、欲望でも果たしたいとかしかならない、
老人はかえってその欲望が最後に強くなることがある。
もう人生も終わりだからやりたいことをやって死んだ方がいいと思う。
これが最後の恋だと老人の道連れにされた若い女性がドラマでいたけど
それは現実に起きている。
タケシが百億円で離婚しても結婚したい若い女性ができたというのもわかる。
かえって老人はあきらめでなくあきらめきれないのである。
若い人なら子供がいて将来どうしようかと住んでいて考える
老人はこの先どうしようかというよりもう終わりだとなり自分のしたいことを欲望でも果たしたいとなる。
だから先の長いことは考えたくないししないのである。

フィリピン人の女性が仮設に来るとかやはりそれはイワキでも飲み屋で札びらを切っていた双葉や大熊や浪江でも避難者はそうなりやすいのである。
億の金が入るとなるとそれを将来にどういかすかより老人なら使ってみたいとなる。
欲望があれば今使ってみたいとなる。現実に東京の方まで行って遊んでいる人が仮設にはいた。
小人ではない、「老人蟄居して不善をなす」の時代である。これはここだけの問題ではなく高齢化で増えてくるのだ。みんな老人は優れた人ではない、そういう普通の人が大量に生きる時代が高齢化社会なのである。
津波の被害地などでも復興がすすまないというとき、こうした高齢化の影響も大きいのである。老人は十年先二十年先を見込んで努力できないのである。

そして現代社会はグローバル化だとか広域社会になると金がものいう社会になっていた。金さえあれば何でも手に入るという社会になっていた。
だからそもそも一億円もらったらどこでも暮らせるとなるとこれ幸いと若い人は流出したのである。そういうふうにコミニティ自体が崩壊しやすいものになっていたのである。
自給自足の社会だったらその土地でなんとか暮らすほかない、簡単にはよそに移れないのである。
だから今田舎に住んでいる人に
「一億円もらうとしたらここに住んでいますか」
そう問うとそこが住む価値がある所どうかわかる。これ幸いと住んでいる土地でも離れてよそに住む人はその土地に住む価値を見いだしていなかったのである。
一般的にはそういう人が多くなっているからコミニティは崩壊してゆく。
チェルブエリでも二十くらいの村がなくなった。
その墓標が立っている村の墓地があることも不思議なの光景である。
川内村でも避難区域解除に反対しているのも避難していて補償金をうちきられたくない
郡山市などでの便利な生活をしたら特別の人でないと川内村には住まない
老人は住みたいと言っていたが若い人はそうはならない。

ただ飯館村のような所に住むメリットはあった。
一軒一軒が離れていて森の中にあり広々として住める
それが都会の団地のような所に住むのはいやだというのもわかる。
だからすべてがその場所に住むメリットがないのかというとそういうわけでもない。
その人の主観とか価値観も関係しているから全部はそうはならない。
自分なども医者では困ったけど別に食べるものなど十分だしそれほど不満はない
それなりにそこに住むメリットを感じている人はいる。
特に濃密な人間関係をもっている人は都会では住みにくいだろう。
この世の中で何でもみたされる所などないのである。

ともかく原発事故周辺でも津波の被災地域でも高齢化の問題や現代特有のグローバル化とか広域社会化でコミニュティは崩壊しやすかったのである。
そして誰もあえて苦労はしたくない、老人は余計にしたくないから金が入ればあとは遊んでいた方がいいとなる。最後の欲望を果たした方がいいとなる。
それは自分勝手なことでもそれが現代の生活だったのである。
欲望資本主義でりそれがこの辺では極端な形で現実化したのである。

いづれにしろ絆とか助け合いとか同情だと言われたことももうない、
一時は絆だといって助け合いの気運があった。
それは単にモノを運ぶというだけでも助けることだった。
その時この辺では放射能汚染でモノが入ってこないしくる人もいなかったから
モノを運んでくれ人は人助けになっていたのである。
それが普通の社会にもどったらまた元の社会になった。
今度は逆に補償金をたんまりもらって遊んでいるいるやつらだとしかならない。
そんなやつらを助けどうなるのだとなる。
だから小高の仮設の人を鹿島区の人は良く思っていない。
それはイワキでも二万人くら移住したらここよりひどいことがわかる。
あいつらは金にものいわせて働きもしないで家も建てている
何でも優遇されているとか不満になる。
だから補償金もらっているだけでも反発されているのである。

かえって鹿島区などは一人十万で七カ月分だからもらっていてもそれほどないから他から見ればそんな金ならしかたがないとなるだろう。
でも避難区域の人はそうならないのである。
今は全国からも良くは見られていないのである。

posted by 老鶯 at 18:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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