南相馬市鹿島区の海老村は蝦夷ーエミシが住んだ地域だった
(神社の位置が歴史を語る)
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〈毛人谷〉人なき丘陵に蝦夷の影
しかし毛人谷の歴史は相当古い。鎌倉時代末期、原野だったこのあたりに戦国武将の楠木正成が出城を設けていた。その名の由来は時代をさらにさかのぼり、蝦夷(えみし)がこの地に住んでいたという説がある。「毛人」とは「蝦夷」の別の表記でありエビスとも読む
「景行天皇以来蝦夷の俘となりしもの(中略)を諸国に分かち居らしめしことあらば、或はこの地にも、上古蝦夷の居住せしことありて」
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120927/wlf12092712010011-n4.htm
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大和朝廷に 征伐された
クモ(土蜘蛛) と エビ(蝦夷)A
すなわち、大陸系の 『 藤原朝 』 が、列島の原住民(北方系、南洋系)を 土蜘蛛(クモ)・蝦夷(エビ)と称して、多民族国家の 支配を 進めました。
アイヌ語で「人間」という意味の「enju」「emchiu」が「えぞ」「えみし」の語源です。「蝦夷」という漢字は、アイヌ民族がエビ(蝦)のようにヒゲが長く、夷(未開の異民族)だったことからあてられました。
北加伊道」は、アイヌ民族が自分たちの住んでいる土地を「kay」と呼んでいて、そして北に位置することから名付けられました。
江戸末期の北方探検家松浦武四郎の『天塩日記』には、「北蝦夷(樺太)にてアイノをカイナーと呼(び)しが、此山中(天塩)に来り見るに同じくカイナと呼(び)けり」とある。
また、1786年(天明6)に佐藤玄六郎が書いた「蝦夷拾遺」(大友喜作編『北門叢書』第一冊)には、「今夷人(アイヌの人々)皆自らカイと称す」とある
http://ryuchan56.269g.net/article/17905483.html
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エビシのエビが「えび(海老・蝦)」と同音であり、ヒゲの長いエミシの姿とえび(海老・蝦)の姿が似ていることから、カイのカの表記に「蝦」の字が使用されたのであろう。
http://ryuchan56.269g.net/article/17905483.html
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もしこの海老村の海老が蝦夷に由来するとなるとこれは歴史の解明にとって重要である。海老は海に近いから海老だと思っていた。海とは関係ないのである。
もともとこの辺一帯が広い地域が海老であり蝦夷(エミシ)が住んでいた地域かもしれない
そこで注目すべきは今回津波から奇跡的に無傷で残った鶏足神社のある場所である。
海老村は壊滅したがあそこは前に坂があり津波がさえぎられて助かった。
その坂のあることでその下の御刀神社のある家も浪が弱められて家は残った。
そして御刀神社の杉林に漂流物がとめられて家は残った。でも損傷は激しかった。
ここで大事なのはその鶏足神社の位置なのである。なぜあそこに鶏足神社がありその前が海老村なのかというこである。その謎が海老が蝦夷となるとわかりやすくなるのだ。
@大和朝廷成立以前に既に物部氏の先祖一族が、大和地方に地盤を築いていたこと。
A物部氏の力を借りて大王家は、大和に政権を確立出来たこと。
B大王家の后は、物部氏(含 磯城県主の娘)の女がなり大王家は、大和の地に融合して いったらしいこと。
C大王家は、大和の神、即ち物部氏の神を祀らなければならなかったこと。
D物部氏と出雲は、繋がっているらしいいこと。
出雲、物部、葛城、蘇我、加羅、新羅系ーー鬼の流れ
藤原、天皇家、百済系 と区別される。
この普都大神とは一般に言われている経津主神(ふつぬしのかみ)のことで、香取神宮の祭神になっている神様です。物部(もののべ)氏の神といわれています。
神様と言っても昔この地を平定した武人であったと思いますが、鹿島神宮の建御雷神(たけみかづちのかみ)と共に出雲で国譲りを成し遂げた神です。
さてさて、百済は太陽信仰のメッカ、加羅諸国の本家である上伽耶(ウカヤ)を吸収します
冠嶺神社
冠嶺神社は冠小坂でで鳥取越のことで産鉄族の鳥取部と関係していた。「白鳥伝説」谷川健一にこうしたことが詳しく書かれている。猿田彦を祀る勝子神社はカジコで鍛冶ともなる。物部氏とすべて浮田国造は密接な因果関係があるのだ。原町の信田沢はシダ沢であり常陸の信太郡からの地名の移動でありそこは物部氏の領する地域だった。ここにも冠嶺神社があった。物部氏の移動がここでも語られている。唐神は韓神であり帰化人がここに来たのかもしれない。物部氏は武器製造の氏族でありもののふというごとくモノは武器のことでもあった。この一族が桙衝神社(長沼)押雄神社(原町)御刀(ミハカセ)神社を祀った。
磯上物部神、物部阿志賀野神、物部田中神
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磯上氏より物部氏が出、物部氏より阿志賀野・田中氏が出た
長崎県壱岐郡郷ノ浦大字物部田中触
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磯上氏より物部氏が出、物部氏より阿志賀野・田中氏が出た
長崎県壱岐郡郷ノ浦大字物部田中触
田中とは田と関係なく氏族名と関係していた。中世に田中城があったから古い地名なことは確かなのだ。
剣岳の西側には鞍手郡鞍手町の新北(にぎた)という地名がある。これは和名抄にいう鞍手郡新分(にいきた)郷で「旧事本紀」のニギハヤヒの降臨に供奉した天物部二五部人のなかの「筑紫贄田物部」に比定されている。そこに剣神社がある。(白鳥伝説)谷川健一
この国造は大和政権とは別の地方の独立した国々であった。右田という地名も 筑紫贄田(にえた)物部とか新分(にいきた)郷がありこれがなまったものでニギタが右田となり右という字があてられたのであり右にある田の意味ではない。新田川も(にいだ)はニエタであり贄田物部とか二田物部から名づけられた
「弥生時代の上毛野には樽式土器を持つ先住民がいたが彼らはしだいに淘汰され、石田川式土器という東海系の移住者たちが毛野の王者にのしあがった。」(古代東国物語)永岡治
http://www.musubu.jp/manoireukita.htm
http://www.musubu.jp/manoireukita.htm
鶏足神社は冠嶺神社であり海老村の海岸に接して金砂神社がありこれは津波に流されたけどこれも冠嶺神社であり栃窪村のも冠嶺神社であり原町の信田沢の冠嶺神社である。
これは物部系統の神社であり地名も物部氏由来なのである。
だから地名そのものが相当に古いとなる。
これは物部系統の神社であり地名も物部氏由来なのである。
だから地名そのものが相当に古いとなる。
だから海老村で何が起きたかとなると海老村は蝦夷だとすると物部氏がその蝦夷と戦ったということがある。物部氏は大和王権の前に物部王国を築くほどの大氏族である。
だから田中物部や贄田(ニギタ⇒右田)物部となり地名化した。
田中城があるところがそうだった。もともとそこは田の中にあった城ではなく湿地帯に囲まれていた。だから田中城となるのは地形的にもあっていないのである。
物部氏は原町の桜井古墳を作ったともされる。この辺は物部の支配下に最初はあった。
物部吉名という人がいたが小高の吉名郷というのはまさに物部氏の郷だったとなる。
だから田中物部や贄田(ニギタ⇒右田)物部となり地名化した。
田中城があるところがそうだった。もともとそこは田の中にあった城ではなく湿地帯に囲まれていた。だから田中城となるのは地形的にもあっていないのである。
物部氏は原町の桜井古墳を作ったともされる。この辺は物部の支配下に最初はあった。
物部吉名という人がいたが小高の吉名郷というのはまさに物部氏の郷だったとなる。
物部氏は鶏足神社のあるところで蝦夷と戦った。その蝦夷がいたから海老村となった。
それを如実に物語るのが御刀神社なのである。その神社が刀なのだから明らかにここで蝦夷と戦った記念として祭られたのである。
その神社の位置が如実に歴史を物語っているのだ。神社と位置はだからきりはなせず一体化してあるのが日本である。
物部氏は渡来系でありツノガノアラシトや伽耶国とも関係していた。
だから製鉄にかかわる技術者が来てその関係の地名や神社を残したのである。
それを如実に物語るのが御刀神社なのである。その神社が刀なのだから明らかにここで蝦夷と戦った記念として祭られたのである。
その神社の位置が如実に歴史を物語っているのだ。神社と位置はだからきりはなせず一体化してあるのが日本である。
物部氏は渡来系でありツノガノアラシトや伽耶国とも関係していた。
だから製鉄にかかわる技術者が来てその関係の地名や神社を残したのである。
角部(つのべ)とはツノガノアラシト関係の製鉄にたずさわる一族が住んだ地域である。
唐紙とは唐は韓(から)の意味である。それも渡来人によってもたらされたのである。
唐紙とは唐は韓(から)の意味である。それも渡来人によってもたらされたのである。
その後大和王権になると物部氏とか渡来系のツノガノアラシトとか伽耶系とか新羅とかは隠されるようになった。それで地名も伽耶ではなく草や萱や加屋とか変わってしまってわかりにくくなったのである。
日本書紀では、第11代垂仁天皇(以下、11と略す)3年のことだという。新羅の王子、天日槍の記事の前段に、大加羅(おおかや)の王子の都怒我阿羅斯等(つぬがのあらしと)が渡来してきた話がある
大加羅(おおかや)というときこれに大草とあてた。だからわかりにくくなった。そもそも大草という言うこと自体不自然だからである。
ともかく海老村が蝦夷に由来しているとなるとそれは重要な発見かもしれない。
蝦夷というのがそこに明らかに住んでいた。
その蝦夷の正体は不明になった。北海道に残ったアイヌ民族のことであるというのも不明となった。それでもアイヌ語にその名残りがあるからアイヌ民族が蝦夷だという説が根強くある。
蝦夷というのがそこに明らかに住んでいた。
その蝦夷の正体は不明になった。北海道に残ったアイヌ民族のことであるというのも不明となった。それでもアイヌ語にその名残りがあるからアイヌ民族が蝦夷だという説が根強くある。
北加伊道」は、アイヌ民族が自分たちの住んでいる土地を「kay」と呼んでいて、そして北に位置することから名付けられました。
北海道というときこれカイに海をあてたからわかりにくくなった。カイとはアイヌ民族のことであった。だから甲斐国とあるときそれはアイヌが住んだ場所のことである。
原町の萱浜はカイハマでありカヤではない、この甲斐はなぜか甲斐かち来ている。
泉長者の伝説に娘の別荘に樋をもって酒を流すときに甲斐椀をもって密かにくみとって飲んだ地を甲斐浜となり樋より酒のもれた地を雫(しどけ)となづけた。
ここにも甲斐がでてくる。この甲斐の起源がやはりアイヌをカイと呼んでいたことにある。地名をアイヌ語で説明した時代があったが今は一部しか信用されていない、青森県辺りは確かにアイヌ語地名がかなりある地域でも証明されていないのも不思議である。
ともかく中央での奈良での興亡が辺境の地の蝦夷にももたらされたのである。
そこには渡来人も深くかかわっているからそこでまぎらわしくなっているのだ。
地名がこうした古代からあるとき、いかに古い歴史の痕跡かわかる。
だから真野の草原はカヤハラは伽耶と関係している地名だとしたのである。
そこには渡来人も深くかかわっているからそこでまぎらわしくなっているのだ。
地名がこうした古代からあるとき、いかに古い歴史の痕跡かわかる。
だから真野の草原はカヤハラは伽耶と関係している地名だとしたのである。