2005年12月04日

余白の芸術(石一つでも芸術だ)


NHKの日曜芸術の番組で李禹煥の余白の芸術というのをやっていた。
ただ広いキャンバスに四角を一つ描いただけ、石を二つ並べただけで芸術になるのか?あれもやはり芸術なのだ。芸術はいたるところにあるし自然のものは神の作った芸術品だから石ころ一つでも芸術なのである。それがつまらないと思うのは発見する能力がないだけなのだ。だから芸術は別に俳句とか短歌とかにこだわってはいけない、石一つおくだけで芸術なのである。特別なものを芸術とすることはないのだ。複雑化した現代ではかえってあのような何もないものが芸術家するし癒しとなっているのも不思議である。芸術の要求というのは時代によって違ってくるのだ。芸術家とは特別な人がなることではない、人間であればすべての人が芸術家になりうる。人間の存在自体がもっとも優れた芸術品だからである。


石一つ


高ぶらない石

謙虚なる石

質素なる石

女性的なる石

小さなに庭に

安らぎ落ち着きぬ

一本の小松が下に

囲む塀に写る

在りし日の花の影



enresouniwa1.jpg

http://www.musubu.jp (本サイト)
http://www.musubu.jp/2004dairyhaiku4.htm (ホ-ムペ-ジの今日の一句一首)



庭の石については俳句にしたし石には実際いろいろな石がある。大きな石もあるしどっかりとした石もあるし石の表情は様々である。石を配置しただけで禅寺の庭は芸術になったようにやはりそこでも余白が重んじられた。東洋の芸術には余白が欠かせなかった。西洋は油絵のように稠密に埋めつくしてゆく、余白があってはならないのだ。芸術は作り手だけのものではない、それぞれに鑑賞することが大事なのだ。鑑賞できる人も芸術家なのである。絵とか音楽でも鑑賞できる人は芸術的な耳や目をもっているのだから芸術家なのだ。この世に際限なく芸術は存在する。それは消えてなくなることはない、廃墟になってもそれは芸術だからだ。
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