2014年06月23日

津浪の後の葦原から青田への変化する景色の写真と短歌 (右田浜⇒八沢浦⇒相馬市内⇒日立木)


津浪の後の葦原から青田への変化する景色の写真と短歌

(右田浜⇒八沢浦⇒相馬市内⇒日立木)

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右田の松原の残骸である。ここの松は太かった。
だから江戸時代からあったみたいなのである。


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八沢浦

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夏菊に朝日の眩し沖に船
葦原に夏の日眩し石ごろり
浜街道海風涼し陽のまぶし
老鶯や街道細く草深し
街道の細道木陰の深きかな
興亡の鬼越館や夏日没る


(右田浜、海老村)


右田浜松原ありしその松の残れる太しここに集める

海老村に津浪の後や残りたる家の社や草に埋もれぬ
海老村に社の鳥居海向くも跡形もなし何を偲ばむ


(八沢浦)


庭の石残りて一つ目立つかな夏の日まぶしく葦原広がる

葦原に沼の生れてほしいまま鬼ヤンマの飛びにけるかな
葦原に夏の日そそぎ瑞々し海風そよぐ八沢浦かな
八沢浦葦原となり風吹かれ揚羽一羽の舞いわたり消ゆ
八沢浦葦原となり我が望む夏の蔵王の迫りくるかな


(相馬市⇒日立木)


田町通り女子高生の歩むかな柳そよぎし夏の午後かな

城跡に木陰の深き石垣の残りて古りぬ訪ぬ人かな

餌あさる夕べ田の面に鷺の二羽日立木村の古りにけるかな

相馬市田町通り

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日立木村と青田と鷺(夏の夕べ)



海老村から八沢浦に出ると一面の葦原となり沼がすでに三年すぎて古くなっている。
津浪の後の変化は自然が生き生きするということである。
葦原が夏の日ざしを受けてつやつやゆと瑞々しく輝いていた。
八沢浦は相当に広く感じた。あそこは一時海になった。今は葦原である。
葦原は日本の原初の風景だった。これは飯館村でも山でも葦原になった。
日本では葦原瑞穂の国だから本当に葦原に覆われていたのだ。
そういう原初の風景に津浪の後にもどってしまった。


ただ八沢浦の海に一番近いところに30軒も家があるとは思わなかった。
10軒くらいはあると思っていたが30軒は多かった。
その家も根こそぎ流出した。あそこは土台すら残らず沼になってしまった。
こういう変化はいくら無常の世だとしても想像もできないものだった。

八沢浦からは蔵王が見えたが写真ではうまくとれていない、八沢浦からいつも蔵王は見えていたのだ。八沢浦八景があり古歌が残っているからここは名所だったのである。
それが津浪によって一時昔の入江が甦ったから観光としては魅力を増したのである。
八沢浦に注目している人は松川浦とは違いなかった。
でも自分は前からここが入江になっていたらどれほど美しいだろうと何度も書いていた。それが実際にそうなったときほど驚いたことはない、それを言えばここで死んだ人をどう思うんだと批判される。

でも正直まずその死んだ人より八沢浦が本当に入江なっこことに驚嘆したのである。
ごちゃごちゃと瓦礫が流れていたらそうは見なかった。
右田などは瓦礫が流れて泥海になっていたのである。八沢浦は昔の入江のようになっていた。岸辺に瓦礫が流れ着いても入江のようになったのである。


八沢浦を出て相馬市の方にゆき城跡をめぐり田町通りの柳を見る。それはいつもの行程である。あそこは絵になっている。通りがないとやはり街は生きてこないのである。
スーパーにはそれがないのだ。ただ買い物するだけなのである。
相馬の女子高生が歩いているのも絵になっているのだ。
相馬市の市民会館もそうした城下町にふさわしい造りで完成していた。
相馬市は城下町であり原町とは雰囲気が違うのである。

浜街道の道は相当に細くまがりくねっている。でもそれが街道だからこそそうなっている今日気づいたのは木陰が深くなっていて街道は涼しい、もし日ざしがまともに照りつける道を歩いたら苦しい、ところが街道は道が細く木陰が多く涼しくなっていた。もちろん
松並木などもあるから涼しい道だったのである。
六号線とはまるで違ったものとして街道があった。


その街道を通り日立木に出ると鷺が二羽まだ明るく餌漁りしていた。
それがまた何とも不思議に感じるのだ
葦原というのは原初的風景であり青田は何か人間的風景でありほっとする。
葦原はやはり茫々とした感じになる。青田は何かそこに人間の営みがあり
日立木村があり薬師堂があり人間的なものの温かみを感じる
だから津浪の後は南相馬市は原発事故でも田畑をまだわずかしか作っていないから余計に感じるのである。


鬼越館はあそこもまだ相馬氏が統一されないとき、中村に城を移転するとき、敵対した館だった。
そういう歴史を知ればまた見方も違ってくる。中世の館をやはり知っておく必要がある。

 
 
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