2014年06月18日

相馬藩では慶長津波のすぐ後に野馬土手や田作りに励む (津波については探る資料がない)


相馬藩では慶長津波のすぐ後に野馬土手や田作りに励む

(津波については探る資料がない)

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慶長16年中村に市坊を置いた。街道の宿駅の整備

同じ頃宇多郡中村城に馬場を開き,騎馬演習を行った。
南北百八十間、東側の濠の土手には桜を植え故に桜の馬場といった。

また慶長年間、行方郡横手村より真野川に堰を作って東流させ
屋形村に引き鹿島、両海老、両右田の五村に分水して田を潤した。

これは慶長年間なのか?二宮仕法で行われたともある。


そもそも慶長年間に鹿島、海老はあった。右田はそのあとに開発されたのではないか?
だから時代的に後であり時代というのも間違って記していることが多々ある。
今回の津浪では田中城まで津浪は来なかった。
屋形とか山沿いから下の田畑は右田の方から比べると一段と高くなっている。
だから屋形や海老の山沿いに大きな溜池を作ればその高いところには田畑が作れる。

ただ津浪のことを考える時、慶長津浪の影響があったことは何も記されていない
記録から読む限り慶長津浪があったということはどこにも見いだせない不思議がある。

なぜなら慶長津浪の後に相馬藩が力を注いだのは津浪の復興などではない
街道の宿駅の整備、そして一番力を注いだのは野馬土手の整備なのである。
それから堰を作り溜池を作り田を作ることが鹿島の屋形村や海老村で行われた。

普通だったら津浪の復興が第一となる。伊達藩ではやはり津浪の被害が大きくそういうことが記録から感じられる。
ただ相馬藩では鹿島区でも津浪の被害にあった所は原野であり田畑化されていなかったのだろう。
だから津浪の被害にあわない屋形の山沿いから田を作りはじめたのかもしれない。


グーグルの写真地図で見ると津浪の浸水地域は海岸の南海老村と右田の方になっている。海岸の方はあとから人がすみはじめた地域である。
屋形村や南海老村でも山沿いの所は一段と高くなっていてそこは溜池から水を引けば
田にできた。その面積もそれなりに広い。だから慶長年間にそこは田にしたのかとなる。

陸前浜街道は慶長津浪があり津浪が来ない所に道が作られたというのも今回の津浪から見ればそうなる。でもまだ相馬藩では田を開拓され作っていない原野が湿地帯が多かった。だから湿地帯をさけて道を作ったともなる。
必ずしも慶長津浪が影響して津浪が来ない所に作ったということではないだろう。


いづれにしろ相馬藩は慶長年間まで戦国時代の延長であり相馬氏が支配を確立していたわけではない、中村城に移転した時支配が一応確立したのである。
野馬土手作りに力を注いだのはやはり軍事を優先したからである。
北朝鮮でも軍事優先であり飢えている子供がいるということは外部の人によって明るみに出されたのである。当時は藩が国だとすると外部に弱みを見せないということで
津浪の被害を隠したのかもしれない、慶長津浪のことは全く探る手がかりもないからだ。外部の人に伝えなければ餓死してるとか悲惨なことはわからない。
ミサイルを打ってくるくらいだからかえって恐れたりしている。
内情は兵士は食べ物もなくやせ衰えていたのである。
今でも対外的には強い所を常に見せておかないと他国に攻められるのは同じなのである。

そして伊達藩でも岩手県の宮古でも牛馬が死んだと記されている。
それは馬が人間と一体化していたから馬が大事だからその数も記された。
相馬藩では死んだのは人間しか記されていない
それも野馬追いがある相馬藩では変だなと思う。
ただ野馬土手などが作られたのは慶長津浪以後であり津浪の被害にあった所で馬をまだ飼っていない地域だったかもしれない、海岸地域は馬を飼いにくいこともあった。
それでも何か解せないものがある
記録にも時代が間違っていたりすべて真実とはならないことも問題なのである。


家屋から家財道具まで流され、先祖伝来の武具、文書、飼い馬も一緒に流されて
誇りや伝統も一緒に流されちまったよ! と言ってたな親戚が‥返す言葉が無かった。


津浪には飼いにし馬も傷つくも負けじといでぬ祭りなるかな


津浪で流された馬もいたし傷ついた馬もいたのである。人間だけじゃない牛馬を津浪の被害者だった。今だったら馬が死んだ数まで記さないだろう。
津浪の被害にあった家が野馬追いに出ることが放送された。
そういうことは慶長津浪ではなかった。それより資料がないから推測もできない。
ただ原町でもそうだが馬を放牧する広い原があったということはそれだけ原野がまだ
相馬藩では多かった。
そうなると海側も原野が広がっていたとなる。

それではな海側に人がどれだけ住んでどんな暮らしをしていたのかとなる。
湊があり湊中心の漁労生活者だったのか?そういう人たちが死んだのか?
まだ田畑の被害は原野だから少なかった。
それにしてもなぜ700人も死んだのだろうとなる。
その死んだ人たちのことを探ることが資料がないから皆目わからないとなる不思議がある歴史にはそうして消失したしまった人たちはいくらでもいるのだろう。

相馬藩でも戦争で死んだ人のことはいろいろ記してありその功績も記されている。
しかし津浪で死んだ人たちのことは何一つ記されていない、700人溺死としか記されていないのである。
被害にあった民衆の間でも語り伝えられてもいいものだがそれもなかった。
そうなると本当に慶長津浪の被害が本当にあったのかとまで疑うことも不思議ではない
歴史的事実として何をもってそれだけの被害があったか探りようがないからだ。
神話でも伝説でも何かしら事実があって語り継がれる。
でも小説では相馬藩が復興に力を注いだと美化しているがそんなことどこからも事実として何もないのである。

posted by 老鶯 at 14:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係
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