2025年02月16日

人生と記憶ー人間は環境と経験によってつくられる 【最後は経験した記憶が人生だったとなる】


人生と記憶ー人間は環境と経験によってつくられる
【最後は経験した記憶が人生だったとなる】

●経験されたことが人生となる

そもそも人生とは何かとなれば最後はその人に何が記憶されたかにもなる。何を経験したかが人生にもなる。人間の場合は遺伝の影響も大きいにしてもその人生経験が人間をつくる。
それが動物と大きなな違いである。動物ならネズミはネズミでありライオンはライオンである。その遺伝から変えることはできない。
でも人間の場合が何らかの行為で経験からネズミからライオンになったりもする。それは遺伝ではなくその人の経験からそうなったのである。
だから人間をつくるのはその人の経験でありその経験もみんな違っているから人間を見る場合どんな経験をしてきたのかを知るべきだとなる。そして最後に残るのはその人の経験してきたことだそれが体にも脳にも刻まれているのである。

何か学習するにしてもそれが学校とか本とかで読んでもわからないのである。でも外国旅行すれば実地にその場を踏めばいくら本を読んでいる人よりも実感としてわかるのである。
それで私は50歳まで外国に行っていなかった。ただ本は相当に読んでいたでも外国について肝心なことは全く理解できていなかったのである。
これでもわかるように人間は実際の体験からこそ学ぶのである。例えば英語を学ぶにしても学校でわ実際の外国人と会話することなどないから本質的なことで英語でもわからないということがある。また留学するということは実地に外国人と直接接してその場で生活するのだから実感するからその経験が大きいのである。だから外国に住んで生活した人とそういう経験をしない人の差も大きいのである。

●精神と同様細胞も記憶する力を持っている

ともかく人間をつくるのは遺伝的要素も大きいのどんな経験をしたのかで決まる。そしてその経験が人間をつくる。最後は老人になればその人は何を経験したのか何を記憶したのかは結果として現れるのである。

精神と同様細胞も記憶する力を持っているからである
人間ーこの未知なるもの‐アレキシス・カレル

人間とは脳で記録すると見ているわ実際は身体全体で経験して記憶するのである。だから体感という言葉はそれを表している体全体で感じて記憶するのである。それで何度も言っているが車の旅だと風とか光とか自然を感じないので体全体で感じないので記憶に残りにくい。坂や峠があるとしてそこを車とかで行けば体に記憶として刻まれ残らないのである。
歩くたびならまたは自転車でも坂を上ることは容易ではない。だからこそそれが体に記憶として残るのである
にわか雨御堂に休む旅の人

つまり突然雨がふり雨宿りするため御堂に休んだ。そのときの経験は御堂の役割を知ったことである。御堂は休息所であり
時代劇ではそこに確かに寝ていた人がいたからである
それもこうした経験があって体感するのである。それが車だとただ過ぎてくだけで自然を感じないからわからなくなるのである。そして記憶にも残らないから旅を経験するということもないともなる。

●何を記憶したかが人生になる

ともかく人間の最後は老人になればあなたは何を経験したのか記憶したのかが問題になる。なぜならそのことが生きたことであり人生の結果になってしまうからである。
人間はいくら金を残したとしてもそれでその人の人生が分かるわけでもないし価値あるわけでもない。現実にそういう人はかなりいる。金融関係で働いてるような人は何か人生で実りのある経験をしていないようにも見える。それは巧妙に人を騙して金を得るだけの仕事だという人もいる。そういう人は自分の経験したことを人に語らないのである。つまり後ろめたいことがあり語りたくないということがあるただそういう人でも金は残しているのである
大概私はこうしてきたこんなことで苦労してきたとか何をか老人になれば語る。でも語りたくないということはその人生は何なのだろうと見る。金を残した人もすべてそれで人間の価値は測れない。だから老人を見る時その人が何を経験したかを聞けば語ってくれれば分かるのである。

私は旅をしてきたからその旅のことを常に語っているのである。そんなの遊びじゃないかと見る人もいるが金にもならなかったがそれもやはり私自身の人生だったなる。
だから何も語ることがない人はいくら金を残してその人生に価値が無かったとなるかもしれない。つまり最後はすべてお金で測ることはできなかったということである。それで10億円を残した人でもその人生に価値があるとは限らないのである
どんな人に成るかは確かに生まれつきの素質がベースになるとしてもその後どんな経験をするかで違ってくる
経験が人間を作る。それが良く理解されていないのである。人生で経験することもそれぞれ違っているからである。
ただ簡単にお前は価値がないと言えるのか、自分のことを何も知らないでそう決めつける
ただ何に価値があるかは多様だから計ることがむずかしいのである。そもそも店であれスーパーであれそこでレジをしている人を価値あるとか見ていない、だからこそ機械化自動化する。そして別に買い物するでもそこで売る人に価値がるとか見ていないだろう。人生が経験だとすれば自らを社畜だという人は私は会社の奴隷として金のために仕方なく働いてきました。そういう人は自分の人生を老人になって語れるのか、それは実際大きな問題である。でもそういうことを思う人は少ないだろう。金を稼げればいいし仕方なかったといっても老人になり自ら奴隷なって働きましたと語っても誰もその価値を認めないとなる
それ気づいた時はすでに時遅しとなる。結局時遅しとなるのが人生に多いのである

●金ですべて計れない人生の価値

外資系銀行の“ろくでもないビジネス”
要は、彼らは次の3つをやっているに過ぎない。
1つ目は「相場操縦」だ。マーケットに介入し、自分たちが儲かるような相場を作っている。
2つ目は「M&A」。会社を買収し、転売して利益を出す。
3番目は、いろいろなデリバティブ取引を活用して、「低リスク高利回り」をうたうインチキ金融商品を販売すること。

最近死んだ森永卓郎が言っていた。それで彼自身農業してその体験を語る。農業はカラスにネズミ食われるとか野生の動物の戦いで高度な知的作業より知恵がいるとかも経験からそういったのである。
私も畑で仕事する人に聞いたそのことを知った。それだけ大変な仕事である。でもそういう仕事してきた人はその経験を語りうるとなる。
でも金融関係で仕事した人は語りたくないとなるかもしれない、何か金を右から左に流して数字だけを追っているともなる。だからデイトレダーとかでも一日パソコンの画面を見て株の数字だけを見ている。それで億の金を残しても何か生きた実感を語れないとなる。それが最後に何が残ったかというとき金は残ってもその人生は虚しかったとなる、語ることもないともなってしまうのである。

そしてあなたが価値がないというときその人の何が価値がなかったのかとなる。その人が経験した人生が価値がなかったとなる
それで戦争で苦しみ生き抜いた人が戦争のことを語り続ける
そんなこと無意味だと価値がないと言われたらどうなるのか
それはその人の生きて来た人生を無価値として否定することになる。それでは浮かばれないとなる。

●人生の実りと何なのか

とにかく人間をつくるのはその素質遺伝でもあるがその後の経験が環境が人間をつくどんな土地に生まれてどんな家族で育つとかどんな職業の家に育つかそういう環境が人間をの遺伝よりも大きな影響力を持つのである。どんなに優れた素質を持っていてもし家庭が悪ければ貧乏であったりすれば伸ばすことはできないのである。それは植生でも風土でも違っていればそれぞれ違ったものとして育つと同じである
場所が変われば気持ちも変わるということにもなる。それだけ環境の影響が大きいとなる。だから人間も生物の一種であるから環境の産物だとなる

特に日本だと北海道は大陸的風土であるその土地に船で降り立った時から何か気持ちま広々として変わってしまうのである
それだけ北海道は本州とか違った世界だからそうなる。アメリカだとグランドキャニオンとか見たときそこはあまりにも異質で別の惑星にでも来たのかと思ったそういう場所に住んでいる人の気持ちはどうなるのだろうとも見る。
また砂漠のようなところに住んでいる人のはどういう気持ちになるのかとなる。それは日本にはない光景だからそうなるのである。それに対応する言葉も見出せなかったからである。

人生とは何が記憶されたかどうかということをあまり考えない。でも最後に老人になればあなたに記憶されたものは何なのかとなってしまう。何も語ることがなければその人の人生は何だったとなってしまうからである。私は10億円を残しましたといってもその人の人生は何だったのかとなってしまう。その人の人生とは経験したことは体にまで記憶として刻まれた事だったのである。

実りある人生とは何か
米が実るそれを刈り取る
野菜を畑で直に収穫する
果物がなり手に取り収穫する
その時喜びがある
それは数でもない金でもない
それは体で喜びを感じる
それが神への感謝にもなる

農業は何が実りとなるかわかり安いのである。でも数字ばかり追っていたら何か実りを感じられないのである。
ただなぜエジプトの書記が穀物を計算する書記が神に様に崇められたのか、それは今の官僚が力を持ち崇められるとなるのと似ている。すでに文明化していて数字を操作する者が力を持つとなっていたのである。
だから官僚とは必ずしも価値ある物とはならない、ただ数字化して権力を持った人たちだとなる
でも権力を持つことと価値あることは違う。そこが勘違いされやすい。政治家は権力持つから偉いとなるが価値があるかどうかはわからない、むしろ食料を生産している人が価値があるとも言える
価値は多様だからわかりにくいのである。