2024年12月01日

岩と文目の詩ー夫婦をイメージする 【人間は見ること記憶することが仕事でもある】


岩と文目の詩ー夫婦をイメージする
【人間は見ること記憶することが仕事でもある】

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岩と紫菖蒲

重々しく夫は岩のごとく
その片へ妻は従順に貞節に
紫の文目のごとく
その色を濃くして
夫に添え夫に仕えぬ
夫は岩の如く動かず
二人を目合わせしは神なり
かくて歳月を重ね夫婦は
互いに欠けたるものを補い
契りの堅く離れざるかも
静穏な日々を重ねてこそ
有意義なる実りはあるべし




人間の心にも様々な作用がある。その最たるものが観ることである。人間は見て認識することが基本にある
では花を見るというとき本当に花の美を見ることができるのか
何か人間は何かを理解することでもまた見ることでも一回くらい見ても分らない、忘れてしまうだろう。だからどうしても旅となると表面的なものしか見ないとなる。それは一回しか見れないからそうなる。

私は40年前とか河川改修するまえの土手の道を歩いていた
そのとき草叢に菖蒲ではなく日本に自生していた文目を見ていた
そして薬師堂があり白いツツジに覆われていた記憶がある
その薬師堂は別な場所に移された、何かあの頃は自分の一身上でも平和な恵まれた日々だった。
私は自由にいつも散歩していた。でも激変は津波と原発事故とまた家族の病気の介護と看取りがあり激変したのである
そして家族もみんな死んだのである。でも平和な日々が長かったのである。一般的にそんなに変化はないのが普通である。でもその平和な時に何か花を見ることでも深く見れるとなる
だから何故今頃思い出しているのか不思議だとなる。
そんな前のことなら忘れるからである。だから人間の記憶は謎である。そんな遠い前のことを思い出すのが不思議である


水に映る紫の菖蒲の花が
池の水底に映されて
その花を私の脳裏に記憶される
それが随分時間が過ぎてから
またその花のことを心に見る
あなたの心に何が映るのか
日々の暮らしのなかで
静穏な暮らしの中で留まる記憶
あなたの心に映るものを知るべし

The purple iris flowers reflected in the water
Reflected on the bottom of the pond
the flowers are memorized in my mind
After a long time has passed
I see the flower again in my mind
What is reflected in your mind
In my daily life
A memory that stays in the quiet life
You must know what is reflected in your mind



deeplel翻訳したものであるがpond-mindが韻を踏んでいる、だから詩にもなる
AIが詩を作るが韻を踏むとなると簡単におできない、これは偶然にそうなった




人間最後に残るのは思い出だけ記憶だけだというときそれは平凡な日常の積み重ねが人生でありその時間のなかに記憶される
一割くらいは何か激しい変化があったとしてもあとは平凡な生活の繰り返しである。でもその平凡な生活の中で記憶されるものがわすれないとなる。ただ自分の住んでいる場所が記憶に残る思い出すというときやはり変化しても変わらないしイメージできるからだとなる。場所と一体化しているから思い出しやすいのである

ともかく岩があり文目が咲きそれが一体化する。それが夫婦にも見える。岩は夫であり文目は菖蒲は妻となる。その時岩と花とは一体化する。人間は自然の事物でも人間化する。
自然でも人間的価値を付与して自然は活きる。名前を付けること自体が人間化していることである。エデンの園では人間は植物であれ名前をつけるこをしていたというのもそうである
名前をつけることはその特徴をとらえて記憶することにもなる。
だから名前を付けることは誰でも詩人になっているとなる


2024年12月02日

人は誰しも価値を認めてもらいたい―冬に入る、冬の菊 【家族の価値、故郷での価値‥価値は多様】


人は誰しも価値を認めてもらいたい―冬に入る、冬の菊
【家族の価値、故郷での価値‥価値は多様】

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今はこのように群像になりにくい、ばらばらになっているからである
農民社会だったら群像になりやすかったとなる、同じ職業になるから共有する
それで一体感を持ちえたとなる

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我が母の嫁ぎて長し冬の菊

玄関の曇りガラスに映りける冬の紅葉や母を想いぬ
大らかに笑いし姉の我が家を守りて長し今なきしも
我が町に働くと老いぬ豆腐屋の女のあわれも残る虫かな
その人今あるごとく重々し岩を残して冬に入るかな
岩一つ空家に残り何をかを語るものあれ冬に入るかな

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人間は誰でも価値あるものでありその価値を認めもらいたいのである。その価値も多様であり家で価値あるものがあり故郷という範囲で価値を認められるものもある。
だから田舎では農民の顕彰碑が多い、でもそれを今見て価値を見出す人がいるのかとなる。また戦争で死んだ人を記念する石碑があっても上等兵とかの墓があってもそれに注意してその価値を今認める人がいるのかとなる
人間は死んだ時点で休息に忘れられてゆく。ただ私の家族が忘れられないのh60年も子供の時から一緒に暮らしていたからである。母は目立たない人で働くばかりの人だった。
だから冬の菊とか冬紅葉がにあっていた。姉は外交的であり大らかな人であった。性格は全く正反対だった。でも私はこの二人の女性に育まれて一緒に暮らしたのである、だから忘れれないし死んでもやはり依然として残るものがある。

最近死んだ男性も別に親しいということでもないが知っていた
それでその家には立派な岩がありその人はがっちりした体で岩のようでもあった。その家も庭もトラック運転手で人の倍の荷物を運び20代で建てたのである
だからいつも自慢していたこともわかる。今20代でローンなしではとても建てられない、私の家も新しく建てたのはローンではない、400万くらいで大きな家を姉と母で建てたのである、その時はまだ大工の手間賃が安かった、でもすぐその後に倍とかあがっていった。そして私はその家を継いで住んでいられるのも姉と母の御蔭なのである。

何故二階の家を建てたかとなる水害で前の平屋のトタン屋根の家が破壊されたことで逃げることができないで危険な目にあったからである。場所が悪く低い土地にあった。だから今でも大雨になると下水から水があふれて家まで入って来たのである
その後も床上浸水している、でも河川改修してからは洪水にはならなくなった。何か一つ一つの家に歴史がありそれが郷土史にもなる。ただそれも空家化しているからその歴史も失われるのも問題である。

人間は死んで終わりではなくその後も価値を認められたいのである。それでこそ価値を認められて成仏するとなる。ただ死んでも何も家族でも語られないとしたらその人は浮かばれないとなる。
ただ近くでも今何をしているひとかわかりにくい、だから故郷でも価値がわからない、それで30年前殉職した消防隊員の記念碑があったことはその人の価値が認められているから成仏したとはなる。

とにかく人間は死んですべてが終わるわけではない、生き続けるものがある。それが歴史だとなる、historyはストリー物語だからである。それでも何も死んでから語られないとしたらその人は本当に死んだのかともなる。長く語られつづければ生き続けるともなる。だから消防隊員でも石碑に記念されて残ることは価値あるものとして残されたから成仏するなる

ネットだと細部が報告できて価値を乱し認める。でもマスコミは全国民が相手になるから細部は報告できない、プログでは全然注目されないことを報告できる、何か個人的なものでも語れるのが特徴なのである、マスメデアはオールドメデアになったのである

古い碑が語る故郷の昔−
消防隊員が殉職した碑【秋の暮、菊、柿、冬に入る】

ノブレス・オブリージュとは何なのか 
【大衆社会で失われたものー公務員も尊敬されないのでやめる人が増えた】
命がけの仕事なのに文句ばかり言わる消防隊員の不満の怖さ






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2024年12月03日

冬に入る相馬の城下町(紅葉映える黒橋)―俳句十句【晩菊、紅葉、冬に入る、冬星座】


冬に入る相馬の城下町(紅葉に映える黒橋)―俳句十句【晩菊、紅葉、冬に入る、冬星座】


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【松川浦】


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磯部村このような砂州の上にあったが津波で消失した


相馬市や晩菊五色城下町
城下町紅葉の映えて門を入る
黒橋に紅葉の映えて登城する
黒橋に紅葉の散りて上るかな
城下町散りし紅葉や夕暮れぬ
組合す石の堅しも冬に入る
組合す石の堅固に冬星座
冬の灯の灯り合うかな城下町
松川浦冬夕焼けやひびく波
夕暮れて白鳥飛ぶや一番星
主逝く大石残し冬の星

相馬市は城下町である、でも城ないしどこが城下町なのかとなる。石垣があり丘の上に城があった。でも館のようなものであり最初は天守もあったらしい、でも普通の人はここがどうして城下町なのかとなる。町割りは碁盤の目のようになり城下町としての名残がある、6万石であり規模が小さいからそうなった。

また相馬藩で不思議なのはなぜ華麗な野馬追行列がありうるのかとなる。それは街から出ない郷士であった農家から出ている
それでもやはり城下町であり原町とは雰囲気が違うのである。
それがいつも不思議になる。それで晩菊でも華やかに5色になるのを見た

城に上る黒橋に紅葉が映える、それもあっている。あそこは急だからやはり城に攻められないような構造にはなっている
それにしても何か物語にも欠けているし昔が偲べないのである

それから松川浦をまわり磯部に出て六号線を帰って来た
磯部村は津波で消失した。それも13年過ぎている、磯部村は一番被害が大きかった。

白鳥が夕暮に飛ぶのを見た、白鳥は場所変えている。あんなとこrにいたのかと見るからである。


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明治維新と東北−文化の時代の変化 【なぜ少年兵が戦い死んだのか?−強固な侍共同体があったからー失われた共同体】


明治維新と東北−文化の時代の変化
【なぜ少年兵が戦い死んだのか?−強固な侍共同体があったからー失われた共同体】

●地理から見る東北の戊辰戦争

なぜ戊辰戦争戦争で東北が薩長軍に蹂躙されて敗北したのか
その第一の理由として地の利があった
情報を得るのに江戸までも遠く京都になるとさらに遠い
その時情報を得る手段は人伝いであり何が起きていたのか対処が遅くなる。

臣不肖ながらもとより朝廷に抗し奉る存意は毛頭ありませんでしたが遠境隔絶の地に在しておりましたゆえ、春以来の天下の形勢に疎く恐れ多くも宸襟(天子の心)を悩ますに至った次第です

同盟軍を主導した仙台藩伊達慶邦が新政府軍に提出した謝罪文

仙台に奥羽鎮撫軍なるものが到着した時点でではその鎮撫軍はそれが官軍であり新政府軍の認識があまりなかった。
薩摩長州軍であり政府軍とか天皇の軍と戦うという意識はなかった。これも京都とか江戸が遠くて正確な情報を得られないためであった。そもそも江戸時代とかなると何かを正確に知るにも人伝いであり遅れる、その遅れることで知ることができないことで対応が誤る。それが東北の諸藩にあった
薩摩長州は海に面して交通があり薩摩藩では中国と貿易していたり外国の船が身近に来てイギリスと戦ってもいた。また貿易で財政が豊かであり海に面していない会津とか他の藩でも米を主要な財源としていたのと違っていた。
ただ庄内藩は酒田港があり最新の銃を知れていたりして唯一薩摩長州軍と互角に戦った。地の利がありそうなった

また二本松市の地理は複雑である、城のある場と町人の住む場所は山で隔てれ簡単に通行できない、分離しているから町人のこと知らず武士的なものが純粋培養されて少年隊が悲惨な最期を遂げたいう指摘もある。それは地の利がそうさせたとなるのか、確かなことは二本松城は山城でありそれが影響したかもしれない、山に籠る山を守るとかなり薩摩長州軍に抵抗したとなる

二本松は明治維新後二本松県になることまった。丁度福島県の中心にあった。でも平地がないので福島市と郡山市が発展した。福島市に県庁があり郡山市は経済の中心地となった。それも地の利が影響していたのである。地を離れて人もないのである。
薩摩長州軍と東北連合軍が戦ったのだが棚倉町が決戦の場所になったの地の利が関係している。なぜなら古代に蝦夷はツガルまで参加して大和王権と戦ったからである。白河ではなく棚倉町が戦いの場となった。相馬藩士もそこで戦い死んだ人がいる。それが戊辰戦争戦でも再現されたとなる
つまり地の利がそうさせたのである。歴史は地理と不可分なり地理がわからないと理解でできない。特に東北は江戸や京都から離れすぎていたから当時の情勢にうとく判断を誤ったとなる。臨機応変に対応できなかったのである。

●二本松藩と会津藩の戊辰戦争戦争の相違

会津藩と二本松藩の相違は会津藩は女性が戦い戦死した。少年も白虎隊で戦ったが女性が戦ったことが違っていた。何故なら戦国時代でも子供女子は逃がしていたからである。だら二本松藩では子供女子は逃して死ぬことはなかった
もう一つは会津藩ではあれだけの被害があり薩摩長州軍と必死に戦っていたのに町民でも農民でも傍観していた。それより会津で年貢の負担に不満がありその時好機とヤーヤー一揆を農民が起こしたのである。つまり侍と一緒になり城を守るという意識はそもそももっていなかったのである。誰が支配者になるにしても年貢の負担を減らしてくれれば良かったとなる

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戒銘石

でも二本松藩では善政がしかれていたのでそいうことはなかった。こういう意識が藩内にあった。ただそれでも江戸時代は城があっても戦い死守するのは侍であり農民町民は戦い守る意識はなかったのである
それが中国であれヨーロッパであれ大陸国家また都市との相違である。なぜなら中国の万里の長城のように絶えず異民族の侵略がありその時兵士だけではないすべての民が蹂躙されて負ければ奴隷にされる歴史があったからである。その恐怖を共有していたのである。ヨーロッパでも市は城壁で囲まれその中で安全を保ち生活する。だから城壁内で死生を共にする連帯が生まれた
それでシテズンシップが養成されたのである、だから敵が攻めてきたら市民是認で戦うのである。農民で市壁の中に逃れて戦うとなる。日本では侍集団のみが戦うのであり別に侍と共に戦うことはなかったのである
ということは市民が日本にはいなかった。だから市民社会もないのだから大陸国家を根本的な所で理解できないとなる
教育にしても侍と農民と町民は別である。侍なら侍とはいかにあるべきかと武士道を自ずと身に着ける。でも農民であれ町民は読み書きソロバンができればいいとなっていて武士道など関係なかったとなる

また悲劇を生んだのは銃器の差だった。会津藩であれ二本松藩であれ旧式のもので大砲もなかった。だから武器で太刀打ちできなかった。ただ庄内藩では酒田で貿易をして最新の銃を知れて薩摩長州軍と互角に戦った。酒田は海に通じていたからそれができたとなる

●人間はその時代社会の影響で作られる

江戸時代というとき現代と比べると大きな相違は侍社会であり侍が力でもモラル的にも導いた。また厳しい身分社会でありそれを脱することはできない社会だった。
だからこそその身分でも上級侍と下級侍では差があり不満があり明治維新は下級侍が中心になり変革した
それで奇兵隊が高杉晋作が組織化したけどそこには町民でも農民でも侍でない身分の者が参加したことが画期的だったのである
強烈な身分の縛りから脱するものとして明治維新があった。

だからこそ足軽に養子になった伊藤博文が首相までなったのである。江戸時代ならありえないことだったからである
この身分社会がどいうものか理解できなくなった。でも相馬野馬追はただの過去を偲ぶ祭りではない。身分社会が現実に再現される祭りなのである。だから見る者は下位のものであり馬上にお侍を見上げる。その時明らかに侍と下々の者の差を意識する
要するにヨーロッパの貴族であり身分社会であり強い身分の縛りががあり生まれた家でその一生は決められる。
だから侍社会があり共同体がありそこで武士道のモラルが家であれ養成された。武士はかくあるべきだと日常の生活で体得したのである。それは部分的なものではなく武士の規範が社会全体に通じる社会だったとなる

それはギリシャのポリスとかでもそうである。ポリスが一万くらいでも強固な共同体でありそこで民主主義が培われたというときポリス共同体があったからできた。ただ矛盾が奴隷階級がヨーロッパには常に存在していて一般の庶民と分離していたのである
ともかく何か人間を育成する時それは一人の人間がいかに優れていてもできない、それは全体が影響して形成されるからである。
現代はそういう共同体が失った時代である。絶えず語られるの経済のことであり政治のことであり科学技術のことである
そして膨大な知識が詰め込まれるのが学校でありまた社会である
そんな知識をとても消化できないのである。そこに人間はどうあるべきかとか関係ない、とにかく得すること知識を得て金を多く得る人が模範なのである。そこにはモラルでも関係なくなることが怖いのである。だからもはや人間を教育する場がない、大学でもそこは文系なら遊びの場だとか暇つぶしのモラトリアムの場だとかなる、大学教授は研究する人であり教えなというのも不思議なのである。そこで学生運動がうまれカルト宗教団体がナチスのように席巻する恐怖になった。

●巨大国家から都市から文化は生まれにくい―文化の時代に変化

つまりそれは共同体の喪失の結果だったのである。グローバル経済があったとしてもそれは共同体ではない。ただそれで人間形成にはならない。そこで力を持つのは金だけになる。モラルなき経済なのである。そこにあるのは世界的部品化でありばらばらの出界なのである。何か全体を生きることができない全人間として生きることができない世界である。マルクス流にいえば人間の商品化なのである。
もちろん江戸時代がすべていいものではなかった。ただ現代と比較する時見えてくるものがある。
要するに小規模なポリスとか要するにの中世と都市とか小国にこそ文化はうまれ人間はまともに形成されたとなる

中国であれロシアであれ国が巨大だと返って統一がなく濃密なアイデンティティは形成されない、一極集中の帝国主義になる
現代は経済のグローバル化になったが地域的にアイデンティティを見出す文化の時代になってゆく、アメリカフアーストとかトランプが唱えるのもそうである。グローバル化は文化を作らないのである。自然と人間の一体化アイデンティティ化とかギリシャのポリスとか中世のヨーロッパの市民社会とかまた日本なら江戸時代の侍社会にあった。そこに矛盾がありすべて肯定することはできなくても何かモラルが共通のアイデンティティが形成された。
だからcultureはその土地土地を耕す(culutivate)から出ている。文化の時代になるというときアメリカであれ中国であれロシアであり国土も巨大過ぎてアイデンティティ化できないのであり文化が生まれにくいのである。

現代の荒廃はなぜ生まれたのか、どうしても一千万の東京は何なのだろうというときもはや理解不可能である。とても連関性はもてない。ばらばらの世界であり統一した世界になりえない、だからこそそこにナチスが大衆を扇動するヒットラーが生まれたとなる。それはカルト教団がそうでありただ数だけを集めることが目的として大衆を支配するのである。それにマスコミが加担して大衆をパンとサーカスで娯楽を与える、無思考人間にする
だから現代は大衆が力を持った時代である。でもそこから文化は生まれない、かえって小規模な都市からでも文化は育まれるのである。

参考にした本ー数学者が見た二本松戦争ー渡辺由輝





2024年12月04日

山を聖なるものとした宗教は世界共通 【現代文明は大都市からはカルトとか異常なものしか生まれない】


山を聖なるものとした宗教は世界共通
【現代文明は大都市からはカルトとか異常なものしか生まれない】



聖なる山

山は聖なる場シナイ山に
モーゼは十戒を神より授かる
その荒寥たる厳格なる山々
山は神より啓示を授かる場
ギリシャのドルフィーの高みに
清水は山より流れ落ちて
神殿の柱はもの寂び古りぬ
ここに巫女は神より啓示を受けぬ
山は深く黙し鎮座する
崇高なる山を仰ぎ心も高なる
日本の山伏は尾根を伝い修行する
六根清浄を唱え身を浄める
山々の重なる深い奥処
神は人を拒み隠れ棲む
重なり連なり聳える山
山と山は力強く結び合いぬ
地球創成の太古の紐帯
億年の風雪に鍛えられた山
地球の歴程が刻まれた山
山は力強く威圧する
荒々しく人を寄せつけず
山唸るその底から虎のように
神は不浄を拒みその中に住み
そして未だ見ぬ神秘の花を秘めて咲く

智は、鳩摩羅什訳の『法華経』『摩訶般若波羅蜜経』『大智度論』、そして『涅槃経』に基づいて教義を組み立て、『法華経』を最高位に置いた五時八教という教相判釈(経典成立論)を説き、止観によって仏となることを説いた学僧である。

天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった

さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。

天台宗

日本の仏教は天台宗から始まっている。近江の比叡山がその本拠地となった。天台宗は天の台であり山岳宗教だった。だから山で修行した。そえは山自体を聖なるものとするものがありそうなった
奈良の三輪山は何を礼拝しているのかというと山そのものが礼拝の対象なのである。そこに礼拝すべきものがないからである
山が御神体のようになっていた。
それが世界的に共通しているものがある、シナイ山でモーゼが10戒を授かったのもそうである。シナイ山に登ったがこには1本の木もないし草もない岩石の山である。砂漠の山は大概同じである。だから荒寥としている。

またギリシャのゼウスが住んだオリンポス山も雪に覆われて高く本当に聖なる山と感じた。いかにも神が棲むにふさわしいと感じた。デルホイの神殿も山の上にありそこが中心となり巫女が神より啓示を受ける場所になった。だから人間の感覚として山に聖なるものを感じたことでは世界で共通している。共通の感覚をもっていたとなる。

だからこの辺で福島県でも霊山は僧侶が修行する場でありその後に南朝の拠点になった。学問岩とかもあり何かそこで学んでいたとなる。でもそこは戦場となり炎上した。
それから山形県の山寺でもやはり天台宗の僧が修行した場所なのである。つまり山を聖なる場として修行した。それは江戸時代でも修験者がいて山で修行した。山伏がそうであり法印の墓が小さな村でも町中でも必ずあることでもわかる。六根清浄を祈り修行したのである、山で霊力を身に着けるということがあった。
そのがの鎌倉時代になっても念仏を唱える親鸞の真宗とかがうまれたのも実は天台宗の比叡山で修行していたからこそそこでヒントを得て念仏を唱えることになった。日蓮でもそうである。
天台宗を基にしていることは共通しているのである

だから現代の宗教が東京という大都会から生まれているというときそれがカルト宗教となった。ただ創価でもオウムでも富士山にお山にお参りするとかあったかたやはり山を聖なるものとしている伝統が続いた。ただ創価は団地の宗教と言われる如くそれは地方から出てきた人たちが仲間作りして政治団体化したのである。
だから選挙宗教にもなった。権力奪取を目的とする政治団体化した。それは本来の宗教的要素がない、ただお山参りとして富士山の本山に行くというのは山で身を浄めることがありその伝統を受け継いでいたのである。

天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される

題目をあげるということとは天台宗を基にしていたのである。
それが狂気のように御利益現世利益を求めるカルトと化したのである。何ら宗教的なものがないのである。
何か身を浄めるとか教えない、毎日御利益を得るために狂気のように祈るだけなのである。山で修行することは山の清浄な気に触れて身を浄めることである。そいうことが一切ない、ただ現世利益と御利益を求め祈るだけだとなる、それが宗教として通用したということも異常であった。何かナチスとも似ていたのである

だから古代であれ人間の感覚として世界共通なものがあり聖なる山への信仰があったことはそれは正常だったのである。
人間はそうした聖なる感覚を文明化で失ってきたのである。
だから文明自体が大都会自体が何か返って異常なものを生み出すし犯罪の温床にもなる、そこは連関なき社会であり人間がアトム化した荒野なのである。そういう場所から何は生まれるのか?
異常化した世界でありオウムのような異様なものも生まれる
つまり東京自体が異常であり異常なものを必然的に生み出すのである。それは山を聖なるものとして修行した人達とはまるで違っていたのである。そこではロゴスが言葉も通用しなくなっている

混沌カオスでありだからこそハイルヒットラーのナチスが生まれたとなる。
人間の精神の修養とかはない、ただ物質的なものの追求なのである。高層ビルにしてもそれがあまりに大きいから人間的なものを逸脱して人間の精神が作用しないアイデンティティ化できないのである。
それは恐竜のようなものに感じる。巨大というだけでそこに精神は宿らないのである。建築でも古代であれギリシャの神殿であれそこに精神性を感じる。キリスト教の聖堂でもイスラム教のモスクでも精神性を感じる。だからアテネの学堂という絵は建築と人間が一体化して建築が人間に威厳を与えている。現代文明は人間と建築は分離して建築が人間を圧倒して人間を卑小化している
そして人間はただ数となり大衆化してそこに人間の威厳は失われたのである。

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建築から見る歴史(アテネの学堂-詩)

2024年12月05日

キツネが一匹近くの道路で死んでいた 【全国的にキツネが増えている】


キツネが一匹近くの道路で死んでいた

【全国的にキツネが増えている】

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飯館村では数匹のキツネを見た


18年からキツネの情報を収集している県立自然博物館(海南市)によると、紀ノ川流域の住民から「キツネを何十年ぶりかに見た」「何年も住んでいるが初めて見た」などの声が寄せられているという。さらに交通事故に遭ったとみられる死骸も複数見つかっている。

専門家は、キツネが都会の真ん中に姿を見せるようになった理由を「屋外に生息するキツネの数が増えると、人間が生活する都市部にも進入してくるキツネが増えてくる。 空き家や緑の多い公園に巣を作って、すみついてしまう」と話す。

「レッドデータブックなごや2015」では、キツネの都市動物化についても触れられてますが、実際 桃花台ニュータウン内にキツネが生息してることを考えると、名古屋市内でも都市部にもキツネが生息範囲を広げる可能性は高いのではないかと。


今朝右田の方に行ったらキツネが死んでいた。交通事故なのか、あそこは車が通らない道である、でも交通事故なのだろう
またキツネと犬は見間違い安い、でもこれはキツネである
ネットで調べると全国的にキツネが増えて市街地にも出てきている報告がある。
飯館村でもキツネを何匹か見た。飯館村の場合は原発事故の避難区域になり空家が多くなり猿も人を恐れずでてくるとかある

ただ街中でキツネは見なかった。だからキツネが増えていることは確かである、一時減ったのは伝染病のためらし、それと全国的に空家が増えたことも関係しているかもしれない、空家に住み着くなればそうである。
とにかく空家が街中でも増えているからである、いずれにしろ人間が減ると野生動物でも増えるとなる

キツネは昔ニワトリを襲ったとかの話を聞いたし身近なものとしてあった。キツネにだまされた昔話も多くあるから人間と関わる親しい動物だったのである
何か熊がスーパーに隠れたとか話題になった、野生の動物が街中に出てくる原因は何なのか?餌不足なのか、キツネの場合は増えたのはなぜなのか、空家とか空地が増えたためなのか、それは人間の方の変化が野生動物にも影響したともなる。

ともかくインターネットの便利なのは全国のニュースが検索できることである。キツネで調べると全国的に増えていたのかとわかるからである。また地域のことが別に新聞社でなくても個人的に報道できるのが強みなのである。無数の地方新聞社が存在するともなるからである

posted by 天華 at 09:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2024年12月06日

真野の草原の歌の謎ー毛野氏と伽耶国ー安曇氏系統の八木氏と犬養氏の関係 【真野古墳群の船の線刻画の謎】


真野の草原の歌の謎ー毛野氏と伽耶国ー安曇氏系統の八木氏と犬養氏の関係

【真野古墳群の船の線刻画の謎】

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●なぜ浮田国造が毛野氏になったのか?

毛野国は相馬地域からかなり遠い、だからどうして毛野氏の鹿我別王が浮田国造になっていたのか、今の栃木県とか群馬県になると遠い、ただ常陸国に毛野氏の勢力が拡大して常陸国からこの地に来たという説がある。地理的にはそれがなっとくがいく

毛野氏を考えると任那の安羅と耕地の争いがあり洛東江流域の東方で新羅領と任那領の中間に位置した国とも記している。神功49(369)年荒田別、鹿我別を将軍として百済の死者と共に卓淳国に集まり新羅を撃破した

卓淳国の地は二説ある。軍隊を動員して比只(ひし)国、多伐国、
草八国―慶南国を討伐してここを併合したという記録がある

この草というのは伽耶(かや)のことであり草(くさ)ではない
音が基でありそれに漢字を当てたからまぎらえあしくなる。それは北海道のアイヌ語に漢字を当てたのと同じである

伽耶(かや、伽倻または加耶とも)、加羅(から)、または加羅諸国(からしょこく)は、1世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国々を指す。

毛野氏の浮田国造鹿我別王が将軍として派遣されていたことが重要である。なぜならなぜこの相馬地域に浮田国造が置かれたのか
それはまた伽耶国と関係していた。それが重要なのである

みちのくの真野お草原遠けれど面影にして見ゆというものを(笠女郎)

この歌の草原とはカヤハラのことでありカヤに草を当てるからわかりにくくなった。つまり草八国とは伽倻八国のことである。
となれば草原は単なる草でもないし萱が茂っている地でもない
国名だとなる。それは毛野氏が伽耶国と深くかかわっていたからだとなる。

とにかく伽耶とは日本が支配した日本の一部であり密接な関係がある。最近前方後円墳が伽耶地域から発見されたことでもそうである、任那に日本府があったし天皇も伽耶の出だというのもそうでらる。
だからこそこの地域が深く伽耶と関係して真野の草原の歌が生まれたのでありその背景は伽耶と密接に関係していたのである
韓国伽耶地域の地名が日本にも移されている。近江の真野とかの地名も移されている。笠とあるはこれも漢字を当てたのでわかりにくくなる。笠とは加佐という韓国の地名なのである。
埼玉県行田市の埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣に
加差披余となっている。カサヒヨは元の音でそれに漢字の当て字になるから誤解しやすいのである

だから笠女郎は渡来人系だともなる。伽耶の王子のツノガノアラシトノアラシトでもアラは阿羅国があり地名から出て荒になり毛野のかが別と荒田別がいたとしてこのアラからきている。つまり渡来人系統伽耶国からでているとなる
また唐神という地名がここの真野郷にあるが唐は韓であり中国ではないのである。仏教が韓国を通じて入って来たからである。
とにかく日本の古代史は伽耶と密接関係がありそこが起源になるから伽耶を知ることが大事にになる
洛東江は大河でありそこを電車で下ってきたことがある、この流域に伽耶の国があったのかと春の日に思ったのである。一つの日本の故地でもあったとなる

●長野県の安曇野の八木氏犬養犬飼氏の跡

新撰姓氏録に安曇宿禰(あずみのすくね)海神綿積豊玉彦神の子、穂高見命の末なりとある
その穂高神社の神官に犬養犬飼がいた。新撰姓氏録を参照すると
安曇犬養連がありそれは海神大和多罪(おおわたつみ)の三世孫
穂己都久命の後なりと記されている。ワタツミの子がホタカミその孫がホコツクということになる
穂高神社の神官でもう一つ注目すべきは和田氏である
本姓は倭太(わた)である。

犬飼の地名として下高井郡の野沢温泉は犬飼の湯と呼ばれ郡内に犬飼の地名がありその他八木、波田、畑、、、、は海洋民に由来する

信濃川を下流から上流までたどってみると河口付近から源流近くまで海洋民ゆかりの地名が点々と連なっている

全国を見渡すと福浦、福良,吹浦とあり海人族とかんけいあるらしい。三原郡阿万(あま)に福良駅がある。三原郡には養宜(やぎ)
郷もありこれは安曇氏の八木造と幡多郷があり幡多(はた)は魚の総称のことであり朝鮮語のパタに通じ海人族の居住地名と考えられる
波多、波多、波太、幡太、八多、八太、飯田、半田・・・さらに北部九州では畑の地名が海人関係と並んで多数存在する、これは海を意味するかもしれない。

丹後の海部については丹後加佐郡に海人関係の式内社として与謝郡龍神社(この神社).宇良神社が鎮座する
海人関係を拾えば舞鶴市(和田、加佐郡)に和田、八田、大江町、宮津市に由良、畑、加悦(かや)町・・・とかある

龍神社(この神社)が『延喜式』で山陰道唯一の官幣大社に指定された丹後国一之を宮で総社を兼ねるようになったのも同社の古さを物語る
この社を奉斎した祝部海部直に代表される丹後地方の海人集団の実力が想定されなえばならない

海人の伝統ー日本の古代ー中央公論社ー大林太良編


犬飼(犬養)の地名について考察した。それは安曇氏系統の犬飼(犬養)であり海人族である。また龍神社でも松川浦の原釜にあった。つまり海人族の跡が濃厚に残されたのがこの辺である
その基は九州の福岡にあったとしてもその後拡散して瀬戸内海から大阪から尾張の名古屋から静岡県と拡散したのである。
小高に角部(つのべ)とあるときこれは伽耶国の王子ツノガのアラシトからきているし福良も福浦と小高に地名がありそれも海人族の跡さとなる。そもそも畑がパタであり朝鮮語で海だというときそれは海人族でしか発想できない、海で魚捕ることで食料を得られるから畑で食料が得られるから畑でも海と同じだとなった

そしてなぜ犬飼なのかとなると犬に魚を与えて養ったからだというのも何か納得する。
ともかくなぜこれほどか海人族が日本列島にかかわったのかそれは四方が海に囲まれていたから海を渡ってきた人が入ってきたのである。その人達が内陸の山の中にも入って来たのである

「厳々(みつみつ)し 久米の子らが 粟生(あわふ)には 香韮一本(らみらひともと) 其根(そね)がもと 其根芽認(そねめつな)ぎて 撃ちてし止まむ」

「厳々(みつみつ)し 久米の子らが 垣下(かきもと)に 植ゑ山椒(はじかみ) 口疼(くちひひ)く 吾は忘れじ 撃ちてし止まむ」

「神風の 伊勢の海の 大石に 這(は)ひ廻(もとほ)ろふ 細螺(しただみ)の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ」

この歌は焼畑でとれるものであり日常生活で親しいものであった
生業として焼畑があり漁業もしていた人たちが海人族である
細螺(しただみ)いうのは漁業とか海で生活する人がかかわるもである。つまり久米族は海人族であり神武天皇軍の東征は海人族が先導したのである
それに安曇族が関係していた。だから神武東征とは海人族の安曇族の移動が下敷きになっていた。それで日本尾いたる所にその跡を残したのである。

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海人の伝統ー日本の古代ー中央公論社ー大林太良編

●真野古墳群から発掘された20人ほど乗る船の絵の謎

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こちらから草に火をつけて敵の方に火勢をしりぞかせた。そこを脱出してからその国造どもをみな斬り殺して、そして死体に火をつけてお焼きになった。それゆえ、今日その地を焼津やきつというのである。
 さねさし 相武さがむの小野に 燃ゆる火の 火中ほなかに立ちて 問ひし君はも

(さねさし)の相模の野原に燃え立つ火の、その炎の中に立って、私の安否を尋ねてくださったわが夫せの君よ)
その后の弟橘比売命おとたちばなひめのみことという方が、「神の怒りをしずめるために、私が皇子みこの身代わりとなって海にはいりましょう。皇子みこは命じられた東征の任務を成し遂げて、天皇に御報告なさいませ。」と進言して、海にはいろうとなさり、


日本武尊は上総かみつふさより転じて、陸奥国みちのくにに入られた。そのとき、大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦あしのうらを廻り、玉浦を横切って蝦夷えみしの支配地に入られた。蝦夷の首領島津神しまつかみ・国津神くにつかみたちが、竹水門たけのみなとに集まって防ごうとしていた。しかし、遥かに王船を見て、その威勢に恐れて、心中勝てそうにないと思って、すべての弓矢を捨てて、仰ぎ拝んで、従った。

竹水門がタカ港ともされる、式内社の多可神社があり高倉神社が南相馬市の奥の山の方にある。
そしてなぜ南相馬市の原町区に綿津見神社がこれほど多いのか、これは何なのかとなる。それで海人族の安曇氏の後裔の八木氏と犬養氏がこの地で地名化していることで明らかに安曇氏ではないにしろその後八木氏とか犬養氏が関わったことは確かである
ヤマトタケルの神話は安曇氏など海人族が日本全国に移動したことが下敷きになり後にヤマトタケルの遠征として創作されたともなる。

それでなぜ20人も乗る船の線刻画がこの地に残されたのか、それは誰が描いたのかとなる、海人族であることはたしかである
ただ
海人族でも物部氏でも船を作り操作する軍事氏族であった。それが安曇氏系統なのかどうかわからない、何故なら時代的に合わない、古墳から発見されたことは相当に前になり安曇氏の後裔の八木氏とか犬養氏が進出するのはその後になる。
ただ南相馬市の原町区であれ鹿島区であれ小高区であれ海人族であれ渡来人が深く関係していた。だからこそ20人も乗る船の絵が発見された。20人も乗るということはかなり大きな船であり外洋でも航海できるともなる。

古代では無理だとされているがつまり真野の草原は大和王権が蝦夷征服した北の境界戦でありそれで真野の草原は中央の奈良に知られたからである。ただここが船で来る限界地点であったかもしれない。気候的にも相馬地域は温暖であり奄美大島から種が流れ着いてマルハシャリンバイが海老村に自生した南限の地でもありそれで気候的境界戦になっていたこともある。
だからヤマトタケルの神話も全部想像で作られたのではなく何らかの事実があって作られたとなる。



引用が長くまた図も載せた、これは著作権違反になるのか?
でも和歌山県の和田の地名を大文字で和田として20くらいあると書けば著作権違反にならないかもしれない、ともかく著作権はめんどうである













posted by 天華 at 18:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2024年12月07日

貸金庫の金を銀行員が盗んた 【野村証券会社員が顧客の金を奪い殺人】


貸金庫の金を銀行員が盗んた
【野村証券会社員が顧客の金を奪い殺人】

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三菱UFJ銀行貸金庫10数億円以上の重大窃盗!
オールドメディアが報道しない理由】昔3億円事件で日本中が大騒ぎ!
今回は10数億円


この事件は今年7月、野村証券の社員だった男が広島市内の顧客の住宅から約1800万円を奪ったうえ、放火し、住人の女性を殺害しようとした罪で起訴されたものです


銀行が何なのか理解できない、別に利子がついている時は銀行が何なのかなど問わない、でも今になると利子がつかないし何のために預けているのかわからない、それで銀行員と証券会社の人が来て投資信託をすすめられる、それで損したとなる
銀行は証券会社なのかとも思うようになった。
銀行はそもそもどうしてもうけているのか?
それが利子もつかないとなるとわからなくなる。

銀行は貸金庫ではないか?

金を安全に保管してくれる場所ではないか
私がそう思ったのは現実に金をたまたま家に置いていたら本当に盗まれたからである
その人はここに前から住んでいた人ではない、でも遠くない所である

その人は【金をくれ】と家に来た、それで多少手伝いして緊急入院して家を空にしていた時家捜しされて大金を盗まれた
そもそも私はそんな人がいると思わなかったのである
金をくれと言って本当に屋探ししたのである。その人は今でも近く会うがなんにも反省などしない、悪びれもしない、そんな人が近くにいる驚きである。

野村証券の会社員が顧客から金を盗んだとかもありこれは何なんだろうとなる。もはや根本的なところで人間のモラルが崩壊しているのではないか、何かそうなると誰も信用できなくなる
確かにその人はずっと金で苦しんできた人である
だから金を盗むことに抵抗がなかった。でも金をくれと来て本当に屋探して盗むとは思わなかった

それだけ今の世は金だけしか見ていない、人が苦しんでいるからこの際金をとるチャンスだとしかならないのである
一人は事業に失敗したからその人も同じだった。今の人は金のことしか考えないのである。私が苦しんでいることに何ら考慮することはなかったのである。

そして金の切れ目が縁の切れ目となり終わった

何か今は人間のモラルとか日本人の良さとかも喪失している。日本人がアメリカ人になったというときすべてが金になってしまったのである。だから犯罪も増えて殺伐としたものとなる。
もう末世でありそこでは犯罪が横行する。それは銀行とか証券会社とかで犯罪が行われることでもわかる、そこは一番信用が必要なと所だからである。
銀行が既得権者の一つということはなかなか理解しにくい
銀行の役割とは何なのか理解しにくい、今までなら利子がついているから考えることもなかった。
私は銀行は貸金庫ではないかとも思った
だって利子もつかないとしたら何のために金をあずけているのかとなる。その貸金庫も銀行員が盗んでいたというのだから何を信用したらいいのかとなる。

つまり今起きていることはモラルの全般的崩壊なのである。金さえ得ればいいとしかない社会である。それは銀行員ならいつも金の計算しているのだからそうなる。金がこんなにあるのに私はたいして金をもらっていないと不満になり盗むとなる
つまり銀行員とか証券会社員は金しか見ていないのである

例えば農民なら果物でも野菜でも実ればそれが労働の成であり収穫する時喜びがある。でも銀行員の労働の喜びは何なのかとなる
医者なら患者を直った時喜びがある、物を作る人はいいものを作れば喜びがある、大工なら家を修理するとか家を建てることで充実感がある、何か金融関係にはそいうことがない、それで銀行員がやめて農業を始めた人もいる
意外と金融関係で働いた人は老人になった時語ることも何か仕事を成し遂げたということまなく空っぽにもなっているかもしれない、金融関係の仕事は私はこういうことしてきましたとか語れないのである。だから老人ななって自分がしてきたことを語れないのかもいしれない。ただ金は儲けている人が多いのである

でもその人は最後に何も語れない。その人生はただ金を右から左へ流すだけのものであり何か充実した実りがないとなる。
だから銀行であれ証券会社員であれ仕事としてはいいものに思えないのである。その仕事でも何も残らないとなってしまう
ただ何か成果があるものとして主張できるものもある。
それは見えない、大東銀行でもカードで支払いして不正を見抜いたのである。それで警告してくれカードの番号を変えた

だから銀行金融業で一番大事なのは信用であった!

その信用も失われたときその存在意義もなくなる。現実に銀行でも前のようにもうけられない。銀行自体がそれで成り立たなくなっていることも原因している、とにかく銀行でも信用がなくなったら終わりだとなる

それにしても野村證券の人は顧客の金を奪い殺すとなると何なのだろうとなる、世も末だだとなる。それは社会全体に起きているモラルの消失から起きる、盗むのがいいとなりそこに悪びれることもない、特に日本でも貧困化してくるとますます金を奪えばいいとしかなくなる怖い社会になる

posted by 天華 at 13:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2024年12月08日

ヨーロッパの心と日本の心の対比ー晩秋ボーデン湖の詩 【ドイツと東北の風土の共通性】

ヨーロッパの心と日本の心の対比ー晩秋ボーデン湖の詩
【ドイツと東北の風土の共通性】

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      ドイツの駅
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グローバルとローカルは結びつく―グローカルになる


晩秋のボーデン湖

波たたぬボーデン湖の岸辺の道
ポプラの木の枯れて線路は尽きぬ
静かに落葉を踏み歩む
ベンチに老夫婦が休む
古い教会の鐘が鳴り
赤い薔薇の心にしみぬ
ドイツの大地を踏みしめドイツを知る
荘厳なゴシックの大聖堂
その重厚な石の柱に寄り
パイプオルガンが鳴りひびく
調和の楽が鳴りひびきわたる
樅の木は荘重に大地に根を張り
重々しくも語り主の教えは語り継がれる
常に歴史は語り継がれる場
それぞれの国がせめぎ合うも
モザイクのように色は違っても
一つのヨーロッパは重層的に形成されぬ

ヨーロッパの魅力はモザイク模様のようになっていて国がそれぞれ個性があり歴史があり多様である。
バライテイに富んである。ロシアとか中国とかアメリカとか大国になると大きすぎてつかみどころがないとなる。
人間はそもそも国家があるとしてもそれは人為的なもの人工的なものである。

ドイツの一語は使う場合気をつけねばならないのはそれは国も民も指さず土地を指す、もっと前8世紀にはには学問、教会公用語ラテン語に対してのゲルマン土着人の言語を指し
ヨーロッパの心―犬養道子

土地を指すというとき国家とか国民とかは存在しない、それは日本でも同じである。お国はどこですかというときそれは大きな国ではない国家ではない、狭い範囲であり土地のことである
そしてもともと〔訛りは国の手形]というように訛りでどこの国の人かを見た。訛りはなかなかとれない。だから不思議なのはこの地から東京とか埼玉県に就職した人がその土地の訛りを話す
混交したものとなったのである。話すことでも長くその土地にいればやはりその土地の訛りが自ずと話すようになる。それが土地が変わり訛りも変わったとなる。ドイツ語に濁音が多いというとき東北弁も濁音が多い、ズーズー弁になるから似ている
だからローマ帝国のラテン語とゲルマン語は異質である
それでラテン語のキリスト教をゲルマン語にドイツ語で訳したルターがカトリックに対してプロテスタントになった

言葉が国家や国民ではなく土地をさす国が土地を指すというとき
日本でも国家はなく土地を指していた。

会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲ひにせもと 紐結びさね

という歌も国家ではなく一地域のことである。ただ会津で国と言った時はそれなり大きな国だった。大きな国が形成されていたのである。ここですでに日本国家が生まれていて防人として九州の方に派遣されていた。
つまり大きな国家が形成されて強制的に国家の兵士にされた。だから本来の国から離間させられて妻であれ母であれ家族と別れる悲しみが歌として残された。ク二は故郷のことであるからその土地と結びつく一体となる、でも国家は人為的人工的になるから本来の国と違っている。

ヨーロッパでも国も多様であり言語も多様である。その多様さがあってもヨーロッパは一つだという意識はキリスト教をベースにして作られた。ただラテン語で聖書が読まれ書かれていたのをドイツ語に訳したのがルターの時代であった。
ともかくヨーロッパが複雑なモザイク国家でありそれぞれに違った文化を育んだ。ワインでもパンでもチーズも百種類とかありその土地土地で違った味になる。
だからcultureはcultivate(耕す)から来ている。国家はそうした土地土地の文化でも一様化する
それは政治であり行政でも元々あった小さな国を無視して作られる。つまりクニとは自然発生的に作られたものである。

とにかくドイツは寒いとか陰鬱だとかなると東北の風土とも似ている、それで東北人とドイツ人は共通なものがあるともなる
朴訥で実直とか何か融通性がないとかで共通した性格がある
芸術にしてもフランスのモネのような明るい陽光はない。霧に覆われ寒く陰鬱である。何かそれが東北の風土と共通しているともなる。ドイツ語にしても言葉が何か重厚になり重い感じの発音になる。それはフランス語とは余りにも違っている。
大阪弁がフランス語ではないにしろ軽さがあり共通している
ズーズー弁の東北弁はドイツ語にも似ているとかなる

ともかくヨーロッパを理解することはむずかしい、なぜモザイクのように様々な国があるか、東欧はヨーロッパなのかとなる
ヨーロッパであれ大陸だと陸続きだから絶えずそれで争いになる、それは川を挟んで国が対峙する、それでriverがライバルになったことが地理から納得がいく、それはウクライナの戦争でもドニエプル川を挟んでの攻防があったことでもそうである
ライン川はラテン諸国とローマ帝国とゲルマンを分ける境界線になった。大陸国家では川が境界になりやすいのである

あなたはお聞こえなりませんか
裂かれた土地のすすり泣きが
もぎとられて行った大地の泣き声が

この美しい風景に血がにじみつづけて止まらないのか
血は一刻も止まらずに、にじんでは流れてヨーロッパの痛みをかきたてつづけているのです
犬養道子ーヨーロッパの心

これはまさにそうである。ウクライナ戦争で依然として戦争が継続されて血が流されていることでもわかる。それは陸続きであるために起きる、日本なら海で囲まれているから異民族の侵入ができなかったからそれがわかりにくいのである。