2024年10月01日

苦しみとなって自覚させられるカルマ 【延々と続く解消できない人間のカルマ】


苦しみとなって自覚させられるカルマ
【延々と続く解消できない人間のカルマ】

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シーシュポスの神話

●自分のカルマを自覚する

〇親の遺伝的カルマ
〇家系で作られたカルマ
〇生活で作られたカルマ

何か親が死んで感じたことはカルマは必ずあり苦しむ。親の因果が子に報いとは必ずある。遺伝のカルマは逃れようなくある。
私の母の遺伝のカルマを今年の暑さで感じた
母はやはり蓄膿症でまた胃腸が悪く痩せていたのである
それで今年の酷暑で私は鼻が乾燥したのか何か悪くなったのである、もともと蓄膿症で二回手術しているから花の鼻腔が狭く何か鼻で息しずらい傾向があった。それが酷暑で何か悪くなり舌がとか渇き食欲も亡くなり8キロとか痩せた。こういうことは今までなかった。
つまり体の弱点がありそこが傷んだということである。

今年の夏の猛烈な暑さではもともと体に疾患があった人が相当に死んでいる。それは熱中症で死んだとはなっていないがそれがもとでもともと弱い所がそれが致命傷になって死んだのである
病名は熱中症でなくても病名は別なものとなっている。その数が多い、老人は特に多いのである。

●私の遺伝のカルマ

何らかで遺伝的カルマはそれぞれ逃れようなくある。それが意識されたのである。ともかく何故私が高校でも成績が悪く知能的に劣ったのは蓄膿症が原因でもあった。なぜかというと鼻腔が狭いということは脳に酸素が供給しずらいからそうなる。
また暑い時鼻から息を吸うことで脳を冷やすのでいいとあるが鼻で呼吸できないと脳が冷やされないので脳の働きが悪くなる

そしてもう一つ母からの遺伝ではないが母の生活が私へのカルマとなっていたのである。店をしている時母はお客さん来ると食事している時でもかならず立って店に出ていたのである。
そのことが自分は嫌だった。でも母が死んでから自分で食事の用意をするが必ず足りないものがあり台所に行く。つまり食事中でも立って足りないものを台所に取りにゆく、つまり母と同じように自分自身がなったことを自覚したのである。

それはまさに別に遺伝ではなく親の生活のなかでしてきたことが自分のカルマとなっていたのである。だからなぜ食事中に中断して立たねばならないのかとなり母もそうだった。だから私もそうなったと自覚したのである。カルマということはこういうことなのである。

●親が子捨てる子が親を捨てるカルマ

カルマというのは必ずある。私の父親違いの兄は後妻に来た自分の家で愛されることなく歪んだものとなっていた。
それで母親を恨んでいたのである。でも自分が親になり離婚して子供を中学の時一時児童施設にあずけたりとか子供に大迷惑をかけた。そして交通事故で40才で死んだ。
でもその兄の為に墓を建てるからと連絡したが交通費がないと10万を送ったがあとは一切連絡がないのである。つまり親は捨てられたとなる。これもやはり兄自体が親に捨てられたとして恨んでいたが自分の娘に捨てられたのである
だから別に親が子を捨てるということは普通にあった。
また子が親捨てることもありそれは親の因果が子に報いとなる。

そういうカルマは人間は延々んと繰り返していて変わらないのである。カルマは解消できな五うことである。
何か仏教で宿命転換というがそれはカルマの解消なのである
でもそれは簡単い出来ない、何故なら何代もカルマが解消しないし現実に人間自体のカルマは解消されない、それは個々人だけではない様々なカルマがあり国自体のカルマもありそれで戦争もなくならないのである。

ようするに人間が活きる限りその行為自体がカルマとなる。人間の行為がカルマとなりそれが解消されないのである。だからと言ってカルト教団とかに入ってもカルマは解消できない、そこでかえって大きなカルマを積むことになる。その組織団体が返って大きなカルマを積んでいる団体だからである。個々人でカルマは違っているし一様に解決できない。そこに集まる人達もそれぞれカルマを持っていてその団体自体が巨大なカルマとなる。団体はカルマを持った人たちの集まりでありそのカルマが集積した場所である。要するに罪の集団であり人類自体が罪の集団なのである。だからいつかカルマの清算を強いられるのである

とにかく人類自体がカルマを積んでいる、カルマとは罪でもある
その人間の罪は解消できないのである。だからこの世とは人間とはいくら科学技術が発展しても人間の苦しみは消えることがないのである。カルマとはシーシュポスの神話のように延々と石を持ち上げる苦しみである、その苦しみから解放されないのである。

●国にもカルマがある

例えば中国には中国のカルマがある。それは国土が広く人口も多いから一つにまとめることが至難になる。だから三国志のようになる。常に分裂するのである。そのカルマは解消しないのである
またアメリカでも移民の国だからそれがカルマとなり巨大な国土を国民をまとめることが難しいのである。ロシオでも領土が広くて治められないとかありそれは次代に受け継がれ解消できないのである。またヨーロッパでは絶えず争いがあったの隣国と地につながりそれで絶えず争いがあった。リバーがライバルとなっとき河が国境となったのだがそれは川を挟んで争うということにもなったのである

それでドニエプル川を挟んでロシアとウクライナが争うというときそれもカルマとして継続されているとなる。
ともかく人間個々人でもそうっだが国単位でもカルマを積み継続されるのも歴史である。だからアメリカが日本に原爆を落とした行為はカルマとなる。そのためにアメリカは世界で一番核爆弾を持ち核を一番恐れているのである。
現実にアメリカは自分の国が戦場になったことがない、だから戦争の本当の苦しみを知らない、だからこそ原爆を落とされて苦しめばその行為【カルマ】を自覚できるのである。

●余談として


これもやはり石破氏してきたことがカルマとして跳ね返って来たのである

2024年10月02日

自転車の歴史も奥深い 【松下幸之助は自転車屋に丁稚奉公していた―堺の鉄砲鍛冶が自転車を修理】

自転車の歴史も奥深い
【松下幸之助は自転車屋に丁稚奉公していた―堺の鉄砲鍛冶が自転車を修理】

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創業者の松下幸之助が幼少期に丁稚奉公していた先が自転車店だったこともあり、いつか自社で自転車をつくりたいという思いがありました。

ナショナルランプの開発から時は流れ、本格的に自転車づくりに参入したのは1952年にナショナル自転車工業を創立してからです。
電動アシスト自転車の源流となった世界初の「電気自転車(1980年)」も、松下幸之助の「電気屋らしい自転車」をという思いから生まれたものです。

1800年代にイギリスで産業革命が起こり機械による工業製品の量産化が始まりましたが、この状況の中で自転車も量産され、当時のイギリスは“陽の沈まない国”として世界中に多くの植民地を持っていましたので、そこに輸出され広まりました。そのために、現在でも各国の自転車の規格は日本も含めてインチサイズのイギリス式が大部分を占めています。
1903年にアメリカのライト兄弟は飛行機を発明し世界で初の有人動力飛行に成功しました、飛行機を発明したライト兄弟の本業は自転車屋さんで、自転車の技術を利用して初の飛行機を作ったのです。

堺で自転車の修理部品を手がけたのが、元鉄砲鍛冶たちだ。戦国時代に鉄砲の一大産地となった堺。江戸後期まで鉄砲製造で活躍したが、製造が規制されるようになる明治以降は自転車部品にシフトしていった。




ロードで海岸を走る人がいた。そのロードは30年前に買ったという。30年前ということに驚いた、そんなに古くからパナソニックで自転車を作っていたのかとなる。その人は東京から仕事で来た人だった

パナソニックはナショナルの松下電器であり

創業者の松下幸之助が幼少期に丁稚奉公していた先が自転車店だったこともあり、いつか自社で自転車をつくりたいという思いがありました。

松下幸之助が自転車屋に丁稚奉公していた。明治時代は現実に丁稚がなお存在したのである。私の父親は双葉の新山で酒屋の丁稚奉公していたからである。
自転車の歴史をたどって行くと興味深いものがある。自転車作りの技術が飛行機にも関係していた
イギリスの産業革命でイギリス式が普及した。自転車の規格がイギリス式ななっているのはそのためである。
そして堺で鉄砲鍛冶の人が自転車の修理をしていたというのも興味深い。堺は外国から鉄砲などを輸入していたから鉄砲鍛冶も盛んだったとなる。つまり日本の明治からの工業化はこうした鉄砲鍛冶とかありそれが技術を受け入れる素地があり工業化できたとなる。

ともかく自転車の発明はレオナルドダ・ヴィンチに始まるから古いのである。自転車はその後改良が続けられて電動自転車もできて種類が増えたのである。子供の時自転車は貴重な物であり一台を手入れして長く使っていた。そのとき貧乏だから簡単い買い変えかえることができなかったからである。

今自転車は外国製もあり多種多様である。でも通販では後の修理とかあるので買えないのである。
サイクルショップ柚原【ゆはら】はこの辺ではロードも扱っているしレベルが高い、競争にも自ら出ていたというからである。
いずれにしろ真野川沿いにサイクリングロードができたのでロードで走るのは気持ちがいい、前は舗装されていなかったから走りずらかったのである。


posted by 天華 at 19:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2024年10月03日

中古品が価値がある理由‐紙幣は紙屑になる理由 【空家空地も活用する人がいれば価値がある】

中古品が価値がある理由‐紙幣は紙屑になる理由
【空家空地も活用する人がいれば価値がある】

●カメラ、レンズは中古品でも売れる

価値あるものとは何なのか?価値あるものは現物であり物にある。商品にある。それでカメラのレンズが二万とかで買ったものが一万で売れた。すでにそのレンズで撮ったものがあり使っているから元は取っているともなる。それがまた一万で売れたから儲けものだとなる。
その実質の値段は価値は二万で買ったから三万になっているのである。別にそのレンズは古いにしても普通に使える。レンズは種類が多い、だから古いものでもいいものがある。
中古のレンズ市場やカメラ市場は成り立つのである。
それは中古の車市場でも同じである。100万で買っても50万で売れれば元はとれるとなる。なぜなら使ったということですでに元はとれているからである

でも物でも食料などは食べれば終わりであり価値は消失するのである。でもカメラであれレンズであれ中古でも価値があり売れることがある。外国だと家は中古でも売れる。つまりその家に長く住んですでにその元は取っている。その家の値段が中古で半分になってもすでに元はとれているのである。

●土地でも使用して活かす者の方が価値があった

でも金は紙幣はそうした価値を生まない、ただ投資したりして金を増やさない限り増えないのである。金に紙幣自体には価値がないからである。本当の価値は物にありその物が価値をうむ
だから今中古品が売れているというときそれはカメラでもレンズでも車でも使うことができるからである。
物でも商品でもそれは人に使われる時価値を持つ、使われなかったらいくら価値あるものでも価値ないとなる。それで空家空地が増えているけどそれも使われなけれ価値がないのである。

だから前に地主がいて小作がいたというとき小作は土地を借りて
作物を作り出していた。その労働も苦しいものだった
それが戦後は地主制度は廃止されて土地は小作のものになったというのもむしろ土地でも活用する使うものがその土地の所有者だとなったからである。つまり土地だけを持って貸して労働もせず収穫を得ることは不平等だったからである。
だから今は土地でも耕作放棄が膨大になっている。それを活用してくれる方がその土地の所有者だともなる。空家でもそうである誰かが住んでくれれば使用されればその空家も活きてくる
だから今は極端に安い値段で古い農家でも土地でも手に入る時代である。つまり使用する方に価値がある時代になる。

●なぜ金本位制になっていたのか―黄金の価値は衰えない

なぜ金とか紙幣に価値を感じられないのか、紙幣をいくらみていても紙でしかないからである。でも小判とか金貨だったら本当価値あるものを手にしていると感じたのである。
江戸時代だったら小判は金だから小判自体に価値を感じたのである。金であれば別に貨幣にしなくても金自体に価値があるからである。だからもともと貨幣は金本位制だったのである。
紙幣でも金と交換できるということで価値があった
だから盛んに日本の紙幣でも紙屑になるとか言われるは実際に紙幣をいくら持っていても紙でしかないとなるからである。
実際の価値は物にあるからそうなる。

レンズでもカメラでもそのもの自体の価値がありAからBからCへと譲渡されると2万のものが何倍にもなっているのである。
その物自体に価値がありその価値が消失しないからそうなる
金の場合紙幣の場合常に価値が変動してゼロになる。紙屑になることもありえる。円安になれば日本の紙幣は価値が半分とになりゼロにもなりうるのである。
ただ価値は常に変動している。でも不思議なのは黄金の価値は多少変化あっても変動しないから金は不変的な価値を持っている
それで金本位制だったのである。

●戦後預金封鎖があり貯金が紙幣の価値がゼロになった

ともかく紙幣自体には価値がないということで不安になることがわかる。でも小判のように黄金を積んでいればその価値が減退することもないし消失することもない、それでいくら貯金があってもそれはただ紙幣の場合安心がないのである。
現実に戦争が終わった時預金封鎖があり私の母親は東京の人と結婚して夫が工場の事故で死んだ、その時一生生活に困らないと言われた金をもらった、でもその金はゼロになり故郷で買っていたわずかの土地だけが遺産として残ったのである、それでもその土地の方が価値あるものとなっていたのである。

このように金は紙幣は紙切れになることは他の国でもある日本の経済が落ち込めばそうなるから怖いのである。
要するにそもそもこの世は無常の世界だというとき常に変わる世界でありいくら貯金があっても安心は得られないのである
常に変動する世界であり価値も変わってくるからである。

posted by 天華 at 10:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2024年10月04日

学歴はその人を見る目安とならない 【職歴をみるのはそのためーあらゆることに通じる人はいない―小泉進次郎は経験不足】

学歴はその人を見る目安とならない
【職歴をみるのはそのためーあらゆることに通じる人はいない―小泉進次郎は経験不足】

●人間を作るのは学歴ではなく経験で職歴で判断

学歴は文系の場合意味がないと思う、理系は意味がある。文系は何か法学部を除いて専門的知識が身に着かない、遊びの場だったとなる。学歴で効果があるのは留学した人である
だから政治家だと一応みんなアメリカに留学している。小泉進次郎でも関東学院でもアメリカの大学に留学している
ただ職歴がないとか大臣経験でも環境大臣だけであり経験不足だと批判されている

要するに人間を作るのは経験であり学歴ではない、留学となると学歴というのではなく外国に行き外国人と交わることで経験することが貴重なのだる。職歴にしても人間はそもそも職業自体経験するのも極わずかである。学歴より職歴であり何を経験したかが大事になる。今は学歴より学習歴だとされる。それは何を学んで来たのかの方がその人を判断しやすいからである。学歴だけを見て判断することはその人を見誤るのである。

自分自身は大学で全然勉強していない、でも大学出てから旅をしたりして地理に地名に興味を持ったのである。だから私のプログを読めばその学習歴がわかる。この人はこんなことを経験して学んで来たとわかるのである。

本当にこの世は経験しないとわからないことが多すぎるのである
職業が違えばすでにその人を理解することが難しくなる
そういう問題は昔からあった。鉄作りする人は農民にとって理解できない人達であり神秘化した。それは現代でも原発で働く人たちのことが理解できなかった。そのために安全神話を信じたのである
そこはアンタッチャブルの不可侵の領域となり立ち入ることできなかったからである。

●鉄作りと水田の関係

「砂鉄水簸(すいひ)」という用語をご存じですか。
 水簸とは、比重により水中での沈降速度が異なることを利用して、底に沈んだ重い粒子を取り出す選鉱方法で、砂金の採取などに用いられます。
 柴田弘武氏の『産鉄族オオ氏』(2008年 崙書房出版)に、「田」を稲をつくるための水田ではなく、鉄をつくるための「砂鉄水簸(すいひ)」の設備と考える

 奈良・中西遺跡の弥生時代の水田跡は、「砂鉄水簸(すいひ)」の施設跡か?

金山・赤・黒・倉(蔵・椋)・砂・須賀・菅・芦・種・草・カケ・蟹・
サナ・サム・サヒ・サビ・桜・笹・シブ・菖蒲・勝負・
サナダとかサヒタとか蟹田でも製鉄と関係している

鉄を作ることと稲作は深い関係があった。
いずれにしろそういう人達を理解できないからその人たちと交わることもできない、それで何らか衝突も起きてくる
ともかく職業が違うと理解できなくなる。今でも隣の人は何か工場で特殊な技術を持っていて仕事しているとしてもその仕事がわからないのである。

だから政治家となると様々な問題の対処解決が求められる、でもそもそもその職業に携わる人理解できるのかとなると簡単にできないのである。でも政治家はその人たちを対象にして法律を作る仕事なのである。問題はそういう人達の仕事について実感できないことである。だから人見るとき採用する時実は学歴を見ても分らない、職歴の方が大事だとなる。その人の経験したことが大事なのである。学歴は何かテクニックとかありその人が何に向いているか資質など判断できないのである。

●では自民党で誰が首相にふさわしのか?

その判断はどうするのかとなる。一長一短であり迷うのである。
確かなことは学歴をみるべきではない、留学は別にして文系なら学歴でみるべきではなく職歴経験で見るべきだとなる
大臣になるにしてもその地位に着いてみなければその立場であれ理解できないのである。つまり経験しなければわからないのである。だから経験不足として小泉進次郎は責められたのである。

私に経験は旅したことでありそれも経験なのである。旅をすれば実感として地理がわるからである。いくら地図を見ても地理はわからないからである。
ともかく小泉進次郎は経験不足なことはいなめない、では誰がいいのかとなると一長一短なのである。あらゆることを備えている人はいないしあらゆることに通じている人もいない、あの人は何々詳しいとしても他のこてでは詳しくないとなる

ただ政治家とは理系のような一部分を見る専門家ではなくジネラリストになるのかもしれない、細部ではなく全体を統括する人である。
でも現代になるとそれが難しくなる。なぜなら福島原発の東電の吉田所長でも肝心の復水器のこと知らなかった。私の専門は素材であり知らなかったと言っていた、つまり社長でも全体を知る人など今はいないのである。政治家でもそうであり一部は詳しくても全体を知る人はいない、夫婦別姓問題から雇用の問題から防衛の問題からと皇室の問題と通じることが至難なのである。
posted by 天華 at 07:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2024年10月05日

過疎自治体が5割越え。これからの地方を支える方法論とは? 【南相馬市では元の原町に人口集中−鹿島区でも移住者で人口を維持】


過疎自治体が5割越え。これからの地方を支える方法論とは?
【南相馬市では元の原町に人口集中−鹿島区でも移住者で人口を維持

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衝撃!過疎自治体が5割越え。これからの地方を支える方法論とは?

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相馬支援学校−障害者の学校

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新しくすぐ近くにできる施設、これも障害者の施設だというが小人数の施設である

●原発事故で起きた集約化−原町中心に人口が集中

原発事故でこの辺がここで言っていることが強制されて南相馬市は元の原町市に原発事故で移住した人が多い。また飯館村とかでも原町とか鹿島区に移住した人がいる。
双葉町であれ浪江町であれ移住しているのである。

ただ別に浪江町でも小高区でも過疎地域ではなかった。それは原発が働く場所になっていてそれで過疎地域にならないということがあった。南相馬市でも原町区に東北電力の火力発電所がありそこに原町の自転車屋の人がいてその息子は東北電力で働いているなぜなら自転車屋だけでは生活にならないとして後を継がないからである。前の鹿島区の星自転車屋では東北電力から20台の自転車の注文があった。それだけこ経済効果があるから原発の場合は地元でも反対することもなかったのである
逆に余りにも地域の経済でもそこがメインとなればその影響力が大きくなっていたからこそ原発事故は地域を崩壊させるようにもなったのである。

ただこのyoutubeで言っていることがある程度当てはまることを感じた。人口集積地を作りそこに人を集めて暮らす。まず十軒くらいの村だと維持できなくなる。この辺では橲原村とかそうである。空家化したのニ三軒あり田畑は原発事故以後は草茫々となり耕作放棄地となったからである。そういう村が日本には点々とあり維持できないとしている。
要するにそういう村は集約化して維持するのがいいとなる
私自身はそういう村でも地域に彩りもたらすものであり消失してもらいたくない、ただ現実問題として村自体が子供でもいなくなり老人だけになりいずれ維持できなくなる

●広域社会になり仙台市の影響も大きくなる

それより現代は大都市中心に経済圏が拡大している。この辺だと仙台市中心になり常磐高速道路がでたりして仙台の会社が仕事に来ている。私の家のユニットバスは仙台の会社が作った。それが百万だったのである。それは地元では二百万とか三百万とかかかるものだったのである。なぜそんなに安くしているのかと聞いたら競争が激しから安くしないと受注されないからと言っていた
仙台市は百万都市だから競争も激しい、別に安くてもいいものだったである。現代社会は広域社会になっているから大きな都市の影響を受けるのである。

知っている大工さんは小高に住んでいたが息子が仕事で仙台市に移住して自分も病気になり仙台市の病院に入院した。
一時は原町に中古の家を買って住んでいたのである。
とにかく南相馬市だと元の原町市に移り住んだ人が相当にいる
原発の避難区域から移住した人が多いからである。それだけの補償金も入ったのでそれができたとなる。だからこの辺は原発事故で集中化が行われたとなる。

南相馬市の鹿島区だと人口が減っていたが移住する人が三つくらい新住宅地が生まれた。その家は立派なのである。
わからないがもしかしたらその住民は二割以上に及ぶかもしれない。結果的人口でも減らないとなっている。子供を持っている家族も移住しているから学校でも維持できる
ただそれでも少子化で八沢小学校は廃止されて鹿島小学校に統合された。つまり学校でも村々では維持できないから統合されてゆくのである。

●現代の便利な生活は都市へ人は集まる

現代の便利な生活を享受するにはどうしても都市がいいとなる。
私はつくづく困るのが弁当である。鹿島区には弁当屋があったがそれもなくなった。新しい弁当屋は三種類くらいしか弁当を置いていないから行かない。弁当の種類が少なすぎるのである。
とにかく鹿島区だけでは買い物でも足りないものがあるからどうしても原町に行かざるをえない、特に最近困ったのが町に一軒だけあった自転車屋が主が死亡してなくなった。私は車がないから本当に困ったのである。なぜならパンクを直すにしても近くでないとできない、ただ原町のサイクルショップ柚原(ゆはら)では車で自転車を乗せて運んでくれた。これも手間である。

医者だって病院だって近くにないと困ることがある。浣腸するのに近くの病院でできるから助かるとかある。つまり近くでないと困ることがある。
それは北海道の辺鄙な村で救急車も呼べず子供が運ぶ途中で死んだとかある。医者が近くにいないからそうなったのである。
また江戸時代になると目お直すため遠くに医者に診てもらうために苦労したとかある
この辺でも難しい病気は福島市に行ったり仙台市に行っているのである。特に手術となるとむずかしからそうなる。
こうして広域社会になったのは車社会になったからである

車があり仕事ができるからである。鉄道だったら人は移動できてもユニットバスを作るのにもできない。だから地元の人でないとできないとなっていたが今は家でも外部のハウス会社の人が来て建てる。地元の大工さんとか関係しないのである
たしかなことはこのyoutubeで言うように集中化は避けられない
少子高齢化でもそうだし集中しないといじできなくなっているからである。

posted by 天華 at 08:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

常磐高速の鹿島のSAに飾られた織物の絵に感心した 【地元の特色を出すと訴えるものとなり文化となる―宝財踊り】


常磐高速の鹿島のSAに飾られた織物の絵に感心した
【地元の特色を出すと訴えるものとなり文化となる―宝財踊り】

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12年に一度、申年の4月に行われる、日吉神社のお浜下りは、福島県指定重要無形民俗文化財です。
神輿を中心とした行列が、5キロほど離れた烏崎の浜に下る際、宝財踊りや子供手踊りなど
多くの芸能が奉納される特殊な祭礼です

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ふるさとの祭り2022「前沢の女宝財踊」(前沢の女宝財踊保存会、双葉町)


宝財踊りは北海道の方まで伝わった、移住した人たちが伝えたからである。

この織物は手つくりでありきにいったのが野馬追と宝財踊りの部分である。やはり地元の特色を現わしているから目を惹いた
丸森の猫の手つくりのものを売っていたが何か訴えるものとして目を惹かない、何か地元の文化というとき歴史とか伝統とか自然が一体となると目を惹くものとなる。
野馬追と宝財祭りの部分はいいとしてあとは地元と関係ないからである・

宝財踊りというとき南北朝の戦いで霊山から南相馬市の鹿島区に逃れた落武者に由来する祭りである。変装して逃れたからである
その変装した格好が変わっているのである。

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鹿島区には只野の姓が50軒くらいある、周りでも只野が本当に多いのである。
同級生の人は多田野氏の本家のような家だった、なぜならお浜下りの祭りが12年に一回行われるがその祭りでおつつずら
馬という役目をになう、つづらとはツヅラフジつるで編んだ蓋つきのの一種である
この駕籠を馬に載せて運んだのである。

芸術の秋だけどやはり地元の特色を現わす時活きてくる。
つまり二つの部分はそうだがあとは他でもあるものだからありふれているともなる。地元にあるもので全部表現できればよかったとなる。ただ相当に手がこんでいるから感心した。




posted by 天華 at 18:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2024年10月06日

日本は森の国‐飯館村も丸森町も森が深い 【八溝山を自転車で白河の関に来た記憶】

日本は森の国‐飯館村も丸森町も森が深い
【八溝山を自転車で白河の関に来た記憶】

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●飯館村丸森も森の国−浪江町の津島は秘境だった

何か薄暗い森に覆われていたが自転車でも行ける道があった。でも覚えているのはそこが何か暗い森に覆われて閉ざされたという感じであった。でも日本は森の国であり山の国である。今でもそうなのである。森林面積が70パーセントとかある。
ただその森を切り開いて開墾して田畑を作って暮らした。でも全体的に見れば日本は森に覆われている国である。この辺は丸森町が名のように本当に森が深いのである。それで木材資源が豊富だから上杉藩と伊達藩と相馬藩でその木材を得るために争ったのである。

この辺で飯館村でも森に覆われている。栃窪から飯館に出る塩の道でも森に覆われている。飯館の長泥から浪江町の赤宇木(あこうぎ)を通り
津島に行ったがそこも森に覆われた場所でありその森の中を清流が流れていた。そして津島となると浪江の街からは相当離れた秘境になっていた。その山間の道に雲がかかり月が出た時まるで山水画の風景だった。そこが峡谷のようになっていたからである。

峡谷に曇りて月や長々と白藤垂れて津島の暮れぬ

そこはかけ離れた場であり山は未だに放射線に汚染されて入ることができなかった。一時津島は44マイクロシーベルトとかあった。津島は廃墟の村にになってしまった。

●八溝山の森を自転車で通り抜けた記憶

旅はどうい経路で行くかが問題になる。そしていかに記憶されるかが問題になる。何十年も過ぎると忘れるからである。
最近ある人の名前を忘れた。すぐ近くに住んでいる人だが何年も逢わずに話もしなかったからである。
だから近くに住んでいても人間は忘れる。ましてや遠くにいる人は忘れやすくなる。特に老人は忘れたやすくなる。だから日ごろ接している人は認知症になっても忘れないことがある
でもその息子であれ娘であれ遠くに住んでいてあまり会わないと忘れるのである。近くでも何年も会っていないと名前でも忘れるからである。

旅というのも忘れやすい、何十年も過ぎるとその記憶も定かでなくなる。そして地図を見て思い出した。茨城県を旅して雲巌寺により八溝山に自転車で入った、そこは深い森であり記憶していたのは清流が流れそこに紅葉は木の葉が散る光景だった

森深く清流に散る紅葉かな

私の記憶に残っているのは八溝山の深い森でありそこから白河の関に出たのである。白河の関でも森の道を通る。そこで感じたのはいかに日本は森が多く森に閉ざされていた国である
縄文人はそうした深い森で生活していたのである。つまりその生活環境を知らなければ縄文時代を知ることは不可能である
その森の中で狩猟をして木の実など採集して生活していた

森というとき暗いのである。森に閉ざされた生活である。森だとなかなか道がないから遠くに行くのはむずかしい。人々は森に閉ざされて生活していた、ただ川があるときそれが道になりやすい、その川にしても日本の場合には激流とか滝とかがあり外国の大陸の運河のような川とはあまりにも違っている
外国人は日本の川は滝だと言ったのもわかる、とても交通路になりにくかった。森に覆われていて遮断されて交流ができなかった
それはヨーロッパでも広大な森がありそれで森がボーダー国境ともなったのである。やはり延々と森が続いていたのである。

●糺の森,槻木駅ことなど

糺の森の「ただす」がどういう意味なのかは諸説ありますが、一説には「日頃の誤りを正す」という意味があるそうです。
糺すという漢字を使う機会は多くの人には無いと思いますが、使い方としては正すと全く同じで意味も同じになります

日本の森の場合はそういう感じがしない、鬱蒼として覆われて一本一本の木を見ない、外国だとドイツでも樅の木の森があったとしても一本一本の木が柱のように見えるからゴッシックの石の大聖堂は森をイメージして作られた。石の柱は木を模しているし古くはエジプトの神殿ももともと森に囲まれていた時代があり木を模したものだが石の柱になった。それはヨーロッパでも同じだったのである。

天(あま)飛ぶや、軽(かる)の社(やしろ)の、斎(いは)ひ槻(つき)、幾代(いくよ)まであらむ、隠(こも)り妻(づま)ぞも
「斎(いは)ひ槻(つき)」は、神木として祀(まつ)ってある槻(つき)のことです

隠(こも)り妻(づま)」は、人目に触れないようにこもっている妻のことです。

というときいつまでも斎(いは)ひ槻(つき)、幾代(いくよ)まであらむ、隠(こも)り妻(づま)ぞも槻(つき)の木のようにあった欲しいとなる。何か隠(こもる)というとき森に閉ざされて隠るになる。なかなか森から出れないという意味にもなる。

槻(つき)の木というとき欅(けやき)のことらしい、ならばなじみがあるとなる。槻(つき)の木という駅が東北線にある、
阿武隈急行もここから乗り換える。ここはやはり槻(つき)の木(けやき)の森がありナずけられたのか?
北海道に黒松駅があるがこれは明らかに黒松の森があり名ずけられた。

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とまかく日本は森の国であり鎮守の森というときもともと社がある場所は森だったのである。社をモリというのはそのためであるただ森がこれだけ多いというとき森を意識しない、当たり前にある者は意識されないのである。
日本は森の国だというとき世界でも特殊である。森が世界が消失しているからである。







posted by 天華 at 19:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅の記録

2024年10月07日

なぜみちのくは福島県(棚倉)が境界なのか 【ヤマトタケルの東征伝説があり境界だった】

なぜみちのくは福島県(棚倉)が境界なのか
【ヤマトタケルの東征伝説があり境界だった】

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福島県の歴史の道の旅の回想 (棚倉→白河→会津ー(白河街道)

日本は森の国‐飯館村も丸森町も森が深い 
【八溝山を自転車で白河の関に来た記憶


棚倉に残る伝説のこの地に8人の土蜘蛛がいた。黒鷲、神衣媛、草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)、狭礒名と具体的に述べている。ところが征伐に来た磐城の国造が敗れたので天皇は日本武尊を使わした。8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した。そこで彼は槻弓 槻矢で8本の矢を放ちたちどころに射殺した。そして土に刺さった其の矢はたちまちに芽吹いて槻木となった。そこでこの地を八槻の郷という 
なぜ棚倉で争いが起きたのか、それはヤマトタケルの東征神話にあるようにまず茨城県に入って来た。

茨(いばら/うばら)の生えた地域」を指した呼称と見る説もある。

『和名抄』によれば、この茨城郡内には特に「茨城郷」が存在している。この茨城郷の比定地は石岡市茨城(ばらき)とする説が有力で、同地は常陸国の古国府や茨城郡の郡家も置かれたと推定される政治的中心地でもある。また付近の茨城廃寺跡(ばらきはいじあと)からは「茨木寺」の墨書を持つ土器が出土しており、「茨城」が古くは「茨木」とも記されたことが知られる[3]。

賊を討つため、野の茨で城を築いたという古書の伝説。常陸国_風土記によると、「むかし、『国巣(くず)』や『山の佐伯』や『野の佐伯』と言った盗賊がいて、普段は穴の中で生活していた。そして、隙をみて盗みを働いた。この話を聞いた黒坂命(くろさかのみこと)が盗賊を退治しようとした。黒坂命は盗賊が穴から出ている隙に、穴の入り口をいばらで塞いだ。その後盗賊退治の兵を出した。逃げる盗賊は穴に逃げ込もうとしたが、いばらに阻まれ皆打ち取られた。そのため、『いばらぎ』の地名ができた。

この伝説のようにいばらぎは野薔薇のことであり南相馬市原町区の大原から八木沢峠に行くところに薔薇坂とかありこの薔薇は
イバラ(野茨)のことである。それは棘をもっているのでそれが密生していったら通りにくくなる。そこに原発事故で原野化して一軒の農家は牛を飼っていたが空家化した、あの辺は一時放射線量がかなり高い地域となりその他の家も空家化したのである。
そこにカモシカが出てきたのには驚いた。人間がいなくなるとそのためにに里に下りてこない動物でも降りてくる

草野灰(かやのはい)、保々吉灰というのは焼畑をしていた人達である。森の木を焼いて灰にしてその灰を肥料にしていたからである。

さねさし   相模の小野に   燃ゆる火の   火中(ほなか)に立ちて   問ひし君はも

これはヤマトタケルの妻オトタチバナヒメが歌ったもの
タケルとヒメ達一行は東の方の大和朝廷に服従していない者達を服従させるための旅をしていた
焼津は焼き畑が行われた地域でありその名がついた。焼畑の地名は全国に多いからである。この辺では飯館村の佐須がそうである。それは海洋民の安曇族の後裔の八木氏などが入って来て焼畑を教えたのである、だからヤマトタケルの遠征伝説はその下敷きとして綿津見神社として残ってる安曇族などがその基となっているともなる。

ともかく棚倉という地域はかなり古くから何か要所となっていた。それは地理的にそういう場所だったからである。八溝山を源として久慈川があり山でも平地でも茨が覆っていてそこ行くのはむずかしい。すると川をさかのぼって来たと推測できる。川が道となる、
古代では川は道であった。アイヌでも川は道であり身体になぞらえて川口は頭であり川上は尻になる。その名づけ方は川を上流から下るのではなく下流から上ってゆくからそうなった
つまり川上に上る道だったのである。

棚倉の場所が久慈川をさかのぼり山を分け入りそこが盆地のようになっている。だからそこで争いが起きた。関ケ原も東西の境目でありだからこそ天下分け目の争いが起きた、日本を二分する争いが起きた。つまり地理から歴史を見ることが基本にある
ともかく勿来の関があり白河の関があり棚倉でも福島県と茨城県の境界になる、つまり茨城県との境界は古代にも由来しているのである。そこはみちのくの境界だからこそ大和王権の軍と衝突して争いになったのである。また棚倉は水戸街道に通じた場でもあり要衝の地だったのである、だからこそそこで戊辰戦争があり相馬藩でもそこに集結して薩長軍と争った。そして相馬藩でも水戸の天狗党の影響を受けたというときそういう地理的な場所にあったからである。

8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した

ただ不思議なのは津軽の蝦夷と言えば相当に遠い、そこからどうして道もまともにない時代に来れたのかとなる
津軽はツノガノアラシトから名ずけられてと考察した。蝦夷というのは大和王権に逆らう人達でありその連合体であった。だからそこに渡来人がかかわっていたのである。
でも津軽の青森までかかわり連合体が形成されていたかとなる
確かなことはみちのくというとき福島県が境界になっていたのである。またむしろ文化的に優れていて独自の連合体が形成されていた。それが日高見の国だと言われる

歴史を見るときまず地理を見る。そして境界になる場所が大事なのである。

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを 笠女郎

これはここが自然的歴史的境界だったことを考察して来た、だからこそ大事な地域となり奈良の役人でも知られた地になっていたのである。だから歴史を見るとき地理を見て境界を見ることが基本になるのである。



棚倉町の秋の暮

都々古別神社や八槻都々古別神社
その謂れも古りて秋の暮
水戸街道の通じて水戸を思ふ
ここは古代よりみちのくの境
故に大和王権と蝦夷の争いの伝説
ヤマトタケルの伝説の語られる
福島県と茨城県の境はみちのくの境
我はここに一夜の宿をとる


posted by 天華 at 21:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2024年10月08日

幸福な家族と不幸な家族 【障害者を持った家族はうまくいかないー親の世話できない悲劇】


幸福な家族と不幸な家族

【障害者を持った家族はうまくいかないー親の世話できない悲劇】

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85才の夫婦は夫がマメであり料理を仕事ととして妻に食べさせている。妻はなにもしなくていいのである。だから楽だと見た。ただ問題として私の家は二人親ともなる女性がいたが一人は何もしなかった、もう一人が食事を出していたからである
結果的に何もしない方が認知症になったのである。別に食事を作ってもらっている方がいいと普通は思う、でもそうなるとただなまけるだけであり頭も体も働かせないから認知症になる危険性が増す。だから人間はいいと思うことが必ずしもいいとはならないのである。
夫の方はともかく料理に精を出している。妻は何もせず提供されたものを享受するだけだとなる。だから楽だとは見る
そして息子が医者だから経済的にも恵まれているとみる

一方の家族は市営住宅に住み狭い部屋であり脳梗塞になり今や歩くこともままならずわずかの距離でも歩けないのである。また目が悪いとか介護度2なのである。見ているだけで73才なのに老けているし85才のように見える。
そして50歳の息子といるが同居にはなっていないが常にまともに台所に立って仕事ができないのに手も悪いのに食い物に文句を言ったりいじめられという、なぜそうなのかとなれば障害者を一人持ったために兄弟でもないがしろにされえ育ったからだと見る

その発達障害の息子が世話すればいいのだが何か母親のことを世話できない、依然として子供のような状態にあるからそうなる。
普通だったらそれだけ親が困っている苦しんでいるならば50才も越えたら助ける気持ちが出るはずだがそれもないのである
だから金もなく苦しみ助けもなく苦しんでいる
まず障害者を持つと家族全体が不幸になる。だから兄弟でもお前が一番よくされたのだから世話しろとなる。その最も世話された人が何もできないのが悲劇なのである
その女性は二回も離婚していていい夫とめぐりあわなかった。
その原因が不細工だったからかもしれない、でもその女性は話すると物事が分かった人であり花に詳しいので話して楽しいとなり援助している。

とにかくなぜこのように白と黒のように家族は違っているのかとなる。その家族を知らない人は何も感じない、おそらくただ無視するだけだとなる。
なぜこうして不幸な人はさらに不幸になるのか?もしまだ73才だったら普通に元気な人はいる。すでに介護度2であり3に近づいている。一生がただ苦しみの連続だったともなる。その原因はなんであったのか?それはやはり障害者をもったことにあった。
その障害者の子を持った結果兄弟でも他はおろそかになり介護状態になっても金もなく面倒を見ない、冷たくされるのが悲劇なのである。私の場合は特別大人になっても良くされたからずぼらであっても親二人の介護で必死になって世話したのである。

だから家族の事情は様々であり分かりにくいしなかなか家族の中にはいりにくい、でも介護となると実際は家族だけでは対応できないのである。限界がある。でも実際は家族にまかされてそれで殺したとかの悲劇が生まれる。家族だけに負担がかかりすぎるのである。私の場合は一人っ子だから負担が全部かかってきたのである。結局それも自分のカルマだったのである。
でもなぜその女性がただ苦しみの連続なのか理解できないのである。ただ一般的に障害者を持った家族は不幸だということは確かである。その負担が大きすぎるのである。
こうして家族でも比較すると見えてくるものがある。ただ直接接しなければ家族というのが様々でありわからないのである。