金とは紙幣とは何なのか
(紙幣自体は紙切れに過ぎない、価値は現物にある。)
●紙幣は紙切れで価値は現物にある
金というものはなぜいろいろ考えてみても理解できないのか。紙幣ならばそれは紙にすぎない。だから実際にハイパーインフレになった国でジンバブエとかでその紙幣は紙くずのようになってしまってしまった。そういうことはドイツなどでも第一次世界大戦とかで経験している。
そもそも紙幣は紙に過ぎないしそれ自体には価値はない。だからこそ紙くずになってしまうのである。だからもともと紙幣などは信用されていないから金本位制になったなっていた。つまりその紙幣でも金と交換できるということで価値があり信用されていたのである。
だから日本でも江戸時代なら小判でありその黄金には価値があるから信用したとなる。今でも小判なら金なのだからその価値は骨董品としての価値もあり現実の金で作られているから価値が衰えないのである。
アンティークコインにしてもそれが価値があるのは紙幣だからではないコインだからこそ価値があるのである。紙幣にはそうした骨董品としての価値も無くただの紙切れになってしまう。紙だからいずれはすり減ったり汚れたりして使えなくもなるのである。金属のコインだったら千年前でも依然としてその当時のままの状態で維持されているのである。
明らかなことは紙幣にはあるとき何かの調子で紙くずになる恐怖がつきまとっている。例えば外国旅行してカンボジアの紙幣とかベトナムの紙幣となるとそれは本当にその国を出れば紙切れに過ぎず使うこともできなかった。つまり紙幣自体に紙切れ自体に何が価値があるのかとなる。
だから人間を紙幣などより黄金であれ銀であれあれまた土地であれ実際の現物で持っている方が価値を実感できて安心するのである。
でも何か蓄えるという時現物を食糧でも蓄えることは容易ではない。それで紙幣であれば別に蓄えることは簡単であり今ならただ銀行に数字として金が存在するだけだともなる。でもその数字も何らかの調子でゼロになるという恐怖がある。
●紙幣は紙屑になる恐怖
いずれにしろ何か価値を実感するというとき紙幣をいくら持っていても数字として増えても実感できないのであるある。何か価値を実感するときは紙幣でも果物を買ってその味を味わうその時価値を感じる。またカメラでも良いカメラを買ってレンズを買って綺麗な写真を撮った時価値を感じるのである。それは何でも車であれ家であれ実際に紙幣と交換した時その価値を感じるのである。紙幣自体に価値を感じるということはない。
だから紙幣というのは何なのだろうと思う。そんな紙切れに何の価値があるのだろうかともなだからある時ハイパーインフレになって物価が高騰した時その紙切れの紙幣を山のように積んでも買えないとなる。
つまり所詮紙幣は紙であれ本当に紙くずのようになる。でも黄金となればその価値は減ることはないのである現物として価値の変動はあっても黄金自体に価値があるから紙くずのようには絶対にならないのである。
それは車でやれ自転車であれパソコンでやれスマホであれ家であれそれはその価値はその物自体にあり紙幣には無いのである。だから紙幣でも何かと交換するとき価値を感じるのである
とようことは人間は紙幣金を欲しいというわけではなく紙幣によって交換されるものが欲しいのである。交換して初めて価値を実感できるのである。
ともかく紙幣であれ何か果物でも買った時その果物を食べた時うまいとなりそこに価値が生まれる。紙幣自体には紙切れであれ価値はないのである。そして価値自体は実際は変化したりしない。果物でもいろいろありりんごがありみかんがあり柿がありバナナがあり葡萄がありその価値は多様なのである。
ただ紙幣であれ貨幣であるそれがなかったらば物々交換になる。私はみかんを持っているからバナナと交換してくださいとかなる。でもそうなると面倒だから金が生まれたのである。いちいち者を持って行って交換していたらその手間が大変なものになるからである
●売る者がなければ観光で外貨を稼ぐほかない
ではなぜ世界でさまざまな国で紙幣を発行しているがその価値が常に変わっているのか。なぜドルだけが世界で通用して世界基軸通貨ともなっているのか。そのドルにしても紙切れに過ぎない。ただそのドルを持つということはアメリカが提供する価値をがあるからドルが世界で一番信用されて流通されている。別に最近経済成長した中国の元でもロシアのルーブルでもまたはヨーロッパのユーローでも使用しても構わないわけである。
でもカンボジアとかベトナムとかネパールの紙幣などそれはまさに紙切れであれその国を出たら何の価値もないとまでなってしまう。それはなぜなのかとなればその国の価値がほかの国と比べてあまりにもない国だからだとなる。
第一カンボジアに行ったら何が買えるとしたらアンコールワットを見る観光くらいだからである。だから何も売るものがない国は観光が売り物になるのであるそれはギリシャでもそうである。ヨーロッパ文明の元になったギリシャはただ観光で食っているだけだともなる。でもユーロになる前はドラクマであり
ドラクマという名前は「つかむ」という意味の動詞「ドゥラットー(ギリシア語: δράττω)」に由来している。これはもともとドラクマが手のひらいっぱいの量の金属塊にあたる6ゴーコスに相当したからである。オボロイ(単数:オボロス)は、紀元前11世紀以降使われていた通貨単位である。
紀元前5世紀以降、アテネでつくられた四ドラクマ硬貨は、アレクサンドロス大王以前のギリシア世界でもっとも広く用いられた硬貨であった。
これは貨幣でもその裏付けとして交換できるものとして黄金があったとなる。黄金を手でつかむという意味になれば黄金こそ価値があるその黄金を手に掴むという時価値を実感したのである。
いずれにしろギリシャというのは島であれ古い岩がありロバがいて菜の花が咲いている何か牧歌的な世界であり不思議だった。そこには現代の産業となるべきものもなかったのであ
観光が主な産業であり何かものづくりをして売れるものもないのである。つまりグローバル経済で競争に負ければ日本もまた観光が売り物となるのである。それで外貨を稼ぐほかなくなってしまうのである。
●日本円の価値を上げるには外国に売れるものを作ること
ともかく紙幣自体に価値は感じられない。また数字として銀行にあったとしても価値は感じられない。何かと現物と交換した時家事を感じるのである。それは例えば交換しないとしてもその人は貧乏であり食うことにも食うとにも困っている。
でもお金を与えればその人はありがたいと思う。何もその見返りもないのだがやはりそのお金をは無駄に使われたということでもない。その人はその金によって今日の食い扶持を買うことができたともなるからである。
だから金の効用がない何も得られないとしてもあったとなる。ただ金を持っていただけではそれは価値にはならないのである。金は何かと現物と交換するなり人間的サービスでも受けるなりその時金の効用がありそれで価値を感じるのである。
そもそもグローバル経済にしてもただ紙幣だけが流通していただけはなんら価値を感じない。その紙幣で外国の物が食糧でも資材でもかえるということで価値がある。価値の基となっているのはその国にある資産である。紙幣に価値があるわけではないのである。まだいくら数字になっていてその数字が増えたとしてもそれが必ずしも価値とはならないのである。その価値を生み出すものはアメリカとかロシアであれば広大な土地がありそこから農産物が生み出されるからそれが価値があり紙幣であれ貨幣であれ価値が生まれてくるのである。
そしてどうして日本は円安になりそれが止まらないのか。それは日本が持っている価値がなくなったということである。それは技術的にもそうだし何か日本が世界に売れるものは車くらいしかなくなったからである。つまり日本の円の価値は日本が作り出すものは売れたということで価値が生まれていた。その価値がなくなったのは日本が作り出すものは外国に売るものがなくそのために日本円の価値は低落して上がることがなくなったのである
だから日本の円の価値を上げるのはどうしたらいいかとなると日本は外国に売れるものを作るほかない。それができないと後進国のようにギリシャでもカンボジアでも観光に頼るほかなくなるのである。悲惨なのは今度は日本の女性が安く外国人に買われるということであるそれも日本人がしてことがだからカルマだとな自分たちのしてきたことは今度は外国人にされているだけなのである。
だから必ず人間にはカルマの法則が当てはまるのである。それでアメリカにしろいつまでも繁栄するということもなくやはり衰退してドルもう安くなるということである。世界は一国だけが永遠に栄えるということなどないからである。それは歴史を見ればわかる。みんな栄えた国でも衰退しているからである。それは歴史の法則のようにもなっている。だからいつまでもアメリカが栄えるということも覇権国になっているということもありえないのである。