2024年06月01日

金とは紙幣とは何なのか (紙幣自体は紙切れに過ぎない、価値は現物にある。)

金とは紙幣とは何なのか

(紙幣自体は紙切れに過ぎない、価値は現物にある。)

●紙幣は紙切れで価値は現物にある

金というものはなぜいろいろ考えてみても理解できないのか。紙幣ならばそれは紙にすぎない。だから実際にハイパーインフレになった国でジンバブエとかでその紙幣は紙くずのようになってしまってしまった。そういうことはドイツなどでも第一次世界大戦とかで経験している。
そもそも紙幣は紙に過ぎないしそれ自体には価値はない。だからこそ紙くずになってしまうのである。だからもともと紙幣などは信用されていないから金本位制になったなっていた。つまりその紙幣でも金と交換できるということで価値があり信用されていたのである。
だから日本でも江戸時代なら小判でありその黄金には価値があるから信用したとなる。今でも小判なら金なのだからその価値は骨董品としての価値もあり現実の金で作られているから価値が衰えないのである。

アンティークコインにしてもそれが価値があるのは紙幣だからではないコインだからこそ価値があるのである。紙幣にはそうした骨董品としての価値も無くただの紙切れになってしまう。紙だからいずれはすり減ったり汚れたりして使えなくもなるのである。金属のコインだったら千年前でも依然としてその当時のままの状態で維持されているのである。

明らかなことは紙幣にはあるとき何かの調子で紙くずになる恐怖がつきまとっている。例えば外国旅行してカンボジアの紙幣とかベトナムの紙幣となるとそれは本当にその国を出れば紙切れに過ぎず使うこともできなかった。つまり紙幣自体に紙切れ自体に何が価値があるのかとなる。
だから人間を紙幣などより黄金であれ銀であれあれまた土地であれ実際の現物で持っている方が価値を実感できて安心するのである。
でも何か蓄えるという時現物を食糧でも蓄えることは容易ではない。それで紙幣であれば別に蓄えることは簡単であり今ならただ銀行に数字として金が存在するだけだともなる。でもその数字も何らかの調子でゼロになるという恐怖がある。

●紙幣は紙屑になる恐怖

いずれにしろ何か価値を実感するというとき紙幣をいくら持っていても数字として増えても実感できないのであるある。何か価値を実感するときは紙幣でも果物を買ってその味を味わうその時価値を感じる。またカメラでも良いカメラを買ってレンズを買って綺麗な写真を撮った時価値を感じるのである。それは何でも車であれ家であれ実際に紙幣と交換した時その価値を感じるのである。紙幣自体に価値を感じるということはない。

だから紙幣というのは何なのだろうと思う。そんな紙切れに何の価値があるのだろうかともなだからある時ハイパーインフレになって物価が高騰した時その紙切れの紙幣を山のように積んでも買えないとなる。
つまり所詮紙幣は紙であれ本当に紙くずのようになる。でも黄金となればその価値は減ることはないのである現物として価値の変動はあっても黄金自体に価値があるから紙くずのようには絶対にならないのである。
それは車でやれ自転車であれパソコンでやれスマホであれ家であれそれはその価値はその物自体にあり紙幣には無いのである。だから紙幣でも何かと交換するとき価値を感じるのである
とようことは人間は紙幣金を欲しいというわけではなく紙幣によって交換されるものが欲しいのである。交換して初めて価値を実感できるのである。

ともかく紙幣であれ何か果物でも買った時その果物を食べた時うまいとなりそこに価値が生まれる。紙幣自体には紙切れであれ価値はないのである。そして価値自体は実際は変化したりしない。果物でもいろいろありりんごがありみかんがあり柿がありバナナがあり葡萄がありその価値は多様なのである。
ただ紙幣であれ貨幣であるそれがなかったらば物々交換になる。私はみかんを持っているからバナナと交換してくださいとかなる。でもそうなると面倒だから金が生まれたのである。いちいち者を持って行って交換していたらその手間が大変なものになるからである

●売る者がなければ観光で外貨を稼ぐほかない

ではなぜ世界でさまざまな国で紙幣を発行しているがその価値が常に変わっているのか。なぜドルだけが世界で通用して世界基軸通貨ともなっているのか。そのドルにしても紙切れに過ぎない。ただそのドルを持つということはアメリカが提供する価値をがあるからドルが世界で一番信用されて流通されている。別に最近経済成長した中国の元でもロシアのルーブルでもまたはヨーロッパのユーローでも使用しても構わないわけである。

でもカンボジアとかベトナムとかネパールの紙幣などそれはまさに紙切れであれその国を出たら何の価値もないとまでなってしまう。それはなぜなのかとなればその国の価値がほかの国と比べてあまりにもない国だからだとなる。
第一カンボジアに行ったら何が買えるとしたらアンコールワットを見る観光くらいだからである。だから何も売るものがない国は観光が売り物になるのであるそれはギリシャでもそうである。ヨーロッパ文明の元になったギリシャはただ観光で食っているだけだともなる。でもユーロになる前はドラクマであり

ドラクマという名前は「つかむ」という意味の動詞「ドゥラットー(ギリシア語: δράττω)」に由来している。これはもともとドラクマが手のひらいっぱいの量の金属塊にあたる6ゴーコスに相当したからである。オボロイ(単数:オボロス)は、紀元前11世紀以降使われていた通貨単位である。

紀元前5世紀以降、アテネでつくられた四ドラクマ硬貨は、アレクサンドロス大王以前のギリシア世界でもっとも広く用いられた硬貨であった。

これは貨幣でもその裏付けとして交換できるものとして黄金があったとなる。黄金を手でつかむという意味になれば黄金こそ価値があるその黄金を手に掴むという時価値を実感したのである。

いずれにしろギリシャというのは島であれ古い岩がありロバがいて菜の花が咲いている何か牧歌的な世界であり不思議だった。そこには現代の産業となるべきものもなかったのであ
観光が主な産業であり何かものづくりをして売れるものもないのである。つまりグローバル経済で競争に負ければ日本もまた観光が売り物となるのである。それで外貨を稼ぐほかなくなってしまうのである。

●日本円の価値を上げるには外国に売れるものを作ること

ともかく紙幣自体に価値は感じられない。また数字として銀行にあったとしても価値は感じられない。何かと現物と交換した時家事を感じるのである。それは例えば交換しないとしてもその人は貧乏であり食うことにも食うとにも困っている。
でもお金を与えればその人はありがたいと思う。何もその見返りもないのだがやはりそのお金をは無駄に使われたということでもない。その人はその金によって今日の食い扶持を買うことができたともなるからである。
だから金の効用がない何も得られないとしてもあったとなる。ただ金を持っていただけではそれは価値にはならないのである。金は何かと現物と交換するなり人間的サービスでも受けるなりその時金の効用がありそれで価値を感じるのである。

そもそもグローバル経済にしてもただ紙幣だけが流通していただけはなんら価値を感じない。その紙幣で外国の物が食糧でも資材でもかえるということで価値がある。価値の基となっているのはその国にある資産である。紙幣に価値があるわけではないのである。まだいくら数字になっていてその数字が増えたとしてもそれが必ずしも価値とはならないのである。その価値を生み出すものはアメリカとかロシアであれば広大な土地がありそこから農産物が生み出されるからそれが価値があり紙幣であれ貨幣であれ価値が生まれてくるのである。

そしてどうして日本は円安になりそれが止まらないのか。それは日本が持っている価値がなくなったということである。それは技術的にもそうだし何か日本が世界に売れるものは車くらいしかなくなったからである。つまり日本の円の価値は日本が作り出すものは売れたということで価値が生まれていた。その価値がなくなったのは日本が作り出すものは外国に売るものがなくそのために日本円の価値は低落して上がることがなくなったのである

だから日本の円の価値を上げるのはどうしたらいいかとなると日本は外国に売れるものを作るほかない。それができないと後進国のようにギリシャでもカンボジアでも観光に頼るほかなくなるのである。悲惨なのは今度は日本の女性が安く外国人に買われるということであるそれも日本人がしてことがだからカルマだとな自分たちのしてきたことは今度は外国人にされているだけなのである。

だから必ず人間にはカルマの法則が当てはまるのである。それでアメリカにしろいつまでも繁栄するということもなくやはり衰退してドルもう安くなるということである。世界は一国だけが永遠に栄えるということなどないからである。それは歴史を見ればわかる。みんな栄えた国でも衰退しているからである。それは歴史の法則のようにもなっている。だからいつまでもアメリカが栄えるということも覇権国になっているということもありえないのである。
posted by 天華 at 20:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2024年06月02日

アメリカ一辺倒で日本もウクライナのように戦場になる 【アメリカのドルでもブリックスの台頭で維持できない】


アメリカ一辺倒で日本もウクライナのように戦場になる

【アメリカのドルでもブリックスの台頭で維持できない】

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欧米メディアを翻訳するだけの日本の国際報道の限界 -鮫島タイムス

●アメリカ一辺倒はウクライナにされる危険

日本の外交問題とは何か.それは戦後アメリカの植民地のようになってしまったことである。日本は独立国でないと言われる。アメリカ様には逆らえないとなりそのためにすべてがアメリカ側になりそのことで日本というのはアメリカの手先となりウクライナのようにされる恐怖がある
中国が攻めてきたらウクライナと同じようにアメリカ自ら戦うというのではなく日本に戦わせて日本人を犠牲にしてアメリカ人は戦わないと言っている。それがアメリカ人のやり方でありそのためにウクライナでも多大な犠牲を出してえろ。テレビの映像を見ても足をなくした人とか見ると戦争の悲惨さが蘇ってくる。

鮫島氏はここでまず大事なことはゼレンスキー大統領は戦争をしないということを国民に犠牲を出さないということを第一にして政治を行うべきだった。アメリカの支援を受けてウクライナを戦場にしたことは失敗だったとしている。もちろんロシアにも攻めるべきところはありそれは双方にあったのである。でも第一は戦争をしないことでありそれそのことが一番大事なこととして政治をするべきであった

とにかく日本は戦争に負けてからアメリカ一辺倒アメリカ寄りになりすぎたのである。それは最近の方が政治家でも官僚でもアメリカ寄りになっている。アメリカの言うなりになりアメリカに逆らうことはできない。そのことが非常に危険なことだと指摘している。アメリカは今どうなっているかというと経済的にも実際は衰退していてかつての力は喪失している。

そしてなぜ日本が円安に苦しんでいるのか。それもまたアメリカによる操作があり公平な市場の競争の結果でもないのである。経済も政治が関与してそうされるからである。何かおかしいのはウクライナでも戦争が得したのは経済的にアメリカだったとしている。そもそも武器を売って儲けるということ自体モラルに反している。

●ウクライナ戦争で漁夫の利を得たのはアメリカと中国

アメリカは巨大な軍事国家であり武器の生産国であるそのために戦争があった方が武器が売れるから儲かるシステムになっている。まさに武器商人でありそれは人々の命の犠牲があって成り立つ悪徳商人だとなってしまうのである。美名のもとであれそこで人は死んでゆくからそこに正義などはもともとないのである。
確かにロシアもいいというわけではないし責められるべきである。でもウクライナで犠牲がありロシアでも死んでいる。実は損しているのはウクライナとロシアだとなってしまうのである。それで漁夫の利を得ているのが中国だというのもわかる。

だから損しているのはウクライナとロシアであり双方ともその戦争で利することもないのである。だから馬鹿げた戦争だともなってしまう。鮫島氏はゼレンスキーはまず戦争しないということが国民を犠牲にしないということを大事にして政治を行うすべきだった。そうしないからアメリカ側の要請のままに戦争をして国民を犠牲にしたのである。それが日本にとって他人事ではないそれが米中対立で台湾有事とかになり現実問題と化しつつある。

実際の戦場となるのは日本でありアメリカはやはり日本をウクライナのようにしようとしている。アメリカ自身は血を流したり犠牲にはならない。日本人をウクライナの様に戦わせてアメリカはそこで武器を売ったりして儲けるだけだとしている。アメリカはもともとそういう国だとしている。アメリカはなぜ戦争するかというとアメリカの国自体が戦場になったことがないし戦争の悲惨さを国民自体があまり自覚できないのである。

だからこそ広島に原爆も落とされても依然としてアメリカはそれほど反省もしていないのである。だからこそアメリカに核爆弾を落とされれば身にしみて戦争の悲惨さを知り反省するとなる。人間は苦しまなければカルマを自覚できないのである。つまり日本に原爆を落としたということをアメリカ自身の苦しみとなった時そのもを酷さを自覚できるのである

●世界情勢は変化している―日本の使命の自覚

ともかく世界情勢はもう実際は常に変化している。アメリカが巨大な覇権国でありそのことが刷り込まれてきた。それは現実の政治でも経済でもアメリカのを無視しては何もできなくなっていたのが日本である。でも世界情勢は変わってきているのである。
ドル円一辺倒の世界変わりつつある。ブリックスとか中国の台頭とかさらにインドの台頭とかありアメリカだけの世界ではなくなっているのである。だから中国が良いとかではなく世界情勢の変化を見て日本も対処しないとウクライナのようにアメリカの言いなりになり米中対立で戦場にされてしまう。それは全く非現実的なことではなく台湾有事によっていつそうなるかわからないのでまだ経済的にもアメリカが反映することは終わりつつある。。だからドルに頼ることはまた危険になる。

つまり何であれアメリカ一辺倒の日本は何かかなり危険なものになっているのである。だから中国とかロシアにつけというのではない。世界中情勢がインドの台頭やBRICSと言われる国々が力をつけてきているからである。そして意外と見逃されているのはヨーロッパは衰退しているという。それもやはり国際情勢の変化であり見逃されているのである。

日本は世界に対して重大なる責任を背負い,世界は将に日本に負うところはなはだ多からんとす、東西両洋の間に介し西を招き東を弁じ前者の暴を和らげ後者の迷を解き二者の融合を図る日本置いてあらじ。(内村鑑三)

日本の役割というのは内村鑑三が指摘したように東西の要にあり東西を結ぶものとしてある。そういう地理的宿命にあるだからすでに明治時代にアメリカでアメリカに留学した内村鑑三アメリカかぶれにもならず冷静に見てアメリカの悪い点を指摘して言ったのである。アメリカはすべて金であるというときもそうであるもちろんアメリカにも良い点があるが悪い点も見ていたのである。

暴を和らげるというときアメリカは暴の国なのである。またヨーロッパでもやはり暴の国であり世界を植民地化しようとしたのである。その延長としてまたアメリカがあった。ただヨーロッパは今衰退しているし戦争はしたくないとなっている。それはヨーロッパは日本と同じように戦場になり戦争の悲惨さを身をもって知ったからであるアメリカだけが戦争の悲惨さをその国自体で知ることがなかったのである。だからこそ他国に戦争をさせて武器を売って儲けるということがある。

現実に戦後はすべてアメリカ化したとき日本人もすべて金になってしまったということもそうである。アメリカのすべて習うということはアメリカの悪いことも習うということであった。もうかつての日本人義理人情なところなどもそんなものは一切ないただ全てが金になってしまったというときそれはアメリカを模範にして全てをアメリカに習ったためだったのである。それは庶民ででもすべてが金であり金金で価値を測るそれ以外のものを一切見なくなったことでもわかる

アメリカはその国内で戦争の悲惨さを経験していないのである。そのことが他国に戦争をさせるということにもなるもうしアメリカ国内で多大の犠牲者が出れば戦争に対して拒否反応は生まれるからである。結局人間はカルマを知るにわ自ら苦しまない限り知ることができないとなる。もし核戦争で広島のように自ら苦しむことによって戦争はやめるべきだ核兵器を使うべきではないとかなるはずである

●アメリカ一辺倒で危険度は増している

ともかく日本は依然としてアメリカの植民地でありアメリカ一辺倒であるというときそれはかなり危険なことにもなっている。つまりウクライナのようになることが米中対立で現実に起きるという恐怖である。そのことを日本の政治家であれ指導者は自覚していない。なぜなら最近の方がアメリカ一辺倒でありアメリカに追従する政策しかないということを言っている。岸田首相の強みはアメリカの言うことをそのままに聞いて武器でも買ってご機嫌を取り岸田がそのアメリカをはいバックにして力を持っているという。

俺にはアメリカがついているということで政権維持しているという。実はその事がまた日本にとって危険なことなのである。つまりウクライナのように日本は台湾有事から本当の戦場は日本なのである。そこで日本の犠牲がクライナのように出ることになる。そのことを相当に真剣に考えないと日本はまだ戦争に巻き込まれ多大な犠牲を強いられることになる。もちろん中国側についていればいいということでもない。ともかく戦争をしないように日本はよほど覚悟していないと戦争に巻き込まれるということである。

それが自覚されないの日本の政府であれ官僚であるマスコミであれすべてアメリカ側からしか見ないからそうなってると言う。ウクライナでアメリカはしていることは本当に正しいことなのかどうかわからない。わかっていることはアメリカの軍事産業が活気づいて儲けているということである。そして損しているのは実はウクライナとロシアであり漁夫の利を得て得るのは中国なのである。だからウクライナとロシアは犠牲者を出して実際は損しているだけだとだそれでゼレンスキーもプーチンも実際は国益になどなっていないのである.日本もそうなり得るのである。


posted by 天華 at 22:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2024年06月03日

神は人を偏り見ない―人は必ず人を偏り見る 【メデアはと何なのかーNHKでも偏り放送している】


神は人を偏り見ない―人は必ず人を偏り見る
【メデアはと何なのかーNHKでも偏り放送している】

メディアとは、媒体、媒質、伝達手段、中間などの意味を持つ英単語。 “medium” の複数形。 情報の伝達や記録に用いられる物体や装置、およびこれを利用して人に情報を伝達・配布する仕組みや事業、組織などを指すことが多い

●何でも人は偏りみるのが普通

人間は人であれ国であれ何であれ偏りみないということは一番難しい。だからこそ偏り見れないからこそ人間は人を人を裁く力がないのである。必ず偏り見るからこそ裁くことができない
だからとにかく双方の言い分がありそれを言わせることが第一である。どちらが正しいかと言うよりともかく双方の言い分を言わせて判断するのである。それが人間の裁判にもなる。一方だけを言わせるならばそれは必ずそれを聞いている人たちは偏った見方をする。その人が悪いことばかりを言えばその悪いことを言われた人はなんて悪い奴だと見てしまうのである。
こういうことは日常的に起きている。ある人の親子でもこの言い分この言い分ばかり聞いていたら親が悪いと思ってしまった。

でも実際は子の方が本当に悪い人だったのである。ただ子の方のばかりの言い分を聞いていたから親はなんて悪い人だと見てしまったのである。そういうことをこの世でいくらでもあるし普通のことである。何か人の悪口を言う場合でも一方的なものになると悪口を言われた人が本当に悪いと思ってしまうのである。
双方の言い分を聞かないと判断してはいけない。まず双方の言い分を聞くことが大事になそうしなければとても正しい判断はできないのである

●マスコミもNHKも偏り報道している

だからそもそも人を偏り見ないということは本当に難しいと思う。それで裁判では軽々に判断しないために証拠を集め双方の言い分も聞き証拠を集めようとする。人の言い分には必ず偏っていて嘘もあるからである。この偏り見ないと言う時それは個々人にもある。
でもメディアという時マスコミというとき偏りみないということではなくメディアに中間という意味があるとき中立でももない。マスメディアというのは中立がメディアではない。すでにその組織団体が偏っているのである。それはNHKでも同じであり偏って報道しているから問題なのである。

この辺で起きた津波や原発事故でもNHKでは津波被害者と原発被害者が居たがその両者が一緒に入っている団地とかあった。そこで津波被害者は原発被害者より補償金などもらえず不満があった。
でもNHKの方針は津波被害者より原発被害者を優先することに決めていたのである。だから相馬市のトマト栽培の農家に飯館村の人は雇ってくれて頼んだ時津波被害者の人を優先して雇った。そのことで飯館村の人が不満をNHKのテレビでいっていた。

それを見た視聴者はどうしてもそのトマト栽培農家が冷たいと見てしまうのである。でも現実は飯館村の場合かなりの高額な補償金をもらった。でも相馬市の松川浦の津波の被害は大きかったがそうした補償金はもらえなかった。
だからこそ別に松川浦の津波被害者を優先して雇ったことは冷たいこともないし当然だったのである。でも何かそのトマトの栽培農家は飯館村の人を雇わないとして冷たいと報道で感じさせたである
この報道には中立がなかった偏ったものとなっていたのである。
だから報道というのはなかなか中立で報道することができない。ではどうしてNHKでわ原発事故の被害者を優先して報道したのかというと原発事故というのは大きな話題となっていてそこに注目したからだと思う。でも実際は津波の被害者も大きな被害を受けて苦しんでいたのである。

●国際報道でも必ず偏りがある

ともかくこうしてマスコミであれ報道は必ず偏っている。中立であることはほとんどない。ただNHKとかでは中立を装っているから見分けにくいのである。別に赤旗とか聖教新聞とか党派の新聞であればそもそもは偏っているのだからそういうものとして見ている。
でもNHKとなると何か中立であり偏った見方をしないと見ているのである。でも実際はNHKも偏って報道しているのである。そこで国民が誤解するということが問題なのである。

それは国際問題でも必ず偏って報道される。ウクライナ戦争でも報道は欧米側一辺倒になっているのである。
だからロシアが悪いとなりロシアと戦うべきだという気持ちになるのである気持ちにさせられるのである。何かそこでアメリカが悪いという人はほとんどいない。でも背後でアメリカがウクライナを画策してアメリカより欧米寄りにしたことは間違いない。
そして戦争になったときアメリカは武器を売りそれで儲けているというのはアメリカは軍需産業が大きいのでどこかで戦争すれば儲かるということもある。
もちろんロシアがいいとか言っているのではない。ただ一方的に欧米側に立って見ているとことの真相は見えなくなる。

日本は欧米側についているからその情報も欧米側に寄りすぎているのである。つまり国際問題になると国と国の争いでも軽々に判断できないということである。
それは国と国の大きな戦いでもそうだが個々人でも喧嘩両成敗となるのはなかなかどちらが正しいとか決められないから喧嘩してるときは両方が悪いとされたのである。そういう判断が正しいともだ正しいともなる
だからウクライナであれロシアであれ欧米側であれ両方とも悪いとなってしまう。喧嘩両成敗となればそうなる。

ともかくなぜ人は偏り見るのか。それは判断材料となるものは少ないということもそのために簡単にどちらが正しいとか判断できないのである。家族の問題でもそこに何かもめ事があるときさらに家族の事情もさまざまで複雑だから誰が悪いのかとなると判断できなくなる。家族の事情というのはそれぞれであり分かりにくいからなからこその中に入っていけないのである。
そこでそういう問題ははいっていくと失敗することになる自らも傷つくことにもなるまた相手でも傷つけることになってしまうのである。だから警察で家族の揉め事には入りたくないというのは分かる。それだけそれぞれの家族は複雑な事情を抱えているからそうなってしまう。それで喧嘩両成敗になる。

●権力と組織団体と結びつくと公正になれない

ただ報道であれ中立を維持して報道するには利権と結びつかない。利権団体組織と結びつかない。マスコミが公正な報道ができないのは常に宣伝費や報道すること自体に巨額の金が必要でありそれで宣伝費を出してくる大企業やカルト教団とか大きな組織団体に頼る果として報道の自由は維持できなくなる。宣伝費を出してくれる会社に組織団体が忖度しなければならないからである。それで福島民報とかでも他の新聞社でも聖教新聞などを刷らせて収入源としている。

そうなればとてもその団体を批判したりはできないのである。まただからマスコミの問題はあまりにも金がかかりすぎて中立を保てない。宣伝費をくれる大きな組織団体利権団体に頼りそのために中立的な報道はできないのである。新聞とかテレビは費用がかかりすぎて維持できない。インターネットで報道もできるから終わりになるということである。インターネットなら個人でもこのようなプログでも一人でできることがある。それは大きな変化だったのである。

そしてインターネットメディアの特徴はマスメディアとは違ってマスを相手にしているとは言えない。だから私は時々 YouTubeで発言しているもの同調してその感想を書いている。こんなこと今まで新聞とかテレビではできなかった。
つまり対話的メデアでもある。何かニュース解説していてもそれを自分なりに読んで感想を述べたり批判もできるのである。ただ今のところ私自身がプログで書いたものにコメントしているものには応えていない。それはなぜかといえば相手のことが何かわからないからただ批判される批判されたりして答えないのである。

そして書いていることも膨大なものでありいろいろな分野になっているからいちいち答えるのは面倒になったのである。だから本当はその人はどういう人なのか何を求めているのかその人はブログで書いているのかそういうことを示してもらわないとなかなか答えられない。それで応えていないのである。
ただひろゆきなどは個人のことで個人の問題でその話を聞いて金までもらって答えてあいる。答えているそれもかなりの労力が必要なのである。何かそもそもある人に答えるということはその人自身をよく知らなければ答えることができないと思う。ただやはり答えてもらうにわひろゆきだと金をもらっている。それ相応のものがないと答えるのも面倒だとなってしまう。

●議論しても神についてなどは時間の無駄

まず私は議論はしたくない前はしていたが議論はまた不毛でもある。何か絶えず相手を貶めてやろうとかそういう魂胆が見え見えだからである。何かについて冷静に議論することは難しい。そもそも神のことについては信仰のことについては議論しても無駄である。神があるかないかなど議論しても無駄である。何か得意になって神などないという人がいるがそれで得意になれるのかとなる。だから神について議論するのは無駄である。神は信じるか信じないかの問題であり神は存在するか存在しないかとかの問題ではない。神のことを議論しても答えなど出てこないからである

そんなことしているのはもう時間の無駄である。神ががいないとかそんなこと誰でも言えるからである。それで何か得意になっているというのも馬鹿げている。それで何か力が付くことがあるのかとか何もないのである。神は現に生きている神であり今でも人間に働いているのである。あなたの心を見ていてまたあなたのを
保護している。何らか見えないにしているその人を導いているのである。

それは旧約聖書であれ神が現れて神が導く記録だったのである。だから私自身にしても何か何回も危険な目に遭い死に目にもあったの生きていたのはやはり神が生かしていたのかなとも見る。そうでなければあえなくどこかで死んでいたようにも思うからである。
だから神は活ける神であり現代でも個々の人間に働きかけているのである。ただそれがなかなかわかりにくいということは現在では奇跡というのは示されなくなったからである。でもやはり奇跡というのは現在でもあり個々人に奇跡が起きているともなる。それはただ明確にわからない場合がある

ともかく偏り見ないと言う時人間は必ず偏り見るのである。だからこそ神は裁くなと言ったのだる。それで問題なのは何かマスコミとかまるで裁判官のようになり人を裁いている感覚になる
NHKなどはまるで裁判官のようになって人を裁く感じになる。だからマスコミで悪者にされればその人はマスコミによって裁かれたどうなるのである。だからマスコミとは何かというどき要するに媒体であり中間であるということを知るべきである。本当はマスコミや一つの機械でありインターネットのようにただその機械を提供しているだけだとなれば問題はないのである。

でもマスコミ新聞であれテレビであれ自分自身の意見など言うこともできなかった。インターネットは対話的メディアであり別にYouTubeの人が個人で語っていてそれに応えることができるのである。私は別に右の人であれ左の人であれ関係なく対話していることでもわかる。右左もなく私は中立であるその人たちのいうことに反感があったり協調したりしているのである。
つまり私中は中立である双方の言い分を聞いて偏り見ないようにしている。それでもどうしても偏るのは人間の限界だということである

2024年06月04日

死んだ時点で人間の態度が変わる―その最期のやりとり 【死者に鞭打つことは日本人はできない】


死んだ時点で人間の態度が変わる

【死者に鞭打つことは日本人はできない】

●最後まで電話でやりとりして死んだ人

その女性は付き合っていた男性と仲違いしてケチだとかなんとかいろいろとあって悪口を言っていた。でも不思議なのは死んでからはそういうことを言わない。ただ男性の娘の事は悪く言っている。その男性にしても娘に捨てられるとかなんとか言って確かにその娘はその他親その男性が親にしてもいい娘でわなかったらしい。それでもその女性は常にその男性のことを悪口を言っていたのである。

ただその男性の家には行かなくなったが電話では最後までやりとりしてたので。男性が入院しても電話でやり取りしていて死んでしまったのである。だから意外と糖尿病であったが簡単に死んだとなる。その人が死ぬ前に私の家にも来たのである。その顔を見たら青ざめていたから相当にやはり悪かったのかもしれない。私は別にその人と親しいというわけでもなかった。

だから人間は死ぬときは知人でも回って歩くということが本当だった。それはみんなが経験していることである。でもあんなに悪口を言っていた人が言わないで何かその人は鯛焼きを食べたいということをしきりに言っていた。
でも親しくしていた女性は娘に買ってもらいとか言っていたただその70以上の女性は自らは脳梗塞になり歩くこともままならないようになっていたので買いに行くこともできないということはあった。でも鯛焼きを持って墓に捧げて供養しようと言ったのである。

●死んだ時点で変わった女性の態度

とにかく人間を死んだ時点で態度はガラリと変わることはある。あんなに悪口を言ったのに供養するするというかそんな気持ちになっているのも不思議である。それは普通の人にも起こる。なぜなら介護で散々苦しんでも死んでしまえばもはや迷惑をかけることがないからである。
だから生きてる時は普通に死んだら楽になると思っているのである。私自身も一人は認知症であり一人は五年くらい介護をしてそういう気持ちになったことがある。私自身がそんなに親の世話をするとは思わなかったからである。
ただ私は特別良くされたので必死になって介護したのでそれは力足らずでもそういう気持ちがもともとあったからできたのである。

でも他の人ができるかとなるとそうはならない私は特殊な事情でそうなったからである。
そして不思議なことはその女性は生前はその男性が車を持っていていろいろなところに連れて行ってもらっていたのである。それでそのことを楽しかったとか言っている。
つまり死んだ結果その人の悪口を言うことはなく楽しかったことを思い出してその人を供養する気持ちになったのである。生きているうちはとにかくいろいろと不満があり悪口でも言うのだが一旦死んでしまえば別に迷惑をかけないし悪口を言ったいうこともなくなる。死んだ人に悪口を言ってもしょうがないからである。だから人間というのは死んだ時点でまったく別の態度になるというのも分かる。死んだ人をとやかく言ってどうにもならないとなるからである。

また死んだ人にとっても生きている人に何かしてやるということはもはやできない。だから生きている間に何かをしてやるということは大事だ。その85歳で死んだ人はやはりその女性に対して何かもっとよくしてやることが必要だったがそれもしなかったことが問題だった。でも何にもしないというわけではなくその女性を車に乗せていろいろなところに連れて行ったという事がありそれが今その女性の思い出となっているのである。

●日本人は死者に鞭打つことはできな

何か死んだ人は批判しにくい。死んだ人責めにくいのである。それはどんな人でもそうである。戦争で300万人死んだ。その死んだ人お前たちはバカだからとか無駄死にしたんだとか言えない。死者をを鞭打つということが人間はなかなかできないのである

《伍子胥ごししょが、楚その平王の死体を鞭打って父兄の恨みを晴らしたという、「史記」伍子胥伝の故事から》死んだ人の言行を非難する。屍しかばねに鞭打つ。

中国人は死んだ人を鞭打つということが普通に行われていたみたいだ。死んだ人でも恨みがあれば許され許さないということである。だから墓を暴いてもその死体に鞭打つということがあったのである。
日本人はそれができない。だから明治の時戊辰戦争の時東北で戦った西の人たちの墓がある。それは敵味方塚として敵も味方も一緒には祀るのである
それが日本の文化だので中国人は理解できないとしている。つまりいかに大陸になるとその争いが熾烈なものになるかということである。それで大陸の戦争はジェノサイド民族時代を亡ぼすような虐殺は常にあったのである。日本は島国でありたとえ戦ったとしても敵味方塚として敵でも手厚く葬ったのである。それは日本の文化でありそれは世界的に見ても無いから世界でも真似るべきものだと思う

いずれにしろ日本では死者に鞭を打つようなことはしない。一旦死んでしまうと扱い方がガラリと変わってしまうことにもなる。死んだ人なかなか悪く言えないのでそもそも死んだ人を悪く言っても既に死んでいるのだから死んだ人は反省することもないからである。私死んだ人は害を与えないということで態度が変わってくる。それでその女性生きているときはいろいろ文句言ったり悪口言ったのだ死んだ時点で何か心が変わり鯛焼きを食べたいと言っていたから鯛焼きを持って墓参りして供養したいと言ったのである。

でも生きているときは娘に買ってもらいとかなんとかそういう気持ちもなかったのである。ただその人も歩くこともままならないし鯛焼きを買いにも行けないという状態であったから責めることはできない。人間とは食い意地というのはなくならない。糖尿病になると特に食べたいものはあっても食べられないから苦しいとなったのである

●最後に残ったのは思い出だけであった

その女性は車でいろいろな場所に連れて行ってもらったことを思い出してその男性の悪口はもはや言わないのである。結局最後はそうして思い出だけが残るのである。その思い出が宝となるのである。何か息子が車を持っていても自由に乗せて連れて行ってもらえないということも言っているからである。いずれにしろ死んでからいろいろ悪口言っても死んでいる人にはしにくい。
例え言ったとしても相手が死んでいるのだから通じないともなる。そもそも死者には何か通じることはあるだろうかとなるお供え物をあげたとして返事もないし何か徒労にも見えてくる。でも意外なことは死者死んでからその人を思っている人は本当にその人を思っていた人だとわかる。
なぜなら死んだ時点で人は何かくれるとか返答もなくなってしまうからそんな死者に対して供養を続けるということは思い続けることはもはやできなくなってしまうからである。
だから死者を愛するということはなかなか難しいのである。

死んだ人に生きている人は何もできない
死んだ人は生きている人になにもできなくなる

このことを考えると後悔しないことになる。でもどうしても生きているときはそうはならないのであう。

岩手山の威容【詩】 【独立峰は人間にも見えて魅力があるー上野霄里とかニーチェとか巨像化する】

岩手山の威容【詩】

【独立峰は人間にも見えて魅力があるー上野霄里とかニーチェとか巨像化する】

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その噴火口
急峻な斜面
濃霧の中に隠され咲く花
噴出した溶岩の山
それは今も熱い
煮い滾る原始組成の力
その激烈な爆発の跡
それは天地に轟き
大地をゆすりぬ
その斜面を真っ赤な紅葉が
山巓まで染め上げる
そして一転して純白の雪が覆う
その厳格な原始の山嶽の威容
その全貌を知り得ようがない
その山の貌は多様である
その山は天に向き聳えて屹立する
それは立ちはだかる巨人
不浄を寄せ付けぬ独立峰
その山巓に星は散りばめられる
その絶巓に轟々と雪嵐が唸る
まるで野生の獣の咆哮のように
そして閉ざされて東北の長い冬を耐える
・・・・・・・・

岩手山に3回登った。岩手山の魅力は独立峰だということでそれは盛岡市内でも独立峰として見ることができる。なかなか独立峰となるとそれほどあるとは限らない。なぜ独立峰が魅力なのかというと富士山は魅力になっているかもわかる世界の人でも富士山に魅せられてしまうのである。それは独立峰だからであるその姿もまた優美であり必ず印象に残るものだからである

だからこの独立方を見ているとき必ず人間の心に反映される。独立峰というとき北海道なら羊蹄山とか青森なら岩木山とかありそれが魅力なのである。鳥海山などもそうである。会津には確かに2000m級の山があるひしめき合っているのだが独立峰というのがないのである。

私が岩手山を登った時それは別に一番印象に残ったのは早く秋になって8月なのか9月なのかすでに紅葉に染まっていたでも一転して既に真っ白な雪に覆われていた。その厳しい変化に感嘆したのである。私は体力がないけど30代とかはまだ山登りしていたのである。
でも山登りで相当に疲れて何か帰ってきて死ぬように寝ていたことがある。山登りはそれだけ体力的には消耗する。それで40過ぎてからやめてしまったのである。それからは自転車旅行になったのである。自転車旅行なら別にいつでも休めるし食事もとれるから意外と体力がなくてもできるものだと分かったのである。でも登山はそうはいかない。低い山ですら遭難する人はいるように相当な体力が必要である厳しいと思う。
現実に岩手山で吐いて山小屋で寝て何とか下山したのである。だから登山は危険なのである。

何か人間というのは何であれ木であり石である人間と見てしまう。独立峰もある意味で人間と見るのだがそれはあまりにも厳しいものであり人間を寄せ付けのものであり人間化することは難しい
でも例えば上野霄里氏とかの原生人間とかニーチェの超人とかアイデンティティ化したような感覚になる。だからどうしても私のような貧弱な体力だとまたは性格でもそうした巨大なもの強烈のものを現わそうとするとと難しくなる。

つまり決して岩手山であれその全貌を知ることは不可能である。あまりに多様でありまたその姿を捕らえることはできない。そうなれば神のようなものになってしまうだろう。そこに人間の限界がある
それは巨人幻想に陥り偶像化にもなる。なぜ巨像が神となるのかとても小さな人間が神と見えないからそうなった。その巨像も崩れ落ちるのである。

でも山を知ろうとするとき独立峰であり遠くから見ても確かにその山の威容はわかる。何かどうしても強烈な天才でもある上野 霄里氏とかニーチェとかに見えてくる。それは原生人間でありまだ超人だとなってしまうのである。
ただ現実にはそんな独立峰でありそれをアイデンティティ化される人間などが存在し得ないのである。ただ何かそれに似たような人間は確かに存在しているということである。

いずれにしろ何か山でもそうだが山を知るには確かに遠くから見てもその実際の姿を知るに実際は登ってみないと山を知ることはできない。例えばヒマラヤを遠くエベレストを遠くから見て感嘆した。山を本当に知りたければエベレストに登らない限り知ることはできないと思う
それはあまりにも厳しいからできないとなる。ただなぜそんなに厳しいところに山に魅せられるかというとやはり山にはそれだけの魅力があるということである。

とにかく今私は体力も落ちて山に登るところではない。自転車だって遠くに行くと何か体調を悪くしてしまうだから厳しいことは若いときにしていないとできなくなる。私自身が我ながら感心しているのは50過ぎてからバックパッカーになって世界を回ったことである。それを回想するとき今更ながらに良く行けたものだと思う。今や外国に行くこと自体行く気力もない、気力も体力も亡くなったとなる。人間とはこうしてたちまち老いてゆくからやるべき時やらないと本当に後悔するのである。


its crater
Steep slopes
Flowers hidden and blooming in thick fog
The mountain of lava that erupted
It is still hot
The power of primordial composition boiling over
Traces of its violent explosion
It roars to the heavens and earth
Shaking the earth
Bright red autumn leaves stain its slope
It dyes up to the mountaintop.
And the snow of pure white covers it in a complete turn.
The majesty of the mountain of the strict primitive mountain
I cannot know its whole aspect.
The appearance of the mountain is various.
The mountain rises and soars toward the heaven.
It is a giant standing tall
It is an independent peak that does not let impurity come.
Stars are scattered on its mountaintop.
The snow storm roars at its mountaintop.
Like the roar of a wild beast.
And it is closed and endures a long winter in northeastern Japan.
・・・・・・・・

Translated with DeepL.com (free version)

スマホとデジカメを失くしたが警察に届けられていた 【スマホとデジカメ二つでメーカーも分っていたから本人確認ができた】


スマホとデジカメを失くしたが警察に届けられていた

【スマホとデジカメ二つでメーカーも分っていたから本人確認ができた】

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秘密の暴露 (ひみつのばくろ)とは、 刑事事件 などで 取調べ の際に 被疑者 が 真犯人 しか知り得ない事項を 自白 することである。

スマホとデジカメをなくした。イオンで自転車が車で風で倒れたのでそこで落としたのかと思っていた。
でも今日南相馬市の警察署に聞いてみたら届けられていた。それで何を落としたとかどこで落としたのかと聞かれた。落とした物はスマホとデジカメだった。そのスマホの色とデジカメの作った会社名を聞かれた。それを答えたから納得した

意外とスマホとかはなくしやすい。前は真野ダムのところで置き忘れた。それも相馬市の警察署に届けられていたのである。だからスマホというのは近くであれば必ず警察署に届けられることがある。それは経験していたので解った。でもそのスマホにしても本人確認とか暗証番号がどうのこうのかとそれを受け取るに相当に手間だった。なぜそんなに疑うのかと疑問だった。ではなぜ今回はそれほど疑うことなく引き渡すと言われたのか?

それはおそらくスマホとデジカメが落としたということでスマホだけでないから疑うことなく引き渡すことにしたのかもしれない。
なぜならほここで問題になるのは法律的には本人だけが知り得る秘密がありそれを知っていたということである。ただ無くした場所は間違っていたのである。まずつスマホを持っている人はデジカメを持って歩かないだろう。そしてデジカメのメーカー名を知っていたということも疑わなかったのかもしれない。

いずれにしろスマホ忘れやすい届けられる割合が高いただこの辺の近くであれば届けられやすいでも都会になると自分自身でもどこに忘れたかもわからなくなる。だから都会で忘れ物をするとなかなか探しにくくなる。ただ私はスマホ持っていてもほとんど使っていないのであるこれはやはり旅する時などに役に立つ。でも今は遠くへ旅に行かないからほとんど使っていなかったのである

法律というとき何か難しい理屈であり理解するのが難しいでも日常生活の中で具体的にこうして何かあったときそれを理解しやすくなるのである。まずスマホ忘れたという人はいる。
でもデジカメを一緒になくしたという人は今は少ないだろう。スマホがデジカメ代わりになっているから二つを一緒に持つ人は少ないとなる

そしてそのデジカメのメーカーを知ってるということその人だけが知っていることでありそれをニコンとかなるとそれほど有名ではなく何かマイナーだからそれもやはりその人だけが知る秘密でありそれで信用されたとなるのかもしれない。
法律を知るにはやはり日常の生活の中でいろいろな問題につき当りそれを解決するために法律がある。でも法律をただ学問として学んでいるときはなかなか理解できないのである。その理屈でもいろいろあり嫌になってしまうのである。

ともかく今の自転車の問題はスタンドはあるのだが小さいものであり自転車自体が大きく重いから倒れやすいのである。だからしょっちゅう倒れるのでありそれでその時前のフロンバッグとに入れていたものは落ちた。それは前にも何回もあったのである。だから自転車でカメラを持って写真を撮ることはこうして持ち運ぶのも大変だとなる。特に重いカメラになると大変になるのではそれで本格的にカメラを取る人はクルマを持たないとできないと思う。実際に3万で買った軽いレンズなくしてしまったからである。

それは自転車だからというのではないにしてもやはり車だったらカメラの機材でも入れておくから安心だとなる
とにかく自転車というのはそれなりに結構大変なのである
昨日などそれほど暑くもなかったの日射しをまとめに受けて頭に熱が籠り頭がぼーっとして何もできなかった。とにかく自転車というのは風でも光でもまともに受けるから体に相当影響する

それで体力も老いて弱った時自転車にのってカメラで撮ることでも結構大変だともなる。車を止めてある場面撮るために半日もいると普通にいる。その方がやはり写真をとるにはいいとなる。
この自転車の問題はスタンドが小さく倒れやすいことだったのである
posted by 天華 at 15:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2024年06月07日

個性が発揮されない不幸−教育も規格品を大量に作ることー自己啓発が個性を作る 【調和の天の花園ー詩】


個性が発揮されない不幸−教育も規格品を大量に作ることー自己啓発が個性を作る

【調和の天の花園ー詩】



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調和の天の花園

赤い花はさらに赤く
黄色い花はさらに黄色に
青い花はさらに青く
神に与えられた色を
十分に出して咲く
その時花々は幸福に満ちている
青い花として咲くものを
赤い花として咲かせることは
花にとって苦痛でしかない
その花園に蝶は舞い小鳥は歌う
そこが正に天国である
それぞれの色に花は咲き満ち
調和して神の国は成る
小さな花も大きな花も
すべてが調和して神の花園は成る
深い木陰があり石があり
人は休み大きなでんでん虫がいる
神に選ばれた人は飽くことなく
その花園を散策して心満たされる
そこに新しい花が加えられて
更に花園は美しく変化する
そこに種々の果実はふんだんに実り
飢えることの不安はない
神はその子に惜しみなく与えるから
・・・・・・・・・・・

●なぜ人間が不幸になるのか―個性が発揮されないから

人間が不幸になるというとき人間にはそれぞれ生まれついた性質や天分がありそれが考慮されないことである。陰の性格の人もいて陽の性格の人もいる。でも陰の性格の人は嫌われ陽の性格の人が好まれるから陰の性格の人は陽の性格になろうとする
そのこと自体無理なのである。青い花は青い花として咲くとき本分を発揮して幸福だとなる。

何か教育では人間を一つの色と見てしまう。社会でも一人一人の個性を見ない、集団化組織化して一律にした同じ色にする
それはカルト宗教団体でも組織化集団化する所ではそうなりやすい、それぞれの色とか認めない、黒なら黒に染め上げる
何かみんな背広きてネクタイしているのかとも疑う、学校だったら制服を着ているのかそれは軍隊と同じになる
ただ人間を訓練する時軍隊的訓練は必要になる。ただそれが人生全般を通じて一つの色にすることそれが問題なのである。

ともかく人間を不幸にするのは何なのか。例えば医者の家に生まれたら必ず医者になれとか強制されるでもみんな医者になることがあっているとは限らない。でも親から強制されるから医者になったとかしてもその人の天分がないとしたら不幸になったかもしれない。

人間は自分の個性に発揮していけるということはなかなかできないそもそも天職についている人がどれだけいるのか、ほとんどが社畜とか言っているように強制的に自分の意に沿わずとも無理やり無理して働いているとなる。その人たちは不幸なのである。でもそういう人はこの世ではは多いのである。
第一その人の個性といってもそれが社会に受け入れられることはなかなかない。だからもともとは青い花なのに赤い花として咲けとか社会によって強制されるのである。そこに人間社会の不幸がある

そもそも人間社会には調和がないのである。人間そのものもそうであり絶えず争っている。家族でも絶えず争っている。何か調和がある世界を見ることはできない。調和がある世界となれば神の国天の国にしかありえないのである。ただこの世にそうした調和がない世界でもこの世で天の国の神の国が擬似的なものは見られることは確かである。それは自然の中にあり自然は調和しているから平和がある美がある。天国の模型でありそこに救いがある。

●個性を発揮する教育は困難

いずれにしろ教育にしても難しいのそれぞれの個性といっても個性を活かすと言って何が個性なのかも分かりにくい。
結局集団組織がした教育となれば一律に強制的に教えることになる。学校というのは何かとなればそれは工業社会に適応するために作られたものだとされる。なぜなら工業社会では同じ製品を大量に規格化された製品を大量に作ることが必要である。それは人間にも適用されるのである大量に規格化された人間を学校で教育するということにもなる。

それぞれに個性にそれぞれの個性に合った教育などとてもできないのである。そこに教育の限界がある。教育とは自己啓発がしないとそもそもは教育にならない。その人のあったもの自己啓発して自己研鑽して見出す事だからである。他者からいくら押し付けられて教育はそもそも無理だからである。だからそもそもその人が青い花なのに赤い花にするということ自体が無理であり人間を歪めてしまうのである

何かオランダあたりでは教育でも詰め込み教育ではなく机と椅子を並べて詰め込む教育ではない。少人数のグループで自由に配置して自由な探求をしている。そもそもは学校というのはやはり多人数の人一律に教育して方にはめこむことである。それはカルト宗教団体とも似ているのである、それは日本の寺子屋でもそうだったのである。

そういう場からは自由な発想などは生まれてこないのである。日本人が高度成長時代の時あらゆることは日本人は優れているとか言われた。ジャパンアズナンバーとか言われた。
でもそれは日本人が何か発明したとか優れたというものではなく同じ製品を大量の規格品を作ることにすぐれていた。確かに品質はいいものであったがそれは大量に規格品を作るということでもあった。

●日本人はなぜITに遅れたのか?

ではなぜ日本人はITに遅れてしまったのか。あれほど技術的にも優れていると言われた日本人はITに遅れてしまったのか。それはやはり日本人はもともと創造性とか発明する何か地盤となるものはなかったのかもしれない。発明となるとき文明では必ず文明国では中国でも漢字を発明したり色々と発明している。日本人は何か発明したものがあるかとなるとかなり少なくなってしまう
猿真似国家として揶揄されたのもわかる。

今AIが急速な進歩をしている。でも日本人はその開発にも参加できていない。すべてアメリカ中心になっていてその中核に入っていけない。なぜAIが最先端なのかというとそれが人間の頭脳と関係しているからである。それをそれを一番感じたのはなぜBing イメージクリエイターで絵画作れるのかということである。私は全く絵を描けないの絵を作り出すことに感嘆するのである。それも簡単な言葉であり何か工夫することがほとんどないのである
だからどうして絵が作られるのか不思議になる。

 AIで感じることは人間の才能とは何なのかということにもなってしまう。人間の才能は実際はわずかなものでありコンピューターの方は優れているともなるからである。そこにAIのこれから計り知れなく発展する世界があるのかもしれない。これまでこうして人間の頭脳に直接関係するものは作られなかったからである
だからAIが人間の頭脳の代わりになり芸術まで想像するとなると人間の能力とは一体何なのかとなってしまう。

とにかく自分は大学まで組織集団に適用するために努力してきたのである。それはカルト教団に入ってもそうだったそこでは黒に一色に染まることである。他の色を入れることは不可能なのである。それはまさにナチスになるのである。
私は家族に恵まれた結果会社にも入らず私自身の好きなものを追求してきたのである。それはやはり家族に恵まれた結果そうなったのであるそれはまた異常なことでもあった。私自身に適していたことでもあったのである。そのために社会性が喪失して介護になった時塗炭の苦しみになったのである

ただ人間というのは何事良い面と悪い面に働くことは確かであるだから引きこもりが悪いものとされるは陰の性格の人にとっては社会組織集団に適応することができないからいい方面に働いたとなるのである
いずれにしろ教育とは強制できることは不可能である。ただ自己教育が教育であり自己啓発することでその人の個性は本分は発揮されるのである。いくら強制しても無理なのである。

posted by 天華 at 13:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など

2024年06月08日

我が神我が父であり組織集団化多数の中に神は現れない 【密室で一人祈りなさい】


我が神我が父であり組織集団化多数の中に神は現れない

【密室で一人祈りなさい】


我が子よ、私は我が子を守り導く
我が子よ、私はあなたを離さない
父なる神の声がじかに力強くひびく
父なる神はまことにおわします
災いの世から救出する万能の神が働く
汝は神の国へ導かれ神と共に生きる
そこに死のない永遠の都に生きる
その栄光は朽ちることなく輝く
主よ、我は神の御手のなかにあります
我は成しえず神の成すを知るべし


「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。詩編

イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。)」この見捨てると言う言葉が、詩篇ではヘブル語の「アーザブ」と言う言葉。イエス様が使われたのは(アラム語の)「サバクタニ」この「シェバク」という言葉は「離れていなくなる」と言う意味ではなく、手を出さない、助けないという意味だそうだ。


●集団に現れない神

信仰というときそれが神と我との関係である。宗教団体化したとき教会化したとき神と我々の関係になってしまった。つまりみんな我々の神として神を礼拝しているのである
イスラム教でも我々の全員の神でありわが神として神を見ている。何かそれも理解できない面がある。それは確かに偶像崇拝の拒否ということでありそれは信仰として正しいことである。
でも何かイスラム教からは個人としての信仰者は存在しないのかもしれない。なぜなら常に集団で礼拝しているからである

でも旧約聖書って神が現れたというときある特定の個人に現れたのであり我々という2人以上の人に現れていない。だからそもそも神が現れたの特定の個人であり我々というか2人上には現れていないのである。
ただ神というとき日本人だったら天皇現人神とした時それは日本人全員が神とする人となっていた。日本民族の神でありほかの民族の神として礼拝することはできなかった。そもそも我々の神となるとき集団の神となるときそこには集団以外の人排除する傾向がある。

その集団に組織に入らなければその人は認められることもないのである。それはキリスト教の教会にしてもそこに集団化して組織化して小規模であるにしろその中には入らない限り神と接しられないとまでなる。その教会内で我々の神として集団で礼拝するのである
でもその集団の中に入らない人は神を礼拝することもできないのである。その神を礼拝する牧師がいてまたカトリック教だったら司教が取次をしていたのである。プロテスタントになると直接神と個人が我が結びつくことになり仲介役の教会とか司教とか牧師は必要ないとされたのである

確かなことは原始キリスト教時代という時何か集団神が現れたらしい。でもそれは一時期でありその後は集団に集団化して形式化してただ社会化して神と個人が旧約聖書のように神と預言者が結びついて神がその預言者を通じて奇跡を起こしたり民を導くということはなくなった。
ただ集団で神を礼拝してその集団に属さなければその中には入れないし神を礼拝することもできない。つまり宗教とは組織か集団化したとき我々の神でありわが神というのは存在しなくなった。そして我々の神というとき社会でもそこに集団化組織化したときその神を認めるということになる。あれだけの人数が神として礼拝しているのだがいるのだから神であるとなったのである
でも一人の個人が神が現れたとしてといてその個人は社会では認めないのである。ただ一人に現れる神とかを社会では認めないのである。では神というときそれは神は我が父であり神にとってその子であり我が子なのである。それは個人と集団の関係ではなく個人と個人の関係だとなってしまう。

●キリストが十字架で最後に読んだのも我が神我が父である

十字架で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか

だからキリストでも我が神が神見捨てのかと訴えられた
その時キリストは父なる神に訴えたのでありそれを我が神のことである。我々の神ではなかったのである。キリストとは神の一人子でありそれは一人なのである。

でも宗教は我々の神組織化されて集団化された神になる時それは社会でも認めるし社会でもその組織集団を恐れるのである。別にその組織集団が礼拝している神を恐れるわけではない。何百万人のもの人が礼拝している時その数に恐れ従うのである。要するにその神は何でもいいあくまでも神ともなる。問題を数が多いということでそ神になりそれはサターンだともなる。それはナチスせありハイルヒットラーにもなる

だから宗教が組織か集団化して行ったとき権力化して社会へ圧力をかける。またその人たちの礼拝する神を強制することができる。もし一人だったら誰も恐れもしないし相手にもしないということである。
ただ神とはあくまでもわが父でありわが神であるそして神から見たときわが子でありそのわが子を神は見捨てはしない
でもなぜキリストが最後に問うたのはそれはまさにわが父にわが神に最後に死ぬときに訴えたのである。でも我が神わが父は決してその子を見捨てることはない
その愛するわが子を見捨てることはない。ただ組織化集団化した人たちを救うかとなれば救わない。それはわが子ではないからである。わが子というとき特定の個人でありわが神でりわが父の一人子となっているからである。

我と汝の関係をフーバーなどが説いたがまさに神と我の関係であった。神と我々の關係の中に神は存在しないのである。とても人間社会を見ればみんな我々と神の関係である我々が神によって救われるとか助けてくれるとか見ているのである。だから社会ではそこに数が多いほどそれが神を恐れる
だから神自体を恐れる人は殆どいない。その組織化集団した人たちを恐れるのである。その人たちにとって神などは存在しなくてもいい。問題は数を集めてこの世の勢力となりそこに集団の組織の神として強制してこの世の王となることが目的なのである。

ただノアの方舟のように誰も神のことなど信じないし笑って言っただけである。でも確かにノアは神の声を聞いて方舟をひたすら作っていたのである。そしてノアは神によって救出されたがその他の人は洪水に呑まれて死んだのである。
つまりそこにいた大勢の人は死に神に選ばれた個人が家族が救出されたということである。だから組織か集団化した人たちが神からの救いがあるのかというとないのであるつまり宗教でも組織か集団化して数が増えれば増えるほど神であれ仏であれ力を増してくる。

●人間が恐れるのはこの世の勢力である、神は恐れない

そして神とか仏とかを別に恐れるわけでもない社会が恐れるのはその組織化集団化した人たちは威圧してくるから恐れるのである。ただそこには真の神は決して現れることはないのである。我々の神というのは存在しない
わが神でありわが父なのであるそれは一人の人と結びついたものであり我々というものをそこに存在しないのである。だからいくら組織集団化して人を集めてもそれでその人たちが救われるということはないのである
神が投票によって決められるようなものではない。神自身が選ぶ人が神の子なり救われるのである。投票によって決められるようなものではありえないのである。ただ組織化集団化するときその人たちは神を求めていない仏でも求めていない。
そうして数を集めて権力化して社会を威圧してこの世の権力を力をこの世に力を持ち支配するためなのである。だからそもそも宗教というのが組織化集団化して人を集めるということ自体が間違っていたのである

それはもはや宗教ではない巨大な権力集団であり利権集団でありそこに宗教とは何の関係もない政治団体となってしまったのである。だからイスラム教にしても政治団体だからレバノンでも四つぐらいの宗派があって宗派争いがありそれは政治的争いであり権力闘争にもなっている。そんなことが宗教ではあれ得なかったのである。
つまり宗教は政治化すれば同じ宗教でも派閥がありその派閥同士で争っている。特に日蓮宗をそういう傾向が強い政治的団体化して互いに宗派で争うということである。

そもそも組織か集団化したということは政治化したことでありそこに神というものはなく数を集めて社会を威圧して社会を支配してゆく。
特に民主主義社会ではすべてが数で決まるというなった時いかに数を集めるかということに奔走する。それはただこの世の力を得るためである。民主主義社会になれば数が第一である数を集めれば権力化するからであるその数を集めるというとその人はどんな人かどんな人か性格的にどうとか心がどうとかどうとかそんなことは一切問うことはない。

その人を会員にしたときその人はその組織集団に属して権力集団権力を形成して行くのである
だから不思議なのはそうしてこの世の力によって神であれ仏であれそれが力を持っているということを示される
そんなことありえないことだがそうなってしまったのである。もともと釈迦にしても無一物である洞窟で修行していた
キリストでも家もなく寝る処もない何の権力もなかったのである。つまり宗教とはもともと無権力であり何か社会を組織集団化して威圧するようなものでわなかった。

それが逆に組織か集団化したとき社会を威圧するものとなりその組織集団が礼拝する神であれ仏であれそれを強制されるようにもなった。イスラム教の剣とコーランにもなる。
だからそもそも宗教組織集団化すること自体が間違っていた。それでニ三人で集まり祈りなさいというときせいぜいニ三人くらいは神を祈る人数として認められていたともなる
それが何百人何千人何万人何百万人となること自体が異常なことだったのである。そんなところに神は現れないからである我が神は決してわが父はそんな大集団に現れることはない。だから組織化集団化する宗教は宗教ではない
この世の権力化したものでありその権力でもって人々を支配するものでありそのために神でも仏でもただその現世の権力御利益のためにただ利用されているだけだとなってしまう。

●この世の力を求めて宗教団体は権力化した

要するになぜ宗教団体がどうして社会を席巻したのか。それは宗教を求めるだからではなくこの世のものを欲望を叶えられる御利益を得られるこの世の権力を得られるこの世の栄誉栄華を得られるものとして求めたのである。そこに本来の宗教などなく求める人は一人もいなかったのである
要するにサタンを拝してこの世の力を得るために拝んでいたというだけである。だからよくカトリックでも実際はサタンに乗っ取られたというときそのことになる。

ただ小集団であればまだ許されるそれが何千人何百何万人何百万人となるとそれはもはや宗教とは何の関係もない
社会を支配する権力集団となってしまう。だから内村鑑三であり無教会であり手島郁郎幕屋でもあれせいぜい集まった人が500人とかそんなものだったのでそこではとても権力化することは無理である。
それでも多いことで自慢していたのである。そういう団体は別に社会を数で威圧したりしない。だからそういう集団まで否定することはなかなかできない。

ただ神とは我が神でありわが父であり神からみれば我が子でありそこに我々という言葉は入ってこないのである
我々となった時それは組織集団化してこの世の力を頼るものであり神を恐れたり神を頼ったりすることではないのである
だからその組織集団に神の力は働かない。ただ権力この世の権力集団として社会を威圧してこの世を支配するためのものでありそれはサタンのか支配するということにもなる。

サバクタニ」この「シェバク」という言葉は「離れていなくなる」と言う意味ではなく、手を出さない、助けないという意味だそうだ。

キリストが訴えたのはまさにわが父に我が神に手を出さない助けないのかということを訴えたのである。このことこそ最も恐ろしいことではないか?
でも組織集団化した宗教はその組織集団の中にあってこそ存在感がありすべてをその人間の組織集団頼っているのである
そこに神である仏に祈ったとしても頼っている人はいない。つまりこの世とは人間が一番恐れているのは仲間はずれになるとか集団から排除されるとかこの世に頼るべきものはなくなる。そこに神とか仏は存在しない。実はそうした人に頼っているのである。その人の数が多ければ多いほど頼りになると思っているのである。

でもわが父に頼る人は一人もいないとなってしまうだから神は我々の神ではなく決してその多数の人を助けることはない救出することはない
それがノアの方舟とかで旧約聖書記されたことなのである。だからもしノアを馬鹿にしないでもしノアに従えばノアに従って箱船に乗っている乗った人は助かったとたるのである。宗教から見れば数が多いということは何の力にもならない
ただそこにそこに救いはない。神の力は働くことはないむしろその組織集団は確実に滅び消えていくのである
神は個々人が密室で祈る時現れるが集団で祈る時は現れない。なぜなら我が子よ求めてくるのでありそれは一人のことだからである。集団は我が子になりえないのである。だからいくら大勢で神を礼拝しても神は現れないとなる




posted by 天華 at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 聖書の言葉と詩など

2024年06月10日

南相馬市原町区大原の地名 【地名から探る地歴】


南相馬市原町区大原の地名

【地名から探る地歴】

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大原村の成り立ちは前田とある所でありそこの斎藤氏が江戸時代から住んでいた。前田とあるときそこは草分けの家となり古い場所で中心にもなる。北前田とあるときその前田が北には発展したのか?下田とあるのは明らかに前田から下の田でありあとから作られた田となる。地名から村の形成順序を見ることができる
遠田とあるときかなり離れた場所にある。ともかく日本では田を作ることにより村が作られて来た・
村でもその歴史を見るとき新旧を見ることが大事である。
大原は斎藤氏の家を中心にして発展して作られた村だということが地名から読み取れる。
ただ大原より深野と長野が古い、なぜならそこには館という地名がありこれは中世のものであり二つもあるからである。
大原は相馬氏が進出して作らた村だとなる。

それからなぜ町とあるのか?そこは寺がある。寺が町を形成したのか?ただ町とは一区画の意味であり日立木の町場とかあり今の感覚の町ではない、とにかくその地域を見るときどこがどの家が一番古いのかを知ることである。深野村が古く大原は新しいとなるからだ。この新旧が逆に見ることがあるので注意すべきである。

いずれにしろ南相馬市立病院に入院していた同室の人が斎藤氏だったのである。その人は死んだ。その墓は杉木立のなかに隠されてあった。家は残っていても空家している。跡継ぐ人はいない。息子は原町市内で働いている。
原町の地名で不思議に思うのは原町村である。あれだけの街なのに原町村となっていることが何かそぐわないのである。

原町村から野馬追いに一騎でている。普通は五六騎とか出る。それだけ小さな村だったのである。そしてなぜ牛越城があそこにつ作られたのか?それは雲雀が原とは牛越城まで広がっていたのである。あの辺は田畑ではなく馬を放牧する原っぱだったのである。原町とは原っぱの意味でもあった。

それで牛越城の麓に住んでいた人が姫が住んでいた他から訪ねた人に腹がふくれるだけの土地だというとき腹は妊娠してふくれその牛越城の周りは原が広がっているだけだなのでそう言ったのかもしれない。それにしてもなぜ原町村というとき何か今の街からイメージできなくなる。それほど変わってしまったためである。
でも日本の共同体の基本は村にあり村が行政単位であった。

野馬追でも参加するのは実はほとんど農家からであり町からは出ないからである。つまり郷士が相馬藩には多かった。本当は兵農分離されたとき刀狩りが行われ刀をもつことはできなくなったが依然として郷士は武装していたとなる。ただ500騎も野馬追いにでるというときそれだけ郷士の存在感が大きかったとなる。

とにかく原町村というとき相当に小さい村である。でも鹿島村となると大きな村である。鹿島村は村の規模として相当に大きいのである。それは御前の内とかあり岩松氏の支配のときその姫が住んだとかここが中心の村となったからかもしれない、でも岩松氏は屋形の阿弥陀寺を本拠地としていたのである

【鹿島村の地名】
坊田、六斗蒔田、六角田、姥田、割田、西沢田、徳蔵田、番匠田、橲原田・・・

鹿島村は農家がかなりいた村である。それは子供の時農家が多かったからである。でも原町となると雲雀が原で原っぱであり田畑はなかったのかとなる。ここで橲原田とあるのは橲原の人が来て田を作ったとなる。それだけまだ田にするような土地が野でも原でもあったとなる。

また鹿島御子神社の領域は今墓地のあるとろまでありそこが寺になった。そこには寺子屋もあったみたいである。大きな江戸時代の石碑もあり古いとなる。
霊山炎上で逃れた只野氏の末裔がすんでいることでも古い。菊の紋の菊池氏も住んだということで野馬追に菊の紋の旗が北郷から出る。つまり鹿島村からは北郷からは今の鹿島の街内からでる。
でも野馬追となると相馬市でも市内からは出ない、農家から出ているのである
原町は陸前浜街道の宿場町でありそこに人家が集中していた。駅前通りは原町が明治に機関区になり駅前通りが生まれて発展したのである。

相馬市となると中村が中心でありもともと中村市だった。田町とあるときもそこは田がある区画でありそこが町になったのである。だから原町と相馬市の成り立ちはそもそも違っていた。
相馬市には駅前通りはできなかったのもそのためである。
城を中心にできた街だからだとなる。
ともかく地名からその土地を知り歴史を知る。それが基本にある。それがわかりやすいということである。








posted by 天華 at 11:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)