2024年05月01日

世界で最初に飢えるのは日本 【グローバル経済の歪み(円安で外国から輸入できない)―日本の国土の荒廃】

世界で最初に飢えるのは日本

【グローバル経済の歪み(円安で外国から輸入できない)―日本の国土の荒廃】

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鈴木宣弘 『世界で最初に飢えるのは日本』

享保の飢饉は、西日本をイナゴが襲ったことで起きました。このとき、伊予国・松山の作兵衛という農民が、父と長男が死んでもなお、麦の種を食べず、自分も餓死してしまいました。翌年、周囲の村はこの麦の種をまき、飢饉を切り抜けました

父と長男が死んでもなお、麦の種を食べず、自分も餓死してしまいました。翌年、周囲の村はこの麦の種をまき、飢饉を切り抜けました

●農業に大事なのは肥料、種である

農業にとって何が大事かというとここで種がこれほど大事なものだということは歴史的に経験しているのである。そして次に大事なのは肥料である。農業は肥料なくしては成り立たない。だから最初に行われた農業は森の木を切ってそれをその灰を肥料とした焼畑農業だったのである。それもある意味で自然破壊でもあったでも人間の業として自然破壊をしなければ人間は生きていけないということがあった
だからユーチューブで種がいかに大事なものかを説明しているその種を確保しないと飢饉に通じているということである。

日本の厳しい自然環境が関係している。梅雨、台風、温度格差、多湿に伴う病気など様々なリスクが日本にはある。こういう厳しい条件下で選ばれたものは、いろいろな場所に適応可能なので、日本の種は海外でも通用する。特に伸びているのは中国やインドといった新興国だ。人口が増えているので野菜摂取量も多くなる


日本の野菜種子は、なぜ海外でウケるのか

日本の風土が関係して多様な種が育成された。米でももともと熱い国で作られた者であり日本では寒い地域があるし全国的にも寒い冬がある。
でも寒冷地帯で生育できる種が開発された。今で北海道でもうまい米がとれるようになったのである。寒い所では米はもともととれない、だから中国は満州などはかなり寒い地域であったから米は作っていなかった。でも日本人が満州に開拓に入り米を作るようになったのである。寒い地域だとトウモロコシなどが向いている。だから満州を鉄道で行ったら尽きることなくトウモロコシ畑が延々と続いていたのである。だからトウモロコシは中国では主食にもなる。

●蝦夷は狩猟民族であり中国の官僚が名付けた

稲作となると大量の水が必要であり水が豊富なところでないと作れない、日本では幸い水に恵まれていたから稲作が普及した
稲作は水の管理とかでも溜池を作ったりと高度な組織的労働が必要でありそのために狩猟時代は大きな国家は形成されなかったが稲作が普及して大和王権とかの統一国家が形成された、東北中心の蝦夷となると狩猟が主でありそれでその生業の相違から大和王権と対立したとなる。それは遊牧民のモンゴルと稲作の農業国家
と対立したことでもわかる。

『日本書紀』斉明天皇5年(659年)には朝廷に従った蝦夷が遣唐使に同行し唐の高宗に紹介されている。ここで引用された『伊吉連博徳書』によると、熟蝦夷(にきえみし、にぎえみし。おとなしい蝦夷)が最も近く、麁蝦夷(あらえみし。荒々しい蝦夷)がそれより遠く、最遠方に都加留(つかる、つがる。津軽)がおり、連れてきたのは毎年入貢している熟蝦夷であること、蝦夷は肉食で五穀を食べず、家を建てずに樹の下に住んでいるなどを説明した

蝦夷は肉食で五穀を食べず、家を建てずに樹の下に住んでいるなどを説明した

五穀とはいつつのたなつもの」あるいは「いつくさのたなつもの」とも読む。古代からその内容は一定していない。現代においては、米・麦・粟・豆・黍(きび)または稗(ひえ)を指すことが多い。いずれも代表的な人間の主食である。これら五種をブレンドした米を五穀米(ごこくまい)と呼ぶ。

そもそも農業のことを知らないと基本的に歴史でも理解できないとなる。なぜなら人間はその食べる物によって生活も成り立つのだからそれを知らなければ歴史もわからないとなる。
でも田舎に住んでいても意外と周りは田畑はあったとしても農業に実際に携わっている人は1割にも満たない。 9割は何をしているかといえば会社員が多いとなる。日本全国でも戦前から戦後まで農業社会であり農業なくして国家もあり得なかったそして生糸産業は国の柱となったがそれも農業の一環としてあった。だから蚕に食べさせるのは桑の葉でありそれは農業でもあった。だからどんな山の中にでも兜屋根で蚕を飼ってか生糸を生産する家はどこにでも残っている。その生糸をとアメリカに輸出して日本の経済が成り立っていたのである。

確かなことは戦前だったら農業に従事している人が7 8割とか戦後でも6割くらいが農業に従事していたすると江戸時代から農業社会が継続されていたとなる。でも戦後10年くらいは農業社会だったが電器製品を作りそれが外国に売れた。そこから日本は工業社会になったのである。その時からグローバル化経済になり外国に輸出するものがなければ豊かになれない時代だったのである。それまでは外国から輸入するものは少なかった。だからこそ木材であり石材であり何であれ資源があれば石炭でもその探して燃料としようとしていた。もちろん木材は炭にして山村でも木材を売って金持ちになっていた人がいたのである。つまり日本にある資源を利用する以外に生活する方法はなかった。
でもグローバル化したとき燃料は炭から石油にかわり電気に変わる日本にあった資源は利用されなくなった木材でも外材がいいとして輸入するようになった
もちろん農業でも肥料は外国から化学肥料を輸入するようになった。このようにグローバル化して日本は輸入に頼るようになったのである

●円安で日本は食料も輸入できなくなる

今円安とかなりそのグローバル化経済の弊害が現れたつまり円安になれば外国から資源を輸入するの高くなりすぎて輸入できないとなったからである。物価は上がるあらゆるところに円安は影響してくるのである。それはグローバル化で食糧でも外国に頼るようになったからである。高度成長の時代のように電気製品が売れてときは良かったのである。今や日本は車くらいしか外国に売れるものはない。
でもグローバル化で日本の経済は食糧までが外国頼りになる農業にしても肥料でも化学肥料は外国から輸入しているから農業自体が輸入なしでは成り立たなくなっていたのである。

だからこそ日本は世界で最初に飢える

それはグローバル経済の中で競争に負けて結果的に自国で食料も自国での食料もまかなえず飢饉にまでなるということである。だから現実に日本には森があり木材も豊富なのだがそれも利用されなくなった。結果的に山の森でも丸森あたりでも森の木が切られてメガソーラーパネルのになってしまった。それは木材が豊富にあっても日本の木材を利用しないからである。そこに住んでる人にしてもやはり木材を利用して金にならなければ住むこともできないとなってしまう。そういう矛盾が今さらに円安で生まれてきたのである

だからグローバル経済を批判してきたけど現実にそうした極端なグローバル化は日本の国土を荒廃させ飢饉にまでなってしまうということである。グローバル競争に勝っているときはいいのだが一旦負けてしまえばその国土も荒廃するだけになってしまう。それでそもそもグローバル経済というもの自体を見直すべきだとなる。まず国というのはその国で自立する食料があり資源をその国にある資源を利用してそれを基礎にして貿易でもありそれがなくなったら国自体が荒廃して国を維持できなくなる。結果的に日本は最初に飢饉になって何千万人も死ぬと警告されるのである
飢饉がなぜ起きるかという時その原因は必ずしも気候変動とか何か自然災害とかでもなく人災であるということがある。

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何故江戸時代には飢饉が多かったのか?

江戸では米が東北から入って来て飢饉はなかったのである。米というのは商品作物になっていた。江戸に売るために作られていたのである。こいうことはグローバル化で他にも起きている。
商品として外国に売るためにコーヒーばかり作っていた国が地域がコーヒーの値段が安くなって今度は自分たちが食べるものを田畑に作っていなかったので食べるもの歳買えなくなるということにもなったそれは飢饉に通じているのである。だから経済というのは基本的には自給が基本であり貿易はあくまでも贅沢品が輸入していたということになる。

なぜならそもそも貝とつく貨幣はは宝貝が元となっていてそれは装飾品である贅沢品だったのである。食料などは自国で生産して交換などしない売ったりしないのである。やはりそれが経済としてまともであり基本としてあるべき姿だったのである。
何かそれが世界的に歪めるものになった。グローバル化経済では一旦競争に負ければ国自体も外国に売るようにもなってしまう買われるようになってしまう。それは戦争ではないが戦争とも似ているのである。

●農業が基本にあり自国の資源を利用するのが理に合っている

日本人は外国人の客の召使いとなりまた外国にも働きに出稼ぎに出るようになる。それは日本がこれまでしてきたことでありそのときは東南アジアから出稼ぎ者は来ていたのである。
でも日本が円安になり稼げないとなれば今はベトナムとネパール人が来ているがその最低の生活よししている人でも日本には来ない。それよりも日本人が外国に出稼ぎに出る時代にもなってしまう。これがグローバル化競争の残酷な事実なのである。

だから根本的にグローバル化とは何か歪みをたらし矛盾となり国土まで荒廃させてしまう。ソーラーパネルが丸森であれ北海道であれ大規模に作られるのは自然破壊なのだが森があったとしても木材として利用されないからこそそうなってしまうのである。
だからグローバル化とはこうした矛盾があり国土でも荒廃させてしまう。つまり基本的に人間はその国に生まれればその国にあるものを生かしてそれを基本にして生活するほかない。それをすべて外国に頼るということはどうなるのか

日本人は最初に何千万人も飢える

これは脅しではなく現実だと思う。グローバル化経済の歪みがそうさせるのである。ただ飢饉が生まれたという時外国でもベネチアあたりでも外国の輸入があって食料も維持できて飢饉にならなかった。それは東北の米が江戸に送られて東北では米が食べられず飢えていたのである。何かグローバル経済とも似ているのである。もちろん江戸でも困窮していた。流民となった人が江戸に集まったからである。

ともかく日本でも戦前から戦後十年までは農業社会であった。だから学校でも田植えの時期とか忙しくなる時農休みというのはあったのである。それは農業社会であり学校でもそれに合わせるためにそうなったのである小学校のときイナゴ取りしてそれを売って学用品とか買っていたのである。その時は相当に貧しかっただからこそ家には一冊の本も置いていなかったのである。せいぜい読み書きそろばんできればいいという時代だったのである。そこから急速に変わって農業というのは何か身近なものでなくなり田舎に住んでいても実際は分からなくなった人が多いのである。

例えば冬という言葉が増えるから来ており冬には野菜がとれやすいのである。それは意外なのだがそういう言葉の中にも農業に由来したものは基本的にあり農業に由来しているのは多いからである。だから基本的に農業知らないと歴史にしろ何しろ理解できないのである。でもそれが例えば東京などとか大都会を見れば田畑などまるで全然ないのだから何か実感として農業を理解できなくなっているのである
でも飢饉になったとしたらどうなるのか。戦後焼け野原になって何もなくなった時高価な着物を持って農家に食料と交換したりした。そういうことは再現されるかもしれない。



posted by 天華 at 16:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2024年05月03日

南の島へ・・隠された島−【沖縄の詩】


南の島へ・・隠された島−【沖縄の詩】

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To the South Island... Hidden Island

The sailing ship in the distance

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黒潮が海の大河となり
日本に向かい流れる
朝の光に黄金に輝く
飛魚が盛んに飛ぶ
本然の生命の躍動よ
船は波分けて一路進む
彼方の未知の島に・・・
その島の大きな葉陰に
大きなかたつむりが隠れていた
そは言う我が眠りを乱すなと
サンシンの音がひびき
大きな紅い花がゆったりと咲く
ハイビスカス、デイゴの花
その赤さが青い海に映える
海からの風は涼しくそよぎ
かなた海から来るものを望む
海から飛んでくる鳥、船、異国の人・・・
海を通じて人は交わり
人はまた彼方へ去って行く
客人(まろうど)として迎えられ去って行く
幸いは豊饒の海からもたらされる
島に根も露わに古い南国の木
その木陰に老人は休む
我が一生はこの島と共にあり
我はここに永遠の眠りにつくと・・・
その島は神により隠さるべしかな
しかし航海者は新たな島を目指し進む
船は波に揺られ留まることはない・・
未知への誘いは尽きることがない・・・
そは地球の自由な旅人
まだ発見されぬ島がある!
また新しい島が噴火で生まれる
地球は今も激しく躍動している
地球の風を受けて彼方へ進め・・・
汝はなお飛翔してかなたを目指す


To the southern island... The hidden island


The Kuroshio Current becomes a great river of the sea
Flowing towards Japan
Shining golden in the morning light
Flying fish soar in the air
It's the movement of life in its true nature
The ship parted the waves and sailed onward
To an unknown island in the distance...
In the shade of the island's great leaf
A great snail hid there
It said, "Don't disturb my sleep
The sound of sanshin echoes
Big red flowers bloom slowly
Hibiscus and deigo flowers
Their redness shines against the blue sea
The breeze from the sea is cool and gentle
Seeing things coming from the sea beyond
Birds, ships, exotic people flying in from the sea
Through the sea, sun, earth, and tail mingle
And people go away again
They are welcomed as guests, and then they leave.
Fortune comes from the sea of fertility
An old tropical tree with exposed roots on the island
Under its shade the old man rests
My life is with this island
I rest here in eternal sleep...
The island must be hidden by the gods
But the voyagers go on to a new island
The ship is rocked by the waves and never stays...
The lure of the unknown never ceases.
They are the free travelers of the earth
There are islands yet to be discovered!
New islands are born of eruptions
The earth is still moving wildly
Go forth, with the winds of the earth...
Thou still flyest onward


Translated with www.DeepL.com/Translator (free version)


海の文化というとき太平洋なら特に東北地方となると荒涼としたものであり人間的な物が感じられない。船にしても沖に大型の船が日に一艘か二艘とか行くのが見えるだけである。つまり人間的では人間化されていない荒々しい自然の海はあるだけだとなる。
ただ宮城県の松島とか塩竈とかその辺は島も多く人間的なものを感じる感じる。その他は何かただ荒涼とした海があるという感覚になる。沖縄の海とかなるとそれはまたこの辺の海外は相当に違っている。それは人間的な海であり海と人間が一体化してくる。
豊穣や生命の源であり、年の初めにニライカナイから神がやってきて豊穣をもたらし、年末にまた帰るとされる。また、生者の魂もニライカナイより来て、死者の魂はニライカナイに去ると考えられている

海のかなたからニライカナ信仰が生まれるのも理解できる。太平洋を見てもそれは感じられないからだ。ただ瀬戸内海だとやはりそうして人間的なものを感じる。島々がありそれは近くであり親しみがあり人間的なものになる
沖縄でも島が多く島々は海を通じて結ばれている。太平洋になると伊豆七島などがあるにしても沖縄の島とか奄美大島とかとは違っている。とにかく日本の風土は地理は多様性に富んでいる
だから旅していて飽きないのである。

黒潮の大きな帯が流れているという、それは日本に向かって流れている。いわき市の海辺りが親潮と黒潮の境目なのである。
それも壮大な海のムーブメントである。

ただ最近台湾有事とかで物騒になってきている。私が行った国境の島の与那国島でも自衛隊が駐屯するようになった。中国の攻撃に備えて軍備を増強しているからである。だから人間社会というのは常に平和がないのである。大きなでんでん虫が葉陰に眠っていた。そこに平和がありその平和を乱すなとなる。

2024年05月04日

AIとの対話で作られた詩ー癒しの南の島ー沖縄の詩


AIとの対話で作られた詩ー癒しの南の島ー沖縄の詩

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癒しの南の島

遠い南の島にほんわりと
大きな紅い花が咲く
蝶がその花の周りにを舞う
涼しい風が海からそよぐ
大きなかたつむりは
大きな葉の陰に眠る
古い南国の木陰に休む
果実は豊に実り
そこに養うものがある
石は物言わずあり
あなたはここで休むが良い
大きな紅い花がほんわか咲いている
その紅い色が海ににじむ
天真爛漫な大きな花が咲いている
そこから笑い声がひびく
癒しと休息の場
あなたここで力を回復する


Healing South Island

Softly on a distant southern island
A big red flower blooms
Butterflies flutter around it
Cool breezes blow from the sea
A large snail
Sleeping in the shade of a big leaf
Resting in the shade of an old tropical tree
Fruit bountifully ripened
There is something there to nourish
Stones are there without a word
You may rest here
Big red flowers are blooming softly
Its crimson color bleeds into the sea
A big innocent flower is blooming
From there the sound of laughter echoes
A place of healing and rest
You will regain your strength here

Translated with DeepL.com (free version)

AIの詩

南の島の風に揺れる、
紅いハイビスカスの花。
太陽の光を浴びて輝く、
情熱の色に心奪われて。

デイゴの花も静かに咲き、
過去の栄光を物語る。
守られし命の息吹き、
再び島を赤く染め上げる。

南国の夢が詰まった花よ、
あなたの美しさに乾杯。
永遠に咲き続けるでしょう、
南の島に、紅い花。```

Swaying in the southern island breeze,
Red hibiscus flowers, swaying in the southern island breeze.
Shining in the sunlight,
shining in the sunlight.

The flowers of deigo bloom silently,
the glory of the past.
The breath of protected life,
Once again, the island is dyed red.

A flower filled with tropical dreams,
Here's to your beauty.
Will bloom forever,
A red flower on a southern island. ``



AIが作った詩である・南の沖縄の花の検索でハイビスカスとデイゴの花が出来る、この花は同じ花でも違っている。

デイゴの花も静かに咲き、
過去の栄光を物語る。
守られし命の息吹き、
再び島を赤く染め上げる。

この花は土着的な花である。ハイビスカスは単純な赤でありデイゴの花は同じ赤でも何かどろっとした赤である
沖縄の歴史も古いからデイゴの花の方が合っている。
だからAIの詩ではそれを強調したのかそれにしてもなぜこういう詩がAIから作られたのか?見当違いの創作ともならない

これはかなり高度な詩の創作ではないか?

つまりAIが芸術と関係して創作もするとなるとこれは何なのだろうとなる。

人間は相互作用で作られる 【師でも友でも異質なものと交わることが必要‐奇貨置くべし】


人間は相互作用で作られる

【師でも友でも異質なものと交わることが必要‐奇貨置くべし】

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●兄弟姉妹の中で作られる性格

人間の特徴とは何か?それは生まれつきのものもその基礎をつくるのだがそれよりも環境が人間をつくる。例えば人間関係でも家族でもなぜ兄弟がいて長男は長男らしくなり長女は長女らしくなる一人っ子は一人っ子らしくなる。
これはその生まれた親が同じであり遺伝的にも影響するにしてもその兄弟関係の中で人間の性格がつくられてゆく。だから一見してみると長男は長男らしく長女は長女らしく何かおっとりとしているのである。
でも兄弟でも長男ではない人は弟なりそれは弟なりの性格がつくられてゆく。何か動物には子供は何人か生まれた何匹か生まれたとしてそんな性格が変わるものともならないだろう。確かに動物にも性格がありでもそれは遺伝的なものが大きいだろう。

でも人間になるとともかくその環境は必ず影響して人格でもなんでも形成されていく。それが人間の一番の特徴である。だからその人の性格を見るときどういう家庭で育ったのか見るとわかることがある。そもそも兄弟がいない姉妹がいない一人っ子というのは特殊だと思う。

だからこそ一人っ子は40%も結婚していないというのもそれはその環境から人間関係からそうなったなっているのだと思う。私自身が一人っ子だからわかるのである。人間が一番影響するのはやはりどういう家族に生まれてどういう家庭環境で生まれたかである。そこでその人の人間形成が行われ性格でもつくられてゆく。もともと確かに遺伝的なものはあり陰気な性格と陽気だ性格がありそれはもともと違っている。

でも人間というのはなんでも固定されないので一つの出来上がったものとして人間が存在するわけではない人間というのは可変性があり一つの型に収まるというものでもない。ただ人間をまた一方で組織集団化して一つの型にはめようとする。でも本質的に人間は柔軟性がありフレキシブルな存在である。だからその人が生まれた性格とか思われたものだけで遺伝的なものですべてが決まるわけではない

●人間関係でも相互作用【相互浸透】が働き人間は作られる

もちろん天才となるとそれは生まれつきのものであり常人とは違ったものはある。それは子供の時から現われているのである。子供の時既に大人の読む小説を理解したとかいうときそれだけませていた。なぜ石川啄木が20代であれだけの短歌とかを作ることができたのか?それを自然とを深く理解していたしそう自然を深く理解し一体化することは普通の人は本当に長い時間がかかる。私が俳句とか短歌を作ったとしてもそれはただ575とか並べただけだったのである。
でも既に石川啄木とかなると自然に深く通じていたのである。それがなかなか理解できないのである。

とにかく人間とは相互作業の中で相互作用、相互浸透の中でつくられてゆく。それが一番わかりやすいのは兄弟姉妹がいるときその相互作用でそれぞれの人格がつくられてゆく。だから人が見てこの人は長男だとか長女だとか分かるのでだからだからこれもこれ不思議なのである。人間がそうして相互作用【相互浸透】の中で作られる基本的なことはここにある

そしてなぜまた何か大きな功績を残した人は文学関係であれ芸術関係であれ長男が多いのも不思議である。確かに兄弟でも別に何人かいてその人の中に優秀な人も出てくる。でも概して統計的に見ても長男が何か功績を残している。

例えば長男になるとなぜほかの兄弟とは違ってくるのか?

長男というのは必ずその家を継ぐ者でありその家に関心を一番持っているのである。だから旧家に生まれた人はその家に関心を持ちそこで歴史にも興味を持つとなる。長子はもともと特別重んじられていた。なぜなら家には必ず二代であり三代でありさらに十代とかまで続く家系があり歴史があるからである。

自分の育った家庭環境というのは不思議であった。母がいたとしても母は目で目立たない人であり陰の性格であった。もう一人の母と言うべき姉は太っていて外交的であり陽気であった。その二人人と私は一緒に一つ屋根の下で暮らしていた結果それは私自身の性格までに影響したのである。
これも普通ではないのだがそうした人間関係の中で60年間も一緒にいた結果その相互作用で私に影響してしまったのである。それは既に姉とか死んでから13年とか母でも既に八年とか過ぎてももやはり心に影響してその二人人は私の中に生きているのである。だからいかに家族というのもの家庭環境は人間に影響するかである。

だからこそ家庭環境が悪いと人間はまともに育つことはできない。愛もない家庭環境であったらまともに育つことはできない。私の場合は異常ともなるそういう家庭環境の中で私という人間も形成された。私自身は母の遺伝受け継いでそもそも内向的であり陰な性格である。
でも一方の姉は太っていて陽気であり朗らかであり母とは全然違っていたのである。それで私は姉の影響深く受けたのである。実は私と姉は遺伝的には別のものである。

ただ人間というのは別にすべてその親の遺伝的なものによって影響されるわけでもない。つまりむしろ何にしろ遺伝的なものはあるにしてもその家庭環境はどういうものなのかの方が影響を受けるのである。
例えば黒人であれ日本人の血を受け継げばその血統より日本で育つことによることの方が影響が大きいのである。時々日本人と結婚した黒人の人を見るが確かに黒人なのだが別に日本語を普通にしゃべり日本人になっているのである。
だから例えば双子でも一人は日本人として土地一人はアメリカ人として育てば全く別な人になってしまうのである。それだけ人間というのは環境の産物であり環境の影響の方が大きいものとなる。また人間は人間関係でも相互に影響しやすいものでありその人間関係の中でもその人間はつくられてゆく。
15年もアメリカで仕事していた人は明らかにアメリカ人になっていたのである。それは環境の影響でそうなったのである。
日本人そのものがアメリカに戦争に負けてからアメリカ人化したのである。生粋に日本人とは何かなどわからなくなったのである。

●師には必ず師がいる―人間は自分にない異質なものを求める

だから必ず人間というのは誰かの影響を受ける。師であれなんであれ友達であれ影響を受けるのである。なぜ上野霄里氏があれほどヘンリーミラーの影響を受けたのかとなる。それは天才であり天才は天才と通じ合ったということである。ただ人間というのがまた師の影響も大きいのである。
必ずどんな優れた人でも天才でも先人がいて誰かに学んでいるのである。学ぶとは真似ることでありその後にそれなりにその人なりの創造育む育むからである。
でもなぜあれほどヘンリーミラーに傾倒したのかどうなるのわからない。人間の教育を考えるときその人の遺伝的な素質とのしというのも相当に影響するがやはり人間関係でも師と弟子がいて相互作用がありで芸術でも作らてゆく。

先人に学ばない人は一人もいないのである。それは釈迦であれキリストでももともとヒンズー教徒か旧約聖書がありそこからまあ飲んでいたのでは。そこに既に経験の集積があり教訓が生まれていてそれを学んだのである。
だからどんな偉人でも天才でも先人をから学んでいるのである。上野霄里氏にしてやはり先人から学んでいる。詩人にしても常に批判の対象にはなっているが吉田一穂だけは賞賛しているからそこに本来の詩語があるとしてあれだけ称賛している。つまり上野霄里氏がまだ学んだのはまさに吉田一穂でもあったのだ
ただ他の詩人は原生人間の観点から断罪しているのである。

ともかく人間は自分にはない異質なものに惹かれる
その愛たるものが男性が女性に惹かれるのは男性にないものを持っているからである。

永遠に女性的なるものが、われらを引き、昇らせる ゲーテ

反対のものに引力が魅力がある
反対のものは磁石となってあなたを引っ張る
反対のものはあなたを自分自身の中から連れ出す
反対のものはあなたの監獄を破壊する
反対のものはあなたを広くする
バグワン-ラジニー【虚空の船】

女生とは男性の反対のものであるからこそ永遠に惹かれるのである。つまり人間というのは人間関係で相互作用の中で生きているもし男は男だけで生活して女性は女性分離して生活していたらそれはどっちにしろ異常化してしまう。
また世代的にも老人は老人だけ青年は青年だけ子どもは子どもだけで生活して交流がなければその社会も異常化していく。現在ではそうした大家族もなくなり核家族となり一番悪いのは母子家庭となってしまう

そこに母親と子供一人となると何か異常化してしまうかもしれない一人っ子がなぜ異常化しやすいかといえばそこに親と子しかなく兄弟姉妹が無いということは人間関係でも相互作用がなく異常化してくるともなる
ただ正直人間というのは何か異常化してないか?私自身の家族でも異常でもあったが他でも何か異常なのである。それよりも人間自体が異常でもあるが。超人とか原生人間から亜人間としし断罪したのはそのためである。

●奇貨置くべし

価値の創造

異貌なるもの
奇岩なるもの
異質なるもの
そこに価値がある
同質なものに価値がない
奇貨置くべし
同じ人間に価値はない
ありふれたものに価値はない
天才の価値はそこにある
十羽ひとからげに見ない
新しい見方をアイデアを出す
新奇なものに価値を見出す
独創があり新企画がある
異質なものに触れて
新たなものが生まれる
赤と青が交わり
緑と黄色が交わり
・・・・・・・
多様な多彩な交わりが
この世界を豊かにする

つまり天才に学べきはこうした異質性であり異貌ともなるが超人、原生人間、真人から見るときそういう人間が亜人間にみえる
それは本来の人間ではない、実際人間はそもそも完成された者ではない、何等か欠けていて人間であっても本来の人間に作られていないのである。なぜなら人間が欠けているし必ず病気にもなりその体も完全でないからである。
完全な人というときキリストは神の子として完全だったのである。神の似姿たとして完全だったのである。いくらニーチェでも超人を唱えても狂気化して終わったからである。
ただ誰しも超人になりたい強くありたい、病気なりまた弱々しくありたくないというのが普通である。自分自身が平凡でありいろいろ欠けたものがあり体力的にも貧弱であるからそういう強い人ね超人に憧れるということがある。でも結局人間は超人にはなれない。

ただ神から直接永遠の命を与えられて神の子となることができるのである。ただ現実この世に生きている限り人間というのは未完成であり完成したものではないのである
だからいろいろと欠陥があり足りないものはありそれで互いに補う必要がある
その補うものとして相互作用は必要なのである。だから必ずどんな天才でもやはり先人がいて師がいて学んでいるのである。
ただ師は絶対的なものではなく一時的なものでありその人なりの人間形成はさまざまな相互作業の中でつくられてゆくのである。それは大きくはその生まれた環境であれ家庭環境であれまた時代も大きく影響するのである。

●AIが人間の創造に深くかかわってくる

なぜならコンピューターというのはAIというのは急速に進歩して人間の頭脳にも追いついてくるからであるそれはそれが人間にしかできない芸術にも相当影響してきたことがわかってき。絵など全然描けなくても才能なくても言葉を入れるだけでその絵が作られてくるのである。
ということは人間の相互作用ではなくコンピューターとの相互作用で新たな想像が生まれてくるともなる。このように技術の進歩でもまた人間というのは変化し作られていくのである

とにかく中国とか大陸になるとなぜ独創的だぜ創造的なものが生まれてきたとなるとやはり相互作用がありそれが影響したのだと思う。アメリカだったら才能ある人を集めてコンピューターを作りAIでも作りそれで世界をリードするまでになっている中国でももともとそういうことがあり発明の国だったからである。
日本という国は海に囲まれてそうした相互作用がない結果としてやはり創造する発明するということは難しい国だったということである
高度成長があったとしてもそれは日本人が発明したものではなくまねたものであり今や韓国中国台湾でも日本より優れているとなったからである。
同じことができて作られて今や電器製品でも追い抜かれてしまったということである

日本というのはやはり多様性がなく異質なものを受け入れない国である。どうしても海に囲まれて閉鎖的になってしまうからである。だから奇貨置くべしなどという発想が出てこない
みんな同じでなければならないという同調性が高く何か学校教育からしてみんな同じでなければならないというロボットを大量生産するようにもなってしまった
そのことがやはり世界から遅れたものとなったのかもしれない。相互作用がないからどうしても新しいものが生まれなかったということである。




posted by 天華 at 21:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など

2024年05月05日

初夏の故郷の径ー藤の花の写真 【夏柳、涼しい、牡丹,山吹、タンポポの綿毛・・・】

初夏の故郷の径ー藤の花の写真

【夏柳、涼しい、牡丹,山吹、タンポポの綿毛・・・】

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ここは隣の空家の庭である、塀もないから花も見れる、
ここに住む人がいると来ていたが誰も住んでいない

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藤長く一村ここに継続す
長々と夕風そよぎ夏柳
ツツジ咲き七八輪の牡丹映ゆ
隠されし夕べ涼しき小径かな
野の道や藤に山吹映えて暮る
夕陽さしタンポポの綿毛あまたかな
草深くここに眠るや夏の蝶藤原
夏の夕サイクル車行く川沿いを

小山田に出る細い道は舗装されていないからいい・今やほとんどの道が舗装されているからである。田舎の道でいいのは幹線道路ではない、こうした隠された小径である。
そういう径は地元に住んでいないとわかりにくい、そういう径は生活と返って密着してあった。あそこは小山田に出るために作られた。
そして村があるというときそれは江戸時代からある。あそこにも相馬氏が戦に勝ったという社が埋もれていたからだ。戦勝記念のために建てられたのである。

あそこの藤の花は見物である、柳も大きい、ただどこでも耕作放棄地が増えてソーラパネルが置かれる、そもそも昔からあった江戸時代からあった村は維持できないとされる。ただあそこは街内でもあり不便ではない、街から余り離れると維持できなくなる
でも長く継続された村でも失うとどうなるのか?それが何を失うのかとなる。多様性を失うとなる。人間は日本でもとぉうな場所で生きてきたことで多様性が生まれたからである。
それより日本人は小規模の村でアイデンティティ化してきたからである。会社でも社に会うというのでもそうである。村があり会社になったとなるからである。

藤の花の季節になった、何か今日は相当に暑かった。藤の花というときこれは日本的なものである。だから藤原京とあるときそこはもともと藤の花が咲く原であり地名だったとしている
そして藤原氏はそこからでているという。日本で佐藤の姓が多いというとき藤原氏が祖になっているからである。
佐藤の藤は藤の花である、でも藤の花を意識する人は少ないともなる。

とまかく昼間は暑くて外に出れなかった、やはり今年も暑くなるのか、初夏にしろ暑い、ただ田舎だとこうして涼しい場所があるから散歩するのにはいいのである。ただ海側は松原がなくなり木陰がなくなり夏は休む場所がなくなったのである。
真野川のサイクリングロードを走るのはいい、自転車は風を受けるからいい、でも真夏になると陽射しをまともに受けると熱中症になるから困るのである。

2024年05月07日

函館の詩賦ー吉田一穂に魅せられて北方を目指した上野霄里氏

函館の詩賦ー吉田一穂に魅せられて北方を目指した上野霄里氏

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函館の詩賦

荘重に針葉樹林の厳しく威を正し
蝦夷松、トド松の直ぐに太く
それは質実、堅実を示し
北方の大地に深く根付く
トラピスト修道院
ドイツゲルマンの風土
ゴッシクの大聖堂
荘厳なカノンが鳴り響く
秋の朝日の黄金の光に浪は
岩を打ちつけ北の海
外人墓地に岩に鉄の十字架
ロシア正教の兵士などの眠る
ハリスト正教会の青銅のドーム
その錆びて古り厳かに鐘は鳴る
クラークは聖書を次代の青年に示し
北方の海に面する巌に
神威古丹に連なる者や
その貌を刻印する
極北の孤高の矜持と自負
寒燈の穴倉に一人籠り
漁師の子にして狩猟の生業
北方の夢魔の美しきかな
立待岬の断崖に浪は打ち響き
啄木の墓は雪に埋もれぬ
函館に絶えず船は来たりぬ
連絡船の行き来し時よ
その岸壁は古り倉庫群
ここに明治の新しき時代の息吹
波は打ち寄せてひびき
榎本武陽の五稜郭
蝦夷共和国の夢は破れぬ
咸臨丸はあえなく海に沈みぬ
時代の荒波に飲み込まれし者たち
その争闘も意義あるべし
新たな時代の先駆けを生きぬ

海堡地帯の針葉樹の森の山腹から、磨り減った石畳の水際へかけて並ぶ斜面の屋根瓦、アカシヤや白楊の繁みに現れる、寺院の白い尖塔や青銅のドーム、海岸通リの交(クロス)十字旗翻る白亜商館。黒ずんだ露文の金看板。青い水苔波止場と林立のマスト、・・・
今灯ともし頃である異国情緒の函館の港は、海行く辰の序曲であり、帰帆の夕の終局である。その華やかな燭光の圏をめぐる、寂しく冷たい夕霧のアトモスフィア―よ
吉田一穂‐氷島漂流記

明治というとき何か新しい時代に向かって混乱はしていたがそれぞれのそれぞれの意地がありそれぞれの志がありそこで激しく争ったにしろともにやはり新しい時代を築くためにそうなったのでありそこに犠牲も生まれた。ただその犠牲にしても意義ある犠牲にもなっている。
なぜなら太平洋戦争で300万人も死んだのにその犠牲が意義あるものにみえないし個々人のドラマもない、そして最終的には広島の原爆で終わったように最期は科学の力で決着したとなる。それもあまりにも凄惨なものだったのである。

明治時代はいろいろ見方があるにしろやはり一人一人がドラマとなっている。だからこそ司馬遼太郎の小説がフィクションでも劇的な物語になる。そこではいろいろな分野で創始者になった人が多い、それは武家の出が多いのである。武士道キリスト教を唱えた内村鑑三でもそうだしあらゆる分野で創始者になったのである。
写生俳句を推奨した正岡子規でもそうであり不思議なのは明治に一番漢詩が興隆したのである、そして詩語というとき漢詩を作っていれば詩語になるからそれで受け継がれたのが吉田一穂になり漢詩から詩語化したからである。そして上野霄里が師ともした詩人だったのである。

ただ函館が魅力ある都市となったのか?その基盤となるものはその地形であったり風土であったりする。函館の地形というのは変わっている。左右が海に囲まれて常に波が寄せている。あのような地形は他にない。ベネチアとかが似てもいるがそれとも違う。ただベネチアのように一つの海洋国家となったように似たところはある、函館は明治時代に新しい時代を迎えてその玄関口となったのである。榎本武揚が蝦夷共和国を作ろうとしたり五稜郭を作ったのはまさにそれも新しい時代の目指してそれは具体化したものだったのである。

この函館に石川啄木が住んだというのもやはり明治という時代の息吹として青春の短歌と言うべきもの作ったのである。明治という時代はこうして様々な人間の新しい時代に対応して精一杯に生きた時代だったのである。確かにそこには挫折があったとしてもそれも何か次の時代を築くためのものであり無駄なものとも犬死ともなっていないのである。

でもそのそうした物語は生まれなかった。大正時代でありその後の昭和であり何かそうした新しい時代のために人間が格闘するというかそういうことはなかった。ただ太平洋戦争で300万人も死んだ。とてもそこで一人一人の物語とかそういうものも生まれなかった。ただ死者の数だけが多いというだけにもなった。それは国際的にナチスのようにただ膨大な数の人間が死んでもそこに一人一人の物語は消失していたのである。

現代というのはそもそも個人のドラマとか生とかは失われた。すべてが組織団体化してその中で人間はロボットのように生きるほかない。だからそこには人間的なものは消失してただすべてが数であれナチスのようになってしまうのである。それを厳しく弾劾したのはアウトサイダーのニーチェでありヘンリーミラーであり上野霄里霄里(しょうり)氏ったとなる。

参星(オリオン)が来た!この麗しい夜天の祝祭
哀の流れは凍り、音も絶え
遠く雪嵐が吠えている

落葉松(からまつ)林の罠に何か獲物が陥(お)ちたであろう
弟よ,晨(あした)雪の上に新しい獣の足跡を探しに行こう

少年(吉田一穂)

いずれにしろ吉田一穂が上野霄里(しょうり)氏によって称賛されたのは詩語が豊富に使われていた。何か漢詩の詩語から詩を作っていた。それで難解なもになったがそこに惹かれたとなる。
そして自分の自画像を吉田一穂に重ねていたのである。

彼の詩のテーマは常に【極】である。北極である。北極はは頭上に不動の位置をを保つ北極星によって定められた疑う余地のない恒久の地点だ。彼はひたすら恒久の地点に生きようとした、不動の地点、絶対の境地、比較不可能な境地、彼はラップ人の精神の中に生きたーヨブの息子達ー上野霄里 原点に立つ男―吉田一穂

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上野霄里氏は東北に住んで北方を志向した。その厳し風土を志向した。それで吉田一穂に惹かれたのである。

何か罠をかけて動物を捕るというとき私の父親はイタチを罠をかけて戦後まもなくそのイタチの皮をはいで売っていたのである
イタチを買っていたがなれることなかったと母が言っていた
その虎ばさみとか罠に使うものが納屋に置いてあった。
なぜそんなことをしていたのかというと戦後日本はアメリカに負けて仕事がなくなっていた。それで何でも仕事にしようとしていた。戦地からの引揚者はわずかな農地を耕してなんとか食べるだけでも飢えないように食料を確保しようとしていた。
その後小さな店を始めて繁盛したので豊かになった。
だから吉田一穂の父親も漁師でありまた狩猟もしていた。狩猟となるとわからなくなったが狩猟を生業としていた時代があり継続された。そもそも縄文時代は狩猟社会でありその後も狩猟は継続されていたのである。北海道となるとアイヌは狩猟民族であり狩猟が継続されていたのである。
人間はどういう土地に生まれてどういう家に家族に生まれる育つかがかなり影響する。また時代の影響も大きい。

ただこの函館すら消滅都市に入っていることに驚いた。やはり大都会でありなぜそうなるのか解せない、何か仕事がないのかかつての繁栄は消失した。それは全国的にそうでありでも函館までがそうなのかかとなる。もちろん私の近くの仙台市でも人口が減るからこれは日本全体の問題なのである。








2024年05月08日

天才の自画像ー絵画などと偶像崇拝の問題

天才の自画像ー絵画などと偶像崇拝の問題

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天才の自画像

天才は己が自画像を刻印する
炎の中にゴッホの自画像
立体的骨組のセザンヌの自画像
ダ・ヴィンチの老いた陰影深めた顔
東洋的隠者風の上野霄里の自画像
未踏の山頂の巌に刻まれた自画像
氷結して氷河に閉ざされる
烈風が唸り人はその前に倒れる
濃霧が覆い流れまた現れる貌
火を噴いた噴火口がそこにあり
濃霧の中の隠されてタカネツリガネニンジン
不浄を拒否したその山巓
満天の星がきらめき天蓋となし
連なる星よ、天に列せられた者よ
その輝きは神の国でさらに輝きを増す
直に神の手になる神殿
そこに日々まことの日を生きぬ
荘厳なる神の意にかなう神殿
そこに嘘偽り無き神のロゴスの神殿
それは歓呼となりひびきわたる
闇に隠されたものがすべて明らかにされる
その体は聖体となり欠けるものなし
病はなく肉と霊は一致する
人はもはや老いることなく
神の国で讃歌の日々を送る
天才は神よりの贈り物
しかし偶像崇拝の危険
その像を拝すべからじ
全能の神に優るものなきを知るべし
讃えるべきは全能の神なるべし

天才とかでも凡人と常人と違っている。ニーチェの超人とかなるとやはり人間を神化する偶像崇拝になる。人間はともかく見える者から何でも認識する。だから当然神というとき目に見えるものを神としやすい。そしてエジプトの神像のように巨大なものが神像となり拝することになる、人間は神になり得ないとなるからだ

どうして人間は神を認識できたのかとなる。それは旧約聖書で偶像崇拝との戦いであり妬む神として神が現れたのはあまりにもあらゆるものが神とされたからである。日本だったら八百万の神になる。神は一なる神であり万物は神ではない、だから奇妙だがなぜ人間はこんなに様々の物を神として拝するのかとみて私こそ唯一の神として現れたのである。それは目に見えないのである。

でも目に見える神だったら必ず破壊するものがでてくるし物であれば彫像でもさ歳月で劣化して例えばエジプトの神像でも倒れて砂漠の砂に埋もれる。それらは永続しないのである。だから神となり得ないのである。日蓮宗とか念仏宗は何か偶像を拝んでいない、でも字を題目の文字を拝んでいる、でもそれでもそれが神となることはない、なぜなのか?

それは紙だから燃やすことができる!

現実に燃やす人いても不思議ではない、それで何が起きるのか何も起きないのである、つまりなんであれ神は文字でもないし神でもないからである。別にそれで罰当たることもないのである。
現実に捨てた人はいくらでもある。そもそもカルト教団はそうした紙を売って商売にしているだけなのでありそんなものに何の効力もないのである。それを商売の種にしている大がかりな詐欺なのである。とまかく偶像には何の力も効力もないのである。

仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し

これは何を意味しているのか?
これも偶像崇拝を禁止ではないか?仏と何なのか、仏像であれ曼荼羅であれ題目であれ神ではありえないのである。なぜかそれは燃やせば燃えててなくなってしまうからあである。現実のそうした人がいても別に何もそれで起こらないのである。
神社の御札にしても似たものなのか?でもどんと焼きで燃やしているのである。普通日蓮宗でも一向宗でもその御本尊を神であっても燃やしたりしない、御札の場合は燃やしている。神社は何なのかそもそも何を拝んでいるのか祀っているのかわからないのが多いのである。
ともかく紙は神ではありえないのである。では神と永遠不滅のものである目に見えるものは消滅するから神でありえないのである。

だから師もまた偶像になりやすい、カルト教団だと師が神として崇拝される。仏として崇拝される。それも偶像崇拝になるから危険である。なぜなら一神教地帯では偶像崇拝が厳しく禁止されている。それが宗教の基本でありそれは聖書を基にして生まれたのがイスラム教でもあったからである。ただイスラム教の方が偶像崇拝を厳しくそれに違反すると死刑にもなる。絶対に許されないほど厳しいのである。

いずれにしろ自画像となればそれも偶像なのか?別に神と見なければいいのか問題がある。なぜなら普通の人は天才とか異常に個性的で優れた人に接して偶像化しやすいともなる。その強烈な個性でそれが神格化してニーチェのように自らを超人化する。そこに偶像崇拝になる危険がある。ただ人間としてその偉大性を認める。それはあくまでも人間としてである。ただその常人と違う強烈な個性がゆえに神格化もされる。

ゴッホは自分の自画像を何枚も描いている、それだけ強烈な個性を持っていたからそうなった。セザンヌも立体で図形で世界は作られているというとき何かその顔も円筒なのか立体的図形的顔に見えるのも不思議である。

ただなぜ自画像を天才は描くのか、普通の人は自分自身にそんなに表現しようとしないだろう。でも強烈な個性がある天才は自分自身の個性を表出しようとする。それで自画像を描くしそれは絵画でなくても他の手段でも文であれその強烈な個性を表現するのである。

人間の顔は不思議である。やはり平凡な人は平凡な顔になるのか?一目見てこの人は違っているとなる。それは天才に一番現れているとなるのか、いずれにしろキリスト教でもキリストであれ像として描くことは禁止されていたのである。ルネサンスの時代になりそうした宗教的拘束から脱して表現の自由が生まれたのである。でも依然として偶像崇拝問題は残り継続されていたのである。



Self-portrait of a genius

A genius engraves his own self-portrait
Van Gogh Self-Portrait in flames
Cézanne's Self-Portrait in Three-Dimensional Frame
Da Vinci's Old Face with Deepened Shadows
Self-Portrait by Ueno in the Style of an Oriental Hermit
Self-portrait carved on a rock on an unexplored summit
A gust of wind roars and men fall before it
A thick fog covers the scene, flowing and reappearing
A fire-spewing crater is there
The Takanetsuriganen carrot is hidden in the fog
The mountaintop that refused impurity
The star of the full sky twinkles, and it becomes a canopy.
O star in a row, you who have been arranged in the heaven
Their brightness shines more brightly in the kingdom of God
The temple that is the hand of God at once
There they live the true day by day
A temple that is majestic and conforms to the will of God
There is the temple of the Logos of God, where there is no lie
It echoes with a shout of joy
All that is hidden in darkness will be revealed
His body will become the Eucharist, and there will be no lack
There will be no sickness, and flesh and spirit will be one.
No longer will man grow old
He will live a life of praise in the kingdom of God
Genius is a gift from God
But the danger of idolatry
Do not cast away his image
Know that nothing is greater than God Almighty
It is the Almighty God who should be praised


Translated with DeepL.com (free version)

2024年05月09日