2024年02月01日

Swans on the iced lake and flight of the ones


 Swans on the iced lake and flight of the ones


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by being image creator


神のイデアの白鳥の詩

朝真澄の空に白鳥の鳴きつつ連なり飛びぬ
その声の寒空に鋭く響きわたる
やがて白鳥はシベリアの地に去る
白鳥は何を残せしや
何も残すものはなしも
ただその大きなる翼を広げ飛び
神の技なる美しい姿のみ残りぬ
人よ、世の汚れに染まらずにあれ
純なる美を創りし神の技を見よ
神の創りしイデアの具現
そは心に映じ消えざるものかも
枯野の刈田にともしきも養うものあり
人よ、美しきもののみ見よ
神の技なる優美なる白鳥の姿
汚点なき純白の衣を着せられて映えぬ
人はいかに着飾られてもそこに真の美はなし
人よ、美を見る心の目の曇らざれ
神のイデアに成りし白鳥よ
そは真冬の凍てる空に星座となり輝く
その翼は大きく星は眩くきらめきぬ
白鳥は造り主なる神の御許に飛び去りしも


The Swan Poem of Idea

In the morning the swans fly in lines, chirping in the clear sky.
Its voice echoes sharply in the cold sky
Soon the swans will leave Siberia
What did the swans leave behind?
He left nothing behind.
He only spreads his great wings and flies
Only its beautiful form, the work of God, remains.
O man, be untouched by the filth of the world.
Behold the art of God, the creator of pure beauty.
The embodiment of the Idea created by God.
That which is reflected in the heart and will not disappear.
There is something that nourishes both the dead and the living in the harvest fields.
O man, see only what is beautiful.
The graceful form of a swan, the work of God.
Dressed in pure white, without blemish, it shines.
No matter how people are dressed, there is no true beauty in them.
The swan that is God's Idea
You shine as constellations in the frozen midwinter sky
Its wings are large and the stars twinkle dazzlingly.
The swans have flown away to God the Maker.



Translated with www.DeepL.com/Translator (free version)

2024年02月02日

学生運動の時代【失われたエリート教育―大衆化した大学】ー三菱鉱業爆破事件の桐島聡の一生


学生運動の時代【失われたエリート教育―大衆化した大学】ー三菱鉱業爆破事件の桐島聡の一生

●マンモス大学で大衆化して地の塩たるべきエリートは消失した

今回の桐島聡の50年近くも三菱鉱業爆破事件から氏名指名手配されても見つからなかった。大概50年前になると何があったのかも忘れてしまう。ただそれらは左翼の革命運動として一連のものとしてあった。それは学生運動の延長として赤軍派があった赤軍それが悲惨な結果になった。

1968年(昭和43年)頃から東大闘争、全学共闘会議(全共闘)と呼ばれる運動形態が現れた。
1970年3月31日、JA8315号機(愛称「よど号」)は日本航空351便赤軍派を名乗る9人(以下、犯人グループ)によってハイジャックされた。犯人グループは北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)へ亡命する意思を示し、同国に向かうよう要求した
1972年には連合赤軍による12名のリンチ殺人事件(山岳ベース事件)が発覚した。こうして学生運動は急速にその支持を失っていった。左翼学生運動同様「民族派」学生運動も次第に衰退していった。

これらは学生運動の延長としてあった。だからこの運動にの主役はもともと学生であった。その学生が連合赤軍とかなりハイジャックして北朝鮮に逃れたり亡命したりした。連合赤軍は仲間割れして仲間を惨殺したり悲惨な結果になった。そもそもなぜこうした学生運動は起きたのかそれは大学が大衆化したことも原因していた。文系の大学とかなるとマンモス大学になり講義を聴くにしても千人くらい詰め込む行動でしていたとかだから大学に入った時高校とはあまりにも違うので戸惑ったのである。そして大学の不思議なのは授業に出なくてもいいのである。大学の教授というのはまたゼミで一回くらいあったがあとは会っていない。

だから大学とは何か教育する場だったのか教える場だったのか文系の場合はわからない。大学というのはそもそも自主的に学ぶことがなければ何も学べないところだったのである。そこはただのキャンパスがあってもそれは公園と同じだったと言う人もいるのも分かる。なぜならそこでそこが教育の場というにも持っていなかったのである。授業には出なくてもいい。教授は講義を休むことがある。そして朝から下宿で麻雀をしていた人も結構多いのである。文系の場合そうして大学とは遊びの場であり勉強する場でもなかったのだ

ただこうしてマンモス大学で学生を集めてその学生も戦前のエリートになるものでもなかった。国立大学の東大とか京大とかトップになればやはりエリートの道をゆくことにはなっていた。でもそのほかは私立の文系とかになると慶應とか早稲田とか別にしても他はそれほどエリートでもない大衆化した大学になっていたのである。
だから大学は何をする場なのかということも分からなくなった人もいると思う。その不満が学生運動の原因にもなっていたことが確かである。そうした大衆化した大学に対して不満がありそれが学生運動にもなったのかと思う。何か社会を変えるということでもなかった。第一学生は社会のことなどわからないその極端な例が中学校で金の卵として集団就職した人たちがかなりの数たからである。

大学に行けた人は地方ではクラスで5、6人であり恵まれた人だったのである。だからその時代に大学に入ったということ自体そういう人たちと比べると相当に恵まれた人たちだったのである。その人たちは学校では遊んでいたともなる。でもその時集団就職した人たちは工場下町の工場で下積みとして働いていたのである。その差も大きいものだった。
そのときまだ高校卒でも少ないものであった。それで警官と衝突してゲバ棒で大学生が戦ったがそのとき警官は高卒でありその大学生に対して不満が大きかった。お前たちは大学生になるくらい恵まれていたとなっていたからである。なぜお前たちは恵まれてるに暴れているのかともなったのである。

要するに学生の不満でありそれは社会全体に影響するものでもなかった。なぜなら社会人と学生は別の別の者であり学生だけが運動したから社会全体を巻き込むものはならなかったこれ。だからマルクス主義という理論だけが先行して現実の社会人の生活は観ていない。だから革命になるということはなかったのである。そのとき創価なども会員を増やしていた。創価というのは問題はあるにしろ現実に生活している社会人でありその社会人に根ざして運動していたから違っていた。学生運動の場合はみんな学生でしかなかったのである。だから理論だけが先行する現実社会を見ない運動になっていたから破綻したのである。

例えばそのあとのオウム真理教でもそれもう理系の学生が中心となっていて現実社会とはかけ離れたところで運動するようになっていた。だからそれは社会的に影響して社会的広がりを持つものとはならなかったのである。何か創価などはみんな社会人でありそうして社会で苦しんでいる人たちを相手にしているから学生運動とは違っていたのである。だから困って苦しんでいる人と庶民を相手にしているから何か泥臭いものとして庶民にじかに接していた。そういう人はなかなか相手にする者もいない。

それは共産党と本当に似ていたのである。最底辺の人はやはり同じように相手にするのは共産党くらいだからである。ただ共産党の違いはそういう最底辺の人たちを相手にするから学生運動とは違っていたのである。確かにマルクス主義を基にしているのだが理論にしていた。でも現実社会では最底辺の人を相手にしているからそういう理論だけでも成り立たないものとなっていたのである。底辺層のいる地域では市営住宅地とかでも創価かか共産党に入る。そして票の取り合いになり争っていたことでもわかる。学生運動とはそうした現実社会とかけ離れて理論だけになりそれで破綻したのである。

明治維新の日本は、日本の未来に危機感をもつすぐれた人物が多く登場した時代といえる。ローマの繁栄がそのすぐれた人物が統治したことから生まれたように、日本がアジアの中で西欧に対して少なくとも独立し、アジアの雄として一矢報いることができたのは、こうした先見の明をもつ人々が、当時次から次へと登場したからである。

西欧においても、すぐれた政治家が排出しているとはいいがたい。むしろエリート層の能力の衰退が顕著である。そうしたエリート層では、未來へのかじ取りができるはずもない。

日本はこのまま「国家の衰退」を黙って待つだけか

●明治時代に依然として侍がいて指導者になっていた

私は、藤島高校、福岡高校、松山東高校など藩校の流れを汲む高校から、ノーベル賞の受賞者がでているのは、このような歴史に負うと考えている。それぞれが独自の価値観を熟成し、その独自性が国際的に通用する人材を育成している。

大学受験の最難関「東大理3」からノーベル賞受賞者が出ない理由

ノーベル賞が藩校と関係しているのか理解できないけど江戸時代に培われた武士の教育が明治維新を成し遂げ指導者を輩出させた。それは幕臣だった武士も活躍したからである。
様々な分野で日本を導く者となったからである。西欧文明の挑戦を受けた日本だったがそれに対応するものが鎖国した日本にはあたとなる。他のアジアでもヨーロッパの植民地化したことでもわかる。それだけ西欧文明に対応できるものがなかったからだとなる。なぜ明治に様々な分野で指導者になる人が綺羅星のごとく輩出したのか?例えば武士道キリスト教を先導した内村鑑三などがそうだった。そのとき幕臣だった人たちが指導者になっていたのである。大学であれあらゆる分野で指導者になっていた。

そうなり得たのはやはり江戸時代に培われたもの。藩校で教えられた人たちが指導者になったことである。その人材は江戸時代に培われたものから生まれていたのである。その伝統の上に西欧文明を根付かせたと取り入れたとなる。
だから藩校のあるところから優秀な人材が生まれたという時もそうであり藩校のあるところは大藩であり福島県だと会津になっていたのである。相馬6万石には藩校はなかった。会津には日進館があったからである。だから明治維新でも会津から政府に雇われて活躍した人がいたということでわある。不思議なのは幕臣である人はその子孫は現代でも薩摩長州よく思ってないのである。

内村鑑三でも絶えず藩閥政治を薩摩長州の政治家を批判していたからである。そういうところにやはり歴史があり歴史が伝えられているということでもある。つまり明治にさまざまな分野で人材が輩出したのは江戸時代の伝統があってそれでそこから培われたものは指導者になったのである。そして文化でも明治時代に一番漢詩が興隆したのである。和魂洋才があった。和魂があって洋才があったのである。
だから明治に漢詩でもってその志を述べる人がいたということである。蝦夷共和国を主張した榎本武揚などがそうである。武士は漢詩を作れる教育がなされていたから漢詩を作れたとなる。今の政治家でそいう言う人いない、短歌すら作る人もいないのである。短歌なら武士のたしなみとしてみんな作っていたからである。

そうした人材が大正時代頃になると消失して行った。結果的にその後は昭和になり太平洋戦争へと進むことになる。それは明治の時のように人材が枯渇して侍の伝統を受け継ぐ人たちがいなくなった。だからこそ軍人であって侍の真似をしてもその中身は本来の侍の心を持った人でもなかったのである

●医は仁術でありすべてが算術に金儲けになった

おそらく藩校とかでは江戸時代ではまずモラルを重視し人間はいかにあるべきかということを最初にその教えられた。その後に知識を教えた。それはあらゆる分野でそうだったかもしれない。医者だったら医は仁術であり算術ではない。医者もまたモラルを優先していたのである。職人ですら職人気質となりモラルがそこにあった。 算術だけではないものはそこにあった。それはやはり社会の中で侍がモラル的に模範とされるべきものとしてあったからである。

だから商人と違って算術にはならなかった。何か社会には地の塩となるべきものが必要なのである。それが消失したとき社会は荒廃する。明治時代には地の塩となったのは侍だったのである。その侍がいなくなったとき大正以降は日本の伝統的なモラルが消失して太平洋戦争に向かい300万人も死んだということである。戦後にしてもアメリカ軍に占領されてアメリカ的価値観が押し付けられてそれですべてが算術になってしまったのである。

ただ地の塩が消失したというときそれは日本だけの問題ではない。世界的に大衆化が起きて経済だけが優先される金だけが優先される社会になった。資本主義がキリスト教の修道院から生まれたというが今やそれはただ金を得ればいいというだけの世界になったのである。グローバル経済とは道徳なき経済でありただすべてが算術になったのである。
日本の高度成長時代一時は日本は世界から注目されてジャパンアズナンバーワンとかになりなっていたがそれもたちまち失われた30年となり今や日本は日本の悪い点ばかり言われるのである。高度成長時代は日本の良い点ばかり言われたの大違いである。

なぜ日本はいまや衰退するだけなのか。それは地の塩たるべき人が作れなくなったということがある。ただそれは世界的に起きていることであり大衆化でありただ全て算術でありお金を儲けるということしかない社会になってしまったのである。だから戦後の教育でも大学でも何かモラルというのはない。人間はどうあるべきなのかという根本的なことは教えない。それより膨大な知識を詰め込まれその点数を稼ぐことで受験戦争がありそしてただ得するということだけを目指したのである。

●大衆化社会で真のエリートが養成できなかった

だからこそ東大であれ有名大学に進学してそこでエリートになり得するということしか考えない人になった。それはなぜかといえば大衆に支持されるには利益を優先しなければならないからである。それでカルト宗教も大繁盛したということでそこ宗教となればモラルが中心になるあそんなものは微塵もない。狂気のように御利益を得るために集団化して祈っているだけである。それはただ巨大な利権集団に過ぎないのである。これもやはり大衆化社会から起きたことでありそこでは地の塩などはない。また育てないのである。それが極端になるとナチスのようになってしまうのである。その教祖はヒットラーにもなるのである。

これは日本だけの現象ではない。世界的に起きたことである。なぜドイツのような歴史が古いモラルは高いプロテスタントが生まれたような国でナチスが生まれたということが理解できない。確かなことは大衆化現象というのは世界的なことでありそこで地の塩は失われてまともな指導者は大衆社会からは決して生まれないということである。だからカルト教団のような教祖は悪質であっても大衆は求めているものは御利益であり何か高等なものではない。

また大衆というのはモラルなどを求めていない。だから現代とは大衆社会でありその大衆とは何なのか知らなければ理解できないとなる。大衆が主人公となり大衆によって決められる社会だとなるからである。マスコミでもその大衆を相手にしているからモラル的には腐敗しているのである
学生運動とは何であったのか。それはやはり大学の大衆化であり地の塩たるべき人たちがただモラルもなく利益を求めて真のエリートではなくなったということである。それに反発したとしても大衆社会自体を変えることはできないのである。そういう社会自体の問題として学生運動も起こりそれも挫折したとなる。

●老人になって明らかにされる個々人の価値

いずれにしろ老人になるとその人の人生の人生が何であったのかおのずと問われ明らかにされる。誰でも老人は自分が生きてきたことを語るからである。戦争を経験した人は忘れられないから認知症になってもそのことは忘れず死ぬまで語り続けたとなる。戦争で300万人も死んだというときそのことが何であったのかとうことになる。その命が犠牲にされてもそれが意味もないとされたら死者は浮かばれないとなる。ただ老人になっても何をしてきたのか語らない人もいる。その語らないということは語りたくないということである。どうしてもそこにやましいことをしてきて語りたくないのかもしれない。たしかにその人は戦争で18歳で志願兵になってそれで人を殺したみたいだよある。でもそのことを語ることをしない口をつぐんだのである

それにしても桐島聡の一生はなんであったのだろうか。爆破事件から50年も生きていたということの驚きである。その人の一生は爆破事件で終わっていない。それから50年も生きたということでありそこにその人の人生があったと思う。そこでやはりともも何か音楽に熱中していたらしい。その人と語り合った人もいるしそこで何か生活がありそれは人生となっていた。でもなぜ最後に自分の名を名乗ったのか。何か自分の人生を振り返りそのまま誰だかわからないものとして消えていくのは嫌だったとなるのかもしれない。何か自分自身でありたいとして死んだのかもしれない。

ともかく人間の一生は何であったのか老人になるとおのずと明らかにされる。その人間の価値はその一生はなんであったのか明らかにされる。ただ人間の価値といっても多様だからその人の価値を見ることは難しいとなる。ただカルト宗教団体でもある団体組織団体に所属していたときはその組織団体の価値がその人の価値にもなる。会社に所属していればその会社の価値がその人の価値にもなる。でも会社を退職した時今度は会社の価値がその人の価値にはならない。その人の個人の価値が何なのか問われるのである。ただ会社で働いてそこで何か価値あるものを身につけている人はいる。でも会社を辞めたら退職したらその人の価値が消失してしまうということもある
ともかく人間の一生は何であったのか自らも他者からも価値づけされることは確かである。ただ組織団体に属しているとその組織団体の価値がその人の価値になる。でも組織団体の価値がは焼失したりするし会社を辞めたらその人の価値は何なのかとなってしまう。







posted by 天華 at 15:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など

2024年02月03日

冬の大地【詩】−人間には共有する連帯する場が必要

冬の大地【詩】−人間には共有する連帯する場が必要

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冬の大地

大地に深く根を張り
木々は信頼を深め合う
死者は地の底に結ばれ
冬の日に静かな眠りにつく
一つの場を共有して
疑念なく安らぐ場
人々は結び合っている
木々は神殿の列柱
厳かに大地に根ずき
不安なく動じることがない
木は大地を信頼し深く根ずく
神はその大地に一つの種をまく
それは必ず実りをもたらす
いたずらに虚しくはならない
神の計画は確実に果たされる
神の力は騒擾にはない
焦ることなく成長する木よ
忍耐強い大地の静寂
そこに確かな実りを与える
妄りに浪費されない
一つの場に木々は深く根ずき
真実に結ばれた力よ
大地より湧き上がる充溢した力
信頼を深めつつ月日は過ぎぬ
その歳月は長く実りはもたらされぬ

one common place in winter
deeply rooted trees
lined ones in order
silent united one
the steady and  certainty
one identified and bounded place
Trees deepen their trust 
the strength of beliving 
mighty fulfilled power
still growing tree in the earth
perfect performance of God's plan 

人間には共有する場が必要である。 one common place ,one identified placeとかなる。それは日本では村にあった。村は共有する場であり人間もまたそこでおのずと結ばれてきたのである。それはその場で生活するというとき生活そのものもその場で利用できるものを利用したからである。外部から入ってくるものはあったとしても非常に少ない。自給自足が基本だった。燃料がすべてだったというとき山の木お利用して炭を作ったりしていたからである。
農家では納豆を作り油まで自家生産だった。買うということはまれなことだったのである。そもそも何かを買うにしても街に出てくるにしても車もないし歩いて来るかリヤカーとか馬車で運ぶ他なかったから遠くへ行って買うこと自体が簡単にできないできない生活だったからである。

基本的にそういう生活が江戸時代から戦前そして戦後十年くらいまで続いたのである。だから農業中心の社会であり自給自足を基本としていた。そういう生活は延々と続いてきたのである。それは世界でも同じでありインドなどでわは大きな都会でも炭を使っていたのである。また牛の糞など燃料として使っていた。
とにかく何でも外国から入ってくるということはこれまではなかったのである。だから日本にこれだけ森があっても利用しなくなったということは異常なことだと思う。

だから日本人のアイデンティティーは村にある。それは自然村でもあり周りにある自然のものを利用して生活していた。そのとき石油とかガスとか天気でも使って元気でも使っていないのである。だから別に石油がないとガスがないとか電気がないとか心配する必要もなかったのである。人間はそういうものはなくても死ぬことはなかったのである。
今石油がない電気がないとしたら生活できないから死ぬほかないとまでなっているのも奇妙なのである。グローバル経済というのは何か本来の人間の生活を弱めたものともなった。また過度の都会化というのも人間の本来の生活からは離れたものでもあった。

そこで起きてきたことは何なのか?人間はもともと一つの場所に共存して共有して生きてきた。それがグローバル化した時失われたとなる。ただ私が追求しているのは私自身は農民でもないし生産活動もしていない。ただ自然の中で培われた自然ととアイデンティティ化することを追求してきたのである。
俳句にしてもそれは自然の中で生活する農民の中からおのずと生まれてきたのである。農業は自然と一体化することだから自ずとそこに自然とアイデンティティ化することになった。大都会になると何とアイデンティティ化するのかビルと高層ビルと一体化するのかとなる。私は山とか大地とか木とかと木とか石とかとアイデンティティ化することを詩を通じてしてきたしてきたのである。

人間は自然から遊離するときどうなったのか?それは人間ならざるものになったとも言える。都会のビルをあげて土もない世界で生きていればその人間はどうなるのか?何とアイデンティティ化するのか?人間も自然の一部であり自然から遊離してしまったらその人間は何になるのか?例えば工場で働く人は何か流れ作業でロボットのようになっていた。そういう場では人間は人間ならざるものになってゆく。人間はそこでは機械の部品のようになってしまうのである。

だから人間自体が異常なものにもなってしまう。そこからは異様なものが生まれてくるのである。カルト宗教団体などもそうである。それは自然から遊離したものであり異常なものなのである。なぜなら日蓮でも親鸞でも比叡山ので修業した天台宗から始まっているからである。それで創価などは団地の宗教として始まったそこは山を聖なるとものとして修業した仏教とはまるで違ったものとなってしまった。

いずれにしろここに詩にしたようにそもそもは大地という感覚が持てない。大都会には土が無いからである。コンクリートが敷き詰められて家が密集してビルを見上げて窮屈な世界に閉じ込められる。そういうところにいて正常な人間の感覚が保たれるのかとなる。だから都会から生まれた宗教はカルト宗教になり異様なものとなったのである。
そもそも東京のような1000万の都会が人間の住むところなのかとなる。そこから生まれるものは何なのかとなるとカルト宗教団体や何か異様なものにとなってしまう。

ともかく人間には共有する場が必要でありアイデンティティする場が必要である。ただ都会といってもヨーロッパの中世都市とかなると5万くらいであり壁に囲まれた外は畑があり森が広がっていたからまた違ったものであった。それが百万以上の都会となるとあまりにも違ったものとなっていたのである。

自然というときやはり四季がありその変化の中で日本人は特に生きてきた。だからこそ俳句も生まれた。でも都会に生活していたらそうした四季を感じるということもあまりなくなる。まずここ詩しにしたように大地という感覚はものは感じない。宗教が砂漠とか荒野から生まれたというとき大都会はあまりにも違った世界なのである。大都会とではなんとアイデンティティ化するのかわからない。そこでは言葉も失われたというとき東京のような大都会を見たとき人間は言葉を失ってしまう。言葉にできないのである。だからこそそこでは人間そのものは失われてしまうとなる。人間的感覚も失ってしまうのである。

だからなぜ人々は日本だったら東京にそんなに集まって生活することが理解できない。いくらそこで仕事があるとか田舎にはないものがあったとしてもそんなに人口が集中する場にいて人間は何か人間ならざるものになってゆく。やはり冬だったら枯野が広がりそこに安らぎも感じる。それでわざわざ江戸の中心街から離れて枯野見が行われていたのである。江戸でも人や家が密集しているから冬の季節を感じたいとなりそうなったのである。

The land in winter

Deeply rooted in the earth
Trees deepen their trust in each other
The dead are bound in the depths of the earth
Silent sleep on a winter's day
Sharing one place
A place to rest without doubt
The people are bound together
The trees are the pillars of the temple
Rooted solemnly in the earth
Unrestless and unmoved
The trees are deeply rooted in the earth, trusting in it
God sows a seed in the earth
And it shall surely bring forth fruit
It will not be vain in vain
God's plan is surely performed
God's power is not in disturbances
O tree that grows without haste
The patient earth's stillness
There it will give sure fruit
Not wasted in delusion
In one place the trees are deeply rooted
A fullness of power rising from the earth.
And the months pass with trust deepened

Translated with DeepL.com (free version)

詩は翻訳できない。だから直す必要があるのだがそれが私にはできない。やはり簡潔にして韻を踏むことによって詩になる。でもそうなると相当な英語力が必要でありとても翻訳ができないのである。ただアイデンティティーという感覚は日本語にはない。だからどうしても言葉でも世界観があって生まれているからその言葉の意味の背景に文化や歴史がありそれを理解することが必要になってくるのである。





2024年02月04日

【東は明るく西は暗い感じになる―日本海は暗い】 地名は方角地名が基本ー相馬市の日下石(ニッケシの由来)


地名は方角地名が基本ー相馬市の日下石(ニッケシの由来)

【東は明るく西は暗い感じになる―日本海は暗い】

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相馬藩の北斗七星の旗−黒い●は星でである

●日が昇る方向は明るく沈む方向は暗い

方角を知る一番わかりやすい方法は日の昇る方向と日の沈む方向を知ることである。

遣隋使の小野妹子が、持って行ったとされる書簡が「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)で始まります

これはただ方角を正直に言っただけである。とにかく外国に行ったりすればあなたはどこから来たのか?それをまず尋ねられる。
Where are you from?と尋ねられる。それで外国に行ったら日本だと伝えるのだがそうした国がわからない時代には何か目印になるものが必要になる。だからイスラエルのへブル人という意味は川の向こうから来た人という意味である。川が目印となってその方角を知るということにもなる。外国の川は必ず境界にもなっていたからである。だから川を越えて来たというときその川がどういう川か知っているからそう伝えたのである

旅をしていると一番分かりにくいのはこの方向が分からなくなり道に迷ってしまうのである。それは近くでもそうだった。飯館村は山に囲まれているから海が見えないから東がどっちなのだかわからなくなる。それで東の方に行こうとしたら西に向かっていたのである。なぜそうなったかというと太陽は沈む方向に行ったから沈む方向は西だと気づいたのである。山に囲まれていればこうして方向の目安となるものは分からなくなるから近くでも迷ってしまうのである。

西となれば日が沈む方向になる。東となれば日が昇る方向になる。でもそれが分かりにくいのである。ただ東と言う時日が昇るのだから何か明るいイメージを持つ。会津の東山温泉があるところは東にあるとしても山の陰にあり明るい感じにも思えなかった。でも京都だと東山というのはそこから日が昇る山であり明るい感じなのである。西山となればそこは何か寂しい感じになるのである。

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城を中心にして方角地名が名づけられた

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城を中心にして方角地名となった。喜多方は会津の北に発展したから北方が喜多方になった。

●日本海は寂しいと見ても古代は栄えていた

東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ  柿本人麻呂

東はやはり太陽が昇るから明るい感じになる。でも西となると陽が沈むとなり淋しい感じになる;だから日本海は日が沈む場所であり月がにあっている。

寺泊出雲崎行くや月あわれ
日本海秋の夕陽や漁村古る

日本海は海に夕陽が沈む。そして漁村も古いとなる。

名月や膳にすゑたる東山 支考

京都では東山となるとこのように身近なのである。でも京都を旅して東山がわからなかった。だから陽の昇る方向に旅したら注意すべきだとなる。

ただ地理的にはそうであっても歴史的に見れば日の沈む方向はさびれていたという感じにではない。日本海側に日は沈むからそこは今では裏日本隣寂しい感じになる。
でも古代からむしろ日本海の方が開けた栄えた場所にもなっていた。なぜなら韓半島とか中国大陸と向き合う近い場所でありそれで出雲の国引き神話が生まれた。その国とは韓半島の国のことである。地理的に見て太平洋側より近いのだから当然ひらけた場所になり韓半島からの渡来人もきて返って先進的な国でもあった。

なぜ今から見ると島根とか鳥取は人口も少なくさびれた感じになっている。
ではなぜ出雲の国がありそれが大和の国と互角に並ぶ強国となっていたのか?そして出雲弁が東北弁は似ているというとき東北が蝦夷と言われた国でありそれは出雲とも一体化していた国だったからだとなる。なぜ蝦夷というのは強敵になったかというと韓半島からかやとかから渡来人が入ってきてその人たちが蝦夷に加勢したということがある。だから大和王権の強敵になったのである。

●相馬市の日下石(ニッケシ)は日が沈む場所?

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津波で日下石の近くまで海になった

日本語のニシは、「去方」(イニシ)の約であろうという。イニが去(イ)ヌという動詞の名詞形で、シは方向を示すので「日没の方向」の意で西を捉えた語というわけである

これで気にかかるのはなぜ日下石(ニッケシ)という地名がアイヌ語説もあるがこれは西の意味とも取れる。それが津波でその日下石の前まで海になった。太陽はその日下石記の方に沈んだのである。
ではなぜそういう地名がついたのか?つまりそれは海の方から名付けた地名だったともなる。それは海からやってきた海洋民族が日の沈むところを日下石としたともなる。その海洋民族とは何かといえば相馬地域に多い綿津見神社と山津見神社が一対となった安曇族のことである。その後裔の人たちが名付けたものと推測される。なぜならもし日下石が西という意味があれば海から船で来た人たちがそこを日の沈む場所としたからである。
ただ海から離れた所から見れば海の方は日が昇る所になる。
どこからみるかで反対になるのである。
ただアイヌ語に関連しているとなればまた違ったものとなる。

なぜ方角が大事なのかというと例えば砂漠であれ草原であれ遊牧民が移動するとき方向が最も大事なものになる。方角がわからなくなると方角を誤るとそれは死にも繋がっている。だからこそ砂漠の国では星が星を見て方向を知る。だから北斗七星北極星が信仰の対象にもなった。北辰菩薩とか妙見様とかはその北極星のことだからである。相馬藩の旗印もその妙見信仰から来ていて北斗七星と北極星なのである。それはやはり中国からまた中国韓国を通じて韓半島を通じて日本にもたらされた信仰でもあった。一定の土地に定着して住んでいる人なら方向はそれほど大事にもならないからである

妙見菩薩は、北極星または北斗七星を神格化した仏教の天部の一つ。尊星王(そんしょうおう)、妙見尊星王(みょうけんそんしょうおう)、北辰菩薩(ほくしんぼさつ)などとも呼ばれる

●縁(えにし)ー江西、愛西などの意味と語源

私の魂は子の風景のもとに安んじて返ってくるだろう、それはかつてこの島影にたどりついた民族の心象というものがあったからだろう
「海やまのあいだ」にある狭い土地ーそれを海岸線と言ってもいいだろうーにこそ我が民族の「ふるさと」があったのである
海岸線の歴史ー松本健一

江西(えにし)は江と西が結びついた。当て字である。いには去るという意味でもある。太陽が去り沈む所だとなる。


縁(えにし)とは海洋民族が縁を結んだ海岸のこと? (日本の海岸線が日本のアイディンティティを作った場所)

江(え)とつく地名が多すぎる。ということは蝦夷(え)でも江なのである。南相馬市の鹿島区の海老(えび)はエヒなのである。江垂(えたり)は六号線まで江垂であり海が入りこんでいたのである。江が垂れると垂れるように海が奥に伸びていた。だから桜田山に魚の骨などが発見されたというときその入江で魚など取っていた

新地の手長明神の伝説は有名である。巨人が長い手を伸ばして貝をたべていた。それは縄文人が貝をとりたべていたことが基になっている。現実に高台に貝塚があったからである。新地の地形は山が海に迫っているからその伝説は実際の生活が反映したものだったのである。蝦夷(えぞ)のえは水と関係しているかもしれない、えとつく地名はいたるところにあるからだ。水のあるところに人は住むからである。江戸(えど)でもエがついているから水と関係していたとなる。

古代でも海が陸地に深くはいりこんでいた。原町の江井とか小高の井田川とか江とつく地名が多い。そこも入江になって津波でそこが海になったことで驚いた。八沢浦も入江であり津波で元の入江になったことで驚いた。

とにかく相馬地域には松川浦に山津見神社があり和田という地名は対になってあり綿津見(わたつみ)のことである。海洋民族の安曇族の後裔が入って来て開拓して住むようになったことは確かである。海洋民族にとっても方向を知ることが大事である。海では方向が分からなくなるからである。




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2024年02月05日

木の力(詩)の英訳の試み 【言葉の背景に外国の風土や文化があるー英語は論理的数学的になる】

木の力(詩)の英訳の試み

【言葉の背景に外国の風土や文化があるー英語は論理的数学的になる】

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松のことは松に習え、竹のことは竹に習え 芭蕉

これは松と竹でもアイデンティティ化することである



木の力(詩)


木は大地に根を張り
木は徐々に成長する
木はあせることなく年輪を重ねる
そしてやがて大木に成長する
せかして成長させることはできない
時間を早めることはできない
木と木はその土地に根付き
木と木とは騒ぐことなく
静かに深い信頼で結びついている
木と木とは並び隣の木を傷つけない!
言葉でもって傷つけない!
口を堅く閉ざして厳守する
木は決して乱れることがない
木々は争うことはない
木はそれぞれの内に充実する
内なる力が木に満ちている
木の力は外に向かわず内に向かう
その内なる力に習い!
木はそうしてその地を離れずに
長い年月そこにありて動かず
一本一本の木は内なる静かな力に満ちて
ここに自立して立ちゆるぎない
そしてその地に一つの荘厳な神殿を形成する
神の良しとする平和の殿堂がそこに成る 

(変わらざる契りにあれや冬深む)


poem about a tree

the trees are standing side by side
certain position each other
deeply rooted trees in order
still growing power in the land
sinking down in its tranquility
the silent lined ones
no disturbance and no noise
a firm step on my homeland
on the stationary place
the simplecity and strength
keep stately and a strict procession
the peaceful united one !


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poem about a tree

the trees are standing side by side
certain position each other
deeply rooted trees in order
still growing power in the land
sinking down in its tranquility
the silent lined ones
no disturbance and no noise
a firm step on my homeland
on the stationary place
the simplecity and strength
keep stately and a strict procession
the peaceful united one !


Trees put down roots in the earth
The tree grows gradually
The tree grows rings of years without fading
And eventually grows into a big tree.
You can't make it grow faster
You can't speed up time.
Tree and tree take root in the land
Tree to tree without noise
In quiet and deep trust.
Tree to tree they stand side by side 
and do not hurt the neighbouring tree!
We do not hurt them with our words!
We keep our mouths tightly shut 
and adhere strictly to the rules.
Trees are never disturbed.


そもそも言葉とは何なのかということである。言葉の前に表現されるものがある。ここで木があるとしたらその木は何かと表現しようとする。木は物質的に見ればそれは家の材料であり燃料であるとかなる。普通はそういうものとして見ている。でも木というのを人間の内面化するとそれは精神的的存在となる。

still growing power となる時stillという言葉がまるで鎮静剤のように感じる。木の特徴は静かに音もなく時間をかけて成長してゆくからである。木とアイデンティティ化することは木と一体化することは木を精神化することである。
確かなことは自然はstill growing power なのである。悠長に成長してゆく。急いだりあせったりしないのである。大地に深く根づいて音もなく悠長に成長してゆく。そこに木の真髄がある
stationary growing  power なのである。

言葉の謎は言葉が違うと同じものを表現しても違ったものに感じる。その背景に自然風土の相違があり文化の相違があり言葉も生まれた。そして言葉はロゴスでもあり世界を数学のように整然と調和あるものとして見る。世界が数であるという思想が生まれた。秩序あるものとして世界を見た。それはヨーロッパでは木でも雑然として並ぶのではなくまるで神殿の柱のように整然と並んで立っているというとき世界を秩序あるものとして見た
アルファべットとだと英語でも詩にすると整然となり韻を踏みやすいことである。

日本語の問題は詩からみると漢字でもひらがなでも混じり韻を踏めないし整然としないのである。英語だと数学的であり音楽的にもなる。漢詩でも韻を踏むことするから日本ではひらがなでありそれができないので冗漫になる。
いずれにしろ言葉を理解する前に木というものはどういうものか理解することが必要である。木はどこにでもあり木がどういうものかを知る。その木が神殿の柱と見に見える。整然と並んでる木を見て神殿のイメージが作られたともなるからである。

またゴシック聖堂はドイツのモミの木の森をイメージされて作られたという時もそうである。自然の風土が影響されて作られたからである。ただそれが石で作られたということで木で作られるものとは違っていた。木と石ではその性質は違っているからそうなった。石の建築はローマ時代のものであり2000年経っても残っているからである。するとその2000年前からでも歴史を現実のものとして見るということが出来るからである。

〈言葉〉〈議論〉〈尺度〉〈理法〉〈理性〉など多義をもつギリシア語。対立物を結合し,万物を統べるものとしてロゴス概念を用いたのはヘラクレイトスやストア学派で,以来西洋哲学における理性観を規定した

普通言葉は話すとなるとそこに感情的なものが入ってくる。怒ったり悲しんだりすることが表情として現れ言葉となる。でも文章となるとまた違ったものであり感情的なものは抑えられ理性的なものになる。文章にはやはり秩序があり整然として構成されるからである。それは理性であり整合性があることでありそれはロゴスだとなる。
日本語には感情的なものとなりやすく理性的になりにくい。特にひらがなになるとそうなりやすい。それは美的でもあるが理性的なに整合性にかけている。特に漢字とひらがなが混じってカタカナもあり複雑化して整合性が理性がそこに働きにくいのである。ただ外国を理解するというとき言葉の問題が大きな障害となる。

それは言葉自体がその背景に文化や文明があり自然風土がありそれを理解できないからである。ただどこにでも木がありそれが何を意味しているのか、それを詩にすればやはり言葉が違っても理解されるとなる。だから問題は言葉の前に木というものはどういうものかその性質を知ることなのでその性質を知って言葉にすれば外国語でもやはり互いに理解できるということである。

またいくら言葉に通じても木というものはどういうものかを理解できなければ鑑賞できなければいくら言葉がしゃべれても言葉に通じていても木に通じなければその言葉も理解できないのである。それはあらゆるものに言える。
言葉に通じる前に科学の分野でもその一分野に通じていない人ならいくら外国語を覚えても理解することはできないとなる。だからいくら言葉に通じていても語学の先生でも理解したり詩を書けるのかとなるとそうはならないのである。
その普遍的共通なものユニバーサルものはやはり理解できる。それは言葉に通じたから理解できたのではなく科学なら科学者で通じ合うものがあり同じ共通の理解になる。共通のものは原理として数式化されるのである。だから数学というのは共通の言葉ともなっている。だから外国でわ常にプリンシパルというのは重んじられるのではある。

それにしてもステーションという言葉がステイショナリーとなりそれが文房具になってるということはなかなかイメージできない。なぜ駅と文房具が一つのステーションで表現されているか表現されるのか日本人だったら理解できないとなる。
何か外国ではステーションとあればstateという言葉があり駅が堂々としたアーチをもった建物になっている。だからstate-stationになったともなる。ヨーロッパでは建築物が威厳がありstatelyでありま人間に威厳を与えるのである。

「形または構造の物理的な状態」、「特定の状態や段階」、「基準に対する状態」という意味は、約1300年頃から見られます
「高位の役職にふさわしい厳粛な儀式や状況、高位の人物にふさわしい威厳と華やかさ」という意味は14世紀初頭からあります。これにより、lie in state「葬儀前にお通夜のように堂々と展示される」(1705年)やkeep state「堂々とした威厳を持って行動する」(1590年代)という表現があります

stateとは安定して建っているものをイメージする、それは大きな立派な建築物でありそれはstatelyとなり堂々としたとなる。
stationもそこから波及したともなる。ヨーロッパではそうした威厳のある大きな建築物がありそれがstationともなり街の中心にある。stateが州や国家を意味するようになったのは威厳があるべきものとしてそうなった。

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2024年02月06日

雪の朝(蠟梅、寒椿、白鳥、雪景色)


雪の朝(蠟梅、寒椿、白鳥、雪景色)

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ヒヨドリの蠟梅ついばむ雪の朝
蠟梅に雪の積もるや籠る家
塀囲み巌に向き合う寒椿
山鳩の一羽梢に雪景色
大石の庭に黙して冬深む
葉牡丹の紫沁むや石に寄る
頼もしや葉牡丹二輪我が庭に

白鳥の群れて白しも足跡をつけしも消えぬ雪またふりぬ
塀囲み椿に雪や空家なり庭に残さる大き石かな

朝ちらちらち雪が降っていた、ここも雪が積もった。福島県の浜通りは東京で雪が降ると必ずここも降る。二月に雪が降りやすい
庭にヒヨドリが二羽飛んで来た。そして蠟梅の花ついばんでいた。花を食べるのは他に餌になるものがないからか珍しいと見た。花も栄養になるのか?蠟梅はこの庭にあっていた。

午後から写真撮りに外に出た。白昼の群れがたむろしていた。白さに白が映える、川岸の冬木立に山鳩が一羽とまっていた。
また今夜雪がふるかもしれない、例の空家の庭に寄る。塀に椿が咲き雪が積もり赤く映える。池がある石組の庭は見物である。家は古民家でもないから価値がない、あの庭はなにか活かす方法があってもいい、空家が活かされないのである。

庭に葉牡丹が二輪咲いている。何か地味だが頼もしい、二人の母親がいたときは家にいて頼もしかった。ただ一人病気でもなければ冬も楽しい。何かエアコンよりストーブで石油であたたまると気持ちがいい、だから囲炉裏で薪を燃やして温まっていた時はいかにも冬籠りという感じになっていた。

ともかくこの辺でわ雪はあんまり降らないし積もらない。同じ福島県でも会津とかは大違いである。だから雪国の生活というのはわからないのである



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the reddest camellia over snow
the fenced garden
built in  many stones
facing to one big rock 
the centered one
in midwinter

写真では実感できないことがある。ただ写真を撮った本人が実感と違うと感じるものがある。
そおれはまりの状況とかも関係してくるし直感的に感じるものがある
私がここの空家の庭を見た時目立ったのが大きな石だった。それが大きく迫て来たが写真にとってみると
そのようには見えなかった、だから写真は錯覚することがある
でもまた写真は見えないものを見させることもある
だからカメラの目で見るのと人間の目で見る両方が必要なのである。
それはAIがchatgptとかimage creatorでも同じである。
すべて機械まかせにコンピューターまかせにはできない
人間がいらなくなることはありえないのである。






2024年02月07日

白鳥の写真と俳句【撮影場所を知り写真を撮る】


白鳥の写真と俳句【撮影場所を知り写真を撮る】

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これはメスのモズだろう

朝空に白鳥白し高く飛ぶ
白鳥の白に白映え朝清し
枝の先モズの一羽や雪野かな

真野川のサイクリングロードから見る景色がいい、白鳥がかなりの数群れていた。ただ飛んでいるの写真に撮るのはむずかしい
写真は定点観測しないといい写真が撮れない。撮影スポットがありそこで待っていていい写真を撮る。ただその撮影スポットがどこにあるのか地元の人でないと分かりにくい。

だから写真を撮るときそういう場所が分からないから旅行してもうまく取れないということがある。いい写真を撮ろうとしたら相当そのその場所にか構えていないと取れない。だから富士山の写真を撮る人は半年とか寝泊りしていい写真を撮るという。刻々変化するからそうなるのである。

とにかく雪が降ったから白鳥もさらに映える。ただこの辺ではなかなか雪は降らない。雪の景色を取ろうとしたらやはり雪国に行かないと取れない。でもそうなるとそのその負担も大きくなる。写真を撮るにはやはり車を持ってるといい。撮影スポットに構えてとるには車がいいのである。自転車だとカメラ自体が重くなったりしてなかなか取りにくい。現実に自転車が倒れて一つのカメラが壊れてしまったからである。



雪の俳句連作ー北海道から東北の鉄道の旅 【一茶の青森の俳句の鑑賞】

雪の俳句連作ー北海道から東北の鉄道の旅

【一茶の青森の俳句の鑑賞】

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温川【ぬるかわ】山荘

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飯山線の駅

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羽前前波の駅【奥羽西線】

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喜多方の蔵の喫茶店



【知床】
雪埋もる知床に鳴く鹿の声
クマゲラの叩く音ひびき流氷の海

【小樽】
倉庫にそ太き氷柱や小樽かな
小樽へと車窓に寄り冬の浪
凍てる雪踏みて小樽や倉庫かな

【尾岱沼】

暁に白鳥はばたく凍る沼
白鳥の目覚めて鳴くや凍る沼
白鳥の朝鳴きあうや凍てる沼

尾岱沼(おだいとう)の白鳥

【函館】

函館や行に市電や暮らしかな
乗り合す市電や暮らし積る雪
函館の市電の駅や雪の夜
函館にロシア人の墓冬深む
札幌に煉瓦の官舎や凍てる雪

【青森】

(津軽焼)
土の色黒の素朴や雪深し
黒石の雁木通りや冬の暮
トンネルぬけ小国や遠し雪埋もる
城門古り雪深く踏み弘前城
貨物船野辺地の沖や冬の海
うず高く雪の積もりぬ野辺地駅
冬の海常夜塔古り野辺地かな

【山形県】

トンネルを抜けて残雪の山仰ぐ
山寺や御堂の高く吹雪く雪
家数軒雪に埋もるや羽後前波
最上川蛇行し流れ雪景色

中町こみせ通りの特徴は、日差しや吹雪から人を守るアーケードがあることです。昔の商店通りだったこの道は買い物に来た人の為に自分たちの敷地内にアーケードを作った人情溢れる通りなのです。

冬なれや立待岬に波ひびき啄木の墓雪埋もれあり
冬の海野辺地の沖に貨物船一艘見ゆや栄し時あり
雪埋もる羽前前波駅止まる家何軒や誰か住みなむ
なかなかに雪は溶けじも飯山線駅の遠しも我が見て過ぎぬ
区界に雪の厚くもなお残る止まる一時心に残る
只見駅雪埋もれ泊る一夜かなここに暮らしや会津の奥なり
只見より一両の電車来てあわれ小出に泊まる一夜かな

雪深し(俳句十句) 
(会津と東北などの雪に関するエッセイ)

北海道は冬にも行った。印象的だったの知床が雪に埋もれてそこに蝦夷鹿がいたことである。あんなところにいたことが意外だった。そこで餌をどうするのかとなる。熊は冬眠するが鹿はしないからである。斜里町に泊まったはそこでクマゲラが木を叩く音が響ていた。これも北海道らしい、それから函館にも行った
市電が走っていて街に溶け込んである。市電は風情ある。函館は何度行っている、何かその土地のことは本当は北海道なら春から夏そして冬を経験するとその土地のことを実感するのである。

夕陽に染まる斜里岳

日本という風土は太平洋側と日本海側はまるで反対の風土である。日本海側は相当に雪が積もる。その雪国の感覚が太平洋側に住んでいると理解できないのである。雪に埋もれて長く暮らす生活というものがどういうものか実感できないのである。そもそも福島県でも浜通りは雪が降らない。ただ必ず東京で雪が降るとここも雪が降るのである。でもせいぜい2 3回くらい降ってあとは降らない。だから冬の間雪に埋もれて暮らす生活というものはどういうものかわからないのである。

青森から黒石しに行きそこに雁木のとうりがあり昔の店があった。そこからさらに温川【ぬるかわ】山荘というところに行ったがそこも一軒家の温泉宿であり黒石市からは遠く離れていた。トンネルを抜けるとさ小国という地名がありやはりそんなところまで人は住んでいて自給自足していたのかとなる。昔は車もないのだから人の行き来も雪に埋もれたら余計にできない。つまり何か外から物資でも入ってこないのである。

すると自給自足するほかないのである。雪の中でも雪菜がとれる。それがうまいとなる。それにしても雪に埋もれて生活するということがどういうことなのか理解できない。だから日本というのは太平洋側と日本海側では相当に違った感覚になる。ただ日本海側は太平洋側より海は冬でなければ穏やかだから北前船が行き来した。それで青森県の野辺地では北前線が来て栄えていたのである。でも今になればその船も来ないのだから何か寂れた感じになる。常夜燈は港に残っていて沖にに貨物船が一艘電車から見えたのである。



【一茶の青森の俳句の鑑賞】

今日からは日本の雁ぞ楽に寝よ
日本の外が浜まで落穂哉
心から 信濃の雪に 降られけり
外は雪内は煤ふる栖かな 
これがまあこれがまあついの栖(すみか)か雪五尺

また一茶が外が浜まで行ったのか?

今日からは日本の雁ぞ楽に寝よ
日本の外が浜まで落穂哉

この句は面白い。日本の雁と言う時私は外国に行って飛行機で帰ってくる時何かホッとしたからである。ただ江戸時代にそこまでイメージしたのかというとそれが不思議である。ただ外ヶ浜からの項になると津軽海峡がありアイヌの国になる。そこは外国にもなっていた。そしてまた外が浜まで落ち穂かなというのも何をそれに注目したというのも一茶らしいかもしれない。

落ち穂というときミレーの絵に落穂ひろいの絵がある。落穂でも貴重なものとして見ていたのである。それはやはり外国でも日本でも食料は貴重であり無駄にできないものでそういう見方になった。だからその時代を反映したものが必ずあり芸術でも鑑賞するのにその時代にイメージしないと鑑賞できないのである。

こんな国の果てに来て落穂がありここでも米を作っているのだと一茶は思ったのである。一生貧乏だった一茶だからこそその落穂に注目したのである。今なら米は余っているとかいくらでも取れるとか減反政策があったとか日本中からいろいろな米が買えるとかそういう時代とは相当に違っていたからこそこの句が出来たのだと思う。

それから面白いのは

外は雪内は煤ふる栖かな 

これも何か一茶らしいものだった。外は真っ白な雪に覆われ何か清められた感じになる。でもその中の暮らしは囲炉裏とかあり薪を燃やしてゆくからから煙で煤けるのであ。そこに一茶の場合は常に生活の実感がにじみ出てくるのである

心から 信濃の雪に 降られけり

こういうく句は雪国に住んでみなければ作れない。そして雪にも地域によって違っているのである。会津の雪でも弘前で降った雪も違っている。雪質も違っている。弘前の雪は明るい感じがしたの不思議である。朝の雪だからそう感じたのかもしれない、確かに地域によって雪の感じは違っている。

我が老いて旅路をたどり冬ごもり

今はこうして回想の旅をしている。冬にふさわしいのである。部屋の中でストーブにあたたまり旅路を回想する。
それで前に書いたものが貴重になる。写真も貴重になる。なぜなら人間は忘れるからである。自分の書いたものでも忘れるのである。
いずれにしろこうして前に書いたものまた編集して延々と描き続けている。これは終ることのない作業である。








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2024年02月09日

本は買っても読んでいなかった 【読むということは相手の心も読むことー記録することも大事 ードイツのボーデン湖の写真】


本は買っても読んでいなかった
【読むということは相手の心も読むことー記録することも大事
ードイツのボーデン湖の写真】

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なぜ膨大な本を買っても読んでもそれを読み返しても読んでいなかった。読んでいないということはただ確かに読んでいたのだが理解して読んでいなかったということである。読むということは何なのかリードとはやはり相手の心を読むとかその人なりに何か読んで理解するということがある。

例えば絵を見る音楽を聴く。でも何を見たのか何を聞いたのかその感想を聞くと分からないということがある。つまり芸術だと鑑賞すること自体が難しいのである.。それは本でも同じであり本を買うことはできるでもその内容を読むことは理解することは難しいのである。
そして本を読んで重要なところにびっしりと線を引いていたのだがなぜそこにそれほど線を引いていたのかもわからない。それも無駄な作業だったのかとも思う。本を読むということはただ読んだだけでは読んだことにならない。その人なりに理解してその人の文脈の中で引用したりするとき本当に読んだとなるのである。

だから意外と何冊かの本があるとき自分の関心を持ったところを引用して編集してゆく。するとその本でも全体を知らなくてもその知識は生きたものとなるのである。だからランダムにい何冊かの本を読んで自分自身にとって関心があり興味があるものを結びつけるとそれで創作することにもなる
だから知的作業をする人は必ずその興味のあるものを集める書斎が必要になる。私設図書館のようなものは必要になる。知識とは人類は積み重ねた膨大なものはありとても一人では知り得ようがないのである。それでインターネットとかで一つの図書館のようになっているからキーワードで検索できるから何かの知識探求しても引用しやすいからそれは私設図書館にもなっているのである。またチャットgptというのも自分だけの知識は限られたものだから芥川賞を取った小説家がチャットgptを利用したというのも分かる。

膨大な知識がありとても小説にしても一人で調べて書けるものではないからである。そして何かを知るにしても直接人に尋ねて知るということは難しい。だから気軽にインターネットとかチャットgptでも質問して答えてくれるということは便利なのである。今や知識であれ情報であれ天文学的になっておりとても一人の知識では役に立たなくなっているからである
ただ知識というのは歴史的に本に蓄えられてきたのだからいくらインターネットがあってもチャットgptでもその知識の範囲は限られている。本には選ばれた専門的な知識が集積されているから依然として本は必要なのである。ただ本にしてもその集められる範囲は限られている。でもその人なりの関心のある本を集めることは重要である。別に本を読まなくても本を買って集めることが大事だということもわかる。

今になると私が関心を持って買った本が理解していなかったが理解できるようになったからである。理解するということは自分なりに自分の文脈で本の内容を引用して構成するとき本当に理解したとなるのである。
ともかくこれまで買った本をどうするのかそれを整理するの大変な作業になる。それでその本を読み返している。するとなぜかまるで全然読んでいなかったように思った。というのはその本を読んだとしても理解していなかったから初めて読んだような気分になったのでは。そしてまた人間というのは本当に忘れやすいのである。

前に書いたホームページの分でもプログでもまたその他に書き溜めたものでももう一度自分が書いたものなのにそれすら忘れていたのである。こんなことが自分が書いていたのかと自分のものですら他人の物のようにすら思えたのである。だからプログでもなんでも文章にしろ写真にしろ記録するということは大事になる。何故ならこのように人間は自分の描いたものすら忘れてしまうからである

だから後世に伝えるとき残す時文章としてまた写真でもいいから動画でも残すことが大事である。そういう記録を残していればその記録から蘇るものがあるからである。その点デジタル化時代になると写真でも気軽に膨大に残せるから有利になった。外国など写真を撮ってそこがどこかも分からなくなる場合がある。でも写真を撮って見て思い出すのである。だから外国で撮った写真というのは相当に貴重である。私が外国旅行したときはデジタルカメラがなかったから写真でもあまり撮れなかった。今になると外国旅行もできないから相当に損になったのである。デジタル化というときは時代はとにかく記録するということでは便利である。いくらでもカメラで記録できるからである。

ボーデン湖は相当に広いのだろう、これはその河畔で撮った写真である。外国だと良く見れないのである。だから写真が貴重になる。なぜなら忘れていtが写真を見て思い出したのである。私の記憶から消えていたが写真をみて記憶がよみがえる。それも写真だからリアルに蘇ることがある。外国は変わっているから記憶しにくいからである。
何か自分には東北に住んでいるから比較的寒いからドイツに共感するのかもしれない。ドイツ的風土と似ているからかもしれない。ただ東北と北海道は違っている。北海道はなにかからっとしてじめじめしたものがない、梅雨もないからそうなる。ドイツは霧が多いというときやはりからっとはしてないとなる。また歴史も東北にはありドイツにもあるから違っているのである。

積み重ぬ本の重しも冬深む

本は物ともなっているから重い、それで電子本と違って重みを感じるともなる。紙幣でも金貨銀貨だと価値を感じるが紙幣だと紙切れにすぎないとなる。重みが感じられないのである。まして数字化したらそれこそ架空のものかともなってしまうのである。
だからこそ今中国人が金を買い貴金属類宝石などを買っているのもわかる。中国経済が衰退してきたのでそうなったのである。

落葉踏みボーデン河畔赤き薔薇
落葉踏み古木に古城ドイツかな

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ボーデン湖は相当に広い、でも一部分しか見なかったのが失敗であった。
なぜなら外国の場合一回しか見れないことがあるから


この三枚の写真から読み取れるものが相当にある。それは本でもそうである。何冊か共通なものが発見されるからである。同じことでも人によって違った見方にもなり本でも受け取るものがそれぞれに違ったものとなるからである。


 本は二階に置くのは向いていない、大工さんが言うにはその重みで家に影響しているといわれたかである。下の階に置くのがいい、地震の時にも影響する。また本が上から落ちてぶつかり死んだ人昔あったとかそれも本は重いからそうなる



2024年02月10日

冬の里【冬籠る、寒烏、冬の暮、大根】

冬の里【冬籠る、寒烏、冬の暮、大根】

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寒烏里に餌あれ共に棲む
大根やここに養う冬籠る
前畑に大根太く頼もしき
根を張る木大根太く前畑に
松に倉この家の古く冬深む
木の二本古碑何語る冬の暮
何語る古碑を集めて冬の暮
道の駅車あまたや冬椿

津波より12年すぎてなお枯れず一葉松や冬の暮かな


鳥を見て不思議なのは何を毎日餌として食べているのか?おそらく虫が餌のだろう。虫は土の中にも居たり人間の目では見えないからである。その他何か食べるものがある。でもやはり不思議になる。
家の前に大根の畑がある。すると何かそこに食べるものはあると目に見えて頼もしい感じになる。ただスーパーで買っていれば何か本当に食べ物はいられるのかどうか不安になる時がある。でも自分の家の前に食べ物があればそういうことはないのである。それはいくら金を持っていても金は単なる紙であり数字でもあるから安心がないのである。

倉があるというときはやはり倉は食料が蓄えられていた。だからそれも安心をもたらしていた。今は倉は食料を置くということはあまりない。でも蔵があると頼もしいという感じにはなる。
松に倉があるというとき松倉という地名とか姓がある。そういう生活そうそういう景色がよく見かけるだとなる。豪倉とか原町の深野にあった。豪倉は郷倉である。

それは意外とと新しく戦前のものだったのである。それも昭和時代のものだったのである。それは昭和天皇によって奨励されて各地に米などを蓄えておく蔵が作られて地名化した。地名というと普通は古代kらと古いのだが新しいからめずらしいとなる

下高平には越中からなどの移民の子孫も多い。相馬地域で見逃してならないのは天明の飢饉があり相馬藩で三分の一も人口が減った。それを埋めたのが越中からなどの移民だったのである。
それは能登半島で地震があったがあの辺の人もいたのか石川県とか富山県福井県の人もきていたかもしれない。
相馬藩内の墓地には南無阿弥陀仏の墓が真宗の墓がか必ずあるからすぐわかるのである。

今日はそれほど寒くはなかった。やはり暖冬意味である。それで石油をそれほど買わないから助かるとなる。福島県の浜通りは気候的にはいい場所である。料金をほとんど降らないし比較的暖かいからである。だからあいづとかとはまるで違った結構なので
帰って白河あたりの邦画寒いみたいなので海側はやはり暖かくなるのだろう。それで東風も増えたみたいだ。 3月11日が東日本大震災と原発事故があった時である。その前に東風は海から吹いてくる。その風にのって放射性物質が飯館村とかに運ばれたのが不運だったのである。

一葉松は津波でここまで塩水をかぶったので枯れると見たが依然としてしぶとく残っている。津波から12年も過ぎて13年目にもなる。この松は貫禄がある。だから枯れてほしくないとなる