2023年11月21日

権力と権威の混同−池田大作死亡で起きること 【人は純粋な権威より権力を求め権力に従う】


権力と権威の混同−池田大作死亡で起きること

【人は純粋な権威より権力を求め権力に従う】

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権威と権力も複雑になる。純粋な権威がありまた権力化した権威もある

●宗教はもともとその開祖は権力はゼロだった

なぜカルト教団が力を持つのか。それは権力があるからでありもともと教祖の権威ただ利用して権力を作り上げた。宗教というとき釈迦であれキリストであれその他の教祖でもほとんど乞食と同じだった。住む場所もなく釈迦は洞窟で修業した。キリストはこのように枕するところなしと言って実際にそうなっていたのである。だからその教祖本来は無一物であり何も所有していないのである。

ただそんな人がなぜ権威を持っていたのか人はそのとき弟子はその教祖の教えに共感していたのである。でも教祖はは一切の権力は持っていなかったのである。でもその後に宗教は権力化して行った。その歴史がカトリック教会である。それは時の王様より強い権力を持っていたのである。なぜならカノッサの屈辱のようにカトリック教会の法王に跪かねばならなかったからである。つまり法王の方が王様より上だったとことを証明したのである

おそらくカルト教団の教祖はそのように俗界の王様より上に立つ者を目指していた。だから池田大作はカトリック教会の法王にあたるのである。現実に池田大作が死んだらなぜ時の最高権力者の首相はわざわざ哀悼の意を伝えたのか問題にしている。。それはまさに池田大作を頂点にして権力を持つ創価学会があるからである。その権力の何かとなると自民党を支える票を得られるということであるである。現代の権力というのは民主主義になれば数であり表まとまった票を得ることなのである。

●人はこの世の権力に従う

だから池田大作とはその配下に何百万人という会員がいてその命令に従う。その会員の数によって権力を持つから人はその権力にひれ伏すのである。もしただ一人の人間なら誰も相手にもしないのである。お前に何の力があるのだとなるからである。要するに人はそもそも権威というものに従うわけではない。人は権力に従うのである。その権力とは何かとなる。カルト教団の場合はその数であり献金を集めてそれを権力とするのである。だからそもそも権威に人は従うのではなく人は権力に従うのである。

そのために自民党すらもまとまった票が得られるのでその権力があるからこそ従うのであり別に宗教とは何の関係もないのである。人間がこの世で一番恐れているのは神でも仏でもない。現実にこの世を動かすもの権力である。権力というときそれが何かというと最大の権力は暴力装置である軍隊でありまた警察である。そこは暴力で強制力を持つ権力だから最大の権力なのである。また民主主義では田中首相が言ったように金と数が権力だとなる。

選挙ではとにかく何百万票を集めるとなると数は問題になるからである。要するに人はその権力に権力を恐れその権力に従うのである。何か罪とか心の問題とかは関係しない。人はただ権力を求め権力に従うのである。だからこそカルト教団はこの世を権力でもって支配しようとしているのである。誰でも会員が何百万人もいるとなればそんなものに一人で戦えるかとなるからである。第一一人など誰も相手にしないのである。何百万人もいるとなれば人はその数に権力に恐れ従うのである。そのようにしてナチスが生まれたり太平洋戦争でも多数が賛成すればそれが狂気的なことでも逆らうことはできなくなって何百万人も死んだということにもなる。

●カルト教団が追求しているのはこの世の権力である

とにかくカルト教団は信仰などは追及していない宗教などとも何の関係もない。ただひたすらこの世の力を権力を得るために運動しているだけである。権力を持てばやがては司法であれ検察権力でありあらゆる権力を操作できるようになるからである。マスコミなどまったくそうした権力化したカルト教団に創価などは巨大であるために批判はしない。第一新聞社は聖教新聞を刷って収入となっているから批判はしないのである。つまり権力によってマスコミも操作されるだけなのである。

権威と権力は違っている。例えばある分野での権威者という時それは権力ではない。それはまた必ずしも権力で得られるものでもない。学術論文であれ芸術作品であれそれは必ずしも権力で持って評価はできない。その道のものが評価するのでありいくら権力があってもできないのである。その評価はは権威は価値は権力では作れないのである。

でも権力で権威を作れるものがこの世にはかなりある。宗教でもそもそも権力では作れないものだがカルト教団の場合はとにかくなんでもいいから会員を増やして数で権力を作る。その数に等ひれ伏すのである。政治家でも宗教団体カルト宗教団体でも票になるとなればそれを利用するとなるからである。つまりこのようにこの世は権力によって動くのであり本来の宗教が求めたものなど誰も必要としていないのである。

大衆社会とは赤信号みんなで渡れば怖くない社会である。
でもこのことがいちばん怖いことなのである。そのためにナチスの大量殺戮があり日本の戦争でも三百万人が死んだとかなる。人間は責任をまねがれることはできない。みんなで渡れば怖くないとしもそのみんなが責任を必ず問われる。そおれが戦争の大量死だったともなる。大衆社会は無責任社会だとしても必ず責任が問われ課されるている。そしてその責任は過酷なもになる。それは歴史が証明している。

●現代の権力とは何なのか―科学技術でもある

そして科学の時代になった時科学が巨大な権力と化す。宗教はこれほど布教したのは実は病気を治すためだったのである。人間の一番の問題は弱さは病気になることだったからである。でも医療が発達しないときはただ神仏に祈るほかなかったのである。だからこそ村の中心には必ず薬師堂があった。病気になったらそこで祈るほか方法がなかったのである。後は地蔵様でも祈る他なかったのである。でも医療が発達すると今度は医者は神様のようになったので今の社会で人はだれも尊敬しない学校の先生も尊敬しない。でも医者だけは尊敬されているのであるお医者様となっているからであるそれは人間の一番の弱さは病気になることだからである。するとお医者様が神様のようになってしまうのである

また科学技術の社会になれば原発のように核を操作して電気を作り出すということが科学技術者にできる。だから科学技術者が神のようにもなってしまうのである。でもその権威は原発事故で崩れ去ってしまったのである。でも依然としていろいろな科学技術があり今や科学技術が信仰の対象となり科学技術者が神様のようにもなってしまうのである。つまり現代でわ科学技術が権力となるのである。でも依然としてなぜ宗教がこれほど人々に力を持つのかそれは人間の問題というのは依然として科学技術でも解決しえないことが多いからである。病気にしても全部が医者で治せるわけでもないからである。その他人間には様々な問題がありそれを解決できないから神仏に頼ることになるのである。

ただ人は権力に従うのであり本来の権威に宗教でも従うわけではない。そこが混同しやすいのである。カルト教団などでもその会員が何百万人もいるとなればその数々は権力となり従うとなる。それはナチスのようになりもはや逆らうこともできなくなる恐怖があったのである。それが創価の恐怖だった。池田大作はハイルヒトラーとなり日本の権力を掌握することを現実に実行しようとしていたからである。誰も創価のことなど批判できないようになっていたからである。 一国の首相ですら今も池田大作が死んで哀悼の意を表したことでもわかる。それはその人の背後にある
権力をおそれているからであり政治的利用できるからである。

●必ず組織団体では権力闘争が起きる―共産党のように

政治に関しては歴史は権力闘争であり武力で争い決めていた。それで民主主義では三権分立になり選挙で平和的に権力を得るものとした。せもそれにしてもやはりいうまくいっていないのである。良くは成っていても依然として権力を欲しいままにしようとする。宗教でもそうである。宗教が権力化して人々を支配支配しようとするそれでカトリック教会が世俗の権力となったことでそのことに反発して政教分離が出来たのである。

でも日本では統一教会のことは政教分離から批判しても創価と公明党に関しては批判しないのである。それは何故かといえば自民党が悪いのである。創価から票を得られるとして政権をを支えているから批判できないのである。つまり政教分離でもその法律も絶対的なものではなく時の権力によって左右されるだけなのである。

そもそもこの世を治めることは不可能だとなる。結局サタンがこの世を支配するというのは人々は飽くことなく権力を求めるからである。その点子供だったらそういう権力を求めないから聖書でも嬰児に収めようとある。老子だったらら治めずして治めるとかなる。飽くことなく人間の欲があり権力欲もそこから生まれる。だから制度を作っても結局それも破られる。この世はいつまでたっても政治的には治められないとなる。

神の国では神が直に治めるから治められるのである。。それがこの世で不可能だから依然として権力にこの世の欲があり権力を求めるからそのためにこの世はサタンによって支配されることが変わらないのである。
とにかく権力と権威は混同しやすいのである。それが純粋な権威であれば問題ないのである。例えば師がいて弟子が十数にとか学ぶとなれば別に問題ないのである。それが池田大作が師弟不二だとか何百万人も奴隷のようにする。それはただハイルヒットラーとなってしまう。でも大衆社会になればそうなってしまうのである。個々人を相手にするのは限られている。

●師弟不二の欺瞞ー大衆を操作して奴隷化すること

第一師弟不二など何百万人を相手にするとなればありえないからハイルヒットラーハイル池田になる。要するにそれはサタンに支配されることであり操作されることである。ではなぜそれだけの人が従うのか?それは権力を得られる。その池田大作であれ教祖が巨大な権力を持っているからそれにあやかりたいのである。ある人は議員になれとなり権力を得ることが具体的に見えるから金になるというこことでも入ってくる。

要するに人を選ばない、ただ一票なればいいだけである。それで創価だと膨大な数が幽霊会員であり座談会にも出ない何の活動もしない人たちの票を得るために学生時代に回ていたのである。何か池田大作から教えを受けたことない、そもそも私を折伏したのが親が市議会議員だったからさらにすべてのエネルギーが選挙に費やされるのである。そんなことさせられれば疑問を感じるはずだが感じないの権力を御利益を得ることのために祈り思考停止になっているためである・。
現実社会でも血眼になって利益を追求している。カルト教団ではさらに拍車をかけて御利益を追求しているのである。

その中核は婦人部だったというとき余計にただ感情的になり思考停止になりナチス化じていたのである。なぜ宗教なのかということがこれだけ毎日選挙運動させられればわかる。それでやめない人はそもそも思考停止しているからである、ただそんなこともわからないのかとなる。いくら学がないにしろわかることがある。女性の場合考えることをしないからかもしれない。盲目的に従うということである。
では創価の会員は全部が池田に心酔しているのかとなるとそうではない。前からこき下ろしている人がいたからである

●原田会長が池田派を排除してきたという

また今の原田会長は池田が病気で現れなくなってから池田派を排除してきたという。つまり内部でも権力闘争がありそうまっている、それは共産党と共通している。内部で熾烈な権力闘争がありソビエト連邦でも粛清された人たちが一千万人いたとか中国なら毛沢東時代に文化大革命でも粛清された人たちの数も多い。それからカンボジアでは二百万人もポルポトに殺害されて骸骨の山が博物館になっている。これも空恐ろしいとなる。

集団化組織化するとこうして内部で熾烈な権力闘争が起きる。だから創価でも四分五裂の権力闘争がおきるかもしれない。そもそも権力を求めて入って来たのだからそれも当然だとなる。そのために今の原田会長が権力を掌握するために池田派を排除したというのもわかる。つまり池田大作を持ち上げて権力を得たいという人たちがいてそうなったのである。

だから必ずしも会員のすべてがそうではない、だからこれからそういう人たちが前面に出てきて内部抗争になり分裂するかもしれない。それは共産党の内部の権力闘争と似ているのである。宗教というより権力を得る為の闘争となるしそれが目的だったのだから当然だとなる。それが人間の業でありカルマであり政治に共通して現れている。ただ現代は大衆社会となり大衆を操作して権力を持つということである。
それがナチスだったのである。

posted by 天華 at 17:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層