2023年09月13日

なぜ会津が古代から東北で大きな勢力となっていたのか (山側から発展した日本−地形から見る日本)


なぜ会津が古代から東北で大きな勢力となっていたのか

(山側から発展した日本−地形から見る日本)

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秀吉の文禄時代に日本全国で検地が行われた。新地にある文禄の碑は伊達藩で記念に建てた。




会津嶺の国をさ遠み逢はなはば偲ひにせもと紐結ばさね (「万葉集」

秀吉の奥州仕置により
蒲生氏郷に広い与えられし会津の領土
七層の黒川城の威容映えぬれ
近江より来る才智優れた武将の氏郷
戦国の世悲しくも若くして花とちり
会津若松の栄の礎となる

東北歴史を見るときなぜ会津を古代でも大塚山古墳から三角神獣鏡は唯一発見されたのか?会津が古代でなぜ大きな勢力を持っていたのか。それはやはり縄文時代からの継続として日本では山の方が生活はしやすいからだった。
日本では平地の方が暮らしやすいと見えるは実際は平地は湿地帯であり暮らしにくかった。だからなぜ飛鳥が最初の日本の国の起こる場所だったのかとなる。

天皇の、香具山に登りて望国(くにみ)したまひし時の御製歌

大和(やまと)には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あま)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は

それはの歌のようにかもめが飛んでくるところでありその前は奈良盆地は湖になっていた。そして大阪湾でも広くそれが奈良盆地までも海として通じていた。
つまり平地あったとしてもそこは湿地帯であり住むことができなかった。するとどうしても生活する場所は山の方になるのである。そして山では焼き畑が行はれていた。
そのために秀吉の奥州仕置で厳しい検地が行はれた。会津ではそのとき焼き畑が行はれていてその焼畑にも検地があって税が課せられていたのである。それに反抗して一揆があり農民がかなり死んでいるのである。その焼畑に税をかけられることは非常に厳しいものとなるからそうなった。だから検地というのは歴史的に大きな出来事だったのである。その検地によって日本は戦国時代終はりにして日本を統一して一つの国家として形成されたともなる。そこには農民の犠牲の上に成り立っていたのである。

秀吉の時代はこうして奥州仕置きで検地が行はれた。それでなぜ伊達藩の領地であった新地に文禄の碑があるのか。文禄時代に秀吉によって厳しい検地が行はれたからである。その記念として文禄の日が遺されたのである。他にも全国隅々に検地が厳しく行はれて税がは徴集されたのである
ただその厳しい見地から逃れて税金を納めないようにと隠田が行くられた。日本は山が多いからそういう場所が隠れた田を作りやすかったのである。こんな所に田があるのかとあり隠田が多いのである。するとそこで検地から逃れた隠田にもなる。でもそれが見つけられると厳しい罰が課せられたと言うことがあった。
信長は武力によって天下布武を成し遂げた。秀吉は検地とかでて財政基盤を築き日本統一を成し遂げた。それは必ずしも武力だけではなく財政面での日本国家の統一を成し遂げた。そして朝鮮出兵するということは日本国家の統一をなしてそれだけの財政基盤ができたからそういうこともできた。

秀吉の時代に相馬藩と石田三成が関係して実際に相馬藩内にきていた。そこは自分の住んでいる近くだった田中城があった所である。

相馬 利胤 は、江戸時代前期の大名。相馬義胤(第16代)の長男。陸奥相馬中村藩初代藩主。初名は三胤、のち蜜胤、利胤

相馬藩主初代となる利胤は、天正9年(1581年)に相馬氏十五代相馬義胤の長男として陸奥国行方郡小高城で生まれた。
烏帽子親であった石田三成の一字を賜って初名を三胤といったが、これは義胤が豊臣秀吉の小田原陣に参陣した際に、石田三成の取り成しで本領を安堵され、それ以来三成と昵懇であったためであった。

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野馬追いに出ていた石田三成の旗印


ともかく今から考えるとなぜあ山の国の会津は東北で最初に大きな国になったのかということである。それは群馬や栃木の毛野が大きな勢力を持ったこととも通じている。
南相馬市の鹿島区に浮田国造が置かれたのもそうである。それは毛野氏系統だったのである。だから会津でも毛野氏でも山を生活基盤としてそこが大きな力を持ったのである。それは日本は平地があったとしてもそこは湿地帯であり沼地であれ湖でもあり住むことができなかったからである。

福島市でも盆地があり平地が広いなそこは湖であったとされる。だから広い平地があってもそれを今のように田にして利用はできなかった。だから日本の地形からして田んぼでも山の斜面に棚田は作られた。それが県(あがた)となったのである。そして日本で野とは山の斜面のことであり平地のことではない。それが日本の地形の特徴なのである。飛鳥も広い平地ではない段々畑のような地形でもある。ただ藤原宮となると平地になってくる。そして平城宮となると国のまほろばになり広大な平地となる。

いずれにしろ会津は山また山が重なっているのでその地理が分かりにくい。山にしても2000m級の山もありこの辺の地形とはあまりにも違っているので。その奥に尾瀬のように湿地帯があり花々が咲いていたりする。また古い沼にはり神秘的な花が咲いている。そういう風景はこの辺では見られないのである。だから山が多くて地理がわかりにくいのである。会津の地理をしることはそれだけ難しいのである。

会津なる山々重なり奥深し秀麗なる一つ秋のくれかな

福島県というときその半分が氏郷の時代に会津量になっていた。ただ伊達政宗の領地が今の中通りに拡大した。それで伊達市となっている。そしてなぜ福島県になったのかそれも明確でないというのも不思議である。福島県になる前は会津県二本県磐城県が予定されていた。福島市は関係なかったのであるが福島に県庁が置かれた。その理由はやはり広い平野があり盆地になっていたからである。それもやはり地形的な理由だったともなる。なぜなら二本松の城は十万石であり山城でありそこに上ればその天守閣は高く一望すると安達太良吾妻山蔵王でも高い山々がつまりつらなりそこは一つの大きな国と地理的には意識する。だからこそ二本松県に予定されていたということが地理的に直感するのである。

二本松城の景

古風山城偲
天守一望景
桜椿錦染也
陸奥連峰観
安達太良迫
松寄信深情
太古重鎮成

磐城県は浜通りになるともともと古代から相馬まで磐城国だったのである。だからこそ南相馬市内に磐城太田という駅がある。それは古代からの延長としてその名が残ったのである。また浪江の高瀬川を上った葛尾村(かつらお)に磐城落合とかあり磐城とつく地名があるのは古代からので延長なのである。
浜道りは地形的には阿武隈山脈高原に遮られていて別な国となっている。ただ相馬藩と磐城藩に分かれている。新地が伊達藩でありそれも福島県になった。だからすべて地形によって国の作られるということはない。伊達政宗が支配したということで今でも伊達市がありそれは地形と必ずしも関係していないのである。

いずれにしろ福島県はもともと会津が国の始まりであり会津は一つの別個の大きな国だったのである。廃藩置県によってそうした地理的なもの地形的なもの歴史的に作られたものは一つにしたからそこに無理がありアイデンティティーが作れないということがある。やはり国の基本はその地形にあり形作られるからである。その地形を無視することはいくら科学技術が発達してもできない阿武隈山脈を取り除くことはできないからである。だから浜通りになるとどうしても太平洋側とつながり仙台の方位も交通が便利だからつながり福島市の方は交通の便も悪く電車もないから一つの国として意識しにくいのであ
ただ東北中央道が出来て車があれば福島市まで行きやすくなったから便利になったから今は違っているともなる。とにかく福島県は広すぎる。やはり国として意識するのはアイデンティ化するのは江戸時代の藩がそうしやすい。相馬6万石とかなると一体化しやす。でも伊達藩のように60万石となるとその範囲が広くなりい一体化しにくくなるのである。だからこそ日本では小国という地名が多いのは小さなせまい地域で人間でも一体化して住んでいたからそういう地名が生まれたのである。



posted by 天華 at 16:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)