2023年08月22日

処理水が安全なのか信用できない (これまでも政府は嘘つき安全神話作って来たから)


処理水が安全なのか信用できない

(これまでも政府は嘘つき安全神話作って来たから)

処理水問題でなぜ安全だから海に流しても汚染は微量であり影響はないとしている。それを国際機関が認めた。お墨付きを与えた。でもそれが本当に信用できるかどうかはまたわからない。そしてトリチウムでも流してそれがどういう風な影響をするのか実際のところは不明である。

放射能放射性物質の問題の難しさはそれが目に見えないものであり匂いも色もない。それでそれはどのように影響しているしてくるのかも具体的に見えないのである。何かそのためにすぐに死ぬわけではないからである。
ただ内部被曝したとき放射線が長い間十年後細胞で放射線を発し続けたらそれがガンにもなるという。でも十年先となるとそもそもガスになったとしても果たしてそれが放射線被ばくの影響なのかどうかもよく分からなくなる。
だから放射線被害というのは隠蔽されやすいのである。そのために人がすぐに死んだり何か症状はすぐに出たりしないからである。だからそもそも原発というのはこうして隠蔽されやすいものだったのである。だからこそ安全神話が権力によって作られてきたのである。

それは放射線というのはどういうものかわからないし余計にそれで隠蔽されやすいものになったいたのである。
だから御用学者でも使い説明すれば誰もそれに反対もできないということもあった。この隠蔽というものが大きな問題だったのでそれは常に加治将一氏が指摘していることである。

例えばモニタリングポストをいたるところに設置したのその放射線量は少なくなっていた。なぜならその下の土を掘って少なくしたからである。私はその周りを測ってみたら倍の放射線量があった。そのことを飯館村の人も指摘した。0.7マイクロシーベルトでモニタリングポストに出ていてもその周りはその倍以上あったのである。別に科学に疎くてもそれはただ放射線量を測る機械でそれが出てくるのだから確かなのである。それを担ったのは大成建設とかでもあった。政府からの指示で大成建設をそうしたのかもしれない。大成建設自体が自らの判断でするとも思えないからだ。

このように科学的に正確なことでも歪められ。それは政府の指示で行われているのでありだからこそ大成建設でもその指示に従うほかないとなっていたのかもしれない。このように政府というのも必ずしも信頼できるものでもないのであ政府自体が何か重要なことを隠蔽しているのである。隠蔽する力がまた政府にはあるということである。だから科学的なことでもそれが正確に示されるわけでもない。そこに政府の権力の指示があり判断があり科学的のなものも歪められる。
特に原発とかは放射性物質とかはその汚染とかは分かりにくいから余計に隠蔽されるのにはいいものだったのである。その隠蔽されることから原発事故にもなったのである。

だから政府の言ってることは信用できなくなっているのである。政府にとってはどうしても放射線の被害を少なく見積もる。なぜならもし高いとしてもそれを世界に向けて発表すれば汚染水を流せなくなる。特に中国が批判しているしすでに日本の海産物の輸入を止めているからである。
ただこれも中国が日本に対して政治的圧力をかけて必ずしも科学的なものを正確に判断している訳でもないらしい。そもそも誰が正確にそれを判断して決められるのか?国際原子力機関(IAEA)の国際機関でもそれも政治的場であり必ずしも中立的な科学的科学による判断ともならないのである。

ともかく人間個人でもそうだが一旦信用を失うとそのそれを回復させることは困難になる。一回でも嘘をつくとまた嘘ついているなと見てしまう。そういうことが原発にはありすぎたのである。それは放射性物質の汚染とかが分かりにくいからである。その被害でも明確に示されないからである。だからこそごまかしやすいのである。モニタリングポストの放射線量倍以上にあるのに減らしたということはそのことそのそのこと自体が不正でありもんモラル的問題があった。それは科学以前の問題だったのである。
でも放射線量というのはこの辺で経験しているわ0.5マイクロシーベルトからその倍以上になると何か大きなものと感じていたのである。だからこそそこに住んでいる人にとっては放射性汚染というときその数字からしか判断しようがないからこだわることにもなる。その放射線量は計測器で計れた。だから化学に疎くてもその数字を見れば一目瞭然だったともなる。だからこそその数字をごまかしたのである。

だから今回のを処理水の放出にしてもごまかして海に流しているのかもしれない。処理水にしたのだから安全だということは言う。でもそれを信用できるのかとなるとこれまでの経過を見ると政府自体がモニタリングポストでもごまかして放射線量が高くても下の土を掘って低くしていたのである。
だからまた今回も信じられなくなるのである。原発事故はこうしてさまざまな隠蔽がありでもその隠蔽いんぺいされてもわかりにくいものだから効果的だったのである。だからこそ安全神話が作りやすかったのである。この世の中科学技術の世界になってもすべてが科学技術中心に動くわけではない。そこには政治的作用があり科学とは関係ないものとして働く。それが人間の社会だということである。そのために今回の処理水の海に放出する事に対してもどうしても今までの経過を見ると信じられないとなるのである。

posted by 天華 at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

外は危険熱中症になる―街中を流れる川 (涼しい。ひぐらし。夏の雲)


外は危険熱中症になる―街中を流れる川

(涼しい。ひぐらし。夏の雲)


若竹の健やかに伸び風涼し

ひぐらしやここに五年や牛越城

新田川川の音ひびき夕涼み

夏の雲海山遠くに湧き上がる

何か熱中症になった。ただ夕方になると涼しいと思って自転車で海の方へ行った。そのときは曇って陽射しが遮られていた。でもその後晴れて陽射しを受けてそれが良くなかった。陽射しが強い強いのでそれが熱中症にもなる。だから今外を歩いたり自転車とかでは陽射しを受けるので危険なのである。
とにかく異常な暑さである。私の場合膝を悪くしたのはまずかった。それで自転車に乗って2回くらい自転車が倒れてしまった。原因はバッテリーが切れたことで坂を登れず止まったら倒れた。もう一つは膝が悪いので自転車が大きいので乗りにくくなった
でも倒れてしまったら車で止まっていた人が女の人が3人わたしのところに来て心配して自転車を持ってくれて立たせてもくれた。何かそれは珍しいものとも見えたものとも思った。ただ最近カメラを忘れたときもわざわざ車で追いかけて持ってきてくれた人がいた。その人も女の人だった。こういうことは日頃の行いが関係しているかもしれない。

なぜなら私は駅とかでボランティアしたり人を助けたりしたからである。つまり何か人間の関係というのは回り回ってくる。助けた相手が何もしてくれなくてもほかの人は助けた助けてくれたりする。だからたとえ助けた人が何もしてくれなくてもほかの人がまた助けてくれるということがある。だから人を助けたりすることは必ずその報いがある。ただそういうちょっとしたことで助ける親切にすることは別にそれで何か報酬を求めるわけでもないしその人はここに住んでるわけでもない
その人はこの土地のものではなかった。だから助けるというとき必ずしも土地の人が助けるという訳ではないのであるある。土地の人は返って冷たいということもある。
原町の牛越城は五年しか存在しなかった。でも一応そこに相馬氏の城があったとなる。新井田川の特徴は流れが浅いので瀬音は響くのである。川にもそれぞれ特徴がある。

仙台市の広瀬川は青葉上恋歌で有名なように瀬音ゆかしきとあれやはり瀬音がすると川である。大きな街中に川が流れていることでそこに潤いを与えるそれは盛岡でも同じである。真野川は意外と長い川であり深くもあり瀬音がひびかないともなる。。だから川にもそれぞれ特徴がある盛岡だったら北上川と中津川がありその川は違ったものになる。中津川はやはり浅瀬の川であり瀬音がするということがある。この街中にこうして二つも川が流れているということで盛岡市は魅力がある。

中津川や
月に河鹿の啼く夜なり
涼風追ひぬ夢見る人と

河鹿とか鳴いていたのか、明治時代の今の川違っている。今年も真野川で鮎が見かけない。鮎が跳ねるの見かけないからだ。ただこれは放射性物質に汚染されてその影響がまだあるからかもしれない。ただカジカというのは子供の時捕まえて遊んでいたそれとは違う。河鹿鳴くとは蛙のことだった。
何かこれだけ暑いと涼しさを求める。津波で松原が流されたのでそこに休めないのが痛かった。
これだけ暑いということは地震と関係しているかもしれない。というのはこの辺で起きた地震と津波は津波の前の年の夏も非常に暑かったのである。だから夏の雲が盛んに湧いていたのである。だから海水でも温められそこで地下に影響して地震が起きるということがあるかもしれない。とにかくこの暑さは異常である。ただ晩方になると雲が出て陽射しを遮ると意外と涼しい風が吹いてくるそれは秋めいたと感じるのである。そして朝の一時とその晩方が涼しい。でも8時頃になるとすでに熱くなっているのである