2023年08月22日

処理水が安全なのか信用できない (これまでも政府は嘘つき安全神話作って来たから)


処理水が安全なのか信用できない

(これまでも政府は嘘つき安全神話作って来たから)

処理水問題でなぜ安全だから海に流しても汚染は微量であり影響はないとしている。それを国際機関が認めた。お墨付きを与えた。でもそれが本当に信用できるかどうかはまたわからない。そしてトリチウムでも流してそれがどういう風な影響をするのか実際のところは不明である。

放射能放射性物質の問題の難しさはそれが目に見えないものであり匂いも色もない。それでそれはどのように影響しているしてくるのかも具体的に見えないのである。何かそのためにすぐに死ぬわけではないからである。
ただ内部被曝したとき放射線が長い間十年後細胞で放射線を発し続けたらそれがガンにもなるという。でも十年先となるとそもそもガスになったとしても果たしてそれが放射線被ばくの影響なのかどうかもよく分からなくなる。
だから放射線被害というのは隠蔽されやすいのである。そのために人がすぐに死んだり何か症状はすぐに出たりしないからである。だからそもそも原発というのはこうして隠蔽されやすいものだったのである。だからこそ安全神話が権力によって作られてきたのである。

それは放射線というのはどういうものかわからないし余計にそれで隠蔽されやすいものになったいたのである。
だから御用学者でも使い説明すれば誰もそれに反対もできないということもあった。この隠蔽というものが大きな問題だったのでそれは常に加治将一氏が指摘していることである。

例えばモニタリングポストをいたるところに設置したのその放射線量は少なくなっていた。なぜならその下の土を掘って少なくしたからである。私はその周りを測ってみたら倍の放射線量があった。そのことを飯館村の人も指摘した。0.7マイクロシーベルトでモニタリングポストに出ていてもその周りはその倍以上あったのである。別に科学に疎くてもそれはただ放射線量を測る機械でそれが出てくるのだから確かなのである。それを担ったのは大成建設とかでもあった。政府からの指示で大成建設をそうしたのかもしれない。大成建設自体が自らの判断でするとも思えないからだ。

このように科学的に正確なことでも歪められ。それは政府の指示で行われているのでありだからこそ大成建設でもその指示に従うほかないとなっていたのかもしれない。このように政府というのも必ずしも信頼できるものでもないのであ政府自体が何か重要なことを隠蔽しているのである。隠蔽する力がまた政府にはあるということである。だから科学的なことでもそれが正確に示されるわけでもない。そこに政府の権力の指示があり判断があり科学的のなものも歪められる。
特に原発とかは放射性物質とかはその汚染とかは分かりにくいから余計に隠蔽されるのにはいいものだったのである。その隠蔽されることから原発事故にもなったのである。

だから政府の言ってることは信用できなくなっているのである。政府にとってはどうしても放射線の被害を少なく見積もる。なぜならもし高いとしてもそれを世界に向けて発表すれば汚染水を流せなくなる。特に中国が批判しているしすでに日本の海産物の輸入を止めているからである。
ただこれも中国が日本に対して政治的圧力をかけて必ずしも科学的なものを正確に判断している訳でもないらしい。そもそも誰が正確にそれを判断して決められるのか?国際原子力機関(IAEA)の国際機関でもそれも政治的場であり必ずしも中立的な科学的科学による判断ともならないのである。

ともかく人間個人でもそうだが一旦信用を失うとそのそれを回復させることは困難になる。一回でも嘘をつくとまた嘘ついているなと見てしまう。そういうことが原発にはありすぎたのである。それは放射性物質の汚染とかが分かりにくいからである。その被害でも明確に示されないからである。だからこそごまかしやすいのである。モニタリングポストの放射線量倍以上にあるのに減らしたということはそのことそのそのこと自体が不正でありもんモラル的問題があった。それは科学以前の問題だったのである。
でも放射線量というのはこの辺で経験しているわ0.5マイクロシーベルトからその倍以上になると何か大きなものと感じていたのである。だからこそそこに住んでいる人にとっては放射性汚染というときその数字からしか判断しようがないからこだわることにもなる。その放射線量は計測器で計れた。だから化学に疎くてもその数字を見れば一目瞭然だったともなる。だからこそその数字をごまかしたのである。

だから今回のを処理水の放出にしてもごまかして海に流しているのかもしれない。処理水にしたのだから安全だということは言う。でもそれを信用できるのかとなるとこれまでの経過を見ると政府自体がモニタリングポストでもごまかして放射線量が高くても下の土を掘って低くしていたのである。
だからまた今回も信じられなくなるのである。原発事故はこうしてさまざまな隠蔽がありでもその隠蔽いんぺいされてもわかりにくいものだから効果的だったのである。だからこそ安全神話が作りやすかったのである。この世の中科学技術の世界になってもすべてが科学技術中心に動くわけではない。そこには政治的作用があり科学とは関係ないものとして働く。それが人間の社会だということである。そのために今回の処理水の海に放出する事に対してもどうしても今までの経過を見ると信じられないとなるのである。

posted by 天華 at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2023年08月24日

酷暑で疲れるー生け花の心ー若竹に白百合 (日照り、二宮尊徳堀り)


酷暑で疲れるー生け花の心ー若竹に白百合

(日照り、二宮尊徳堀り)


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若竹の伸びてひびきぬ蝉の声

若竹に白百合挿して朝清し心清らかに勤むべしかな

真直なる竹にしあれや白百合の挿して映えにき朝の清しも

朝に汲む井戸の水かも白百合の我に向かいて咲きにけるかも

日照りにも尊徳堀に勢いよく水は流れて田を潤しぬ


このこの暑さは以上である。朝の5時から7時くらいまで涼しい。後夕方が涼しい。でもそれでもちょっと動くと汗が出てぐったりと疲れる。日中は外に出歩くことは危険になる
それでも何とか竹を切ってきて白百合はそこらじゅうに咲いていたので切ってツボに刺した。生け花というと別にそれが専門家に習うことでもないな身に着くというわけでもない。
つまりもともと生け花とは野の花を手折って挿したことから始まっている。だから別に高価な花を買わなくても本来は野に咲いている花を挿して楽しむということが始まりだったからである。 野の花のことを知らないと実は生け花のこともわからないとなる。その野の花を知るためには都会では無理なのである。

田舎でないと野の花は咲いていないから野の花の心を知ることはできない。花の心を知る花を知るということはやはり常に身近に接していないとわからないのである。
竹はどこででも入っている。だから別に誰でも切ってもいいのである。今回は若竹に注目した。竹は真っ直ぐに伸びる。竹にふさわしい言葉が万葉集に出てくる真直なるである。竹が真直にに伸びてゆく。その伸び方も早い。セミの声ががその竹に盛ん響く。みるみる竹まっすぐに伸びてゆく。

ともかく朝からでも暑い。今8時頃になっているからすでに熱いのである。それで何もする気がなくぼーとしていることになる。まず今年はクーラーなしでは病気になるような暑さである。テレビで見た73歳の老人が三畳の間に寝起きしているとそれもクーラーもないのである。わずか窓を開けて風を入れてるだけでまさに灼熱地獄の中に住んでいると同じである
今年は暑い。確かに夕方と早朝は涼しい。でもちょっとでも動くと汗びっしょりとなるのではそしてぐったりとしてしまうのである。秋なのに秋はまだまだである。

日照りにもなっていて飯館村の溜池は仕上がっていたただ南相馬市辺でわまだため池とかダムが干上がるまでにはなっていないでも相当に水不足である。横手の坂を上る土樋とは樋があり鉄道の上を水が流れている。尊徳の教えで作ったとされている。尊徳神社もあるから二宮尊徳がこのうちに来て教えて教えたわけではない。教えを受けた弟子が習って作ったのである。でもなぜこの辺で二宮尊徳のことが賞賛されているのか。それはやはり何かそれだけのものがあったということである

この堀の水はカラカミ堤の方から流れてくる。ぱそこは大きな包だからなかなか干上がることはないだろう。それにしても新潟県あたりでは干ばつになって米も取れないとテレビで放送していた。新潟県の暑さも異常である。ともかくこの暑さには参った。動くと汗びっしょりとなって疲れる。膝と足を悪くしたのもまずかった。それで自由に動けなくなったから余計に疲れたのである。

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処理水放出は安全なのかー東京の為に犠牲になる地方 東京が災いを生むー膨大な電気を消費する東京



処理水放出は安全なのかー東京の為に犠牲になる地方

東京が災いを生むー膨大な電気を消費する東京

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●六ヶ所村は年収1300万円

あなたは年収が1300万円もらえるなら、原発の町に住みますか?
六ヶ所村の1人あたり平均所得1363万円
青森県は、「市町村民経済計算」結果を発表し、1人当たりの市町村民所得が
県内で最も高いのは、六ヶ所村で1363万円6000円だった。5年連続1位。

でも、事故が起きれば半径何十キロもの地域に影響がでるのに、原発の恩恵を受けられるのはほぼその周辺の方だけでしょ?
おかしな話だよねぇ〜。
そりゃ〜原発推進派住民を妬む気持ちがわかるよ。。

処理水というとき放射性物質が薄められて安全だという感覚になる。でもそこにまた言葉による印象操作がある。いくら処理しても本質的には放射性物質は消えないし薄めるないと言う
つまり放射性物質のやっかいなのは核のゴミのの厄介なのは簡単には消えないということである。プルトニウムなら2万年も消えないと言われそれだけ簡単に消せないのは核のごみであり放射性物質なので核の恐ろしさがある。
そして膨大な核のごみの処理するために中間貯蔵施設が各地に作られる。青森の六ヶ所村ではすでに作られてすでに処理がなされているのがなされているがそれもうまくいっていないという
だからこの核のゴミをいかに処理するかということは原発ではまた大問題なのである。そのために中間貯蔵施設とか北海道でも山口県でも上関とか辺鄙な村にその施設をつくる。そこで驚いたのは六ヶ所村だと年収が1300万にもなっている。これはすごいと思った。原発というのはこうして辺鄙な村に立てたり中間貯蔵貯蔵施設でも作る。

なぜかというとそうした村は貧乏でありどうしても金が欲しい。その金によっていろいろあっても政府の言うとうりになり受け入れるのである。それは福島原発がそうして作られたからである。双葉富岡とかは浜通りでもチベットとか言われていた。いわき市とか原町市とは人口も多いし会社もあったし働き口があった。
でも双葉とか大熊とかは離れていて大きな会社もなかった。そのために出稼ぎで生計を立てる人は多く地元で働きたいということで原発を受け入れたのである。原発を建てようとする政府はそれを狙って金をばらまいて買収するのである。

現代では政府であれ大企業であれ小さな自治体など簡単に買収できるのである。そこの住民でも自治体も金で買われてしまうのである。つまり自治体はそうした政府であれ大企業に対抗できないのである。そして六ヶ所村のように年収1300万にもなっているのでそういう村はもう村という自治体が中間処理貯蔵施設の雇われていると同じである。
そうなればもはや何も危険でも文句も言えないのであ。なぜならそうしなければ生活すらできなくなるからである。その弱みを知っているからそういう辺鄙な貧しいところに原発を建てたり中間貯蔵施設を作るのである。
実際にこの辺で最低の生活をしている人は原発裁判で勝利してその補償金が16万でも入ってくることが大きいのである。その時住んでいて死んだ人が親族であればその分も入ってくる。それを担保にして金を貸してくれと言われたからであるこうして苦しい生活をしている人はどうしても原発の安全性より金になってしまうのである。

●村の共同性は消失していた、漁業者も大工も百姓だった

もう一つは現在の村と言ってもそれは一つの共同体というものでもない。例えば百姓というとき漁業する人も百姓だったという。つまり漁業者と農民は別なものではなかったのである。でも漁業者は原発を建てるに際して特別補償金を事故前事故前ももらって原発御殿が建てられていた。それはなぜなのかというと生活が分離してきたからだと思う。村に入会権の山があり共同で利用する生活があった。
でも明治以降は山でも無数に所有権が個人に分割されてしまったのである。そのように漁業者もまたもともとは百姓だったのだが漁業専門者となってその利権を独り占めしようともしたのである。つまり自治体が一つとなって原発に反対するなどできなかった。そういう村の基盤がなくなっていたからである。
明治以降の社会はこうしてやはり一体感がなくなり専門家となりここに分断されてきた社会である。だから自治体というものすら実際はそこで自治などもなかったのである

現代社会の問題はこうして一つの共同体として機能しない。だから本来は百姓というとき農民だけのことではなかった。そこにいろいろな職業の人もいてその人たちが百姓であり村を作っていたのである。それがバラバラにされたとき漁業者は漁業者だけの利益を追求する。原発でも補償金をもらえばいいとしかなくなる。その村内での議論もないし村全体で何か働きかけるということもなくなったのである。

でも巧妙なのは原発を建てる政府でも東電でも人口が多くなればその保証する範囲も大きくなる。
だから一部の者に補償して全部にはしないのである。一番いいのは人口の少ない辺鄙な村に原発を建てまた中間貯蔵施設を作ることなのである。。でもそうした核のごみの問題でも一地域の問題としてあるのではなくもしそこに何かあれば世界にも拡散されるそして世界から批判され責められることにもなる。だから一地域で金になればいいということで受け入れることに問題があるのであるなぜならもし事故があれば世界的な問題となり中国でも韓国でも海産物を輸入しないとなったからである。

現在の問題はこうして社会自体が部分化したり専門家したり分かれて統一がとれなくなる。ところが自治体というときそれはどういうものなのか。自治体とはやはりミクロコスモスであれ自然と密接に結びついて作られている。自治体とは本当は生態系と結びついていてそれなくしては存在し得ないものである。だからこそ放射性物質で空気であれ水であれ気すら土手あれ木であれそこにその自治体を形成する基本的なものが放射性物質に汚染された時住民が進めなくなったのである。これほど深刻なことはなかった。確かに飢饉で相馬藩でも住めなくなり1/3二人口が減った
でも越中からのの移民で埋め合わせて回復したのである。。それも深刻だがそれでもそれができたのは別に土地が汚染されていなかったからである。越中などの移民で埋め合わせて回復したのである。土地がありその土地を開墾して住むことが出来たのである。それができたのは生態系に基づいた基盤があったからである。土地自体が汚染されたら回復できないからである。

●東京など大都市の影響が大きく災いが地方に及ぶ

ただ現代というのは大都会を見ればわかるわ生態系から分離して生態系とは関係なく暮らしているようにも見える。でもその水がどこから来ているのか。それで東京の水が実際は群馬県などの山のダムから来ている。一時そのダムでも放射性物質に汚染されたとして危険ともされたのである。
だからそもそも人間社会というのは生態系から離れて生活できないのである。空気でも水でも土でも汚染されたら住めなくなるのである。だからこそ原発であれその核廃棄物であれ危険なので東京であれ都会に住んでいる人はそれほど自覚しない。でも生態系から離れて人間は生きていけないので。それは都会でも同じなのである。なぜなら空気であれ水で土であれ木であれ汚染されたら食料自体が都会に入って行かない。汚染放射性物質に汚染されたら食べることもできなくなるのであるか。

ただそういったは言っても東京を見ればわかる。1000万のとか都会で夜まで煌々と明るくして電気を使っている。その電気の量は膨大なのである。
そのためにどうしても原発が必要になってくる。別にすべての科学技術が悪いというものではない。ソーラーパネルでも何か小型だと電池も必要ないから防犯用として使ったらいいものだと思った。

だから原子炉でも小型原子炉にして使えば事故があっても対して被害にならないからいいとなる。ただそれにしても東京見ればわかる膨大な電気が必要なのである。ということは東京自体が1000万もの人間が住んでいるということが問題なのでその消費する電力が膨大なものだからであるとなると大都会自体が人間社会にとって危険なものだとまでなるなる。

東京の影響はその周辺でも福島県でも大きいものだったのでそれだけの人口を抱えていれば流通もあり影響は大きい。そもそも東京が人口が増えると常磐炭田があり石炭を燃料として東京に鉄道で運んだ。それが常磐線の始まりだった。南相馬市の原町機関区やはり木材や石材や物資をを東京に送るために作られた。それだけ東京の影響は前から大きいものだったのである。

意外と東京は離れているからそんなに交流がないように見えても大正時代からでも結構交流があった。大正以後になるとさらにあった。私の母は東京に女中に出た。そこで東京の人と結婚したからである。また姉は看護婦の資格をとるために東京に出ていたのである。このように東京というのはやはり中心的役割を果たしていたからそうなっていたのである。
だから東京に出る人は戦前でも結構多かったのである。そうしてあまりにも肥大化したのは東京でありその東京がやはり災いを作り出したのである。原発はその一つでもあった。その電気を消費するような莫大だからである。

でも東京でも別に東京湾あたりに原発を作ればいいのだが危険だから離れた場所に作ったのである。東京湾だと実際は津波でも弱められるから意外と安全だったかもしれない。
でも東京には絶対に作れなかった。それは東京が日本の中心であり政治の中心でもあるから経済でもそうでありその安全を図るために離れた場所に作ったのである。そして東京都の1000万以上の大都会はその電気の消費する量は莫大なのである。そこに何か元凶があったのかもしれない。

もし電気は来ないとしたら今年のような酷暑ではもうクーラーがなかったら耐えられないとなってたからである相当に死者数も出たかもしれないからである。それだけ電気が膨大に必要なのである。そのこと自体が既に大問題なのである。つまり東京は実は災いを作り出すものとなっているのである。そんな巨大な都市があること自体が問題なのである。
つまり現代とは電気社会なのである。電気が止まってしまうと社会活動まで止まってしまうのである。

中間貯蔵施設にしてもそれは安全なものにはなっていなかった。その処理には失敗していたのである。処理水でも実際は放射性物質は消すことはできない処理したから安全だということでもなかった。何か原発に関してはごまかしがある。素人でわそれを実際に知りえないからである。だからこそ隠蔽が続けられていたのである。もし早い時期にその隠蔽されたことを暴いていれば原発事故もおこらなかったかもしれない。たとえ地震が来て津波が来ても守られたかもしれない。でも学者たちが13mの津波が来ると警告したときも全く無視ししていたのである。それは金がかかるからしたくないからそうしたのである。

そして一番力を注いだのは安全神話を作り政治であり官僚であれ検事であれ海上保安庁であれ自衛隊であれ警察関係であれそういう権力の総体で安全神話が強固に作られたのである。マスコミも莫大な宣伝費をもらっているから何も言うこともなかったのである。
それを崩したのは津波であれ地震であったのである。何か中国でも北京を守るためにダムの水は放流されたやめにほかの都市が洪水の被害にあった。それもまた原発事故と似ていた。原発は別に東京湾に作ってもいいものだったが東京わには絶対作れないのである。そこには政府の要人やら経済の中心地だから北京と同じく守らればならないとなっているからである。それでほかの都市は犠牲になっても仕方がないということになる。

何か原発でも巨大であり都市でもでも1000万以上とかなり巨大になりすぎて問題を生んでいる。それだけの人口養うということがそれ自体が問題なのでそのために莫大な電気が必要となってくる。そのためには原発も必要だとなる。だから大都市というのはとても自然と調和するものでないしそこから大破綻が産まれてくる。それで東京に大地震が来て破滅的大災害が来ると警告するか科学者がいる。それは単なる脅しではないのである。だから東京脱出を真剣に考える必要がある。危険な場所に住んであること自体リスクだった。それは津波でも証明されたからである。
東京のような人口密集地帯で地震と大災害が起きたらもう大破局となりもう救済も不可能になってしまう。唯一助かるとしたら危険な場所から脱出することだとなる。
posted by 天華 at 21:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2023年08月25日

竹とと白百合の庭ーbamboo garden and white liliy


竹とと白百合の庭


bamboo garden  and white liliy 

HAIKU about white lily and bamboo

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HAIKU about white lily and bamboo

白百合に身を清めむや手水鉢

one white lily, clean yourself and your hands, or a water bowl

白百合を汚したくなし住まいかな

I don't want to tarnish the white lily, or the residence.

竹の庭隠者の家の涼しかな

Bamboo garden hermit's house cooler



竹林の隠士

竹林清廉士
清流白百合
正調笛音響
涼風渡安居

2023年08月26日

処理水は安全なのかー 科学的公正さが追求されない (政治的経済的利権思惑が真実を歪める)


処理水は安全なのかー 科学的公正さが追求されない

(政治的経済的利権思惑が真実を歪める)


福島第一原発の処理水に関して難癖をつけているバカが多すぎるので解説します ホリエモン
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科学的公正さが追求されない

なぜ中国が日本の海産物の輸入を禁止したのか。それは放射性物質に汚染されているからという。でもこれも政治的思惑があり必ずしも科学的公正さを追求したものではない。ましてや韓国だとさらに政治的思惑があり日本を糾弾しようとする。だから科学的公正さより政治的思惑に働きそれによって左右される
つまり右と左に分かれて極端に右は安全だといい左は危険だとして追求する。その幅が大きいのである。それでさらに真実が見えなくなるのである。科学の時代になれば科学的に証明されればそれに反対することはできない。でもそこに政治的経済的な物が思惑が利権が働き科学的公正な真実は見えなくなる。

ここで穢れのことを言っているのもそうである。ケガレの思想というのは日本にあり一旦穢れたものは拒否される。それは別に科学的なものではない。いくら科学の時代でもその科学がどういうものか理解しにくい。だからそこに政治的経済的な思惑やさまざまなものの見方が生まれてくる。科学的なものだけを追求すればそれは理系なのかもしれない。一方で政治的経済的社会的思惑から見るのは文系なのであ。

何か原発事故でもコロナウイルスでもこの二つの問題が共通してあった。ウイルス学者がいてそれは極端なことを言って社会を混乱させた。一方で政治的社会的経済的からの発言があり社会を維持すること大事だということでコロナウイルスについて騒ぎすぎると言うことを学者が言っていた。ここにもやはり理系と文系の対立があるのかもしれない。

●政府でお東電でも安全神話を作りそれで信用できなくなった

もしただ科学的公正さを追求するならば問題は無い。でもそれは専門的知識がない人はなかなか判断しにくい。そしてなぜ原発に関しては政府のいうことでも東電の言うことでも信じられなくなったのかそれは科学的には正しいとしてもこれまでの政府や東電が嘘をついてきたことがあり信じられなくなったのである

権力で安全神話を強固に作りそれがあたかも完璧に安全だとして国民を騙した。そのことからして政府と東電が信用できなくなったのである。科学的公正でも信用できなくなってしまったのである。御用学者も嘘をついていたしさまざまな隠蔽もあった。
なぜそれほど隠蔽しなければならなかったのか。それは何かやましいことがあり隠すことがあり表に出さないようにしたのである。モニタリングポストでも大成建設だったかその下を下の土を削り放射線量低く見せたのでその周りを実際私が測ったら倍以上あったのである。
このようなことを政府と東電は原発に関しては常にしてきたのである。科学的に安全だというならすべての人に公開して御用学者だけではない審査させれば良かったのである
何かそうして隠蔽したりごまかすということは不都合なことを隠すということで原発に関しては信じられなくなったのでそこにこそ一番の問題があったのである。

いくら科学的に安全だと言っても処理水にしても確かに安全だとしても今までの経過があり信じられなくなったのである。そして危険でも政府と東電は無視してきたのでただ安全神話を言うだけだったのでは。ケガレの思想というけどもそもそも安全神話自体が科学的に追求されたものではなく虚構のものだったのである。本当だからこそ数値十数メートルの津波が来るという科学者集団は警告したのにそれも無視して防潮堤もも作らなかった。それは経済的思惑がありコストがかかるから作らなかったのである。

そしてただ安全安全だと安全神話の宗教のようなものになっていたのが原発だったのである。そしてこの原発というのは事故後で分かったようにその処理にしても20兆円もかかるとか信じられない国の金が使われたのである。そのためにこの金をめぐって利権化したのである。暴力団も参入して(おいしい)といっていたのはそのためである。利権とはおいしいものなのである。

●利権化した原発

だから再三私が指摘したように漁業組合があったとしてもそれが巨大な利権かしたものであり漁業者は事故の前にも特に船主は多額の保証金もらい原発御殿を建てたいたとか言われた。また大熊町長の金庫が津波に流されてその中に5億円が入っていたとかに噂にもなった。
その金の大きさが原発にはありその金に群がる人たちが存在した。天下りした官僚たちもそうだった。検事でも警察関係者でも海上自衛隊とかでも天下りしていたのである。その人たちはその金をもらっても責任も取らないし罰せられることもなかったのである

そのことはコロナウイルスでも同じだったのである。尾身会長とかは専門家として指導していたがその経営する病院はコロナウイルスで大儲けしたとされる。他でもコロナウイルスがウィルスは利権となりやはりここ原発と同じように飲食店でも旅行関係会社でも保証金がばらまかれてそれでやはり高級車を買ったとか言われる。それはこの辺と本当に同じだったので補償金の額が大きいので高級車を買った人が多かったのである。そこそこで不正に保証金をもらった人がいて裁判にもなった。
原発もその利権が莫大なものだったのでだからそれで得した人も相当にいる。もちろん被害もあったが損失もあったな例えば小高などは避難区域になり被害が大きかった。でも津波の被害に対しては原発の補償金は出ない。でも小高区に住んでいればその保証金は大きいものだったのでそれで助かったという人もいる。

変なのは今回の処理水放出にしても漁業者が騒ぐ時それは補償金をまたもらいたいためにそう言っているのかともみてしまう。危険だ危険だと言えば補償しろ補償しろとなりまた金が入ってくる。
ただその金は漁業関係者だけでありそこに住んでいる住民は関係ないのである。ただ30キロ圏外に住んでいる私の町でも一人16万もらいそれは少ないにしてもその金でもらえるからと金を貸してくれという人がいるのである。
こうして原発に関しては常に金が問題になる。その金が国家から出るから巨額なものとなっていたのである。でもそれをもらえない人は不満になる。それは国民の税金だからである。なぜあの人たちだけがあんなに金のもらえるだろうとなってしまったのである。南相馬市にしても小高はけた外れに多く鹿島区は補償が少なかった。それより相馬市とかなるとその額は余りにも少なかった。だからそこに不満が生まれたのである。

●政治とは利権であり利益の分配ー宗教団も利権団体

何か政治というのは基本的にこうして利権から成り立っている。その利権の公平な金の分配が望まれる。選挙だって結局はさまざまな利権団体が利権を得えようとして運動するわけである
それが政治なのかもしれない。宗教団体があったとしてもそれまた利権団体なのである。明治時代に廃仏毀釈が行われたのは江戸時代に寺は政府から優遇されたということで神道派はその寺に復讐したのだという。
なぜなら明治になった時天皇は復興して天皇中心の国家にもなったからである。その天皇の下に日本全国さまざまな神社ありそれが天皇と結びつくからである。

確かに寺というのは江戸時代は役所のようになっていたからである。政府の一機関のようにもなっていたのである。寺には今に置き換えると戸籍のようなものでも管理してたからである。
天皇は復興して神道派がはがこれまで不遇であったことに対して廃仏毀釈が行われた。仏像なども壊されたのである。宗教というのもこうして利権とは関係ないようで深く利権と結びついている。宗教団体が政治に関わり利権団体とかしたのはその代表は創価である。その会員の数が多いからその一大政治勢力となり利権を追求するのである。本来の宗教など何の関係もないのである。宗教を利用した利権団体なのである

それはほかのカルト宗教団体でも同じなのである。人間はそもそも金から離れてありえないように利権から離れてもありえないのである。それは外国でも宗教の争いがあるとき利権の争いもある。カトリックとプロテスタントが争い社会的にカトリックが優遇されているところで争ってもいたからである。イスラム教でも宗派がありどうしで争うそれはやはり様々な団体があって利権化してるからだともなる。

とにかくこの世の利権を得れば苦労せずとも金が入ってくる。官僚でも利権だとな公務員でもそうである私の親は公務員だったから公務員が得するということを知っているのである。
ただそれだけではないさまざまな利権がある郵貯なども利権があったし農協でもそうだし銀行も何か利権を持っている。これまではそういうところに勤めていれば田舎では安泰だったのである。ただ最近日本自体が貧困化してそうした特権階級は苦しくなりつつある。ただ政治はそうした様々な利権があり金を分配する。偏りがあると常に反対されるのである。つまり政治とは利権であり利権の奪い合いだともなる。戦国時代になればまさに土地をめぐってとか利権の争いでありそれは殺し合いになったのである

だから処理水が安全だという時科学的に本当に安全なのかもしれない。でもそうなると政府を責められないから安全でないと右寄りであれ左寄りであれそこに所属する者がいうのかもしれない。つまり学者でも科学的な公正を追求していても政治的経済的思惑でその真実を示さないのである。だから安全でないというときそれもまた政治的経済的思惑があるかもしれない。特に漁業者関係はそうであり既にそういうふうにして多額の保証金をもらっているからである。危険だという時保証金をもっともらうために言ってっているのかとかで見てしまう。
実際の漁業は零細であり補償金の額が大きいので別にだから保証金をもらえば魚など取らなくても充分に豊かに暮らしていけるのである。だから安全でないというと保証金がまたもらえるからいいとなってしまうのである。でも全国規模になれ補償金をはらうにしてもできない、福島県の漁業者にはらわれても全国となると払えないとなる。でも処理水は海は広いのだから広く流れてゆく、だから一地域の問題として処理すべきではなかったのである。

posted by 天華 at 15:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2023年08月27日

人間は生まれつきですべてきまらない (一つの行為でも変貌してライオンにもなる)


人間は生まれつきですべて決まらない

(一つの行為でも変貌してライオンにもなる)

「What do you do?」か「What are you?」か
欧米のビジネスの場では、初対面の相手に英語で素性を尋ねる際に、「What do you do?」という質問の仕方をよくします。一方、日本では多くの場合、「What are you?」という聞き方をします。

「What do you do?」は「あなたはどんな行動をして、どんなパフォーマンスをあげていますか?」という意味です。つまり、「人にどんな価値を提供できるのか」という可能性を聞いています。

●人間の特徴−動物との相違ー生まれつきで決まらない

人間の特徴とは何なのか。動物なら生まれた時からすでにその未来は決まっている。猫に生まれたらネコであり犬に生まれたら犬でありネズミに生まれたらネズミである。
そして別に生まれてすぐにも自ら立って本能でも生きてゆく。確かに親に教えられ餌を取る能力を身につけるがそれも短い期間である。本質的には本能によって教えられなくても自ら生きる力を持っている。

では人間はどうなるのか。確かに人間でも生まれつきの才能は大きく作用する。だから生まれつきの才能でその将来も決まるとかも言われる。それも現実ではあるが人間にはそれがすべては当てはまらない。人間の特徴はその生まれた家族とか環境の影響が大きいのである。
どんな家に生まれたのか。どんな場所に生まれたのか。どんな人々と交わって育ったのか。そういう環境因子が人間を作る。
そして人間は生まれつきとかですべてが決まるわけではない。確かにその生まれつきの性格とか才能は後々まで影響する。でも人間の特質はその生まれつきのものを超えて人間自体が変わることができる。

極端に言えば自然界ではネズミはネズミであるネズミがライオンになったりはしない。でも人間の場合はネズミのようなものであってもあることをきっかけに行動によってライオンにもなるのである。人間っていうのはだから生まれつきで決まって決められないのである。一つの行為で人間は変わる。
だから聖書の不思議は理屈ではないし理論でもない。神に選ばれた人間が奇跡を示す。それが聖書の基本的な物語である。その神に選ばれた人は人間として特に優れた人でもなかった。
だからなぜそのような人が神に選ばれたのかという不思議がある。優秀な人がいるのだからその人を選べばいいとなる。でも天才とかなると確かに人並み優れたものとしてありそれも稀であるがそういう人は神に選ばれなかったのである。

●一つの行為でも神に選ばれて人間は変わる

人間の特徴はこうして生まれつきでは決まらない。人生を生きる中で一つの行為でそれがその人を変わることがある。つまり人間にとって大事なのは必ずしも生まれつきではない。何か一つの行為がきっかけとなりそれで神に選ばれるということが聖書を読めばそういう何かを神に選ばれた人が何かを成すということを記したのである。

その神に選ばれた人はその人自身が何かを成したのではない。神の力はその選ばれた人に加わったのである。だからこそその選ばれた人が何を成すことが出来たのである。それはそこに神の力が加わったからである。そこに人間のと動物とかと違う。
とてもネズミがライオンになったりはしないからである。ネズミはネズミとして生まれ死んでゆく。しかし人間はライオンに龍にすらなる。だから人間は確かにお生まれつきとか環境とかの影響は大きい。でも人間は一つの行為でも変わることができる。そして壁に選ばれて神の力が加わり大きなことを成すこともできる。

動物の特徴はネズミから生まれればネズミであネズミの親から生まれればその子はネズミである。猫から生まれればその子も猫である。猫のの子から虎になったりはしないのである。でも人間の場合はもともとネズミでもあってもライオンや虎にもなる。
それは一つの行為によってそうなるのである。その行為というのは生まれてから生きる中で起きてくる。自らの意志で行為した時それはその人を変えてしまうのである。そこに神の力が加わりその人は前とは違った人となってしまうのである。
だから人間というものは神と結びつくことによって本当の力を得るのである。そして人間はどんなに能力があってもその人が優れていてもそこに限界がある。いくら優れていてもやはり全能の神からすればわずかな能力だとなってしまう。全能の神がなすことと人間のなすことの差が大きいからである。

●人間は神に選ばれない限り満足しない

そして人間は決してノーベル賞をもらったとしても満足することはない。どんなに優秀でも満足できないのである。でもたいして才能もない優秀でなくても神から認められるその人は満足するのである。それが聖霊であり永遠の命を神から与えられることである。
とにかく人間は自分が優秀だと相手と比べて常に競っている。学歴でも競っている。俺はお前より優秀なんだと常に競っている。そして他者と比べて必ず劣等感を持つのである。
だから人間の間で俺はお前より優れているとか比べているのは全能の神から見ればおかしなものになる。人間の持っているわずかな才能で俺はお前より優秀だとかするのは滑稽だとなってしまうのである。全能の神に比べれば人間などはとるにたりない能力しかないのである。

だからむしろそうして比べてどっちが優秀だとか言うのではなく赤い色があり黄色い色があり青い色がある。それぞれに個性がありどっちが優秀だということはないのである。ただ色が違っていて個性を持っている。でも赤も黄色も青も一緒になって決して争うことはないのである。返ってさまざまな色がありその個性が調和するのはこの世界である。それは花を見ればわかる。花は青いからといって赤い花より劣っているとか赤いから優れているとか競わないからである。さまざまな個性の花の色がありただ調和しているだけなのである。

●親と子、世代間対立は人間の宿命−時代が変化するから

また人間の問題としてネズミの親がネズミなら子もネズミとはならない。どんな親に生まれるにしろ親と子の人生は別なのである。
むしろ親と全く違ったものとなることがその人なりの人生を生きたということにもなる。だからカルト宗教団体の二世というのは全くその親の言うとうりになりその団体のいいなりになり身も心も一つの色に染められて自らの人生を生きることはしないロボットになる。そうしていれば親からも褒められ親の言いなりになって親に尽くしたとして褒められることになる。

でもそこで自分の人生は失っていたのである。そもそも人間の特徴として親の言いなりになって生きることがなぜその人自身の人生を失ってしまうのか。
それは人間というのはその社会でも常に変化している。価値観でも変化している。だから私の親が酒屋の丁稚であり私を丁稚にしてしようとしたのかもしれない。それでそらソロバンを習わせたり店をしていたから配達ばかりさせられていたのである。そういう環境にしかなかったからである。

でもはなぜか親は大学に上げろといっていた。それは親自体がそうして下積みで苦労して生きてきたから大学を出せば楽できると思ったのかもしれない。ただその時大学とは言っていない。そもそも大学ということを知らなかったと思う。明治生まれでおそらく学校も出てない人だったからだと思う。ただ上の学校に行けば楽できると見ていたのである。でも父親は中学のとき死んだのである。だから私の場合全く父親とは違う人生を送ったのである。それは旅の人生でありそれは遊びといえば遊びである。

でも不思議なのは団塊の世代はみんな企業戦士とか働くことしかなかった。でも最近なぜ自由に生きるとかみんなアーティストになれとかただ働くばかりの人間がいいものとみていない。そこに大きな価値観の変化がおきたのである。ただ働き詰めの人生が良くは見なくなったのである。

もし明治生まれの父親が生きてたら決して私のように旅ばかりして遊んでいたりしたらそこで衝突が起きて悲惨なことになった。それは時代によって価値観が変わってしまうからである。そこで親と衝突するのである。だからどうしても親と子は衝突する。それが普通なのである。親の言いなりになる時全てではないにしろその人自身の人生を失ってしまう。
それは特にカルト教団の二世に起きているのである。カルト教団にとってその言いなりになる人は親孝行でもあり親にとっては一番いい子なのである。それは既にその人生が親によって決められてしまったのである。それが宗教になっているから宗教は絶対だから余計に始末悪いものとなってしまったのである。

また親子の対立は世代間の対立であれこれは時代が変わってくるから起きる。でもこの世代間の対立があって次の時代が作られるのかもしれない。今までの古い時代の価値もあるが新しいものを作るときやはり前の古い価値も継続されるとしてもまた否定されなければなれない。
そういうことは明治時代におきたのである。古い日本の伝統的価値も継続されてまた新しい価値を外国から取り入れたからである。和魂洋才というのがそうである。だから不思議に明治時代に一番漢詩が交興隆したのである。それができたのは江戸時代300年の蓄積がありそれが明治になって開花したのである。
それで明治時代は偉大な時代であった時代になったのである。だからすべて古いものを否定するということではない。でもどうしても親と子が対立するというとき世代世代間の対立はあるというときそれは当然のことなのである。それが人間の宿命でもあるわけである。

人間という存在は固定しては見れない。常に変化する存在なのである。社会自体も常に古いものを尊んでも新しいものを取り入れる新陳代謝しないと停滞してしまうのである。そこで少子高齢化というのは自然の理にも反している。古い伝統的なものも継続されるべきだがまた新しいものも取り入れて社会を刷新しないと遅れてしまうのである。今日本は貧困化して何か社会全体が停滞して危機的な状態にもある。それを変えようとやはり次の世代の若い力が必要である。どうしても老人は保守的になってしまうからである。また新しいものを取り入れない。だから老人はIT社会に馴染まないのである。すると日本社会全体が世界から遅れてしまうのである。

2023年08月28日

井戸水は安全なのか? (沸騰すれば安全であるー忘れていて近くの井戸の水を飲む)


井戸水は安全なのか?

(沸騰すれば安全であるー忘れていて近くの井戸の水を飲む)

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このように急速に水道が敷かれていった背景には、水系伝染病であるコレラの大流行がある。一八八二年、日本ではじめてコレラが発生する。これは第一次の世界的流行の影響であり、西日本から東海道にまで広がった。

井戸の近くにある従業員七〇人のビール工場では、重症のコレラを発症した人はいなかった。調べてみると、工場の従業員は井戸の水は飲まずビールを飲んでいたのだ。そこで、汚染された井戸の使用を禁止にすると、コレラの流行は、ぴたりと止んだ

井戸水のことを調べたらいろいろ危険なことが書いてあった。それで不安になった。市役所の方に聞いてみた。審査してもらって持ち主は安全だから飲んでいいと言われたので飲んでいる。
その調査結果も持ち主に出している。それは放射性物質だけではない。その他の細菌類なども調査したという。でも本当に安全なのかどうかはどうも保証されていない。その聞いた人に明確な答えはなかった。それでやはり不安は消えなくなった。確かなことは地下水は何かと菌が入りやすいことである。
でも子供の時井戸がないのだからその色の水をもらって飲んでいた。ほかの人も井戸の水を飲んでいたのである。それで細菌が入っていて病気になったということも聞いていない。でもやはりばい菌が混入して病気になった。そういうことがあり水道が作られるようになったのである。
現実にイギリスでわ井戸からこれらコレラ菌が水に混じって伝染した。だからやはり井戸というのはがあったのである。

とにかく今なら山の清水など飲むことはできない。山の清水は上流でも動物のフンなどが混じり意外と汚染されているから危険である。それは直感的にわかる。
つまり自然の水そのものは今は飲むことは危険である。この辺は特に放射性物質に汚染されているから余計にそうなった。でもこの清水でも井戸の水でも沸騰すれば細菌は死ぬという。だから一旦沸騰させてそれをまた冷やす。それも手間になるな安全を図るためにはそうするほかない。すると何か面倒になってしまうことは確かである。

ただこうして近くに地下水から水が50年前からでも出ているその水は尽きることがなかった。それでその水を飲んでいる時何か買って飲むものとは違ったものを感じた。
つまり直に自然の恩恵というか恵というかそういうものを実感した。水道の水とかでわ何かそういうものを感じなかった。水道だったらやはり金を払って買ってるということに今ではなるからである

それを感じたのはやはり近くにあり50年前以上からもその水は絶えることなく地下から出ている。
その恩恵は今もあったということである。だから今では水を買っている人が多い水道の水もやはり金を払って買っているのである。でも全く金も払わず無料で水を利用して飲める。そのことは直接大げさに言えば自然とじかに繋がり自然によって生かされているという感覚にもなったのである

とにかく現代は自然の恩恵を直接的に感じることがない。水ですら何か買っているという感覚になる。そこには必ず金が介在するのである。だから金を払わないで水を飲めるということに感動したとまでなる。でも現実はこうして自然から直接恩恵を感じるということはまれになる。
でも最近日本というのは貧困化して物価も上がり何でも買っていたらもう生活すらできなくなる。水でも買っている人が多い。その金もないという人まで増えている。すると近くの水は無料で飲めるということは貴重なことになる。
人間とは今遠くへ遠くへと関心が向くが意外と近くは今関心がなくなっているのである。それは人間に関してもそうである。外国の困った人には援助してもすぐ近くに困った人人がいても無関心であり援助しないのである。おそらく近くになにかあったものが人を生かしていたものは忘れられているのかもしれない。その忘れられていたものとして隣の井戸があった。この井戸水を飲めばありがたいと思ったのである

それただそれも簡単に飲めるものでもなかった。細菌があるからとして沸騰してまた冷やすとなると手間だし沸騰するどこやはり燃料が必要であり電気代も必要になってくる電気代も必要になってくる。そこでやはり金がかかるとなる。でもただ近くに恵みがあったということは発見である。
最近よく言われることで地産地消とあるわそれはこの井戸水に当てはまる。その水は60年前70年前からも戦前からも絶えることなく水を供給できていたのである。そしてここに水があれば何かあったときこの水を利用できる。するとここに水が自由に無料で使えるということは力強い備えともなっているかもしれない。

確かなことは人間の生活があまりにも何でも買うということになり金なくしてもはや呼吸すらできなくなってしまうのかとなる。つまり空気すら金で買わざるを得なくなってしまうのかとまでなる。
なぜならここでは空気すら放射性物質に汚染されたからである。それで住めなくなったからである。だから原発事故というのは何かこうしてもともとあった水でもあり自然の恵みを忘れていた結果でもあった。ただ矛盾しているのは井戸の水でももし沸騰して飲まなければ安全でないという時その沸騰するのに原発の電気を使うって言ったらそれは何なのだとなってしまう。何かそういう矛盾が現代には常にある。いくら現在では電気を否定しては生活もできないからである。

とにかくこの辺ではやはり原発事故がありもともと自然の恵みがありそれを見直すという再発見するということも必要かもしれない。でも飯館村あたりではもともとまだ自然の水とかを利用していた。でも放射性物質に汚染されてそれもできなくなったということもある。ただもともと地下水とか清水でも危険なものがあった。やはり沸騰しないと飲めないということがあった。飲み水以外ならばそういうことはない。やはり口に入れるということは問題だったのででも子供の時は別に井戸の水をみんな飲んでいたと思う。それをいちいち沸騰して飲んでいたとも思えない。

確かなことはやはり昔からの生活を見直すことも必要になってきた。だから地産地消とかも言われるようになったのである。水まで遠くから買っていることはやはり不自然なのである。その輸送するコストもかかる。本来は地産地消は自然な姿なのである。ただこの辺では原発地区でも放射性物質に汚染されてできなくなったことはあまりにも大きな損失だったのである。
近くが大事というとき介護とかなると近くが大事になる。意外と隣の市とか車で近いとしても娘息子が住んでいるとしてもいちいち車で来るのが手間になる。もし隣に住んでいたらそいうことがないから便利なのである。

脳梗塞になって自転車にも乗れなくなった女性がか自分のところに歩いて来ている。
つまり病気になってもなお近くなら歩いても来れるとなっていたのである。これが遠くなったらとても歩くことは無理である。近くだったら様子を見に行くこともできる。遠くになるとなかなか車を持っていても面倒になるのである。
だから意外とこうして老人が病気になったりすると近くの大事になるのである。昔だったら隣近所に一応店屋はあり簡単な食事を用意くらいできたかもしれない。今は隣に店は全くない。それでその女性は近くに店があったらなと作ってほしいとか言っているのである。

でも今の時代では無理である。でも高齢化社会になると近くが大事になるのである。車も運転できなくなる人もありその人たちは自転車に乗っているからである。
だから高齢化社会に適したものとは近くで用が足せることが大事になってくる。本当は近くの人が助け合えば効率的である。でも今はそういうことはない。車社会になれば近くは遠くが近くになり近くは遠くなってしまったのである。
だからそういう車社会も高齢化社会になれば見直さなければならないことがある。何しろ老人と病人が増えてくるだけの社会であるそれはマイナスにしかならないとみるがやはりそれに適した社会というのはまた健康な人でも若い人でも将来的にも住みやすいものとなるかもしれない。だから今かえって近く見直さなければならなくなっているともなる


自然の恵み

隣の井戸の水は子供の時から
それもさらに戦前からも使われていた
その水は絶えることなく地下から出ていた
地下に蓄えられてたえることはなかった
その水を飲んだ時何かその地下と通じ合う
自然とじかに通じ合うものを感じた
そして自然の恵みを地下に感じた
自然の恵みは尽きることはない
今その恩恵はすぐ隣にあったのだ
しかし忘れていたのである


posted by 天華 at 18:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年08月29日

ヨーロッパにはなぜ天才が多く生まれたのか? (小都市国家が文化を育んだー文明から文化の時代に)


ヨーロッパにはなぜ天才が多く生まれたのか?

(小都市国家が文化を育んだー文明から文化の時代に)


「飯・風呂・寝る」の生活から「人・本・旅」へ


2000時間も労働していたら(200日働くとしたら一日10時間です! )、しかも仕事後、職場で飲みにいくという悪習もあるわけですから、正社員が勉強する時間などありません。「飯・風呂・寝る」を繰り返すだけの生活になります。

ダイバーシティがあり、かつ高学歴な人たちの組み合わせです。学歴の内容もダブルドクターやダブルマスターが多く、しかも数学と音楽や、物理学と歴史学というように、文理の別を超えて好きなことを極めている人が目立ちます。こういう人たちを僕は「変態もしくはオタク」と呼んでいます。


世界で戦う教育法】日本の「学歴」「偏差値」はもはや無価値。我が子をグローバル社会でキャリア形成させるには?
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●日本人は変わり身が早い

人間は価値観が変わると戸惑ってしまう。これは何なのだと理解できないのである。それが明治時代とアメリカとの戦争に負けて焼け野原になった日本で起きている。これまでの価値観が通じない。でも日本人は変わり身が早く適応性に優れているとなりそれが外国人には驚きだったという。
いち早く髷を切ってザンギリ頭にした。こうした変化こそやはりヨーロッパの文明を優れたものとして積極的に庶民ですら取り入れたということである。その取り入れるスピードも早かったのである。それを見ていた外国人が驚くのも当然だとなる。
なぜなら江戸時代に籠で人を運んでいたような人たちが一挙に鉄道で人を運ぶようになったからである。その変化は本当に大きかった。だからなぜそんなに変化できたということが驚きだったのである。何か籠で人を運ぶというのは原始時代のように見えていたからである。もっと工夫すればそんなことをしなくてもいいと見るからである。だから江戸時代というのは技術的にはあまり進歩しなかったようにも見えるのである。

ただ政治的には天皇が復古して天皇中心の国家になった。それはヨーロッパから取り入れた議会制とか民主主義とかとは何か相いれないものだったのであ。そのことがの太平洋戦争へと向かうことになった原因でもあった。日本は神国だということでそれが政教一致となり祭政一致となり300万人も死んだという原因になっていたのかもしれない。ただ戦争についてはいまだにその原因も明確でないし日本人自体があの戦争は何だったのか総括していないのである。

でも原爆が落とされて日本が焼け野原になってアメリカに従属するようになった。その代わり身もまた早かったのである。そこから高度成長時代と向かっていたのである。アメリカ軍は日本支配するにあたって相当な抵抗があるのではないかと思ったが日本人は意外とアメリカに従順に支配されたのである。だから日本人というのは変わり身が早いのである。

でもなぜまた高度成長の後失われた30年があったのかそれが不可解なのである。確かにインターネットというのは製造業と違って日本に適合できないものだったのかもしれない。それにしても変わり身の早い日本人にしてはそうした通信世界でもいち早く適用できることはあり得たのである。

●物つくりからソフトの世界に変わった

なぜなら最初に携帯電話とこ普及したのは日本だったからである。その後の通信がインターネットになったということでそれに適応できなかった。その原因が何だったのか追求してもなかなかわからない。おそらくものづくりとは違った分野でありそれが日本人に適応できなかったのかも知れない。その証拠がいまだに日本ではソフトは世界的に通用するソフトは作れていないのである。そのことでも遅れていたことが日本は世界の通信産業から遅れてしまったことがわかる

そして本当に不思議なのは戦後の高度成長時代が終わり失われた30年があり最近なぜオタクがいいとかみんなアーティストになれとかそんなことを知識人でも大ぴらに言ってることが不思議になる。
なぜなら団塊の世代などはそんな人がいたらそれはアウトサイダーでありそんな人が居てもいないとされていた。つまり社会の外の人でありそんな人は社会に存在すらさせられなかった。ただ変なのは今アウトサイダーなのかニートとか引きこもりとか働かないで家に居る人は百万近くもいるとか信じられない時代になっているので。でもその人たちはやはり社会から糾弾されている。でもそれだけの人間が現実に存在しているということが高度成長時代を経験した私にとってはありえないことなのである。

そしてここでも述べているように何かオタクだとか変わったやつが集めてそこで起業して成功したとかそんなことが今までありえなかったのである。ただ昔から飛び抜けた人がいて天才がいてそういう人が新しいものを作り出していたことは確かである。でもそれは一般的には適応されない。でもなぜ今そういう人が必要だとかそういう人たちを集めて新しいものを作り出すのがいいとか堂々と言っているのは何なのだろうかとなる。
というのはものづくり一辺倒から社会が世界が変化したためだろう。インターネットの世界はものづくりではない。ソフトの世界であり日本人のようにものづくりに精通するということではない。ソフトとは何か人間の頭脳と深く関係しているのである。だから本当に最近出て来ているチャットgptとかイメージクリエイターとかが本当に不思議なのである。

特に私が感心したのはイメージクリエーターである。言葉を入れるだけでそれが絵に転換される。それがどうしてそうなるのか理解できないのである。私は元々絵の才能はゼロであ。それで他人の写真や絵などを加工して抽象画を作っていた。それも不思議なものだった。でも本格的な映像が言葉を入れるだけで作れるということは本当に不思議である。
何かパソコンというのはもともとこうして人間の頭脳と深く関わり創造的な作業もできるものとしてあった。それはやはり人間の技術の進歩がやはり人間の頭脳と深く関係しているとのようになるなるものは必然だったと
そのことが日本人にはよく飲み込めのみこ見ていなかった。そこでものづくりの世界からこうした頭脳的な物としてコンピューターを捉えることができなかった。それで日本の日本は世界から遅れてしまったのである

今世界を導くGFFAなどは今までの車を作るとかテレビを作るとかはいかそうした製造業とは違っているのである。だからこそ日本は大量生産して世界に電気製品などを輸出できた時代とは違っているのである。それは人間の頭脳と深くかかわったソフトの世界だからである。それはまたコンピューターのプログラミングの世界でもある。何か物を作り出しているというのとも違うのでものづくりが得意だった日本が遅れたのはそのためだったともなる。

●ヨーロッパの天才は小都市国家から生まれた

いずれにしろなぜここで人本旅とかに費やせというのも不思議になる。もちろん本を読むということはその人の教養とか創造性を作る基にはなる。旅でもやはり外国に直に行ってる人と行かない人の差は相当に大きい。それより留学する外国で生活する外国で仕事する人と日本を出てでない人はその差が大きいのである。外国を直に知っている人は日本を相対化して見れるからである
ともかくなぜ西洋文明というのはヨーロッパ中心の世界が作り上げられてきたのか。その大きな原因がヨーロッパには本当に天才が多いのである。つまり発明する人発見する人創造する人が多かったということである

そのことはやはりヨーロッパ中心の世界が作られてきた原因だと見る。ただ軍事力で世界を支配したというのでもない。スペインはただインカ帝国であれ略奪国家であり泥棒国家であり何かイギリスとかとは違っていたイギリスは産業革命を起こしたことで鉄道などを作り出したのでありそれが世界に普及したのである。
だから軍事力だけで世界を支配することはできない。ローマ帝国でも建築に優れていて道づくりにも優れていて軍事力だけで支配できたからでわなかった。それはほかの帝国でもインドでも中国でも中東でもそういうことがあった。
ただ軍事力で世界を治めることはできない。アメリカは軍事力は強大だがただそれだけで覇権国ともなれなかった。やはり技術力がありIT先進国になったようにアメリカはヨーロッパの後継者でありやはり天才を生む国であり発明発見創造する国だったからである。

ヨーロッパがあれほどの天才を生んだということはそれはただ偶然とかではない。一人の天才が生まれるにしてもその一人だけでわとても天才にもなれない。天才を産み育てる環境背景がないければ不可能である。それがヨーロッパの貴族社会にあったということである。
またそうした文化を生んだのは大帝国の大都市でもない。中世の5万くらいの小都市であれ小国家なのである。ルネッサンスの中心になったフィレンツェなどは5万くらいの年である。

となるとこの辺で原町とか相馬市の規模でもあったとなそんな小さな年からどうしてあにょうな華麗なルネッサンスが生まれたのか、それはやはりかえって今のような1000万の東京のようなところからは文化は生まれない、ただ経済力だけであり文化は生まれない生まれないのである。
そもそも文化というときは何なのか。それはやはりcultureはcultivateからきているからである。その土地に密着してその土地を耕すことによって生まれたものだからである。もしそうした土地もなければ文化も生まれない。文化というとき建築とか絵画とかいろいろあるな身近なものとしてその食にあるヨーロッパはワインの国でありその元になる葡萄にしても多様なのである。
その葡萄にもその土地の名が付いたものはある。それは日本でも同じである。米でもその土地の名前が記されているしその土地の土地で獲れた独特の味がするもの果物でも野菜でもあるからであるそれがもともと文化なのである。

そういう文化は文明と違って小都市国家から生まれやすいものだった。小都市国家だとそこでアイデンティティ化しやすいのである。だからそもそもシチズンと言う時シティーが元であり市民なのである。パスポートにどこの市民なのかシティズンなのかを書くのはまさに小都市国家から生じたヨーロッパの歴史がそこにあるからである。シティズンシップというときは四面の共同体のことだからである。
でも日本だったらそういう市民などないからその言葉自体が理解できないのである。言葉というのはそれだけ言葉だけでは理解できないものはその背景に土地代わり歴史があるからそうなる。
とても数式のように世界を分析することは不可能なのでそれはおそらく理系でもそういうことがあり意外と英語ができないとグローバル人材にはなれないというのもそうなのかなともうもうなぜならあるか学者は機械マニアが良いのでありそういう人は英語など学ぶ必要がないと言っているからである。

●大都市からは天才は生まれていない

それもそうなのかと思ってたが一方でどうしても理系でも英語に通じていないと共同して研究したり仲間となれないというのもまた一面そうなのかもしれない。それは言葉にはこれまで培ったさまざまの概念とかがありそれがやはり理解できないとグローバルに通じた人材とはなり得ないともなるだから理系は機械間に合ったら機械に通じていればいいと思ったはそうでもないのかとなる
とにかくヨーロッパから天才が多く出たのはやはりその基となったのは小都市であり小国家だったということである。そのくらいの規模だと人間を返って全体的なものとして育むものアイデンティティ化しやすいのである。
だから大都会には天才が出ていないのである。普通なら1000万人もいればその中から天才が出てもいいはずなのであるでも大都会からは天才が出ないのである
ただ理系とかもあるから一概には言えないとしてもやはり天才は大都会からでないとしている。現在はもはや大きな文明国家とか大都市とかそうした物量的にただ巨大だというだけの物には価値がなくなっている。

むしろ小規模でもヨーロッパの中世の小都市の都市国家のようにそこで世界を世界を見て一体化するアイディアしアイデンティティ化してミクロコスモスの中で世界を見て想像する。だからこれからはグローバル化といってもただ大量生産大量消費する時代は終わった。テレビでも冷蔵庫でも洗濯機でも車でも便利な機械は持っている
何か今求めているのはそうした機械ではなくものでもなく各地に独特に育まれた文化が求められている。海外旅行とはそうした文化を求めているからである。

中国人の爆買いがあったけどもそれももうない。でもやはり日本の文化を知りたくて味わいたくてしてくる人はいるわけである。文化は空間軸と時間軸で作られるがやはり相当に奥深いものがあり簡単には理解できないからである。
すると日本通になるとしたら何度でも日本に旅行に来なくてはならなくなる。中国だと近いからそれができるのである。そもそも奈良時代に遣唐使は中国に派遣されたがそれは中国文明を取り入れるということもあった。文化を取り入れるということでもあった。特に漢字を取り入れたことが日本文明を作ったということにもなる。漢詩なども学んだのもそうであるそれは文化を学んだのであり文化の交流がそこにあったということである。

中国にしても唐の帝国は世界帝国になったかそれはただ軍事力だけではない絹織物の生産とか紙の発明とかあった。それがシルクロードを通じて世界に伝播したのである。
でも中国でわ20世紀でもヨーロッパに支配された時まだ太平洋戦争が終わって今度はアメリカに技術を取り入れても発展したわ中国自体が何かを創造発明発見したということはないのである
何か中国由来の独自のものは世界に普及しているか。漢字はやはり中国人最大の発明でありそれが日本人は奈良時代に取り入れたのである。
でも最近中国があれほど発展しても中国自体が生み出したというものは見えないのである。ただヨーロッパやアメリカから生まれたものを作っているだけである。それは日本とも似ていたのである。
ただ日本は最初電気製品なので独自なものを作っていた。でも基本的にはやはり欧米の真似だったのだろう。つまり発明発見想像力それがなければやはりその国は世界を導く者とはならない。人間の数が多いとか国土が広いとかそれだけで覇権国にはなれないのだろう。ロシアとか中国はバカでかい領土があっても農業国だけでは世界を導くということにはなり得ないかった。
アメリカの有利な点はその国土も資源もある大きく豊富でありそれを基として発明発見創造の国であるということがやはり世界を導くものとなったのかもしれない。ただそれも今限界がきていることは確かである。

発明と発明発見創造とかなるとやはり何か社会から逸脱してもオタクのような人でも何か一つのものに異常な関心を持って追求するということも想像発見創造につながる。ありきたりのことをして考えていては何か新しい発見想像はないのだろう。旅というのは私が追求してきたの常に今までにないものと接するからあなたの視点を得られるのである。まず本当は地理を知らなければ世界を知ることはできない。それでやはりバックパッカーとして私は50才で遅かったが世界旅行したことが見聞を広めたのである

ここで人本旅ということを進めているが私の場合本は本も相当読んだ。旅は仕事の様にもなっていた。だからこの二つは自分にとって創造の源はなっている。ただ欠けていたのは人である。私自身は孤立していて知的刺激を受けるような人と直接接している事はないからである。ただ本を通じて通じてとかインターネットわ通じてこうして対話はしている。
でも直接人と接するということは無いからそこが大きく欠けているのである。やはり創造的な人が集まればそこに刺激を受けて新しいものが生まれたということが分かるのである。ただそれは理系のことであり文系となるとその人もあまり関係ないかもしれない文系というのはそもそも独学できるものだからである。

posted by 天華 at 17:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など

2023年08月30日

なぜ日本人の悪いことばかり今言われるのか? (なぜこれほど評価が変わってしまったのかー戦後の歴史を振り返る)

なぜ日本人の悪いことばかり今言われるのか?

(なぜこれほど評価が変わってしまったのかー戦後の歴史を振り返る)

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【投資より預金!発言より沈黙!特殊な日本脳!】日本脳形成の原因を初めて明らかにした力作!日本脳である限り、日本は隠蔽、差別、体罰、アナログシステム…を是正できないーmasakazu kaji- - YouTube

●日本人は閉鎖的村社会でアイデンティティを築いた

日本人とは何か。何か経済が停滞してから日本人の悪いことばかりしか言われない。でも高度成長時代はジャパンアズナンバーワンとして日本人の良い点ばかりの言われた。そして世界も日本を見習うべきだとしていたのである。それが失われた30年があり日本の悪い点しか言われないのである。
明治時代で積極的にヨーロッパの文化文明を取り入れて改革したことにそのスピードが速いことにヨーロッパ人も驚嘆していたのである。日本人というとき常に村社会のことが言われ狭い閉鎖的な世界で人生きてきたことによりそこはアイデンティティとなり鬼は外福は内の世界の狭い世界間しかなかった。村は世界であり世間であれ社会となっていた。

だからそもそも日本には大きな社会という概念を理解できなかった。社会という字は社に会すということであり狭い世界なのである。村社会では異質なものは受け入れない。それでこの辺の伝説で麦衝きに来た青年が蛇だったとかされている。それは隣の村でも交わらない社会だからそうなっていたのである。
飯館村の大倉村と佐須村が民情が違うということだけで明治以降合併しなかったのである。この民情はわかりにくい。このように交わらない社会だからそうなっていた。。ただそういう村社会が基本にあるとしても明治維新というときなぜヨーロッパの運命を文明を積極的に取り入れたのかそれが一つの謎になる。

ただヨーロッパの文明というとき日本人が注目したのは技術的なものであり文明全体を作っているものに目を向けなかった。ヨーロッパ文明の基本はキリスト教文明であり外国にヨーロッパに行けばいたるところ教会や立派な石造りの大聖堂がある。日本人はそういうものには関心なかったのである。だから内村鑑三などはキリスト教を受け入れない日本日本は西洋文明を基本的に受け入れることは無いと言っていた。欧州で福祉が発達したのはその根底にキリスト教があったからである。
金持ちでも寄付が多いというとき来世で神の国に入れないとか畏れているからだという。つまりキリスト教がそれだけ歴史的にも浸透しているからである。

そもそも日本の社会が村社会が基本だという時それ以上に村以上に広い世界を受け入れるものがなかった。文明を見るときやはり宗教が大きなやはり役割を果たした。キリスト教文明でありイスラム文明であり仏教文明というのはやはり世界を作ったからである。でも仏教を取り入れた時のように明治維新でわキリスト教は日本では受け入れなかった。それが基本的に依然としてもら社会の閉鎖性があり今やただそうして日本人の悪いことばかりが指摘されるのである。

●科学精神はプロテスタントから生まれた

科学技術がヨーロッパで発展したというときそれはカトリックとプロテスタントの対立から科学技術が生まれたというのももともとキリスト教はヨーロッパを社会を作っていたからである。
現在の西欧文明とか資本主義とか科学技術とかはプロテスタントから出ている。カトリックのは世界的巨大な組織でありそこに牧師は介在して民衆を導くことを基本にしている。だからカトリックは宗教による世界的支配構造を持っていてそれに反発してプロテスタントが生まれた。
だからそこから科学技術が生まれたということもわかる。科学を否定しない。すべてが神によって決められているということではなく積極的にその神が造られた世界を解明し探求しようとする科学の精神がプロテスタントから生まれたというのも分かる。
プロテスタントには仲介する牧師がいず直接神と個々人が向き合うからである。

なぜキリスト教からでも科学が発展したのか。それはイスラム教でもそうである。共通しているのは一神教だということである。偶像崇拝を認めないことである。イスラム教はアブラハム基とした宗教でありもともとは聖書のを基にしているからである。共通しているのは偶像崇拝を禁止していることである。この偶像崇拝を禁止しているということでそれが科学を生んだ基ともなっている。あらゆるものは神となるときただ崇めるだけでそれを客観的に探求するという分析するということがなくなるからでもある。確かなことは仏教からは科学が生まれなかったのである。

一番科学が発展したのはキリスト教文明でありその前はイスラム文明だったのである。なぜイスラムに代数学が生まれたかというとそこでは抽象的な思考が行われていた。数式化することが行われていた。それは偶像を否定してそのモスクでの中でもあらゆるものは抽象化して幾何学文様にしているのとも似ている。
つまり偶像を否定して物事を抽象化して数式化するということは一神教においてはそうすることが望まれたと思うんだ
また神の一つであるということは万物は神であり無数の神があるということは混乱する。唯一の神があってこそ精神的にもそこに秩序が生まれるので。だから一神教からは科学精神とか思われたと思うんだ。

●戦後は国際情勢が日本に有利に働いた

とにかくなぜ日本人の悪い点ばかりがこれほど指摘されるのか。それは戦争で負けた結果でもあり高度成長時代はジャパンアズナンバーワンで日本人を見習いとされていたのである。だからそのギャップに戸惑うのである。
日本が高度成長を成し遂げたのは世界情勢とも関係していた。朝鮮動乱がありそこで中国ロシアアメリカが関わりその後冷戦が始まった朝鮮戦争ではロジスティックとして日本が物資をを供給した。それが日本の経済復興への基となっていたのである。
それで子供の時鉄くずを集めてそれを売って金にしていた。つまり鉄が不足していたのである。それは朝鮮戦争への武器とかに使うためにも鉄が不足していたのである。だから大量に鉄が必要となり日本がそうした物資をを供給する場となった。
でも日本人自体は戦争に参加することはなかった。参加しなくてもよかったのである。戦争に負けた国だから戦争する必要はなかったのである。それが幸いして復興のためにだけ国力を注いだ。それからベトナム戦争の時も日本人自身が戦争に駆り出されることはなかった。それでベトナム特需というのもあった。

何かこうして戦後焼け野原になったのだが日本は別に戦争する必要もなく経済復興だけに力を入れればよかった。その後に高度成長時代となり電気製品大量に作り売ることでみんな働けば豊かになれるという時代になったのである。だからやはり国際情勢が戦後焼け野原で絶望的ではあったが日本を助けたということになる日本に有利に働いたということになる。
その後高度成長があったがアメリカはアメリカがそれに不満を持ちアメリカで日本車が壊されることもあった。それでブラザ合意とかか金融政策で日本は苦しくなった。何かその日本の歴史を繰り返しているのが今の中国にもなる。アメリカと対立することによって経済が落ち込み日本と同じようになるかもしれない。つまり中国の高度成長時代は終わり日本のように停滞して失われた30年とかにもなることもありうる。ただ中国の場合は規模が大きいからそれが世界に波及してくるのである

●予測できない未来

日本が良くなるか悪くなるかという時また世界でもよくなるか悪くなるか株でも上がるのか下がるのかそれは必ず二つの面があり良くいう人と悪いという人に必ず別れる。
それは人間が未来というのものを予測できないからそうなっているのである。高度成長の時代は誰も失われた30年となってなってしまうようなことを予測していないのである。また戦争が終わった時ですら戦争に負けるとは思っていなかったのである。このように人間というのは未来を予測できない。だから必ず予測できないことが起きるとなるのである。津波とか大地震のことでもそうだった。だから人間の想像を超えるものは起きるということはありうる。

だからノアの洪水のように神から伝えられてそれを信じてノアが方舟を造作った。そのとき人々はの笑い嘲っていたのである。人間には予測し得ないことが起きるということでだからそれにい備えねばならない。でも現実は備えることが不可能なのである。神によって滅ぼされそれは予言されているのだから確かである。それがいつになるか分からないにしてもそれはいつか実行される。おそらく神が手を上げただけで滅びてしまうのかもしれない。だからこそ神を畏れねばならない。飲めや歌えとか騒いでるうちに死がやって来るように滅びもやってくるのである。








posted by 天華 at 17:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年08月31日

空地空家が増えるー秋がなくなる (夏の月、涼しさ、夏の夜、夏燕)


空地空家が増えるー秋がなくなる

(夏の月、涼しさ、夏の夜、夏燕)


fullmoonhouse.jpg

solarlight nouzen.jpg

ソーラーライトに照らされるノウゼンカズラの花、ソーラーライトは電池交換しなくてもいいからいい。
こうして個人用に使うのには便利である。

海寄りの風のすずしや夏燕

我が汲むや夜風涼しく井戸の水

4軒ほど消えにし家や夏の月

利用せぬ空地の増えて夏の月

大きい家屋根に満月夏の夜

ノウゼンのソーラーライトに照らされて家を守りてなお我が生きむ

自分の家の周りが四軒ほど消えて空き化した。四軒となると結構広い。一軒は前から空き地化していた空き家化していた。理髪店だった。隣は建具屋の人だったらその後はタクシー運転手の家だった。一番広いところは農家だった。今壊された家は借りていた家でありその人は近くに新しい家を建て移っている

それにしても空き家が増えて空き地が増えてくる。近くに人一軒だけ子供がいるようだが子供というのは見かけないので神社はあったがそこにわんさと子供は集まって遊んでいたが今は一人も遊んでいない。本当に子どもというのは見かけない。ただ幼稚園とか小学校とかにだけ見かけるのである。
ということは将来を考えれば本当にさらに跡継ぎもなく空き家が増えて空き地化してくる。

そしてその空き地化したところに井戸水を毎日汲んでいる。すると月が輝いている。すでに秋になっていても夏である。秋がなくなるというのも分かる。それだけ暑いということである。

大きな家の屋根の上に満月が輝いている、なにかそれが姉のようにも見えた。姉は太っていておおらかな性格だったからである。
だから大きな月が似合っている。人間は家族でも死んでも形がなくなっても愛は消えないことを感じる。ただその愛は自分に対してだけの愛だった。すでに死んでからもう13年とかなる。それだけ月日が過ぎるのが早い。この13年間はあまりにいろいろなことがありすぎたのである。

とにかく何か私の家も大きいから大きな月がふさわしいとなる。そもそもこの家は私の母と姉が作ったものである。
今日はスーパームーンであり地球に月が接近して大きく見える
晴れているからきれいに見えるだろう。
とにかく暑くて今年は遠くに出れない、陽射しをあびると熱中症になる危険がある。ただ毎日海の方に自転車で走る。海からの風は涼しい。特に夕方は涼しい、その時だけ秋を感じる