2023年08月01日

昨夜は遠稲妻が光り今日は朝から雷鳴り停電になった (が通じないことの怖さ)


昨夜は遠稲妻が光り今日は朝から雷鳴り停電になった


(電気が通じないことの怖さ)



いなづまやきのふは東けふは西

其角「曠野」


幾たびも遠稲妻や雲に月


朝の雷打ち轟きて目覚めかな


夕べは遠くに稲妻が何度も光っていた夜も光っていた。でも全然雷の音は聞こえなかった。それは遠いところで鳴っていたからだろう。そして月が光っていた。何か異様な光景だった。

そして今日は朝から雷が激しく鳴った。そして多少雨は降った。ところが南相馬市の一地区で私の住んでいる場所で停電になったのであるやはり雷が影響したのだろう。この停電の怖いことはパソコンが壊れる場合があるからだ。するとせっかく記録したものさえ聞いてしまうのが怖いのである


今回の停電は狭い地区であった。200戸だけだった。東北電力の人が電柱を見て歩いた。でも意外と早く回復した。長引くと思ったからである。それで電気が止まると冷蔵庫も止まるし食事の用意をするとき電気でするのでできないと困る。この暑い時冷蔵庫が止まることは困る。中の物は腐ってしまうからである。電気というのは今の社会で重大なものになっているか分かる。それは停電してみると分かるのである。


あらゆるものは電気を使っているからである。だから停電してみると電気のありがたみが分かるのである。ええ、東京電力の人は原発事故のとき電気なくなったらどうするのだと脅すようなことを言ったからである。それだけ電気というのはライフラインになっているのである。何かあらゆるものが電気が止まると機能しなくなるのである。だから本当は停電の対策をしておく必要がある。病院などでは自家発電の備えがあるのは当然である。命にかかわるからそうなっているのである。 


それでDellのノートパソコンは停電しても切れていなかった。だから普通に使えていた。なぜなら充電式になっていて電気が切れても電池から使えただから一瞬停電と思わなかったのである。ただ、食事の用意をしようとしたとき、電気が使えないので停電だと分かったのである。それも狭い200戸くらいが停電になった

外に出て確かめても電気をついていたからどうなったのかと心配だった。回復するとは思えなかった。停電でも長い停電というのは経験していない。それだけ日本の電気会社はやはり優れているともなる。


いずれにしろ昨日は俳句の季語だ遠稲妻となる。でもそれは秋の季語なのである。雷は?夏の季語でこれも何か?理解しにくい。まだ真夏だからである。それで秋の季語となるのは理解できない。ただ昨日は夜も稲妻が光っていた。だから朝になって。移動してきたことは理解できる。でも雨は大して降らなかった。それが何か心配なので。雨があまり降らないから。どうなってしまうのだろうという心配がある。


とにかく早く回復して助かったとなる。ガスはないので食事もできなくなる場合があった。やはりなんか天気が止まってもガスとかでも他の事でも必要なのかもしれない。だから。充電器というのは? 蓄電池が必要ともなる。何故ならこのように電気が切れるとお手上げになってしまうからである。もしクーラーなどでも電気が切れるとこれだけ暑いと熱中症で死ぬ人さえ出てくる。電気というのはライフラインであり、生命線になっている。でも原発事故のようなものはありそれもまた危険だしソーラーパネルでも自然景観を壊してまた危険でもある。だから何か電気というものが必要でも問題がある。そのことで技術的に何かできないかとなるが。それも出来ていないのである。


ただ、電気に頼り過ぎると電気がこないと何もできなくなり、お手上げになってしまう。それで津波のときどうなったか?裏山の清水を使いそこらにある木材を燃やして米を炊きそれで何とか凌いでいた。もう電気も水道も何も使えなくなったからである。そういう時帰って原始的生活をしている人は生き延びるともなるので。実際に私の戦後の子供時代の時は電気は裸電球一つであり燃料は炭であり水道もないから近くの家の井戸の水をもらっていたのである。そのときガスも使っていない。そういう生活は電気がなくても持続可能な社会となり。まさに持続するのである。電気は実際はなかなか高価なものでありそのエネルギー源となるものは石油とか石炭であり。それが日本にはない。ガスもない?それでエネルギーは脆弱なのである。


ともかくこの停電というのは一番影響が大きい問題かもしれない。もちろん食糧不足もそうだがその食料を料理する為には電気が必要だからである。そしてあらゆるところに電気を勉強を使っているから電気が通じないとお手上げになってしまうのである。ソーラーパネルなどは自宅に備えていれば自家発電できるということはある。だからソーラーパネルでも全部を否定するということはできない。個人の場合は、もしかしたらい良いものなのかもしれない。ただ、それにしても警官を壊すから嫌なのである。



2023年08月02日

カルマの法則 (他者を苦しめた者は自らも苦しめられる―苦しみカルマを自覚する)


カルマの法則


(他者を苦しめた者は自らも苦しめられる―苦しみカルマを自覚する)


若い時から病気を持ち障害者の夫を世話し続けた人がいる。何か障害者を家族に持つことはカルマなのかとなる。その人のために費やされるエネルギーが半端でないからである。50歳になっても世話し続けているからである。


カルマで怖いのは親戚であれ重いカルマを持った人と関係すると必ずそのカルマを受けることである。だから結婚は好き嫌いだけで決められないものがある。結婚すれば互いに持っていたカルマから逃れられなくなる。その結婚相手の親族と深い関係となるからである。


私が家族で介護の介護で七転八倒して苦しんだのもカルマだった。兄がいたとしても私の家では良くしていないかったからである。兄は40歳で交通事故で死んだ。そのカルマが私に回って来た。なぜなら介護となっても一人しかいないのだから全部背負うことになったからである


カルマとは法則がある


あなたのした行為が必ずあなたに返ってくる


あなたが他者を苦しめたらあなたも苦しめられる、苦しめられた他者の来る知らしめるために同じ苦しみを受けてその苦しみを理解するのである。そうでなければあなたのした行為(カルマ)のことを理解できないからである。


なぜ自分はこんな苦しみをうけるのだろうか?


それはあなたとのした行為が苦しみとなってカルマとなっていたそうなった。


なぜ私はこんなに夫で苦しむのか

なぜ私は子供で苦しむのか

なぜ私は毒親に苦しめられるのか

・・・・・・・


そこに因果関係がある。つまり夫に苦しめられるのはあなたが夫を苦しめていたからでありそれが今度は自分が今度は苦しめられることになった。そして母親が障害者の夫に苦労したことを自らも夫で苦労することによって母親の苦労を自覚する。

また他者に世話になることでもカルマになる。それが恩というときそうである。恩を受けたことはカルマとなる。だから恩を返すことを要求される。恩など返さなくてもいいとなるのも普通にある。でもそうなるとカルマがやはり課される。カルマは借金とも似ている。借りた金は返さなければならない、返さないと利子がつきさらに重くなるのである。

ただカルマの大きな問題は自分のカルマを自覚できなことなのである

全く無事平穏に生きていれば自覚できないのである。

そこにカルマの大きな問題がある。


でもからカルマを持たない人はいない。必ずカルマは人間の一生の中で現われる。 そもそも苦しみとなってカルマが現れない限りカルマを自覚できないから理解できない。すると他人がなぜあのように苦しんでいるのだろうと見る。それも他人事なのである。でも自分自身が苦しむとき自分のカルマに苦しむとき他人のカルマも理解するとなる。つまり人間というものは自分自身が苦しむ無い限り他人の苦しみに同情できないということになる。自分自身が苦しまないのだから同情もしないともなる。


だから何か苦しんでいる人は互いに同情しあうのである。痛みをわかるからである。それでそういう人たちは何とかしようとして共産党であれ創価などのカルト団体であれ藁をつかむようにして頼る

それで票を集めて幹部が権力を得ようとする。別にそうした人たちに同情しているわけではな、要するに貧困ビジネスにもなる。

第一一人くらい相談にのれるがそれが10人百人となると不可能になる。弱いものはこうしてまた餌食にされることがある。


そもそもなぜ人間に災いが起きてくるのだろうか?平穏無事に終わる人生などない。今無事、平穏無事でも。いつか必ず。苦しみを受ける。人間が苦しみから解放されるのは死ぬしかない。そしてもし苦しまない人生があったとしたらそれは何か人間として大きく欠けている。苦しまないから他者が苦しんでも同情もできないのである。でも自らが障害者の子どもを持つようになったときその苦しみを理解できるのである。


これは人間社会に共通していることである。大きく見れば人間の歴史を見ればやはりカルマの法則がそこに働いている。驚いたのは黒人の国イスラムのアフリカの国がヨーロッパの白人の女性を奴隷として売買していたことである。それもカルマとなり今度は自分たちが黒人が奴隷にされたとなる


今日本が貧乏になり外国人が日本は安いとして観光に来る。その中にはやはり売春のために来る人もいる。そのことは別に景気がいいときは東南アジアであれどこであれ貧乏な国ではしていたからである。つまりそれもカルマなのである。あなたのしたことは必ずカルマとなってかえってくる。アメリカは日本に原爆を落とした。そのカルマはあまりにも大きいものだったのである。原爆の苦しみをアメリカは知るためにはアメリカに原爆が落とされて何十万と死んでみない限り苦しまない限りわからないのである。


アメリカだけが自国が戦場になっていないから戦争の悲惨さを知らないのである。常に遠くから攻撃するのがアメリカだからである。国でもそれぞれカルマを背負っている。だから世界史でも言うまでも栄える国はない、盛衰が必ずある。アメリカも衰退の時期に来ている。

人間は絶えず戦争を続けてきた。第一次世界大戦、第二次世界大戦と何千万と死んだのである。つまり戦争はなくならないというとき人間のカルマも消滅しないということである。だからこそ、人間はそのカルマが積もり積もって最終的に人類はハルマゲドンで滅亡する。カルマの集積が限界を超えてついには自滅して行く。または神によって裁かれノアの洪水のように大自然災害が起きて滅亡するとなる。 

成仏するとはどいうことなのかーお盆に死者が帰ってくる (その人がどう生きたの方が大事)

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成仏するとはどいうことなのかーお盆に死者が帰ってくる

(その人がどう生きたの方が大事)

●成仏しなかった非業の死

私の父親違いの兄は交通事故で40歳で死んだ。私の家は兄をよくしなかった。母は後妻に来たからである。五年間は一緒にいたのである。その五年間は貴重だったのである。なぜならもしそうして一緒に生活しなかったら兄という言う感覚も持てなかったかrである。
兄の前の兄の実の父親は東京で会社の事故で死んだので。そしてまた兄も交通事故で死んだのである。これはカルマなのかどうかわからない。ただ、そのことは私自身に深く関係していたのである。だからそれを単なる他人事とはおもえないのである。

成仏することに非常にこだわる人がいる。創価とか仏教関係では成仏しないかするかが一番問題にしているのである。そのことで信心のことが決められているのである。ただ、カルト教団の言ってることは正直宗教とは何の関係もない。デタラメなのである。第一宗教などを求めている人なんて一人もいないからである。そこに欲が何でも叶えられとしてとして入ってきている人たちである。ただ、何か知らないが異常に成仏にこだわっているのである。

成仏を考えるとき死んだ姿ではない。成仏とは何か?それは死んだ姿とか、どんなふうにして死ぬとかとかでもない。その人の一生がその人なりに全うされたかである。その生き様の方が問題なのである。死んだ姿とかにこだわってもそれで成仏するともならない。
成仏するとはその人がその人なりにその一生を全うすることにある。その人がどういう風に生きたかが問題であり、死ぬ姿を見てもわからないのである。つまり成仏するとはその死ぬ有様ではない。その人がどういう風に生きたかによって決まるのである。何かよく言われように俺は社畜なんだよなとか言って一生を終わればその人はその一生を全うしたのか?しない。すると死ぬ時どうなるのか成仏はしないとなる。

●その人がどんな人生を生きたかが問題

とにかくカルト教団などに生きている人間はみんなロボットであり教祖のコピーとなって何らその人なりの人生など生きていないのである。だから、その人生には実際は価値はない。もちろん、その団体の中では価値あるとされるが、いずれ団体も組織も消えてしまうからである。その組織団体が消えた時、その価値も消失するのである。会社で会社から退職した時その会社での役職があっても退職すればなくなる。するとその人の価値はなくなる。だから退職するとその人の価値がなくなるのであり生きがいもなくなってしまうのである。

何故ならその人はあの価値は会社があっての価値であり。その人自体の価値というのは追求されていないからである。ただ、会社で働けばやはり何かその人なりの価値として残るものはある。でもその人が地域で何か働くことができて認められるということは?難しい。村社会のようなところだったら村という世界が農村社会だったら継続される。
だからそこで死んでもご先祖様となって、その村に生き続けていたのである。そしてお盆には死者が帰ってきて村の人たちとみんなで踊るということになっていた。それがお盆の起源だとされている。死んだ死者を迎えて一緒に踊るものだったとなる。今はそんなことは全くない。そういう社会が消失したのだからそういう祭りとかも消失するのである。時代によってその価値が失われたのである。

●40歳で交通事故で死んだ兄

兄の場合はどうしてもその生を全うされたとはならない。そこに何か無念が怨念が残っている。墓を作ったの自分の家のそばに自分の墓の傍に墓を作ったのだがお盆には墓参りするのだがその娘が一人いてもその人は兄を思う心もなくなっていた。なぜなら夫婦でもめて離婚して娘がそのために父が交通事故で死んでひどい目にあったからである。それは静岡の方であり連絡は取り合っていたが、何が起きたかその時からなかった。近くにいれば何か事情も分かって援助することもあったが、できなかったのである。それで妻の方の実家に頼ったのだがそこでもよくされなくて高校出てからすぐに東京に出たのである。。だから実際あったのは子供の時一回しかその娘と会っていない。でも母が死んだときは何回か来ていたのである。ただ、それも何か遺産があるかどうかでお金のことで。来ていただけである。だからその縁も切れたのである。

確かなことは兄の霊は成仏していない。

それはその死に様のことではなく、生き様のことなのである。十分にその生を全うすることができなかった。親としてもできなかった。それを全部私の家のせいだともならない。なぜならその当時中卒で集団就職した人は大勢いたからである。ただそう、その苦労は私よりずっとあった。だから私は後ろめたいものを常に感じてきたのである。でもすべてが私また私の家にあったのかというとまたそれもわからない。あったことはあったが、全てが私の家にの責任なのかどうかは?わからない。なぜなら結婚して離婚したという時、それもそれは私の家の責任とも言えないからである。苦労したということがあり。それで負い目を感じていたのである。

●成仏するにはその人の生きざまの方が大事

ともかく成仏するというときその人がその人なりに充分に生きれば成仏する。何か自分なりに生きない、強制されて生きる。例えば医者に向かなくても医者にされたとか色々親に強制されたり親ガチャで苦しんだりする。そして自分自身の一生をただ強制されて終わるという時、その人は成仏しないともなる。そう見れば人間の一生がその人なりに充分に個性を発揮して生きたという人は稀になるかもしれない。何か常に社会であり。家であれ強制されるからである。

まず貧乏だったら食うことが大事であり。自分なりの何か才能でも伸ばすことは不可能である。そうなると自分なりの生きられなかったということで死ねば成仏はしないとなる。それは成仏の姿ではなく一生をどういうふうに生きたかである。まずカルト教団などはまったくの奴隷でありロボットでありその人なりに生きている人は一人もいない。同じ制服を着て同じ事を語っている。そして教祖の命令のままに偶像崇拝となり決して成仏はしない。だから成仏などにこだわるのはバカらしいとなる。その前にロボットの人生とか生きたとしても成仏しないのである。

私の母親は確かに100歳まで生きたがその死んだ姿も何か笑っているようで姿から見れば本当に成仏していた。ここに苦しい表情もない。私にはいつも楽に死ねたらなと言っていた。それは叶えられた。でも母親が本当に母としてまた女性として人間として充分に生きられなかった。常に働くことを強制されて働くことしかなかった。花を買うより庭に花を植えるよりそんなものいらないとして怒っていたのである。つまり花に価値を見なかったのである。これも寂しい人生であった。ただ、それは大正生まれでただ働かされるだけだからそうなったのである。

だから、また母も人間として女性として充分にその生を全うしたとはならない。もっと花に興味を持ったり何かただ働くだけだの人生でなければよかった。そうして人間とは最後に問われるのはその生き様であり成仏の相ではないのである。もちろん成仏の相が悪いと何か確かに気分いいものではない。でも私の母親は?そうして充分に自分なりに人間として生きたということはない。でも成仏の相は良かったのである。

●怨霊となる死者

いずれにしろ不慮の死非業の死は成仏していない。だから何か墓参りするにしてもそもそも成仏していないから。心、苦しいものみなるある何か圧迫される感じになる。その人なりに一生をを生きていればそうはならない。不慮の死非業の死でありそのことが頭にあり、解消しないのである。

だから、そうして。非業の死を遂げた人とか事故で死んだとかいう人はその魂はこの世に未練を残しそしてまたまた呪いともなっているかもしれない。そのためにその呪いを恐れて死者をを祀り慰霊する。靖国神社が戦没者の慰霊のなっているのがそうである。そこには生きている人たちが何か後ろめたいことがあり死んだ人の霊を鎮めるためにそうなったともなる。私自身も兄については同じことを感じているのである。成仏していないからやはり心苦しいものとなってしまったのである。でも一旦死んだ人を引き戻すこともできないしどうにもならないことである。 

死者がお盆に帰ってくると言うけどやはりこうしてその人なりの一生を生きない人は非業の死を遂げた人は成仏していないし。その霊は死者が帰ってきても村の人と笑って盆踊りをするようなことはしにくい。 ただ、今は盆踊りでも村という共同体が消失しているからなかなかこのように御先祖様とはならない。つまり死者を供養するということはやはりその生活でも継続したものがあり。それで死者を供養するということになるそれが祭りにもなる。

今はそうして昔の村のように継続する共同体というものがなくなっている。 だからこそ家すら家の共同体すら消失して墓を守る人もいなくなり。墓じまいが問題になるのである。村に生活するということがなくなり広域社会になった時さらにグローバル社会になった時そういう時間の中で形成される共同体は消失したのである。そのとき死者もその村の中に御先祖として生き続けることもできなくなったのである。 
つまり現代は空間がグローバルに拡大した。でも時間軸で形成されたものが失われたのである。
ただ一方で死者ももうこの世に帰ってきてほしくない人も多い、人を苦しめた人もいるし死んでも恨んでいる人もいるからである。だから家族でなかったら死者でも帰って来て欲しいとかみんなならないのである。

●死者がお盆に帰ってくる―御先祖様になっていた死者

つまり今は死者が継続される場がない。すると死者はどうなるか?幽霊のようにさまよっているかもしれない。御先祖様になったときはそこで継続して生きて生きている。でもその場がなくなったとき死者はどこに行くのか?死者の魂は誰が鎮めるのか?何か成仏しない人の魂は他者に害を与えるということがあるかもしれない。何か非業の死を遂げた人の霊を鎮めるために神社を立てたりした。死者が怨霊となり呪いとなることを恐れたのである。兄の場合はそういうことを感じる。
死んだらみんな御先祖様となった迎えられるとも思いないのである。

でも私の姉と母も死んだがそこには感じないので。父親でもそうである。遺影はは笑っていて笑っていて何か依然として家族とあるような感じがする。だから何かそこに成仏してはしないとは思えない。でも実際、家族でも何か?成仏していない恨みを残して死ぬ人もまたいるのである。ある母親は娘に対して【ひどい娘だわ】と呪いの言葉を残して死んだ。その娘は本当にひどい娘だったので。母親はそれなりに愛して育てた?実の母親ではないにしろ実際はその人は母親になっていたからである。でも何かもめて母親が病気になったときも何の世話もしない捨てたも同じである。ただ、母親は白血病で呆気なく死んだのである後の葬式はしたとして葬式だけなら簡単だからである。介護となると、その娘、何もできない。

実の母親は五歳で家を出て行ってその娘を捨てたのでる。だから、その母親を母親と思っていな。ただ遺産があるので、それが欲しくて老人ホームに入れているだけなのである。第一、その実の母親は認知症であり何かわからなくなっているから悲惨である。
家族でも親子でも問題があるのは人間である。そこに確執があり、争いがあり親子であっても兄弟であっても何らか争いがある。平和が必ずしもない。それがが人間の現実なのである。平和がないというとき。戦争は無いというだけではない。そもそも家族すら平和がないのである。何らかの争いがあり、確執があり平和がないのである。それは私の家でも嫌というほど経験したのである。

ただ、私の家族の場合は生前は争いがあっても今は何か今は平和になっている。だか遺影は笑っているのである。でもそうでない家族もも親子も兄弟もこの世には結構多いのである。そもそもなぜ宗教は血縁を否定したのか?それの血縁でも愛し合うというだけでなく、必ず何らかの。揉め事があり争いがあり平和がないからである。それで仏教でもキリスト教でも血縁とか家を否定したこともその為だったのである。 

2023年08月04日

空家の庭と芙蓉の詩(夏菊、鬼百合、夾竹桃)


空家の庭と芙蓉の詩(夏菊、鬼百合、夾竹桃)

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海老への道

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このカメがいいのである

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夏菊や海広々と見える道
夏菊や海に向かいて走りゆく
鬼百合や今日も雷なり野を走る

芙蓉と空家の庭の石

大石はその地に根ずいたように
どっしりとそこにある
芙蓉が咲きのんびりとそこにいた
芙蓉は笑っている姉のように
おおらかに芙蓉は咲いている
海から涼しい風が吹き
夏の雲が山に湧き上がり
ここに石は動かない
でも津波に家は流され人はいない
その庭だけが残されている
雉の親子が入り込み
この庭だけが往時を語っている
またここを訪ねて暮れぬ

右田の野球場の近くに津波で流された家の庭が残っている。その庭には大きな石がいくつもありずいぶん立派な庭であること知った。その庭は津波の前でも知っていたが中に入ることができないのだから庭のことは外から見ていたからこんなに大きな石の庭がいくつのあったことでその石をじっくり見る。でも不思議なのは家にはあまり価値を感じられない。空き家でも古民家とかには価値がある。でも普通の空き家は価値がない。あるのは庭なのである。庭が立派な庭であればその方が価値がある。

津波で家が流されても石の庭は残っていた。そこにはいろいろ花も咲いていた。小さい畑もあってそこに花が咲いていた。いろいろな種類の花が咲いていた。そこに人は住んでなくても今でも咲いて小屋のようなのようなものがあるからその庭を誰も見てないというわけではない。空き家を見る場合。家にはそれほど価値あると見えないのである。でも立派な庭だと価値あると見る。

大きな平板な石がありそこに芙蓉が咲いている。それがなんともなくいいのである。芙蓉は花が大きく何かゆったりとした気分になる。それで私の姉のことを思い出すのである。姉は大らかな人でありいつも笑っていたからである。認知症になってからは悲惨だった。その笑いも消えたたからである。ただ姉にしても他者に親切だったとは言えない。だから意外と認知症になってからは誰も来ないし死んでからも姉を偲びに来る人もいないのもそいうことがあったからなのかとなる。

私の母は性格的に何か苦労しすぎて余裕がなかった。働き詰めの一生であり子どもの時も遊んだことなどなかった。なぜならいつでも店で配達させられていたからである。それはみんなそういう時代だったのである。学校すら農休みがあり農家が忙しい時は学校も休みになったからであある。農家の子供もみんな働いていたのである。そもそも戦前なら子供はみんな働き手として育てたのである。そして親のために働かせるために育てた。それはまだ遅れた国だと日本に出稼ぎに来て親に仕送りしているのでそういう時代的に同じだとなる

ともかくそれぞれの家族の影響は大きい。家族もみんな違って私の家族は特殊だった。でも私が母だけにだけに育てられたらいいことはなかった。母は私と似て神経質であり、陰の性格だったからである。だから意外と親子でも性格的が合わないことがある。うまくいかないということもある。母の神経質的なことが細かいことにこだわることが嫌であり合わなかったからである。だから不思議なことは姉は大らかであり自分をにとってはいいものだったのである。ただ、そのマイナス点もあった。何かあまりにも自由放任にされたのでそれで問題がおきたのである。


いずれにしろ人間が形成されるには親と子とか兄弟とか姉妹とかまたは周りの人とかの影響がある。親と子だけですべてを賄うというか事足りるということはないのである。そもそも家族だけではいずれ介護とかなり。持できなくなる。家族でも昔のように大家族なら誰かが手が余っているから介護もできたかもしれない。今は家族でも核家族とかなり極めて狭い単位のものとなっている。ファミリーとは家族のことではない。大きな集団のことであり一族というか血縁でなくても小規模の会社のようなものでもあった。そういう大きな集団のコミュニティだとかえって何かあればその大きな集団の中で賄えるということはあった。 

とにかく芙蓉の花は大きく咲いてゆったりとさいているからいい、
夾竹桃も咲いていた

和名のキョウチクトウは、漢名の「夾竹桃」を音読みにしたのが語源で、漢名は葉がタケのように細く似ていること、花がモモに似ていると中国人が思ったことに由来する

確かに葉っぱ竹の葉のようにとがっている。花の名前は葉の特徴からつけられたものが結構ある。桃がついているのは花の色からそう名付けられた。でも夾竹桃には白い花があり。それも自生していた。沖縄西の西表島だったかその白い夾竹桃をジャングルで見たことがあるからである。 その庭に植えてあったのは白い夾竹桃だった。

他にもその庭には何か知らない花が咲いていたのである。
何か空き家は眼について気になる。でも家そのものには価値が見いだせない。庭には価値を見出している。だから、その庭に花が咲いている時依然としてその庭は生きているともなる。だから空き家が多い時空き家自体の利用より庭を何か生かすという方法があってもいいとも思う。ただ、庭にも色々ありやはりいい庭は少ない。立派な庭にするには石であれ木であれ金がかかるからである。
だから立派な庭を残した家はやはり金持ちの家だったともみる。本当に私の庭は狭いから立派な庭にしようにもできない。それでも庭があればそこに自然があり安らぐのである。


2023年08月06日

文系大学はいらない、理系と文系とは何なのか (原発事故ではあらゆる学問が必要になった)


文系大学はいらない、理系と文系とは何なのか


(原発事故ではあらゆる学問が必要になった)


●中世の大学は神学部、法学部、医学部だった


米国において官職・公職に就く方法が次の2つだからです。ひとつは富を持っていること、もうひとつは適切な信用保証を持つことです。最も優れた信用保証が法学の学位なのですね。それゆえ、政治家になりたい人たちはロースクールに行くわけです。

予言者と呼ばれた進化人類学者が予測「米国には“終焉の時代”が訪れ、共和制は衰退する」(クーリエ・ジャポン) - Yahoo!ニュース


文系大学がいらないと言う時それは社会に出てほとんど役に立たないからである。モンゴルが侵略して殺されなかったのが職人だった。職人はやはり役に立つから殺さなかったのである。また日本の戦争でも太平洋戦争でも学徒出陣があり理系の学生は強制されなかったのである。職人も理系でありそれは社会に役立つものであり認められたものである。

文系理系と簡単に言うけどそれは命にもかかわるものだったのである

そもそも歴史的にも物つくりは理系だからである。石器を作るにしてもその石を見分けねばならない、石器でも黒曜石が貴重だった。


ただヨーロッパの大学で中世からあったのは神学部であり法学部であり医学部であった。この三つから大学が始まっている。文系の場合は神学部と法学部なのである。ただ現代になると神学部は宗教となるがそれはなくなった。でも不思議なのは大学でも宗教系の大学は多いのである。ヨーロッパから文明が入ってきた時キリスト教系の大学は増えて作られた。また今でも仏教系の大学が多い。文系がいらないというときなぜこんなに宗教系の大学が多いのかとる。


そもそも文系がいらないというとき宗教などは無駄だからいらないとなる。医学部などは今でもそうだけ医者は特別尊敬されている。病気の問題が人間にとって一番深刻だからそうなっている。だから、もともと仏教でも病気を癒すと言うことがあり科学技術が発達しない時神にでも祈る他なかったのである。現実にキリストは奇跡で病気を治したからである。だから人間にとって医学は不可欠のものとなったのである。


それから法律というのも今でもそうだが現実社会で不可欠であり実効性があり弁護士資格を持てばそれは社会で実際に役立つものである。その他の学部は経済学部とかあってもそれは何か役に立つということはない。一種の教養となる。実業とは結びつかないのである。私は経済学部で何もほとんど学んでいない。なんだ何か知らないが。マル系の人がいてマルクス経済学が教えられた。でも実際は何か経済学といっても何を学ぶのかもはっきりしない?ゼミでも1、2回教授が来ただけであり。教授は授業にすらしない教授とは一体何をしているのだろうとなる。文系だと何の研究をしているかもよくわからないのである。結局、ただそこでは遊びの場であり時間潰しの場になっていたのである。


●文系は教養である―独学できる


私の場合は奇妙だけど実際は宗教学部に入ったと同じである。カルト教団に入ったからでそれは全く大学でないか教育するということがないからそうなったのである。そもそも教授でも一回くらいしかあっていないからである。


大学とは自主的に勉強する場合であり。何かを教えるという場でも無いのでだから高校から大学の変化があまりに大きすぎて文系の場合はおかしくなる人がいる。ギャンブルに費やされたとかカルト教団に入って費やされたとか学生運動で暴力となり青春のエネルギーを発散させたとかなる。もともと文系は何を学ぶのかも明確でなくて入ってくるからである。理系の場合は少人数で実験を必ずしなければならない。レポートをさなければならない。そこで遊んでる暇などないのである。それは職人でも同じである。知っている人は大工さんは十代から修行して技を身につけたからである。つまり職人は理系でありそれは実社会で役に立つ金になるからである。


文系というときそれが実社会でどう役に立つか見えないのである。経済学部に入ってマルクス経済学を学んで、何がそれで実社会で役に立つのそれもわからない。むしろ高卒で銀行に勤めた人の方が直に経済というものを学ぶのである。ただ法律は現実の社会で役立つものであり別なのである。文系は法学部を除いて教養なのである。一般常識を身に着けるだけである。それは社会で直接役に立つものではないのである。


建築関係なら経営できるようになれば設計できるようになればやはりそれは実社会で役立つのである。


「art」は英語だけど、さらに語源を遡るとラテン語の「ars」なのね。

この「ars」には、「技術」や「資格」「才能」といった幅広い意味があったの。


このうちの「技術」には、「人の手を施して装飾する」という意味合いも含まれていて、これが現在のアートの直接の由来になっている。


ただ、この時点では「人の手を施すこと全般」が含まれていたので、医術や建築工学、学問までもが含まれていたのよ。



人の手を施して装飾する」というときそれは職人であり意外なのは医者もartととして含まれていた。人の手を使い病人を見て直すからだちなる。

ともかく今のアートは実用的なものとしてあった。今のアートは実用から離れて画家とか音楽とか特殊なものとして見られる。でももともとはアートはあらゆる実用的なもののとしてあった。


何か時代をさかのぼれば遡るほど。一つの言葉で広い分野のものを指している。時代が進めば進むほど専門家して言葉も違って使われるようになったのである。


●宗教は宗はむねなるもので古代からあった


宗教は古代からでも原始時代からでもあった。縄文時代でも宗教はあった。それは祈る姿の土偶が発見されているからである。つまり人間は無力だから神に祈ることになる。病気は深刻であり医療も発達していなければ神に祈る他なかった。だから仏教とか神道でも加持祈祷があり民衆は頼ったのである。


中世の大学は医学部と神学部と法学部だということはそこに大学のオリジンがある。ただいまの大学と違っているのは神学部が重要視されていたことではそれは明らかに文系なのでる。文系不要論を言うとき今では神学部はいらないとなる。僧侶はあれ牧師など何か社会に役に立たないそして今は地位が低い。でもなぜ神学部が重要視されたかというと、やはり人間は生きる根本として宗教は必要であり。神を知るということは一番大事なことだからである。この世の中、神などなくして成立してなぜ神が必要なのかとなるからであるなっている。


実際奇妙だが私は大学に入っても創価などのカルト教団に入ったともなる。

そこもまた宗教とはなんの関係もない場所だった

そこは選挙をのためにすべてあり宗教は御利益のためであり人間がなぜ死ぬのかなど追求する人はいないのである。そこでは政治家になりたい人や現世でとにかく成功する地位を得る金持ちになるそれを異常な熱意で追求している。世俗より世俗的な場である。それは別に宗教を看板にしなければ社会ではそれをとがめたりしないのである。

その人は世俗で成功する、金でも女でも得るためにあからさまなのである。別にそれは世俗では普通のことでありとがめることもないのである。でも宗教を看板にすると矛盾してくるのである。


人間の最大の問題は人間がなぜ死ぬかということである。


ここは科学技術かいくら発達しても解決できない。なぜなら永遠の命を与えるのは神しかできないからである。だからいろいろな知識があっても技術があっても一番優先されるのは当然なのである。ただ宗教はいくら学問してもわからない。何も聖書を読まない人すら聖霊を受ければ一発で分かるのである。だから神学部などは無用だとなってしまう。いくらそこで学問しても神についてはわからないからである。それは文系が要らないと同じである。それ文系の学問はそもそも独学できるものでありだからこそ文系大学だと遊びの場に暇つぶしの場になっていたのである。。


むしろ教会とかに行っても牧師に説教されても理解できない体験からしか理解できないからである。理系の学問となると、それは現実社会と結びついて実効性がある。文系はそもそもそういう風に社会で役に立つものでもない。ただ社会で役に立たないからといってに無駄なのかとなれば、そうでもない。つまり人間が最初に知るべきものなの神がいるかどうかであり神を知ることであるからである。それは科学技術が発達しても同じで最上階に全能の神がいて全ては成り立っているからである。


とにかくドイツだと十才で職人の道を行くか大学に行くかきめられるという。学問に適しているかどうか10才できめられるという、それも早いと思うが社会では効率的になる。なぜなら職人でも技を身に着けるのは10代になりそれも早い時期だないと見に着かないとされるからである。文系の大学はそれで何の役にもたたないとなる。


●原発事故ではあらゆる学問が必要になった


ただこの辺で起きた津波や原発事故は理系が中心であっても文系的なことも必要であった。それは学問の全般的なものに及んでいたのである。そのことを私は追求してきた。でも理系でないから原子力の事、放射線のことなどわからなかった。でもそれ以外でも広範囲にあらゆることが関係していたのである。郷土というの特定の好事家が追求するものと思っていたがそうでもなかった。なぜなら相馬藩内で400年前にやはり慶長時代に慶長津波がありこの辺でも700人溺死したという記録が残っていたからである。それはたった二行だったけどそれがいかに貴重なものだったか津波が来て原発事故になり認識されたのである


そのほかにもこの土地特有の問題があり原発の時不運にも春になると海から東風が吹きそれが風に乗って飯館村とか福島市まで放射性物質が運ばれたのである。それで放射性物質が風に乗って流れるということを知らないので浪江町の町長は一番放射性物質が多く流れた津島に避難したのである。そもそも東電では事故はないと安全神話を作っていたのだから事故が起きたときの備えなど何もしていなかったのである。それで最初に頼ったのはアメリカだったのである。日本の技術者はお手上げとなり、何もできなかったともなる。


でも現実東電に働いてした人は避難するとき海の方は安全だとして山の方に向かったが、引き返して海の方に避難したのである。だから、やはり東電の人は放射線がどういうものか知っていたのであっる。でも地元の町民には知らせなかったのである。秘密のベールに隠されてのである。ただ安全神話を作りそれで安心していたというのも大きな怠慢だったのである。

このように津波原発事故でわかったことは理系文系だけで分けられない総合的なものして郷土でも見る世界でも見ることが強いられたのである。ただ、それを見るとしたら、とても一人の人間では不可能であった。そんな知識を持っている人などいないからである。 それを知りうるのは全能の神しか無いともなる。そこに人間の限界があり。原発は人間が操作するできるものでもなかったのである。


元々宗教とは旨(むね)なるものであり総合的なものとしてあった。現代は無数のもの分化してパーツ化して全体を見ることができなくなったのである。でも一地域であれそこに生態系があり歴史がありそこには地質学も関係してさまざまなことを総合的視点で見る必要があったのである。原発となると、やはり理系が中心にしても文系も関係していたのである。


だから理系と文系を分けて文系がいらないということにはならない。でも現実問題として文系大学などいらないというとき文系は独学できるからである。実験などもしないしただ本を読むということが基本になるからある。それでそれで現実それで大学文系大学は教授が何も教えないという場所だったというのも奇妙なのである。要するに文系大学には教授などいらないのである独学できるからそうなっている。するとただそこが遊びの場となり必要ないとなるのは当然である。ただ体育系とか友達を作るとか何か学問以外での遊びの場でもそれが人生にとって無用の場ともならないのである。でもそんなところに国で金を費やすのは無駄だとの今はなる。そんな余裕がもはや国にはないからである。


●文系大学は国で金をかけるのは無駄ーただ文系的なものは必要


 だからドイツのように十歳で職人になる人と学問を追求する人を分けるということも社会にとっては効率的になる。別に文系なら独学できるからである。それより文系の大学だと何かテーマも持って追求する場であり。そういう。テーマも何も持ってない人は大学に行っても何を学んでいいかも分からなくなる。私はむしろ大学を卒業してから学ぶ事が多かったのである。大学を卒業してから旅に費やされた。それで地名に興味を持ったのである。そんなこと大したことない。実用性がないといえばそれまでである。


 ともかく文系理系というとき医療の分野でも関係している。医者は理系であり薬を飲ませ治療する手術もする。患者を見るときそこには必ず精神的なものは作用する。医者でもただ金を払ってくれる患者として金儲けのさせてくれる人間としてしか今は見て医は算術となっている。だから病院は無機的な空間であるそこに精神的安らぎがないのである。それで家で死にたいというときはなぜそうなるのか?家というのもまた単なる建物ではないのである。建物を建てたのは職人である。でもそこに魂を入れるのは人間だとなる。何か家は物的な建物というだけでないものがある。


ここで人間が暮らした歳月があり家にはただ雨露を凌ぐというだけではないそこには不思議に愛というものは通い合っている。家族が死んだ後も愛が通い合っている。愛は消えないのである。だから家族が死んで13年経っても必ずしもその人の形はなくなっても見えないところで愛が通じあっているという感覚を経験する。それは説明できないものでもある。でも家にこだわるのはそういうことがあるからだと思う。死んだ家族が依然としてその家の中に居るという感じになる。だから建物は物体でありでもそこに通いあうものは愛でありそれでそこに家は単なる物体だけとはならないのである。


だからそこでも理系と文系の問題があるかもしれない。それで物と心は一体であるというのは東洋的思想である。物に憑につくというとき心が憑くということになるからである。それはやはり科学でも説明できない問題なのである。だから理系と文系とかで明確には分けられない。ただ、文系は別に大学に行かなくても教養であり本を読んでいればわかるのである。それで文系がいらないというのはそうして特別に大学という場でなくても学べるからそうなっているのである。 









posted by 天華 at 13:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、心理学など

2023年08月07日

買い物の失敗 (商品を奨める人に左右される―通販でも自分に合ったものが買えない)


買い物の失敗

(商品を奨める人に左右される―通販でも自分に合ったものが買えない)

買い物では必ず失敗がある。それはどうしてかというと機械でも道具でも実際に使ってみないとわからないところがあるからである。使ってみてはじめてわかるからである。

でも店に行ってその商品を勧めるときその勧める人の影響が大きいのである。その商品について聞くとその人の説明することは商品を買うか買わないかに大きく左右される。

ヤクルトの商品を買おうとしたら何かそれがわからなかったのは炭水化物であることがいわからなかった。何かジュース類というのは砂糖などが入っていて飲むとかえって疲れる。


その商品は朝鮮人参とかクエン酸とか?入ってるとかでいいように見えた。でも炭水化物だと甘いしいいものでなかったのかもしれない。でもそこまで説明されると買う気にはなれな。だからなぜあえてそういうことを言って進めないのかというのが不思議だとなる。ただ、その女性は誠実であり何でも売るという。強引さはない。かえってそういう人が信頼される。


カメラ店のキタムラではやはりどんなカメラが良いのかと聞いて、これがいいのかと買うかと思ったが。店の人は進めなかったなぜなら写真を主にするならプロムのような動画を主にしたものは向いてないと言われたからである。

そしてカメラ自体の画素数などはあまり変わらずいろいろなものを付け加えているだけだとも言った。普通、そんなことを店の人が言わない

なぜならそう言われれば買う気になっていても買わなくなるからである。でもその店は誠実であり正直に言っているのである。

つまり何か客はこういうものが欲しいというときなかなか分からない。でも売った方が良いのだからこの人には向かないとかなっても売るのが普通である。


通信販売だとどうしてもその商品について売る人から聞くことはできない。説明はしても売る人は説明はしない。その代わりにその商品を使った買って使った人が。いいとか悪いとか書いてある。それが判断基準になるのである。ただ、商品というのはその人に合ってるか合ってないかはその人が買って使ってみない限りわからないのである。通信販売で失敗したのは小さいものだったら良かったかな大きすぎたのである。使った人がレビューしたのを読んで買った。でも前の小さい方は自分にも役立つものだった。それは大きくて一人の自分には向いていなかったで。そして使ってみるとなかなか電気が回らず熱くならなかったのである。それで失敗した。これは結構高かったから損した。


また近くの量販店ではレンジを買った。そのレンジは何か色々な事ができると書いてあった。天ぷらのようなものも何かできるようなことを書いてあった。それは3万もしたが。これ普通のレンジとしてしか使えないものだった。それを勧めたのは店の人だった。それといろいろなことができると誇大広告にもなっていたのである。だから店の人がもっと説明すればよかったと思う。そんなにいろんなことができないものだったからだ


何か商品でもなんでも進めるときその人に合ったものが必要なのである。でも売る人にとっては、その相手が何を欲しているかあまり聞かない近くのお店では田舎の店は商品が少ないから自分に合ったものを買うことは難しい。

特に自転車について折りたたみの電動自転車は外国製でもさまざまなものが出ている。でもそれを買うことは難しい。後の修理とかあり何かあると直してもらえないからである。それで買いたいのだが買いにくいということがある。


要するに買い物はその人に合ったものが必要なのである。でも田舎の商店ではその商品をみんな揃えることはできない。でも通信販売だと選ぶことができる。でもそこでも失敗するので特に着るものでも合わないことがありそれで失敗していることが多い。

ただ、普通は相手のことなど考えず商品を売る人は売ればいいという感覚になる。 相手に対してどういう商品が必要なのか?その商品がどういうものがどういう機能があり?どういうものなのか詳しくは。説明しない。なぜなら商品の種類も多く売る人もよくわからないからだと思う。


ともかくなぜ金融商品が詐欺的になるのか?それはその金融商品が余りにも複雑で理解できない。説明する方でもわからないのである。株など説明できる人がいるのかとも思う。地銀などその金融商品について投資信託であれ株であれ実際は分かっていない。わかっていないものを売るのだからある意味で詐欺なのである。普通だったらヤクルトの人がそれは炭水化物ですよと言っただけでこれは甘いなと分かる?


でも金融商品となるとそれを説明されてもわからないのである。第一株など専門家すらわからない。だから、もしそれで客が損しても売る方の責任にはならない。株が上がったり下がったりするもんですよで終わりである。要するに金融商品を売る人はその商品についてわからないしだからただ売ればいいというだけであり適当に説明して儲かるようなことを言うだけである。そして手数料を取ることだけを目的にしている。 だから今や地元の田舎でも郵貯でも農協でも地銀でも金融商品を扱っているがそれで詐欺まがいのことをするようになった。本業で儲けられないからそうなったのである。


でも売る方にしてみたら売りたいのである。だから買ってくれないようなことを言うことは?普通はない。でも実際ヤクルトとかキタムラは?私は買おうとした商品をいいものでないとしてあっていないとして説明されて買わなかった。ただ売ればいいというだけでなくどういう商品なのかを相手に伝えてそれなら買ってくれということになる。ただ、売ればいいということではなかった。


商品を買うということは必ずしも売る人だけが責任あるわけではない。やはり買う人が責任になる。よく調べて、自分に合ったものを買う必要があるからである。今なら通信販売があるから様々なものから選ぶことができる。ただ通信販売でも高いものとなると簡単に買えない。失敗したら大損になるからである。 ただ、メーカー品などは信用しているから買う。それでもその商品があうかどうかは分からないのである。


とにかく今は商品の種類が多すぎてすぎて買うのも迷うのである選ぶことでも大変である。そして買ってからも操作が面倒で使えないというものも出てくる。だから今の買物というのは次から次と勝っていたら金がいくらあっても足りないとなってしまう。なぜなら高い買い物で失敗したらでは次にまた買えばいいとはならないからである。そのリスクが大きすぎるのである。


だから自分で判断できないものは買うべきではないとなる。でも普通の品物だったらある程度は判断できるる。金融商品のようにはならない大きく損することはない。それはある程度は見分けられるからである。そして買っても十万以下でありそれ以上の物を買っていない。何か怖くて買いないのである。高いのでも5万くらいだった。十万となるとリスクになる。それが買ったからといって損になるものでもない。

でも不安になるのである。 いくら商品が多いからといっても一つを選ぶとなると難しくなる。一つ買って失敗したらまた別なものを買うということができないからである。それで今の買い物は商品が多すぎるから困るのである


通信販売のレビューにしてもそれが全部。本当なのかどうかも分からない。 


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五つ星で評価したらpaypayで3000円うれるとある。これも別に高評価にしなくてもいいが金をもらえばどうしても悪いことは書けないとなる。だからこれも問題だと思った

とにかく金でいいレビュー書かせるのも問題である。何かこうしてすべて金で左右される。通信販売でもレビューが正直に書いているとは限らないのである。ただこの商品が悪いものではなかった。ただ金をもらったら悪いことは書けなくなるのは確かである。


2023年08月08日

村は大きな家族だった (広域化グローバル化で心の繋がりは消失―モノが入っても心は繋がらない)

村は大きな家族だった


(広域化グローバル化で心の繋がりは消失―モノが入っても心は繋がらない)


●家族の範囲が狭すぎる―昔の村は大きな家族だった


今家族に何が起きているのか?家族のつながりが弱くなっている。それはなぜか?家族だけの繋がりでは足りないからである。ファミリーとはは大きな集団のことであり夫婦とか子供とか祖父母とかの家族ではない。もっと大きな集団のことである。それは村社会と似ているかもしれない。村というのはある意味でファミリーであり家族とも似ている。だから何かあると助けあうのである。農村社会であるとどうしても互いに助け合わないと仕事もできないしその共同体も維持できないからである。そのために村に生まれた子供は村全体の子供となる。


出生〜幼年期では、「帯の親:オビノオ ヤ/取上げ親:トリアゲオヤ/乳付け親:チツケオヤ/抱き 親:ダキオヤ/名付け親:ナツケオヤ/拾い親:ヒロイオヤ /守り親:モリオヤ/養い親:ヤシナイオヤ」の 8 つの事例 を取りあげる。次に、成年期以降では、「烏帽子親:エボシ オヤ/鉄漿親:カネオヤ/仲人親:ナコウドオヤ/職親:シ ョクオヤ/草鞋親:ワラジオヤ」の 5つの事例を取りあげる。 仮親制度には、親が子どもの成長を願う思いの表れとして、 呪術的な要素と社会的な要素の 2つの意味合いをみることが


これだけ村で生まれた子供には周りの人が村人が関わっていたのである。それは明らかに村という集団のコミュニティの一員として育てるためにそうなったのである。


現代の問題は家族の範囲が狭くなりすぎたのである。核家族化がそうである。ついには親一人、子一人とかになってしまった。シングルマザーが子育てするにも一人なのである。また老人でも孤独死が多くなるのはこうしたコミュニティが喪失したからである。ファミリーの語源が。実はかなり広い範囲の意味であり集団のことだった。


そうなったのはまた社会経済の構造があまりにも変化してしまったからである。今や村と言う500人くらいの単位の社会ではない。広域化してさらにグローバル化して世界の経済の中に組み込まれる。すると別に村の中でそうしたコミュニティとかに入らなくても暮らしていける。物でも世界から入ってくるのからなんでも買える

かえって村の自給自足的な生活だったらものも買えないし。生活すらできなくなる だからこそ村八分にされることは一番厳しい罰だったのである。村のの自給自足的な生活では物が買えないし、入ってこないからである。だからこそそういう背景があり村のつながりとか小さなコミュニティーの人間の繋がりは消失したのである。


だからしきりに戦後間もなくまでは醤油がないとかでも味噌がないとかでも隣の人にくれとかあり助けてくれと言えばもらえたとかいう人がいる。それは物がない時代でありみんなが貧乏だから、かえって助け合ったのである。

今は金がないとどうにもならない。隣に何かそんなものをくれと言ったら応じる人はいない。醤油もないのかとなって馬鹿にされるだけになってしまった。何か助け合うということがなくなり常に金だけが問題になるのである。


現代では金がないということはどれだけ苦しいことかわかる。隣近所する無関心であり何も金で買えばいいとなってしまうからである。

そしてあとはに福祉に頼れと言うだけなのである。奇妙なのは福士に世話になっていた人は私が困った時その人自体が福祉に頼れと言っていたのである。その人はまともな人ではなかった。でも助けたことがあったし、その母親にの親は助けられたので助けたのである。その人は死んだ。


●広域化グローバル化で地域の繋がりが希薄化


現代とはあらゆるものを買う社会である。水すら買っている。だから金がなくなれば生きていくこともできなくなる。でも子供の時使っていた態度が井戸があり今も水が出ている。夏でも冷たい水が出ている。

天然の冷蔵庫から出ているのである。

それはこの辺の原発事故でも放射性物質に汚染されていないと持ち主が言った。検査したのでそれは確かなのだろう。その水が無料だということに感心した。無料で使っていいと言われたからである。子どもの時もそうだった。それは子供の時から持続して水が出ていたのである。その時は風呂場でその水を利用して使っていたのである。だから金わからなかったのである。今は水を飲むにしろ使うにしろ金がかかるから金なしではもう何も出来なくなってしまったのである。


何か近くに味噌屋がある。前だったら必ずそのみそや辛味噌を買っていた。味噌はそこで作っているからである。でもそこから今は買っていない。一人であり出しつきでないので買っていない。スーパーでいろいろだしつきの味噌があり。味噌でもいくらでもどこの味噌でも日本中から入って来て買える。こうして近くは重要なものとならないのである。また近くと関係しなくても金さえあれば何でも買えるそこで田舎からだと言って何か助け合うということもないし。身近で何かを賄うというよりただ金を出してさえいれば何でも買える。通信販売も発達して商品の量が種類が莫大に増えたのである。金さえあれば別に近くにいなくてもなんでも買えるとなる。


ただ自転車とかは後の修理とかあるので困るのである。この辺の街の一軒の自転車の人は死んだから誰もその後見てくれる人はいない。そこでなかなか金だけでもあらゆるものが使えるとはなってはいない。こうして経済が広域化してグローバル化すると近くは大事にならない。それは交通の発達にもよる。なぜなら近くの人が梨を作っていたが相馬市まで運ぶのに15キロぐらいありリやカーで運んでいたからである。そうなると運ぶこと自体が大変な苦労になるしそれを売って金にするにも大変な労力が必要になっていたのである。でも今なら運ぶことはいくらでも簡単とは言えなくても車で運べる。その変化も大きかったのである。


なぜ無縁化社会といわれるようになったのか?無縁化社会になったは神社で無縁の場を作りそこで外から入ってくる人に商売させた。それは外から入ってくる人がいると村のコミュニティがつながりが壊されることがあるからである。それでそのような外から入ってくる人を限定するために、そうしたのである。

それは確かにそうだったのである。もはや外国からでも食糧でもなんでも入ってくる。すると村だけで何かを賄うという社会とはまるで違っている?でも実際は外国からいくらものが入ってきてもその人とつながるわけではないのである。ただ物だけが入ってくるのである。でもその物が欲しいとなれば、金が必要になってくるのである。そこで金がますます重要になってくる。人のつながりより金の方が大事になってくるのである。


ただ昔からの切れ目が縁の切れ目ということあり貨幣経済がひろがるとそうなるのが必然なのである。 外国からいろいろなものが入ってきてもそれでその外国の人間とつながりが共同ができるというわけでもない。その人は直接会うこともないしただ物を通じて外国と関係しているからである。だから何かあるとその関係も切れて戦争になったりする。人間と人間の繋がりが必ずしもものを通じて行われていないからである。

ただ、人間は金だけを頼っては生きていけない。金で全部まかなえるということはない。それは介護の時如実に表れてくる。金が物を言うということはある。でも金だけで親身になった世話はできない。そこに心が伴わないとどうしてもうまくいかない。


●物が世界から買えても心は繋がらない


でも逆に今親子でも必ずしも子を育てるより虐待したり子供でも大人になると親を虐待するようになる。老人になると力逆転してくるからである。親が虐待されているので。何かその息子は親をこき気使うというか他人のようにしか思ってない。

それで親は泣いていたのである。息子から虐待されていたのである悲しいとなる。でもそういうことは今の時代に起こっている。誰に頼るかということがそれで問題となる。その女性は息子に頼ったのだが虐待されているのである。言葉の暴力であるババとか親を病気をした親を虐待しているのである。ただ他者も家族はわかりにくい、どうしてすなるのかとなると外から見tてわかりぬいからである。


こういうことは自分も親の介護で嫌というほど経験した。 私のところに来たのは事業で失敗した人とかで金がないという人である。頼ったのはそういう人たちであり一人はれっきとした泥棒であった。それで家探しされて大金を失った。ほかの人もなんら助ける気持ちなどなかった。多少はあったがただ金が欲しいというだけできたのである。つまりそういう人にしか頼れなかったというのも自分のカルマだったのである。


ほかの人も誰に頼るかということは、老人にとって大きな問題なのである。家族がいれば息子がいれば娘がいれば兄弟がいればとなるがその人たちが助けるとは限らない。かえって嫌がられうとまれる。親が捨てられるそういう事例を知っている。その娘はひどい娘であり親が私に最後にひどい娘だと言って来てまもなく死んだのではある。その娘は介護などできない。だからそんな娘に頼ることはできないから、死んだ方がよかったのである。

こうして誰に頼るかが最後に問題になる。でも家族の範囲が小さくなるとなかなか大家族のように人手に余裕がないから介護でも面倒見れなくなるのである。 これは肉親でも同じなのである。


別に遠くから外国でも物が入ってくることは悪いことではない。でもそこで人の繋がりが出来るわけではない。だから何かあると物が入ってこなくなる。そして戦争にもなる。だから物が入ってきても互いに貿易してもそれで繋がりができるとは限らないのである。食料不足にな自分の国が最優先となり食料は入ってこないのである。 そこにグローバル化の問題がある。ただ物が入ってきて悪いということではない。問題は人間の繋がりが物が入ってきても。生まれるわけではない。それはあくまでも物のやり取りだけであり。心のやりとりは交流は無いのである。だから、金の切れ目が縁の切れ目になりやすいので。それは今の社会でどこでも起きていることである。


親が子を捨てる、子が親を捨てるカルマ (親より今は金が大事な時代): 今日の一句一首(小林勇一) (musubu.sblo.jp)




posted by 天華 at 14:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年08月11日

天皇とは何なのか? (神権政治が生まれた背景ー人間は人間によって治められない)

天皇とは何なのか?


(神権政治が生まれた背景ー人間は人間によって治められない)


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加治将一

歴史的考察で浮かび上がる真実の姿。天皇ファンタジーと日本の現実


https://onl.bz/ScvG4mV


●天皇は日本独得のもの―外国の王とは違う


天皇とは何かそれは日本独特のものであり。なぜ天皇は生まれたのかその経緯はどういうものだったのか?それは神話的にもなり明確ではない。天皇が初代天皇の神武天皇は実在の天皇かどうかは不明である。でもなぜ日本では21世紀までも継続されたのか?これはやはりなんらかの存在理由がある。


それはおそらく日本という国が海に囲まれていて一つの世界になっていたからかもしれない。大陸だと必ず民族の興亡があり国でも継続しないということがある。日本は明治維新まで外国から侵略されたということはない。征服されたこともない。それはアメリカに負けるまでそうだったのである。だから日本という国は他国に異民族に支配されたということはない。だからこそ天皇は継続されたのである。でもアメリカに敗れた時天皇もアメリカに裁判されて死刑になったかもしれないのである。でもそれは日本は統治できないとして天皇温存したのである。


何か天皇というとき外国から見ると国王なのかとなる。でも国王でもない国民の象徴とかという抽象的なものになっているのである。また天皇は強大な権力を持っている存在とも違う。確かに皇居とかは広大な土地であり。東京の中でその土地の価値だけで莫大なものになる。また別荘もあり、その土地も広いから。財産は巨大なものになる。

でも中国と比べると中国の皇帝とかは欲望でも歯止めがなく宮廷に千人の女性を姓の奴隷のようにしてはべらせ使いさせまさに酒池肉林とかその中国人の欲望とは限りないのである。 

中国だけでなく大陸の帝国はその王は巨大な権力を持ち中国では地下にまで皇帝が死んでも支配しようとし大宮殿を作っていたのである。


そういう皇帝とか王と比べると日本の天皇はそんな巨大な権力を有していない。 確かに仁徳天皇の古墳などは巨大だから権力も巨大だったともみる。でも古墳というのは必ずしも墓というものでもなく天皇のために作られたというものでもない一つの共同体の象徴としてあり中国の皇帝のように一人の王のために贅沢を尽くすというそういう種類のものでもない。中国のような巨大な国家は人民は奴隷のようにされてしまう。一人の王のために絶対君主というか王がいて力で治めるしかない。それで民という字が人の目を潰すということからきている。これも中国の恐ろしさである。


日本でも江戸時代だと見ざる聞かざる言わざるとして民衆は何も言えなかった。でも中国となるとその巨大な国を治めるだけでものすごいエネルギーが必要になってくる。


だからどうしても圧政になるのである。それはロシアとか見てもわかる。広大な土地を。人民を治めるということはどうしても強力な圧政になってしまうのである。 

中国で民主化するということが難しいのはその土地が広大であり人口も十億以上いてそんな人民をどうしてまとめるかとなる。圧政しかなくなる。もう民主制度になったら収集がつかなくなるかもしれない。みんな言いたいこと言っていたらとても広大な土地と10億人以上の民をどうして治めるのかとなってしまうからである。

だから中国というのは自分の国内をまとめるだけでものすごいエネルギーが必要になってくるのである。 


●人間を治めるために神を利用した神権政治になった


それに比べると日本は小さな国である島国である。だからこそまとまりやすいのである。強大な権力を持つこともできない。それだけの土地と人民がいないからである。 

一つの国をどうして治めるのか?それが人間の政治の課題でありそれは21世紀になっても解決しないのである。

一見民主主義が良いようでもそれもうまくいっていない。一体どうしたらうまく治められるのかは永遠の課題であり。そしてそれは解決しないのである。民主主義は理想のように言うがそれもただ暴力で持って治めることを権力を得ることをしないというだけであり何か理想的なものでもないのである。権力を得る為にはどうしても殺し合いがありそれを止めるために民主主義が生まれた。

ただ、それが全て上手くいくとなっていない。ただ大陸の圧政のようなよりはましだというだけである。政権交代するために殺し合いはしないからである。


おそらく人間は永遠に治めることは出来ない。それは人間のカルマである。 なぜまた21世紀になってロシアで戦争を起こしているのか?やはりそのカルマが終わることはないからである。 ロシアも今広大な土地を持っていて人民は1億人くらいでもその広大な土地に散らばる。人々を治めるのは圧制しかないのである。大陸の巨大な国家は圧政になり王が巨大な権力を持つのである。


それはエジプトのように神権剣政治にもなり共通しているのである。王が神のようになってしまうのである。それはカルト教団にも共通している。21世紀でもやはり。政治というのは?継続してやはりを繰り返しているのである。カルト教団もやはり教祖が神の様になり崇拝させて人々を支配しようとする。それが現実に起きたのは創価の池田大作がそうでありオウムの麻原でもそうであった。幸福の科学の大川隆法でもそうであった。だから政治というのは何か依然として進歩していないのである。
ということは人間を収めるということがいかに難しいかということである。3人寄れば文殊の知恵というが反面人間関係でも3人寄れば必ず争いがありまとめられなくなる。


身近な家族でも同じなので。その中でも夫婦でも常に争いがあるのである。だからこそ結婚しても1/3は離婚しているのである。

どうしてまとめるのか?それで子は鎹となったのである。家族をまとめるのは実はその中心となるものは必要なのである。

それは前は長男はなっていた。でも戦後は兄弟長男の特権は失われ、兄弟は皆平等となってしまったのである。では家の中心は誰がなるのか?すると中心になるものが失い家族はまとまらなくなったのである。


その中心になるものは別に能力が優れたものでもない。ただ中心になるものがいないと家族でも少人数でもバラバラになってしまうのである。何か私の家族のことを延々と書いてきた。二人のの母親がいたとして争っていたが振り返れば私と言う中心になる人がいなければ家族は分裂していたのである。確かに分裂状態になってもう死んで家族は居なくなった。でも依然としてやはり家族は私を中心として存在しずしつづけたのである。

だからそこに中心となるものはどれだけ重要なものかを認識するべきなのである。


南北朝の悲劇は天皇は2人になったことなのである。壬申の乱でもやはり天皇の兄弟が二つに分かれて争うことになった。南北朝では日本全体を二分してしまったので。それは村のような小さなところでも日本全国隅々まで二分して争うようになったのである。つまり天皇が2人になるということは国が一つにならないとうことなのである。そこに中心になるべきものがなくなって二分して。争うようになったので。その傷痕はあまりにも深いものだったのである。


●家族でも治めるのには中心になるものが必要


だから天皇とは何かというと。それが渡来人であれ別に血統がは継続されているからということでもなく天皇が特別神でもなく優秀でもなくてもそれが国をまとめる中心としてある。そこに意味があったのである。その天皇は特別外国の王のように権力を持っていなかった。

確かに皇居の土地は広大である。でももしそこが天皇の住む地でないとするとどうなるか?

その貴重な森は明治神宮の森のように失われていくかもしれない。天皇が住んでいるということで手を付けることができないのである。もちろんそこで大きな問題はある。不便になるしでも東京のようなところにそういう広大な土地があり森があるということはやはりそれをそれが全部悪いものともならないのである。


そもそも、なぜ政治というものは進歩しないのか?それは人間を治めることはそれだけ難しいからである。それは家族でも治めること自体難しいことでもわかる。家族でもそうしてまとまらないから、とにかく長男を立てたのである。その長男が優秀というのでなくてもあえて長男を立ててまとめさせたのである。

徳川幕府でもとにかく長男を立てて治めさせた。その長男が必ずしも優秀でなくてもただ、天皇のように象徴としてあるだけでまとめ役として有効なのである。もしそういうものがなければ、結局昔のようで。血で血を争って権力争奪の争いになる


日本の天皇とは何か?それは日本人が歴史の中で生み出した一つの知恵の産物なのである。何か神話とかそれも作り物でも真実でなくても別にいいのである。問題は国をどうしてまとめるかということにあるからである。そのまとめ役となるものは何なのか?昔だったら長男がそれをしていた。そこにもやはり歴史的に継続した。人間の知恵がありまたそれは長子は特別神によみされるものとして尊ばれたのである。


だから必ずしも人間の世界というのはなんでも平等というものはいいというわけではない。かえって平等なことでまとまらなくなり分裂することにもなるからである。

つまり長子が特別神によみされたものとしてありそれが家を継ぐということはまた、国は国を継ぐということにもなるのである。それがおそらく天皇になるのかもしれない。 

アメリカはなぜまとまらないのか?移民の国でありさまざまな人種はが混交して広大な大陸に散らばる。それをまとめるのは一体になるのか

民主主義といってもそれでとてもまとめられない。だから、もはや限界にきている。そして再び暴力も起きてくる。ということは、民主主義というのは万能ではない。 すべて数が多いからと、それが正しいわけでもないし。それで決めることが良いわけでもない。ただ、暴力によって決めないと言うだけなのである。 


そしてどうしても政治はうまくいかないまとめられない。国を治められない。それで誰が治めるかというと聖書では緑子に治めさせようとか

老子だと治めずして治めるとか無政府的な考えにもなってしまう。

もう民主主義の選挙などやっても無駄となりかえってじ引きで決めたほうがいいと言うまでなっている。その方が公正だともなるのである。それだけ政治は人間をまとめることは難しいから、そうなったのである。 


●天皇は日本の歴史で統一するための知恵として生まれた


ともかく、天皇が何かというとき。その由来が何であれそれは一つの日本の歴史の中で生み出した知恵であったということである。

だから、それは長男が神よりよみされたものであり家を治め継ぐということまた国でも通じている。そうしなければ。まとめられないからである。そんなのは不平等だと民主主義社会では言うけども民主主義のようにただ平等を目指してもかえって不平等にもなっている。それはなぜなのか?そのことも考えねばならないのである。


日本史上では,神を祀ることがすなわち政治の根本であるとし,政治を「まつりごと」と読むのはそれゆえである。原始,古代の社会にあっては万事宗教が優先し,すべて神の意志によって行われた。風雨雷地震などの自然現象はもちろん,狩猟,農耕の収穫にいたるまですべて神意と考えられた。したがって生活が豊かに,社会が平和になるためには神に祈る必要があり,これが政治であった。この思想は古代天皇制国家統一の支柱となり,律令制において神祇官太政官に並べて設置したのもそのためである。これは中世の神道思想から江戸時代の国学へと進んだ。明治維新以後神道国家観によって天皇の「まつりごと」を強調する傾向が生じたが,特に昭和に入って天皇を現人神とし,その親政を主張する右翼運動が高まった。だが太平洋戦争後,天皇の人間宣言とともにこの思想も影をひそめた。


明治維新には西欧文明の挑戦にあって日本は混乱した。でも古代から続く天皇により国家というのが継続されて復古したのである。それは西欧文明の民主主義とか自由主義とかそうしたものとは相反するものだったのである。

ヨーロッパでは神権政治があった。またフランス革命では政教分離が唱えられて宗教と政治を分離したのである。日本では明治になっても宗教と政治が一体化して天皇が依然として活用されていた。

つまり天皇というのはそれだけ日本にとって。皇国史観があるように日本の歴史を象徴するようになっていた。

明治維新の時混乱したが皇国思想の運動があり第二次世界大戦まで継続したのである。ただ神国だから負けないということであったが、アメリカに負けて権威失墜したのである。


それは創価などでも継続されている。選挙は仏法の戦いであり仏が全面に立つのだから負けることがないとなるのである。天皇が現人神だからが戦争にも勝つということに通じている。政教一致なのである。

結局、明治維新といっても。古代の復古があり先祖返りがありヨーロッパ文明の真髄を取り入れるということはなかった。 

政治でも神がかり的なものとなってそれが300人万人も死んだ犠牲を払ったのである。それは国家のために死んだのである。それでその供養は天皇がになっているのである。でも天皇にしてもそんな大きな責任を担えるかとなったらなれないのである。 


ではなぜ300万人も死なねばならなかったのか?


それに答えることは容易ではない。ただ、政治を国家を神聖化すればそれは国家のために神聖なる国家のために死んだとなる。 でも国家自体も過ちを犯すのである。神ならば過ちを犯すことはない。国家でもやはり人間が運営しているから過ちを犯すのである。神権授与された。神から権威が与えられたとかあくまでも。民衆を支配される。支配するための方便だということもある。そうなると神にさからうことができないとなるからである。


ともかく政治が宗教に関わると狂信的になりファシズムになりやすい。特に大衆社会となった時難しい理論を大衆に言っても通じない。ハイルヒトラーということで叫び一体感を感じるのである。

また念仏とか日蓮宗だとは題目を唱えて徒党を組み突撃して行った。それは分かりやすいからそうなっていたのである。

戦って死んでも成仏する極楽に行くんだということでそうにもなった。だから宗教っていうのは、人をの上に立つとき利用すると支配者にとっては便利なものになるのでは?ただ、そこに日本の天皇が神格化されて300万人も死んだ恐ろしい結果にもなるのである。


●大衆民主主義もファシズムになりやすい


ともかく一体、誰が人民を国を治めるのか治めることができるのかとなるとそんな人はいないとなる。 人間の力では収められないとなる。必ずそこには混乱が生じてカオスとなってバベルの塔のように崩れ去る。それが人間の歴史だった。 現代というのは大衆社会である。大衆が力を持った社会である。大衆社会とは数がすべてを決めるのである。

そういう社会がどういう結果になったのか?それがまたナチスの再来であり全体主義になりファシズムになりまた恐ろしい結果を生むのである。大衆を洗脳し、先導するものはカルト教団とか必ず現れてくる。というものは大衆は考えることをしないのでカルト教団が増殖したのである。


宗教というのは一面民衆を支配する洗脳するのにいいのである。そこには別に本来の宗教などは皆無である。ただ題目を唱えればあらゆる欲望が達成されるとかで何でもいいのである。

それはついに天皇ファシズム、仏教ファシズムとなり。仏の命令で反対するもの者を殺してもいいんだとまなってしまう。それを大衆が力を持った時止めることはできない。なぜなら、民主主義とは数によって全てが決まるからである。いくら一人の聡明な人がいたとしてもそんなものは何の力もない。多数の前に何の意味も持たないのである。


だから数を集めた人がトップに立ち支配するのである。でそれはナチス的手法しかないのである。

民主主義からナチスが生まれたのもそのためだったのである。だからこの社会というのは?絶望的なのである。人間は政治に関しては人間は進歩しなかったのである。 

マキャベリも占いであれ宗教であれ政治権力を得るためなら積極的に利用しろと説いている。だからこそ為政者は信仰などなくても宗教を戦争でも政治でも利用してきた。それは人間のカルマとして継続されてきた。カルト教団が現代でも勢力を持つのもそのためなのである。


確かなことを天皇が特別優れた人でもない一つの飾り物でもある。でもその飾り物でも国家の中心としてありまとめるものともなる。

その中心になるものがない時家は分裂して国家も分裂して悲惨なことになるのであ。

その時、外国勢力が入ってきて国家自体が分裂して争い国家すらそのために疲弊して消滅してしまうということにもなる。

だから中心になるものがいかに重要かを知るべきである。中心になるものがなければ家も維持できないし。国家を維持できない。


例えばなぜ一神教が生まれたのか?それはあらゆるものが神となった。さまざまな動物でも石でもでも山でも神となった。八百万の神である。でもそうなると。バラバラにな治められないエジプトでもやはり様々な神がいて地域地域の神がいると統一国家にする一つの神が必要なのである。唯一の神がそれがなければ国も統治できないのである。 

日本では天皇とは唯一の神でありそれで国をまとめようとしたのである。八百万の神がいてもその最上階に天皇がいてそれで国をまとめようとしたのである。


とにかく注意すべきは警戒すべきは民主主義というのは大衆民主主義になりそれがファシズムとななることが危険なのである。それは歴史的にもそのためにカンボジアでも社会主義で200万人も死んだとかなる。共産主義社会ではロシアでも中国でも反対者は抹殺された。それもまた恐怖殺し合いをしない民主主義は優れているとなる。でも民主主義からナチスが生まれたのだから、大衆民主主義となるとそうともならないので。 


政治というのは人間にとって古代から。継続したカルマとなっている。人民を治める方法がないとなる。そこに人間の限界があるのである。必ずあらゆることで、人間には限界がある。政治でもそうだし経済でもそうだし科学技術でも原発事故が起きたように人間の限界が現れてそうなるのである。

人間では統治できないからそうなるのである。治めることができないのである。それで理想はこの世では成就せず天の国で神が治め、成就するのである。そしてその前にこの世はカオスの中に。バブル崩壊し人間の作り出した文明は砂に埋もれ海に沈み森に隠され埋もれる。そして。ただ、謎を語るばかりなのである。それがこの世で人間がなす文明の結果なのである。


この世とは何かといえば理想の国など作れない。むしろ人間の作った文明はただむなしく謎となり残される。エジプト文明でもマヤ文明でも中華文明でもなんでも同じである。それはただ謎を語るだけなのである。そして世界統一した平和な世界など作れない。

戦争は終わることなくあり最後にハルマゲドンが来て人類は滅びる。ではこの世は何のためにあるのか?人間は何のために生まれてきたのか?それはこの世とは?試練の場なのである。様々な試練を受けて苦しみ、悲しみ。そして神の子に神の国にふさわしいものとなるものとして試練を受けるのである。


そして神によって選別されて神の国を召されてそこで唯一の神のもとに働き仕事するのである。そこに荘厳な神の国がなるのである。それは永遠の都であり、滅びの無き都である。そこでこの世で悲しみ苦しんだ涙は拭われる。それを成すのは全能なる唯一の神であり人間の力ではできないのである。ただ人はこのように生まれて生きるのはその神の国にふさわしい人となるべく選別されるためにあるのである。そのためにこの世がある。だからこの世に理想の国などをはできない。それを求めるのはいいとしても実現するのは神の国で神自ら治めたときなる

神はそれを約束して実現するからである。ただこの世に良きものがありそれを追求する。悪しきものに汚れないようにすることが大事なのである。聖なるものというとき人間が聖なるものとならねばならないのである。神の御意にかなうものとなるようにしなければならない。そこにこの世に生きる意義があるとなる



相馬新報(小林勇一): 天皇とは何なのか、その在り方を問う (政教分離がここでも問われている―国民の総意に大衆に踏みにじられる聖なるもの) (musubu2.sblo.jp)