2023年07月03日

記憶する方法は本でも理解すること (人生で最後に残るのは記憶である)

記憶する方法は本でも理解すること

(人生で最後に残るのは記憶である)

●理解しないと記憶されない

脳にしっかりと記憶し、それを活用できるようにするには、「理解」がベースにないといけません。「理解なき暗記」は非常に脳に負担をかけます。

「こういう理由でこうなるのか」と、公式が意味していることを理解し、さらに「なぜそうなるのか」を人に説明できるようになると、その情報が脳の深部にまで届き、習得できます。

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なぜ記憶が大事なのか?それは老人になると分かるのである。人は色々と経験する。色々な人と出会い知識も集める。でもなぜ人は忘れるのか?それがわかるのは老人になってからである。たしかにその女性は私の兄に当たる人と一つ屋根の下で子供の時五年間一緒に暮らしていたのである。でもその女性はその人のことを何も憶えていない。その人はいなかったと言っているのである。その人は確かに実の兄ではない。でも一緒に子供の時、五年間も居たのだから忘れるということはありえないと思った。実は私も私の家で兄と一緒に五年間いたのである。それは私が一歳から五歳くらいまでであ。だから記憶はあまりない。

でも確かに一緒にいたということは覚えているのである。その時あんにゃと言ってたからである。その兄も40歳で交通事故で死んだのである。記憶にないということはその人が存在しないということでもある。それは認知症になると自分の子供すらわからわからなくなり。記憶から消えるのである。となると自分の子供すら存在しないとなるのである。こういうことは老人になると起きやすい。50年前のことをどれだけ人は覚えているだろうか?確かに大学時代にその人はあっていた。でも今になると、その人が本当に存在したのかとまでなる。 
去る者は日々に疎しであり。その人自体が非現実化してくるのである。だから死ぬとたちまち存在が曖昧のものとなる。それは60年も一緒に過ごした家族ですらそうだった。ましてその他の人はもっと50年も過ぎれば記憶から消えてしまうのである。

でも何か知的作業をするとき必ず記憶されたものは大事になる。なぜなら記憶されたものから過去をたどりいろいろと創作するからである旅をしたとしてもそれも過ぎてしまえばその記録も朧となり。思い出せなくなる? 特に車とかバイクは速すぎて振り返ればその途中を記憶されていないのである。 ただ一番生々しく感じているのはその時、その場のことである。
でもそれも時間が過ぎれば記憶も曖昧となり何を感じたかということも定かでなくなる。それで不思議なのは過去に書いた文章でも俳句でも短歌でもこんなものを作っていたのかと自分で作ったものに感心しているのである。プログだと時間軸でたどれるから過去を思い出すにはいいツールだとなる。

それは読書にも言えた。膨大な本を買って読んで印まで付けていても思い出せないのである。思い出せないというより本を理解していなかったのである。つまり力不足で本を理解できていないから。いくらしるしをつけていても、忘れてしまっていたのである。
千冊本を買って読んだとしても実質はせいぜい十冊ぐらいは深く読んだとしても、あとは読んだともならなかったのである。だから、これまで買った本を整理してもう一回読んでみるとまったく初めて読むように新鮮だったともなる。 ほとんど記憶すらされていなかったのである。その理由は、そもそもが理解されていなかったことにあったのである。 

いくら本を読んでも理解しなければ記憶されないということである。 そうして今なぜこうして買い集めた本を読み直してみると。理解しているのか不思議である。とにかく私は何か理解すること会得することが遅すぎたのである。すでに60過ぎとか70過ぎになって。ようやく理解するようになっていたからである。 

本を一冊読んで理解することは相当に難しい。これはやはりそれだけの内容があるということである。 だから若い時は理解できないし、中年になっても理解できていなかった。つまり記憶するには理解することが大事なのである。勉強でも暗記だけは身につかない理解力がないと身につかないのである。その理解力をつけることは難しいのである。例えば本を引用するにしても本人にただ習うまねるだけでなくその人自身のものが思想が80%ぐらいがあってあと20%をほかの人の引用などを利用する。理解力はない人はただ他人の物を引用しているだけだともなる。だから意外と引用すること自体が難しいのである。その人自身の独創的なものが80%ぐらいあって、あとの20%ぐらいを他の物を利用する。 その80%が本体を形成していて引用はそれに付け足すものとしてある。でも若い時はその本体がないからただ引用しているだけであり理解されていないから読書しても身に付いていなかったのである。

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●記憶される場が大事

記憶が失いやすいのは外国旅行どうして見れば分かる?そこはあまりにも変わっているから 戸惑ってしまう。それで記憶から消えてしまいやすいのである、だから記憶に定着させるにわ本当は一回だけでなく、2回、3回と行くことが必要なのである。でも外国旅行になれば、そんなことはできない。一回限りで終わるのが多いのである。だから記憶から消えやすいのである。それでせっかく外国旅行してももったいないとなる。金と時間をかけても。記憶されないされるものが。やっぱり消えてしまうのがもったいないのである。

また人間が記憶するというときどういう場所が記憶されやすいかとなると都会のような混雑した入り組んだところは記憶に残らない。路地裏の道を歩いたとしてもその場所は記憶されにくい。都会のことは記憶されにくいのである。もう混雑していてそこに居るの人は記憶されない。ただ、群衆として消えてゆくのである。今はこうして人でも記憶されにくいのである。もし一対一で合っていれば、そういうことはないかもしれない。でも旅とかであっても忘れてしまうのである。それは瞬間的な出合いでもあり忘れるのではある。

記憶するというときその場がとか全体が関係している場合がある。なぜか?最近死んだ自転車屋のことを思い出す。その自転車は屋は駅前でずっと仕事をしてきたのである。だから駅とも一体化していたし街とも一体化していたのである。だから死んでも。その人が街の中にいて駅前にいる感じになったのである。その人の記憶は街の中にあり駅の前にあったのである。 だから駅から降りるとその自転車屋の人がいる感じになるのである。でも今はそうして全体から切り離されて一体化していない。自転車屋は街の中で役割があり一体化していた。 でも会社員とかなると今は街と関係していない。またスーパーであれ、コンビニであれそこで働く人を人は記憶するだろうか?それがわかるのはそこに働いてしたい働いていた人がいなくなってもその人が誰からも記憶されない。ただ一つの部品が消えたという感覚になる。現代ではそういう事が多いのである。

とにかく人間を忘れやすいそれで墓があるがそれは忘れないようにするために記念として作ったのかもしれない。なぜなら死んだら本当に何か形あるものもなくなり故人を忍ぶものもなくなるからである。それで故人を個人を死者を忘れないために墓として物体として残しそれで義務的にでも墓参りして死者を記憶し続ける。人は死んだら形もなくなり忘れられるからである。

老人が記憶が大事だという時それは記憶自体が生きることになっているからである。何を人生で経験して記憶したのがそれが人生になってしまう。でもその記憶自体が曖昧となり。自分の記憶したものも伝えられないということもある。記憶したものを文章にしたり、写真にしたりにしたりするしてそれが残り記憶がよみがえるのである。今はスマホとかで簡単に写真に残せるから便利である。そしてその写真を見て思い出すのである。でも写真にしても。それはどの場所だったのか?またいつだったのか?それが不明になることがある。だから場所と日付が。時間が大事なのである。 

かりそめに通りすぎて
十分に愛さなかった かずかずの場所への郷愁よ
それらの場所へ 遠方から 何と私は与えたいことか
しわすれていた身振りを つぐないの行いをもう一度ー今度は独りでーあの旅を
静かにやり直したい
あの泉のところにもっと永くとどまっていたい
あの樹にさわりたい あのベンチを愛撫したい
(リルケ) 

本当にこれだけ旅した自分でもつくづくそう思う、もう二度と行けなくなたともなるからである


●忘れられた医者のこととその空家

記憶という時不思議なのは近くの医者のことである。その医者のことは常に語られていたのである。口が悪い医者だが腕はよかったのである。私の家にも父が病気になった時、往診にきたし母の時も往診に来た。だから近くでは身近な存在だったのである。でも母は口が悪いので。嫌っていて別な親切な医者のところに行っていたのである。
でもなぜ?その医者は死んでその息子も医者だったのだが最近死んだ。その人は、一人息子だから今は誰も住んでいない。もともと息子は東京に住んでいたのでその妻も子供もこの土地に親しみがない。そしてその家を見ると去年の大地震で屋根が一部壊れている。それから戸なども戸などもいたんでいる。

でもその家を直すこともない。ただ放置されているのである。そしてその医者について何かこの辺で語る人もいないのである。それはその医者と関わった人は多く死んでしまったからである。でもあれだけその医者のことを騒いでいたのにぱったりと何も語られないということは不思議なので、それもなんなのだろうと思う。その家はいずれは朽ちてゆく。なぜならその家に住む人が家族がいないからである。だからそこももったいないと見ているのである。
ただ、空き家が残っていると依然として、その空き家は住んでいた人のことを思うのである。空き家もなくなれば次に語るものがなくなる。原町の大原にある空き家は幽霊屋敷のようになって壊されないで残っている。その家の中に入ったら本当に幽霊が出てくると思った。この家に住んだ人の。霊が取り憑いているような感覚になったのである。 だから物には霊はつくとなる。住んだの人の霊が例が取り憑いているともなるのである。一度この世に生を受けた者は簡単に消えたくないのである。

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