2023年07月01日

狭い閉鎖的世界の生活が長かった日本 (なぜ無縁の場として神社を市場にしたのか?物と心が分離したグローバル経済)

狭い閉鎖的世界の生活が長かった日本


(なぜ無縁の場として神社を市場にしたのか?物と心が分離したグローバル経済)


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●無縁の場で商売を許可する


境界を考えるときまず自然が地形が境界になる。山であれ川であれ海であれこれが境界となる。また広大な森があり。そこには道もなく人の往来を阻んでいた。その自然境界があって間は簡単に交わることができなかった。人間は基本的に狭い場所で自給自足の生活をしていた。

各地に小国という地名が残っているのはそのためである。そこが一つの小さな国であり自給自足していたのである。それは?車もないのだから。簡単に遠くには行けないからである。道も整備されていないから歩くにしてもなかなか遠くへゆくことは難しかった。


そうなると小さな狭い世界でなじみの人と交わりそこが一つの世界となって 外界とは交わらず狭い世界で閉ざされた世界で生活していたのである。だから、この辺の伝説で隣村から来た麦つき働いた若い男が蛇だったということが伝えられる。


隣の村の人ですらこうしてめったに交わらない世界だったのである。

だから今、外国人が日本に来て働くということは考えられないことだったろう。ただ、そこで様々な問題が生まれるのは当然である。その麦月の若い男が蛇だったということにすでに。人が交わらないからそんな伝説が生まれたのである。でもそこでも日本語は通じたと思う。あの時方言があったとしてもやはり言葉は通じえた。 だから。コミュニケーションをとることはできた。でも外国人が来たら言葉すらわからないのだから互いに理解しあうことは難しい。


●言葉も通じない外国人と交わる困難


人間は言葉が通じなければ理解しあうことは難しい。外国に行って一番困るのは言葉だからである。でも不思議なのは言葉でも 音は理解しにくいでも文字は理解しやすいのである。それで最初に韓国に行ったときハングルが理解できなくて困った。その意味が全く分からなかった。でもホテルとあったらそこが英語で書かれていたら分かったのである。中国では漢字を通じて話すことができた。筆談ができたからである。 そのために中国では言葉が多様なために漢字で互いに理解し合っていたのである。テレビでも漢字をテロップとして流していた。音になればあれだけ広い国だからで民族もさまざまだから通じないのである。


これは外国だから当然理解し合うことは困難を極める。でも最初は隣の村すら交わることもなく人間は暮らしていたのである。 それで日本の神話でも海彦山彦の交わりが伝説化したのである。海で暮らすものと山で暮らすものとは相当に違ったものになるからである。 でも山で暮らしていれば必ず足りないものがあり。海で暮らしていても足りないものがある。そのために互いに足りないものを補うために交わりが生まれる。それが商業とか貿易とかの始まりである。


でも、そもそもそういう小さな狭い世界で閉ざされた生活をしていれば見知らぬ人と交わるのは容易なことではない。 まず人そのものを警戒するし、信じないからである。でも互いに足りないものがあり。そのために無理をしてでも交わることになった。

その交わる場所が神社だったというのも不思議である。そこを無縁の場所として市場のようにした。 神社とは縁をを結ぶ場所であるがこの場合は無縁の場所として見知らぬ他人を外から来る人を特別に入れたのである。


そういう閉ざされた世界で生きている人は、外部の人を簡単に受け入れないのである。それはなぜかというと。必ず何か摩擦が起きてその閉鎖されたコミュニティ内で問題が起きるからである。外から何か物が入ってくることは悪いことではない。でもそういう狭い世界のコミュニティでは外部からの侵入者によってその和が破壊されることがある。

だからまず狭い世界の村でもその和が破壊されないように図る。そのためにも無縁の場として神社を市場にもしたのである。

物のやり取りをしても、その物をもってくる人と必ずしも交わるということでもなかったのである。 それだけ閉鎖的な世界だったとなる。 

でもそこで考えねばならないのは? ものが入ってくるのはいいとしてもどうしても人間の和が破壊される。 だからそのコミュニティの維持が優先されたのである。 



●グローバル経済の問題から文化へー心と物が一致する世界へ。


グローバル経済の問題は物が入ってきてもそのものと心が分離していることなのである。 それは経済と文化の問題でもある。それぞれの国にはそれぞれの風土とか歴史に見合った物として作られてきた。

それは食糧でもそうだし様々なものはその体さえその風土に見合って歴史的に作られたものなのである。



この問題はまさに今の問題でもある。それに人が交わるのは一見いい様でもそこにいろいろな摩擦が生じてきて平和で和があってくらしていたとしてもコミュニティでも摩擦が生じて和がなくなってしまう。

ただものだけが入ってくればそれは意識できない。もう外国人が労働者として日本に入ってくるときはそうはならない。相手は物ではなく人だからである。 そこで摩擦が生じ、外交問題にまで発展する。 日本はもともと海に囲まれていて閉鎖された世界だった。一つの閉鎖された島国となっていたのである。 


最近日本語がどこの国とも共通国との言葉と共通性がないということ。日本語は実はもっとも古い言葉ではないかと 学者が言うのも分かる。なぜならヨーロッパとかでは必ず外国と共通な言葉がありわかりやすいからである。日本語はどこの国とも共通性ががないのである。そこが一番の日本語の謎なのである。

つまり、それは海に囲まれて閉鎖された島国であったからこそ起きたことである。そこで日本独自の文明が生まれたともなる。


グローバル化とはヨーロッパの大航海時代から始まり。交通の発達で現代はその頂点に達したのである。それももう限界に達したのである。これ以上のグローバル化はただ。問題が大きくさせるだけになる。

現実になぜ第一次世界大戦、第二次世界大戦で何千万の人が死んだのか?これはグローバル化が世界で協力するということではない。貿易にしてもそうである。むしろ世界的には交わるということは、そこに摩擦が起きて争いが激しくなったのである。中世となると遅れた閉ざされた世界で窮屈だとなるが。そこでは世界的に戦争など少なく平和な時代が続いたとなる。江戸時代でも300年、平和が持続されたことは、世界的に見れば奇跡的なことだったのである


ともかくグローバルに協力しあいアイデンティティ作ることは不可能である。だからこそ社会主義でも資本主義でも限界になり崩壊しつつある。それは自然の理に反しているからである。人間は自然から離れて物質的にも精神的にも存在し得ないからである。


●物と心が分離しない文化の時代に


現代の問題は?物と心が分離してしまったことなのである。ものというときものは心でもある。ものが憑くというとき物と心は一体であり、ものを通じて心も関係してくる。その物と心が分離したことが人間疎外を生んだとマルクスか指摘したのである。 それを現代に当てはめれば?これだけ世界中のものが流通している。グローバル経済の中で。生活しているが。それでも人間の心と心は通じ合わない。何かあれば国と国が争いものも入ってこなくなるのである。別に助け合いでものを流通させているわけでは無いからである。非情な競争原理でものは入ってく来たり来なくなったりしているのである。 


戦国時代でも。伊達藩と相馬藩が争ったとき相馬藩内では助け合うことがしたが飢饉の時に物資を飯館村に援助したりしたが伊達藩していない。何か揉め事があればこうして物も入ってこなくなるのである。 

だからこそ、外部からものが入ってきた時その住民たちは警戒したのである。その狭い、小さなコミュニティが破壊されることがある

現代では都会の人が地方の村に入ったりするととても。うるさくて溶け込めないとかなる。それはやはりそのコミュニティ内で平和に暮らしていたものは何か問題が起きてくるからである。


ものでも何でも外部から今なら外国から入れればいいとなるが。それが問題になるのはやはりそれぞれの国には歴史と伝統があり、風土にに見合った生活をしている。

だから何でも外国から無制限に入れることは危険になる。日本にわ宦官制度はない。中国に行っても、それを真似て取り入れることはなかったのである。

なんでもかんでも外国から取り入れることは問題が起きるのである。食にしても最近糖尿病が増えるとか?胃がんなのが?前立腺癌なのか?そういうものが増えてきたのは、外国から入ってきた食糧と関係しているのである。

なぜなら肉食でも日本はあまりしてない。日本人は肉を消化する酵素がないという。

外国人を絶えず肉を食べてきたから消化する酵素が出るというのである。つまり、長年の。食生活の歴史と伝統があり、それをなんでも入れると。問題が起きてくるのである。 


グローバル経済の問題は物が入ってきてもそのものと心が分離していることなのである。 それは経済と文化の問題でもある。それぞれの国にはそれぞれの風土とか歴史に見合った物として作られてきた。

それは食糧でもそうだし様々なものはその体さえその風土に見合って歴史的に作られたものなのである。

文化とはカルチャーとはcultivate から来ている。その土地を耕すことから。文化が生まれたのである。だから文化はその土地土地で多様なものであり同じものとはならないのである。でも工業化となると。機械化するということは画一化することであり。文化を無視するのである。世界中でコカコーラをみんな飲むということはそれはその文化にその土地土地にあったものではない。だから体にみんないいとはならないのである。寿司が人気なのはやはり日本の文化から生まれたものだからである。それは海に囲まれていて、海の幸が豊富だから生まれた食文化なのである。 


別にグローバル化でも、文化の交わりなら問題はない。無制限にものとかでも何でも入れることが問題なのである。それぞれの。土地と歴史と風土に見合ったものがあり。なんでも無制限に外国の物を入れることはその文化を破壊することになるのである。だから今、グローバル化は制限されねばならない。コロナウイルスにしてもやはりグローバル化した結果として、たちまち世界に広がったからである。ウィルスは風土病であり。その土地の中だけで。広まっていた。外国まで広まるということはなかなかなかったのである。それがグローバル化に人が交わることによって、ウイルスも世界中にたちまちに拡散したのである。それでかえって国境とか?境界が見直されたのである。


posted by 天華 at 11:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年07月02日

少子高齢化は全て悪いものなのか? 地球にはもうこれ以上人口を増やす余裕がないー減らすことが自然である

少子高齢化は全て悪いものなのか?

地球にはもうこれ以上人口を増やす余裕がないー減らすことが自然である

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●東京に偏った人口―大都市の人口集中が問題

人間は何でもいい面と悪い面が出てくる。それはあらゆる問題でそうなのである。科学技術は、人間にの生活を便利にしたがは反面様々な災いももたらしたのである。車は便利でも交通事故で苦しんだのもそうである。それは技術を。人間の技術は?常に生活を便利にするとともに必ず何か不都合なことが出てくる。それで技はわざわいにもなったのである。人間にはそういうカルマがつきまとっている。全面的に良いものはないのである。

だから少子高齢化を考えるときもそうである。それはいい面と悪い面に必ず働くのである。 常に悪いことばかり言われるが、そうでもないのである。 この少子高齢化問題でも歴史的に考察する必要がある
なぜなら元々人口は明治時代で3000万くらいだったのである。今はその4倍もあるからである。これほど人口が増えた時代はなかったのである。だから長い歴史からみれば異常なことだったのである。 

なぜこんなに人口が増えたのか?やはり農業社会から工業社会へ変わる過程で人口が増えた。 江戸時代は農業社会であり、人口はほとんど変らなかったからである。人口を増やすとしたら新田開発であり、元禄時代にすでにそんな状態になっていた。全国の地名に新田とあるのは大概元禄時代までに開拓されたものである。相馬藩内では葛尾村に山の方に元禄という碑がありそれは検地が行われて行われて記念として残された。でも元禄時代で既にかなりの土地が田んぼになった、そのために元禄時代は繁栄した時代となっていたのである。江戸時代に豊になるということは、米を増産する他なかったからである。 だからこそ米を作るためにあらゆる場所が開墾されたのである。

そしてなぜ新潟県が明治時代になっても一番人口が日本で多かったのか?東京よりも多かったのである。そこはやはり米の一大生産地であり水に恵まれていて、うまい米ができたからである。今でもそれは継続されている。それから北前船が日本海を航路として。交通の要所となり栄えたとなる。太平洋より日本海が交通路としてあり日本海側が 栄えるたとなる。それでコロナウイルスで苦しんだは江戸時代にはやはりコレラがあり新潟県の阿賀野川を通じて会津の方に伝染したのである。

つまり。日本海側航路となって川が交通路となっていたから人の移動が多い時ウイルスもやはりは伝染してくるのである。
交通の要所になるところはやはり栄える人口も増える。だから瀬戸内海沿岸地帯の広島とか山口が人口が多く栄えたのは分かる? 
少子高齢化は悪いことばかりしか言われない。でも本当にそうなのだろうか?それは歴史的に考察すれば自然の理でありそれに逆らうことができないのかもしれない。日本の人口であれ地球の人口であれもう限界にきていたからである。
まず1000万も住んでいる東京などはもう人間の住むところではない。だから少子高齢化を語るときこの大都市への人口集中の問題なのである。なぜなら東京の人口は地方に分散すれば日本は返って住みやすい国になる。つまり東京とか大都市に人口が異常に集中するのは、自然の理に反しているのである。
江戸時代であれ明治になっても、日本は人口的にはバランスが取れていたのである。 新潟県の人口と東京の人口は変わりなかったからである。

●農業社会だと人口のバランスがとれていた

そうなっていたのは、やはり日本は農業者会だったからである。
農業社会は土地が資本だから土地に見合った人しか住めないからである。日本の人口は明治から大正から。昭和と人口は増え続けていたのである。戦前も増えていたし。戦争に負けても日本が焼け野原になっても。人口は増え続けていたのである。戦争に負けて生まれたのは団塊の世代である。 そうして高度成長時代があり日本は成長し続けたのである。でもそれに歯止めがかかったのはやはり自然の理であり。これ以上人口が増えることは自然の理には反すから歯止めがかかったともなる。 

そして農業社会は土地が資本だから土地を拡大しようとする。日本の戦争が太平洋戦争は実は満州から始まったというのもそのためである。農業するために満州に渡った人たちが住んでいてその土地の奪い合いから戦争が始まったからである。満州では日本人は米まで作っていたのである。そこは相当に寒いけどでも日本人は米をつくっていたのである。講師、農業社会ではこうして土地を。持たなければ。生活はできない。その土地を手に入れるために戦争にまでなったのである。それは日本では戦国時代からそういうことがあった。
だから意外と農業社会というのは土地の奪い合いがあり、戦争があったとなる。 

なぜそもそも日本であれ世界でも人口は増加し続けて来たのか?日本だけが少子高齢化というのではない。それは世界的に起きているのである。もう地球で増える人口を養えないのである。だから人口が減るということは自然の理であり。それが悪いともならないのである。このまま人口が増え続けてはいれば地球は汚染されて住めめなくもなる。
普通に自分の住んでいる場所は原発事故で住めなくなくなったところがあるからだ。つまり原発にするにしろ。それは危険なものである、人間が操作できるものでもなかった。その無理をした結果として、自然が汚染されて進めなくなったのである。科学技術は万能のようになった時代だが、それにも限界がありかえって人間を不幸にしてしまうのである。

●森が再生して江戸時代から縄文時代に戻る

そもそも人口を人間の力で操作できるものなのだろうか? なぜこれだけ地球で人口が増え続けている?このまま増え続けたら、地球は人間によってを汚染されて住めなくなる?だからこそ自然の理によって人口増加に歯止めがかかったのかもしれない。人工を調節するということも神の力でなされるのかもしれない。ウィルスのがその働きもすることはあると思った。ウイルスによってウィルスがばらまかれ人間の人口増加を減らすということである。人間の活動には問題がある。今やその活動を止めることが制御することが必要になっている
そのことは2000年前にすでに老子が指摘したように言われていたのである。人口が1億人の時、すでにそれが中国で言われていたのである。その十倍以上もの人口になっているのが中国である。だからもう増やすということは限界に来たのである。

だから今実行すべき事は人口減少を止めるということでもない。何か奇妙になるかもしれないが。時代が逆行して行くのである。江戸時代からさらに縄文時代まで戻る。何か空き家とか空き地が耕作放棄地が増えてくるのもそうである。耕作放棄地とかはそのまま放っておくといずれは森になっていくのでは?それはこの辺で津波があり、田んぼが一時的に森のようになったからである。木は伸びなかったが、そのまま放置していると森になったのである。

もともと田んぼだったところは森だったからである。日本はもともと森に覆われた国だったのである。そして再び森が復活して再生する。荘厳な自然の景観が回復するともなる。
そしてそこで自然と調和した適正規模の国土が作られるかもしれない。だから未来が必ずしも悪いはならないのである。なぜなら大都会に未来があるのかといえば無い。むしろ森が再生し復活して日本にが分散して適正規模の中に住んでいればそれはもしかしたら理想的な世界かもしれない。
でも実際は未来とは科学技術の発展のことである。でも原発事故のように科学技術技術がすべて良いものとして働くとこはならない。何か必ずその技はわざわいとなるのである。そして科学技術には限界がないように見させる。でも実際は限界があり。本当に開発を進めていくと災いが起きてくるのである。それは原発事故で証明されたのである。

●人口を人間の力で操作できるのか 

いずれにしろ少子高齢化というのは人口問題は人間の手で操作できるのかという問題がある。むしろそれが自然の理に合ってるから。そうなったともなる。 だから空き家が増えているが隣の家が空き家になったらその庭を隣の家が利用する。 すると狭い住居に住んでいる日本人が広いところに住み気持ちも広く豊かになるというのも一つの見方である。
現実に私の家の隣には空き家になったが、その庭が広いのである。それがが利用されないことが何か見ているのである。その庭に無断で入っているからである。他にも立派な庭がある。家でも放置されているのである。 だからそれをどう利用するのかが問題になる。 

ともかく人間の心情として何か成長する、発展するということが常に望まれる。でも減らすとか成長を止めるとかいうことはいいいい感じがしない。それは何か?気が滅入るということにもなる。でもそこにも良い点がありすべてが悪いとはならないのである。
その成長する増やす、拡大するとかいう思想はヨーロッパから来た思想であり。資本主義の思想でもある。絶えず投資して。成長し、発展させる、進歩するという思想である。でもその思想自体が地球に適用できなくなっているのである。すると東洋的。思想がそこで。見直されることになる。 世界は大航海時代から。西洋中心の世界が作り上げられた。その他は東洋でも。南アメリカでも。植民地化にされたのである。 
その思想自体に自然の理に反するものがあり地球自体に適応できないものとなったのである。
それで老子のいう小国寡民が今何か現実になっているのである。確かな事は人口が増えすぎた事である。だから減らすということが悪いとは見えないのである。日本だって東京は1000万以上住んでいるのだから地方に分散すればバランスが取れてくるのである。

posted by 天華 at 16:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

夏の夕暮れから夜へ(夏雲雀、合歓の花、夏の月、涼しさ)


夏の夕暮れから夜へ(夏雲雀、合歓の花、夏の月、涼しさ)

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円盤雲

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夏雲雀空地の広くなお暮れじ
しなり揺れ夕風そよぎ合歓の花
バス停に相馬清水と夏の夕
湯上りに風の涼しく夜一人
湯上りや葉叢にのぞく夏の月

何鳥や澄みにし声に鳴きにけり夏の日一人我が部屋にいぬ
夕日さし我が力にそ坂をり風そよぎ涼しなお生きゆかむ

今日も暑かった、でもクーラーすると夏の気分がなくなる。ここは海風が吹き35度とかならない、でも今日は30度くらいで暑かった、それで夕暮れに外に出た、それで気持ち良かった、相馬市の道の駅の方に行った。
日中に陽射しを受けると熱中症になるのが怖いから出ない
人間は自然を感じるのにはやはり車だと坂を上るのにも楽だから登った感じがしない、今日は電動自転車の電池が切れた、でも優れものだから電池が切れても自力で結構走れる。それで坂を上った。夕日がさし風が涼しくそよぐ、夕暮れは涼しくなったから気持ちいい。

バス停に相馬清水とある、バスは通るにしても一日二回なのか三回なのか人はほとんど乗っていないのである
それよりバスが来ないのにバス停だけがまるでその地点を示すよあうに残っているものがある。地名を知るのにはいいとなる
相馬清水とあるからには清水があった、暑い時その清水を飲んだら涼しくなったとなる。近くの井戸水も冷たかったからである

風流は寒きものなりと言った人がいるが風流は暑きものなりともなる。でも昨今の篤さは異常であり風流ともならない、ただクーラーに頼ると不自然なものになりそれで電気の使い過ぎで金がかかる、ただこの頃は暑すぎるのである。

夜になると八つ手の葉叢の夏の満月が輝ているのが部屋から見える、八つ手も南国系である、芭蕉もそうである。沖縄では街中に芭蕉があり飲み屋がありいかにも南国的だった
暑さでも季節の変化がありその変化を楽しむのが日本なのである。でもあまりにも暑すぎると風流もなくなる

合歓の花も咲き始めた、夕風にそよぎゆれる、それがなにかたおやかな女性を感じる、しなやかだからである
これから本格的な夏になる。自分の問題は汗があまりかかず熱中症になることが怖いのである。でも夏は夏らしいのがいいとなる

静かに部屋に籠っていると何か澄んだ声で鳴く鳥がいる。それは毎日聞こえる、何の鳥かわからない、ヒヨドリらしい
でもこの鳥があんな声で鳴くのを聞いたことがない、ただ静かにしていると田舎だと鳥の声が家にいても聞こえるのである。
しかが都会とは違うのである。




2023年07月03日

記憶する方法は本でも理解すること (人生で最後に残るのは記憶である)

記憶する方法は本でも理解すること

(人生で最後に残るのは記憶である)

●理解しないと記憶されない

脳にしっかりと記憶し、それを活用できるようにするには、「理解」がベースにないといけません。「理解なき暗記」は非常に脳に負担をかけます。

「こういう理由でこうなるのか」と、公式が意味していることを理解し、さらに「なぜそうなるのか」を人に説明できるようになると、その情報が脳の深部にまで届き、習得できます。

「覚えるのが苦手な人」が記憶力を高める方法2選
「頭が悪い」は生まれつきのものではなかった

なぜ記憶が大事なのか?それは老人になると分かるのである。人は色々と経験する。色々な人と出会い知識も集める。でもなぜ人は忘れるのか?それがわかるのは老人になってからである。たしかにその女性は私の兄に当たる人と一つ屋根の下で子供の時五年間一緒に暮らしていたのである。でもその女性はその人のことを何も憶えていない。その人はいなかったと言っているのである。その人は確かに実の兄ではない。でも一緒に子供の時、五年間も居たのだから忘れるということはありえないと思った。実は私も私の家で兄と一緒に五年間いたのである。それは私が一歳から五歳くらいまでであ。だから記憶はあまりない。

でも確かに一緒にいたということは覚えているのである。その時あんにゃと言ってたからである。その兄も40歳で交通事故で死んだのである。記憶にないということはその人が存在しないということでもある。それは認知症になると自分の子供すらわからわからなくなり。記憶から消えるのである。となると自分の子供すら存在しないとなるのである。こういうことは老人になると起きやすい。50年前のことをどれだけ人は覚えているだろうか?確かに大学時代にその人はあっていた。でも今になると、その人が本当に存在したのかとまでなる。 
去る者は日々に疎しであり。その人自体が非現実化してくるのである。だから死ぬとたちまち存在が曖昧のものとなる。それは60年も一緒に過ごした家族ですらそうだった。ましてその他の人はもっと50年も過ぎれば記憶から消えてしまうのである。

でも何か知的作業をするとき必ず記憶されたものは大事になる。なぜなら記憶されたものから過去をたどりいろいろと創作するからである旅をしたとしてもそれも過ぎてしまえばその記録も朧となり。思い出せなくなる? 特に車とかバイクは速すぎて振り返ればその途中を記憶されていないのである。 ただ一番生々しく感じているのはその時、その場のことである。
でもそれも時間が過ぎれば記憶も曖昧となり何を感じたかということも定かでなくなる。それで不思議なのは過去に書いた文章でも俳句でも短歌でもこんなものを作っていたのかと自分で作ったものに感心しているのである。プログだと時間軸でたどれるから過去を思い出すにはいいツールだとなる。

それは読書にも言えた。膨大な本を買って読んで印まで付けていても思い出せないのである。思い出せないというより本を理解していなかったのである。つまり力不足で本を理解できていないから。いくらしるしをつけていても、忘れてしまっていたのである。
千冊本を買って読んだとしても実質はせいぜい十冊ぐらいは深く読んだとしても、あとは読んだともならなかったのである。だから、これまで買った本を整理してもう一回読んでみるとまったく初めて読むように新鮮だったともなる。 ほとんど記憶すらされていなかったのである。その理由は、そもそもが理解されていなかったことにあったのである。 

いくら本を読んでも理解しなければ記憶されないということである。 そうして今なぜこうして買い集めた本を読み直してみると。理解しているのか不思議である。とにかく私は何か理解すること会得することが遅すぎたのである。すでに60過ぎとか70過ぎになって。ようやく理解するようになっていたからである。 

本を一冊読んで理解することは相当に難しい。これはやはりそれだけの内容があるということである。 だから若い時は理解できないし、中年になっても理解できていなかった。つまり記憶するには理解することが大事なのである。勉強でも暗記だけは身につかない理解力がないと身につかないのである。その理解力をつけることは難しいのである。例えば本を引用するにしても本人にただ習うまねるだけでなくその人自身のものが思想が80%ぐらいがあってあと20%をほかの人の引用などを利用する。理解力はない人はただ他人の物を引用しているだけだともなる。だから意外と引用すること自体が難しいのである。その人自身の独創的なものが80%ぐらいあって、あとの20%ぐらいを他の物を利用する。 その80%が本体を形成していて引用はそれに付け足すものとしてある。でも若い時はその本体がないからただ引用しているだけであり理解されていないから読書しても身に付いていなかったのである。

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●記憶される場が大事

記憶が失いやすいのは外国旅行どうして見れば分かる?そこはあまりにも変わっているから 戸惑ってしまう。それで記憶から消えてしまいやすいのである、だから記憶に定着させるにわ本当は一回だけでなく、2回、3回と行くことが必要なのである。でも外国旅行になれば、そんなことはできない。一回限りで終わるのが多いのである。だから記憶から消えやすいのである。それでせっかく外国旅行してももったいないとなる。金と時間をかけても。記憶されないされるものが。やっぱり消えてしまうのがもったいないのである。

また人間が記憶するというときどういう場所が記憶されやすいかとなると都会のような混雑した入り組んだところは記憶に残らない。路地裏の道を歩いたとしてもその場所は記憶されにくい。都会のことは記憶されにくいのである。もう混雑していてそこに居るの人は記憶されない。ただ、群衆として消えてゆくのである。今はこうして人でも記憶されにくいのである。もし一対一で合っていれば、そういうことはないかもしれない。でも旅とかであっても忘れてしまうのである。それは瞬間的な出合いでもあり忘れるのではある。

記憶するというときその場がとか全体が関係している場合がある。なぜか?最近死んだ自転車屋のことを思い出す。その自転車は屋は駅前でずっと仕事をしてきたのである。だから駅とも一体化していたし街とも一体化していたのである。だから死んでも。その人が街の中にいて駅前にいる感じになったのである。その人の記憶は街の中にあり駅の前にあったのである。 だから駅から降りるとその自転車屋の人がいる感じになるのである。でも今はそうして全体から切り離されて一体化していない。自転車屋は街の中で役割があり一体化していた。 でも会社員とかなると今は街と関係していない。またスーパーであれ、コンビニであれそこで働く人を人は記憶するだろうか?それがわかるのはそこに働いてしたい働いていた人がいなくなってもその人が誰からも記憶されない。ただ一つの部品が消えたという感覚になる。現代ではそういう事が多いのである。

とにかく人間を忘れやすいそれで墓があるがそれは忘れないようにするために記念として作ったのかもしれない。なぜなら死んだら本当に何か形あるものもなくなり故人を忍ぶものもなくなるからである。それで故人を個人を死者を忘れないために墓として物体として残しそれで義務的にでも墓参りして死者を記憶し続ける。人は死んだら形もなくなり忘れられるからである。

老人が記憶が大事だという時それは記憶自体が生きることになっているからである。何を人生で経験して記憶したのがそれが人生になってしまう。でもその記憶自体が曖昧となり。自分の記憶したものも伝えられないということもある。記憶したものを文章にしたり、写真にしたりにしたりするしてそれが残り記憶がよみがえるのである。今はスマホとかで簡単に写真に残せるから便利である。そしてその写真を見て思い出すのである。でも写真にしても。それはどの場所だったのか?またいつだったのか?それが不明になることがある。だから場所と日付が。時間が大事なのである。 

かりそめに通りすぎて
十分に愛さなかった かずかずの場所への郷愁よ
それらの場所へ 遠方から 何と私は与えたいことか
しわすれていた身振りを つぐないの行いをもう一度ー今度は独りでーあの旅を
静かにやり直したい
あの泉のところにもっと永くとどまっていたい
あの樹にさわりたい あのベンチを愛撫したい
(リルケ) 

本当にこれだけ旅した自分でもつくづくそう思う、もう二度と行けなくなたともなるからである


●忘れられた医者のこととその空家

記憶という時不思議なのは近くの医者のことである。その医者のことは常に語られていたのである。口が悪い医者だが腕はよかったのである。私の家にも父が病気になった時、往診にきたし母の時も往診に来た。だから近くでは身近な存在だったのである。でも母は口が悪いので。嫌っていて別な親切な医者のところに行っていたのである。
でもなぜ?その医者は死んでその息子も医者だったのだが最近死んだ。その人は、一人息子だから今は誰も住んでいない。もともと息子は東京に住んでいたのでその妻も子供もこの土地に親しみがない。そしてその家を見ると去年の大地震で屋根が一部壊れている。それから戸なども戸などもいたんでいる。

でもその家を直すこともない。ただ放置されているのである。そしてその医者について何かこの辺で語る人もいないのである。それはその医者と関わった人は多く死んでしまったからである。でもあれだけその医者のことを騒いでいたのにぱったりと何も語られないということは不思議なので、それもなんなのだろうと思う。その家はいずれは朽ちてゆく。なぜならその家に住む人が家族がいないからである。だからそこももったいないと見ているのである。
ただ、空き家が残っていると依然として、その空き家は住んでいた人のことを思うのである。空き家もなくなれば次に語るものがなくなる。原町の大原にある空き家は幽霊屋敷のようになって壊されないで残っている。その家の中に入ったら本当に幽霊が出てくると思った。この家に住んだ人の。霊が取り憑いているような感覚になったのである。 だから物には霊はつくとなる。住んだの人の霊が例が取り憑いているともなるのである。一度この世に生を受けた者は簡単に消えたくないのである。

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2023年07月04日

記憶をたどる旅(東菊(あずまぎく)の由来ー失われた人間の五感)


記憶をたどる旅(東菊(あずまぎく)の由来ー失われた人間の五感)


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岩と霧その名の良しや東菊


忠実な臣下や妻や東菊


霧晴れて様々の花現れぬ一時見しも霧また覆いぬ


●東菊(あずま菊)の由来


アポイ岳は花の山として有名である。様々な花が咲いている。高山植物を低山で見れるから貴重である。そこに登ったのだがその記憶も曖昧となってしまった。それでいかに記憶というものが大事なのか、これでもわかる。何を見て何が印象に残ったのかを記憶されていなければそこに行ったともならなくなる。なぜかアズマギクというのを見たのを覚えている。それがそれを覚えていたのは実は実物からだけではなく後から調べて東菊(アズマギク)というのはあるのを知ったからである。それは霧の中に紫色に咲いていた、小さな菊である。図鑑で調べてみてもそのアズマギクは色がもっと紫色で濃いものとして見ていた。


だから必ずしも写真で撮ったものと記憶が一致するということでもない。なぜならそれは名前から記憶されていたからである。だから意外と名前というのは大事なのである。名前から人でも植物でもいろいろなものが想起されるからである。エデンの園では人の仕事は様々な植物でも花でも名前を付ける事だったのである。他にも地名に興味を持ったがこれも地名という名前からその土地の状態を想起する。 そこに地名の効果がある。地名一つから様々なことが想起される場合があるからである。電車の旅だと駅名が記憶されるのである。 


最初、私は電車の旅をして地名に興味を持ってそこから地理とか地形とかに興味を持つようになったのである。 もし地名とかがなければ、その土地のことを記憶する手がかりがなくなる。 それで人間にとって名前が大事な物となる。人の名前でも名前からその人を記憶するからである。名は体を現わすなのである

それでアズマギクというときやはり東というのが印象的に残る。あずまというときそこから吾妻と言う地域を連想するからである。それは歴史的にも東というのは関ヶ原を境にして東になるからである。そこはまた古代では蝦夷の地域だったともなる。


あずまの語源は? 



この「あずま」という言葉は碓氷峠から東、群馬・関東の方を見て日本武尊が「吾嬬(あずま)はや……」と言ったのが語源だそうです。 「わが妻はもういないのか」と言う意味 日本武尊が関東を平定し、信濃に入ろうとしたとき、碓氷峠から関東平野をかえりみて愛する妻を偲んで言ったのだそうです。


東は我が妻のことなのか?それが地名化したのか?でも何か不自然なものにも思う。別な説として安曇族が東になったという説もある。あずみがあずまになった。なぜなら思った以上に安曇族の痕跡が多いからである自分の住んでいる場所にも綿津見神社と山津見神社が多い。それは安曇族の痕跡なのである。 最初、安曇族は東北地方に入り開拓したのである。それで吾妻山と言うのが福島県にあるともなる。ただここに妻をあてているからヤマトタケルの神話が影響している


とにかく、日本の歴史は西が最初に繁栄して次に東が繁栄したのである。 鎌倉時代に関東武者が鎌倉に幕府を置いた。その時から東が日本の中心になってきたのである。東を治めなければ。日本は治められなかったのである。 征夷大将軍の名は東を征服することだからである。その名は東を制服するということで家康の時代までそれは継続されていたのである。このように花の名一つでも地名でもその土地の歴史とか地形とか様々なものが想起されるのである。



●秀吉の一夜城に行った記憶



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走り来て三日月光る一夜城




長良川西岸の洲股(墨俣)[2]の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた(墨俣川の戦い)。斎藤氏側で築いた城は斎藤利為らが城主を務めた。また、1561年永禄4年)ないし1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がわずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられている。これがいわゆる墨俣一夜城である



旅の経験として秀吉の木下藤吉郎時代の美濃との戦い一夜城を築いたことは有名である。私はその一夜城に向かって自転車で走ったのである。実際に夕暮れになっていて一夜城に着いたときは三日月が光っていたのである。

一夜城とは夜をとうして城を作ったからそう名付けられた。まさに私自身がそこまで自転車で走ったということで一夜城と一体化したのである。それが車で行ったらそうともならないのである。藤吉郎もその時走っていたからである。

ただそこが流れ河の洲の俣ー墨俣にあるとわ思わなかった。細い小川のような水路に沿って走っていたからであるでる。長良川の岸辺の水路だったのである。このように地理というのも実際に行っても一回ぐらいでわわからないのである。でもそこを走ったということが体で記憶されていたからこうして思い出しているのである。


まずここを車で行ったりしたら、このように記憶されないのである。だから車は便利でも意外と記憶されない。旅の記憶とならないのである。要するに鉄道であれ車であれバイクであれ便利なものは旅をしても記憶されない。一番記憶されるのは歩いた旅なのである。私自身がこれほど旅をしても歩いた旅はしていないのである。つまり歩いて大地を踏みしめて人間の五感で感じる旅を今している人はいないのである。例えば西行小夜の中山の歌は歩いたからこそできた迫力ある歌だったのである。


年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山


この小夜の中山は万人に強い印象となって記憶されたのである。もう今になればそんなところ車で通り過ぎれば感じもしないのである。このように記憶されるということが大事なのか分かる。記憶されなければ後で振り返ることもないし印象に残ることもないし。何も残らないとなるからである。車のない時に歩いて。作られた歌でも俳句でも今になると作れないのである。今は車の騒音にかき消されて実際は旅しても何も残らないとなるのである。残ったのは騒音だけだったとなってしまう。つまり人間の五感が。活かされない時代になったなったのである。



2023年07月05日

日本はなぜ衰退したのかItに遅れたのか? (2ちゃんねるの創設者ひろゆきは先駆者だった?)


日本はなぜ衰退したのかItに遅れたのか?

(2ちゃんねるの創設者ひろゆきは先駆者だった?)

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日本の未来を奪ったのはこいつらが原因です…。日本経済が停滞した理由を正直に話します

●通信機器つきのワープロか始まった私の経験

私がなぜインターネットに深入りしたのか?それは私が悪筆でありワープロを早い時期から始めたからである。ワープロならただ文章にすることでありわかりやすかった。でもそのワープロに通信機がついていたのである。そのことが大きまことだった。ただ文章を活字にするだけならそれは大したことではなかったのである。最大の技術的革新は通信機能があったということである。

そしてそのワープロで通信するということは相当に面倒なことだったのである。そんなことができたのは私が引きこもりで暇だったからである。その時その通信にかかわったのは理系だった。ということは理系のが専門的な人が関わっていたのである。不思議なのは一個人がbbsとか通信できる場を個人のパソコンでて提供して通信していたのである。
最初はただそうしてワープロでありそこで通信できるということが驚きだったのである。電話なら声でするが、文字で通信するということが革新的なことだったのである。

だからそのことがなかなか自分には理解できなかった。文章で相手と話するということがどういうことかのみ込めなかったのである。
それをしていたのが一個人でありそれで2ちゃんねるとか創設したのは今有名なひろゆきである。20代でそれをしていたのである。でもその人は理系ではなく、文系だったのである。専攻は心理学だからである。ということは、文系でもパソコンを操作できるものだったのである。

●インターネットが世界的になることが予想できなかった

そのときパソコンは何かおもちゃのようなものだったのである。その前にパソコンは巨大な機械でありそれが個人でも利用できる小さなものとなったのである。パーソナルコンピューターとなったのである。その変化も大きいものだった。 win95が出るまでパソコンはそういうものがなく不便なものだったのである。
でもやはり先進的なもの新しいものを取り入れる作り出すのは若い人だったとなる。なぜならひろゆきが20代の時、私はすでに40を過ぎていたからである。別に私はコンピューターとかには何の興味もなかった。たまたまワープロを使っていて、そこに通信機がついていたので始めたのである。その通信できるということが、実は最も革新的なことだったのである。そこからインターネットが発展して現在に至っているのである。

だから人間というのは先を見通すことがいかに難しいことなのか分かる。そこで最初行われていたことは実験に過ぎなかったのである。それでもそれが新しいものを生むものとなっていたのである。
その最先端に触れるものはやはり若い時である。だからこそひろゆきが20代で2ちゃんねるを作ったのである。でもその前にbbsとかあり地域でそういう通信を行っていたからひろゆきだけが発明したものでもなかったのである。bbsの全国版が2ちゃんねるだったのである。

その前にまた。富士通が提供したパソコン通信があり。それは富士通が主催して富士通は取り仕切っていたのである。何か私は富士通と言うのに親しみを持っている。というのはワープロでも富士通の親指シフトを使っていたからである。これは文章を打ちやすいので馴染んだのである。富士通はやはり通信関係で大きな役割を果してきたのである。
私は2ちゃねるを余り利用していなかったがニフティでは発言して参加していたのである。でもそれがどいうものか飲み込めなかったのである。文を書いて話することがどういうことなのか理解できなかったのである。そこは富士通で運営していたから実は今のインターネットのような自由はなかったのである。制限されたものだったのである。でも会社で最初に通信で先駆者だったのは富士通だったのである。ひろゆきは個人でしていた
でも地域でもBBSを開いていた人がいたのである。その人たちも先駆者だった振り返れば思う、パソコン自体が今とは違ってオモチョのようなものでも高いものだったからである。

●先駆的役割を果たすのは若い人

ともかく先駆的役割を果たすのはやはり若い人である。その時代の先端的なものをいち早く感じて実行する。 
でもなぜ日本ではインターネットが発展しなかったのか?技術力がなかったのか?何かそうでもない。つまりインターネットが普及する前に始めたときそれがどういうものになるか見えなかったのかもしれない。
日本人に必ずしも能力がないとも言えなかったのである。これが世界を席巻するなどということをその時見えなかったのである。それは最初はただの遊びのようなものだったからである。それがアメリカで優先して先導して巨大な世界をする支配する企業となったのである。日本が最初からそういう未来になることを見てそこに人材を投資して金を投資していればITで遅れた国にはならなかったかもしれない。だから人間は先ををみることが大事なのである。

日本のものづくりで、高度成長で成功したのは?やはりものづくりとしての日本の歴史的伝統があったからかもしれない。でもこの.itというのはこれまでのものと技術とは違ったものだったのである。 ものづくりなら何か素人でもわかりやすい。ITは何か分かりにくいのである。 だから最初パソコンでもおもちゃのようなものでありまた通信でもそんなものは利益を生み出すように思えなかったのである。

ものづくりなら具体的なものとして見えているしわかりやすい
でも.itというのは何かものを作り出すものでもない。それでそれが何を意味しているのか解らなかったのである。だからgoogleとかフェイスブックでも今一番儲けているとしても車とか機械とかを作り出していないのでなんでそんなに儲けが出るのかということが理解できないのでそこが盲点になって、日本ではItに遅れたのである。
つまり技術でもなんでも今までにない新しいものを理解することは難しいのである。でもその新しいことを発明したり新しいことになじむのは若い人でありもう40過ぎるとなかなか新しい事になじめない。私はたまたま引きこもりでそういうことを家にこもってしてたから馴染んだのである。ここに引きこもりの効用があったとなればある。

ともかく何故、高度成長以後30年間も失われ時代になったのか、それはなぜなのだろう?それは.itでも日本では普及しなかった。その能力がないとも言えなかった。おそらくインターネットとかが何を意味しているのか?それを理解していなかったのかもしれない。それは最初の通信でもそうだった。文章で話するということは何なのか理解できなかったのである。だから新しい技術というのはみんなすぐに馴染めるものではないのである。だから最初、鉄道が生まれた時馬と競争させたりしたのである。そのとき馬が運ぶ物移動するものとしてあったからである。
馬の方が鉄道よりも競争して勝てると思っていたのである。こういうことが常に技術の発展で起きてくるのである。信長はいち早く鉄砲を利用したのもそのためである。それで武田の騎馬軍団は敗れたのである。馬に固執した結果としてそうなったともいえる。

●高齢化社会で日本は保守的になり変えられない

また、日本が変えられないのは高齢化社会になったためである。どうしても老人は保守的になり。新しいことを取り入れることができなくなるのである。でも老人はこんなにも多く金もあり、権力持っている。すると若い人が新しいことをしようとしても、金も権力もないのだからできないとなる。
それは私自身の経験でもわかる。親の遺産を受け継いだ60過ぎだからである。そして実際に使えたのは70以降だったのである。そうなると、いくら金があっても権力があっても何か新しいことができないとなる。
権力があり、金があっても若さがなければ。何か新しいことができないということである。ただ、これまでの経験を振り返ってこうして文章にしたりそこから何かを与えることはできる?でも現実に何か新しいことをすることは老人には難しくなる。だから私は。70までもスマホなどしていなかったのである。それをパソコンの延長だから理解できないことはなかったがしていなかったのである。それだけの暇がなくなったとも言える。介護とか家事に追われてできなくなったのである。

ただ、老人になると金と権力がないと若い人も相手にしない。それで近くの老人が娘にみんな金を預けたら近くで世話してる人がお金に困っていてもお金を与えることができない。それでその近くの女性も老人であり金がないからお金をもらいたいとしてもらえない。それで疎遠になってしまったのである。つまり、老人から金と権力を取れば、誰も相手にしないということになる。そうなれば老人は金と権力に執着することになる。 

いずれにしろ日本が停滞し、成長しないのは老人が病人が多すぎることである。その医療とか介護とかにエネルギーを費やしたら何か新しいこともできなくなる。老人にしても金と権力がなければ相手にされないとなれば、その金と権力に執着することになる。簡単にはその地位とかを手放さないのである。何か革命が起きるときは大きな天変地異とか外国からの侵略とかで起きてくる。

それは明治維新がそうであり戦争に負けた焼け野原になった時がそうだったのである。そのくらいのことがないと変えることはできない。そこでまた大きな犠牲が払われる。 能力があるとかないとかは実際はわからない。そういう場に立って立たされた時懸命になり必死になり何かお若い人でも成すということがある。
それが明治維新で20代の人が活躍した所以である。それは命がけなのだから、とても老人等はやれないのである。切りあいをして鉄砲で打ちあうことだからとてもできないということになる。
老人に向いているのは鑑賞的生活である。何か物事を深く見る。深く考察する。ただ激しい行動をすることには向いてないのである。ただその洞察は深くなり批評とかに向いてくるのである。
今自分は田舎でそういうことしてプログで発表しているからである

2023年07月06日

科学技術は万能ではない (地球はもう増えた人類を養いないー人口が減り森が回復する)


科学技術は万能ではない

(地球はもう増えた人類を養いないー人口が減り森が回復する)

●科学技術はいい点ばかり強調される

科学技術の時代である。科学という時技術でもいい点ばかり強調されるのである。それは利益にもなり金にもなるからである。そのデメリットの面はあまり強調されないあったとしても隠されるのである。そして科学技術が万能になり。科学技術振興が現代で生まれた。科学技術が全て良いものであり悪い点は指摘されないのである。そのために原発事故が起こったのである。

ソーラーパネルでも全て良いものとしては無い。景観の破壊がありすべて良いものとしては作用しない。山ごとソーラーパネルにしてそれが大量の雨が降った時崩れて木がなくなったので貯水能力がなくなるから川に水は直接流れて下流で洪水になるかもしれない。
ただ私も玄関にソーラーパネルを備えた。それは小型のセンサーライトでありそれをつけて便利なものだと思った。なぜならそこに電池を取り替えることなどしなくてもいいからである。だから科学技術というのは悪いものでもないのであるがいいものでもないのである。原発でも小型原子炉ならいいというのもそうである。。その利用方法によって悪くも良くもなるのである

ただいいことばかりが強調されやすいのである。空飛ぶ自動車とかでも技術が未来の技術として期待される。でもそこには必ず悪い点がある。必ず技(わざ)わざわいとなる。ブンブンと空飛ぶ自動車が飛んでいたら落ち着いて過ごすこともできなくなる。車の騒音で苦しんでいる、交通事故になる、何かそういうマイナスの面が技術には必ずあるのである。
だから神話ではゼウスから火を盗んだプロメテウスが過酷な罰を受けたのである。実際は危険なものが潜んでいるからである。それを証明したのは原発だったのである。もう取り返しのつかないものとなりプルトニウムが2万年残って消えないとかなったのである

●原発事故の原因も現代の科学技術信仰にもあった

とにかく科学技術はバラ色の未来を示す。そしてあたかも万能のように思わせるのである。そこに落とし穴がある。 何か科学技術には必ず反作用があり問題が起きるのである。農業にしても農薬の使い過ぎで土が疲弊して作物が取れなくなったとかある。つまり農業にしても科学技術が関わりそれが自然を破壊するということがあったのである。 
ただ科学技術は直接的にわかりやすく恩恵を与えるからそれはそれに反対する人はまれなのである。原発でもどれだけの金がそこに使われたか?事故後も何兆円のものの金が除染とかに使わわれたのである。だからその金の大きさに驚いたとなる。するとその金が欲しいとなり危険には目をつぶったのである。 
医療にしてもあらゆる病気が治されようになる。科学技術が万能のように思わせる。そこに人間の奢りがあり科学技術の崩壊が起


科学者、今や神官となり科学技術が信仰ともなっている。それはやはり神に対する挑戦でありうぬぼれであり神によって砕かれるのである。万能の力は神にしかない。人間は絶対に万能の力を持つことはできない。だから科学技術には必ずマイナスの面があり。技がわざわいとなる宿命にある。一見いいようでもそれが悪いものとなってしまうのである。 だから科学技術を全面的に受け入れるということは警戒しなければならないのである。
でも科学技術は全て良いものとして受け入れやすいのである。科学技術がもたらす災いを見ないのである。それは原発でもソーラーパネルでもそうだった。ソーラーパネルだと自然のエネルギーを利用するのだから。太陽光を利用するのだからいいものと思われていたのである。でも実際は自然の景観を壊したり。山を禿山にしてそれが洪水にもなる危険もあったのである。 

だから、そもそも原発にしても核兵器にしても核自体を発見して利用したことが危険だったのである。それで科学者自体が危険なを察知していた。でもそれは無視されたのでは?そしてその核によって核戦争によって人類が滅びるとまでなる。科学技術技術にはそういう怖いものがあるということを知るべきだったのである。
でもそのことは全く教育もされていない。科学技術とは完全な善だと思わされていたのである。だから遺伝子操作にしても危険なものがある。でもそれが便利なものであり利益になるからそれに反対する人は少ないのである。人間はそうした危険より利益を優先するからである。 科学技術を何か制御するというものがないのである。また、人間社会からタブーというのもなくなった。何か禁止されるものはない。ウイルスにしても実際は風土病であり一定のせまい地域でしか伝染しなかったものである。でも交通が発達して世界中にウイルスが広まるようになったのである。 

●人口が減れば自然が森が回復する

資本主義経済というものも限界に来たのはそれは拡大、拡散、成長、増産、増大をひたすら目指すものでありそこに減らすという思想がないのである。そこに現代の環境破壊と荒廃が生まれたのである。
だからこそ、資本主義は行き詰まり限界がきたのである。 人類の人口でも地球が養える人口は限界にきている。もうこれ以上人口は増やせないのである。それだけを養う食料もないのである。だから世界的に人口が減るのは自然の理でありそれを全て悪い物とはできないのである。もちろんいろいろ困ることはあるにしても大局的に見ればやはり適正規模の人口を目指してその風土、土地にあった社会を再構築するべきだとはなる。ただ人口が増えればいいと言うのはもう時代に合わなくなったのである。

動物を見ているとある。一定の地域で増えもしないし、減ってもいいないのである。ということは一定の地域で食料となるものがありその食料の分だけ動物がそこに住んでいられるのかもしれない。ある動物がネズミとかでも増え過ぎれば自然のバランスが崩れて何か問題が起きたということである。
確実に今や人類は増えすぎた。だから人口は減ることは全て悪いとはならない。なぜなら聖書でも人口は1/3になると書いてある。そのくらいが適正規模だということである。そのために三分の一にするために疫病なのか?天変地異なのか。戦争なのか?人口を神によって減らされると記されている。 

そこで見ていると、見よ、青白い馬が出てきた。
そして、それに乗っている者の名は「死」と言い、それに黄泉が従っていた。
彼らには、地の四分の一を支配する権威、および、つるぎと、ききんと、死と、地の獣らとによって人を殺す権威とが、与えられた。
(黙示録6)
 第一の御使が、ラッパを吹き鳴らした。
すると、血のまじった雹と火とがあらわれて、地上に降ってきた。
そして、地の三分の一が焼け、木の三分の一が焼け、また、すべての青草も焼けてしまった。
(黙示録8)

すでに地球の森の1/3は焼けている失われてしまった。今も失われ続けているのである。だから。人口が何かの天変地異とか戦争であれウイルスであれ減らされるこことはありうる。そこで失われた木の1/3地の1/3が回復するのである。草原も回復する。
日本だったら森に覆われていて。森の国だった。その森がさらに回復するのである。科学技術は万能の時代となったが。逆にその弊害も大きなものとなった。それで今森の回復が望まれているのである。大陸では外国では山でも一般に木のないところが多い
モーゼの登ったシナイ山などは一本の木もない岩山である。だから荒寥としているのである。他でも中国でもどこでも山に木がないのである。

SDGs(持続可能社会)が世界的に望まれる

だから日本くらい木があるところはない。森があるところはないのである。だからこそ鎮守の森がいたるところに残っている。それは縄文時代から日本は森に覆われていた国だからである。
また農薬などで土も汚染されたり過剰に使用されて酷使されて栄養分が消失している、そして遺伝子を操作することも危険がある
それも人口が増えて過剰に生産することに問題がある,地の三分の一が焼けとは土が使いないものになり食料が生産できないものとなる、SDGs(持続可能社会)が今のぞまれているのはそのためである。

 人口が減ればその森は再生回復するのである。このマイナス点も大きいのだが逆に成長進歩とかということは限界であり、それを続ければもう地球に住めなくなるのである。現実に原発事故でこの辺はゴーストタウンになり人が住めなくなったからである。
だからすべて科学技術に未来を見ることは危険なのである。科学技術を全部は否定できない。その利用方法が問題なのである。小型のソーラーパネル付きのセンサー付きのライトはいいものである他でもいいものはある。でも科学技術が規模が巨大になると。自然を破壊してしまうのである。だから科学技術も制御するということも大事になってきたのである。でもこれは何かマイナスであり。常に科学技術は人間が万能のことを示すものでありそこに危険なものがあっても無視されるのである。


持続可能社会というとき例えば子供の時水道がなく近くの家の井戸水をもらっていた。それは60年前以上である。そこの水が。依然として出ていた。この辺は原発事故になり。水すら飲めなくなった。でもそこの放射性物質を検査してもらったら飲めるという。それで飲んでもでもいいからと言われて今その水を飲んでいる。地下水絶えることなく水を供給するのである。夏だとその水は冷たいのである。だからこそスイカなどを井戸で移動で冷やしていたのである。その井戸水は今になると貴重に思えた。それはすぐ近くにあり絶えることなく水が出てた出ていたということで持続可能社会のSDGsの見本でもあった 


馬酔木なす栄えし君が掘りし井の石井の水は飲めど飽かぬかも


井戸の水は絶えることなくあり飲めど飽かないのである。その自然の恵みは絶えることなく持続可能社会(SDGs)の象徴だったなる



posted by 天華 at 08:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

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I saw this same scene in the forest

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人間は言葉からイメージする、でもその言葉と映像が結び付くことはむずかしい、象形文字の感じだと現実の映像とむすびつく、だからアルファベットと違う、でもアルファベットすら元は牛とか家とか現実にあるものと結びついていたのである

だから文字はもともと象形文字だった、ただなぜ文章から映像がパソコンで作れるのか不思議だとなる。どいう仕組みで文章から映像が作れるのか想像できない、文章ならコンピューターでつくれることはわかる。

何故文章から映像ができるのかわからないのである。コンピューターは人間の脳の代わりにある、そこが今までの技術と違っている、でもartが技術の意味だからそうなっても不思議ではないとなる

Humans imagine from words, but it is difficult to connect words with images, and hieroglyphs are connected to real images, so they are different from the alphabet, but even the alphabet was originally connected to real things such as cows and houses.

That's why the letters were originally hieroglyphs, but it is strange why images can be created from sentences on a computer. I can't imagine how you can create a picture  but I know that you can create text with a computer.

They don't know why they can make images from text. Computers are in place of the human brain, which is different from conventional technology, but it is not surprising that this is the meaning of ART technology.

2023年07月07日

世代間の差と職業の相違で互いに理解できなくなる人間 (見えない貧困と忘れられていた氷河期世代)


世代間の差と職業の相違で互いに理解できなくなる人間


(見えない貧困と忘れられていた氷河期世代)


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貧困大国ニッポンの闇|中退、パチンコ、ジャンクフードが希望になる理由(室伏謙一×鈴木傾城)

https://www.youtube.com/watch?v=ZxPid10E4J4


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【エルダリーVS 若者】世代間問題は身分制度による分断統治の現代版だ。政府、メディアの「対立分断政策」に騙されるな!-masakazu kaji-

https://www.youtube.com/watch?v=YqISZU63Tvk



●見えない貧困


人間は年齢が十年違うと世代の差が出てくるだからなかなか下の世代のことは理解できないし上の人の世代の人のことも理解できなくなる。 

なぜなら団塊の世代というとき私たちの世代は戦後の焼け野原から始まった。そのときはまさに焼け野原になり、何もなくなってゼロから開始することになったのである。みんな貧乏だったのある

貧富の差はなかったのである。家にあるのは飯台一つである。電気製品など一つもなかったのである。それはみんな変わりなかったのである。


むしろ農家は家で食料があり卵でも鶏を飼っていたから食べられた。また納豆とかも。油とかまで。自家生産だったのである。

みんなこうして貧乏だという時。かえって住みやすいということもあったかもしれない。何か引け目を感じるということもないからである。みんな貧乏であればそうな。


今の貧乏が隠されて見えないというとき貧乏というものは何かわからなくなったのである。でも実際にそういう貧乏な人は増えている。だからこのユーチューブで語られることを私はそういう貧乏な人と接して理解したのである。

その人はタバコを吸っていた。女性なのに吸っていただからやめられないのは絶えずストレスになっていたからである。金に追われてその日ぐらしになっていたからである。だからそのストレスを発散するためにタバコをやめれなかったのである。でも脳梗塞になりたばこをやめた。タバコは血管に悪いものであり、それが脳梗塞の原因になったともみられる。 


とにかく日本が貧乏になったという時その貧乏が見えないものとなっている。だから貧乏人はどこに居るのか?貧乏人というのはどういうものなのか分からなくなっているのである。別にぼろを着ているわけでもないし見た目でわからない。ただ市営住宅などに住んでいれば貧困なのかと見る。 ただまともなものも食べられない。それでジャンクフードを食べそれが体に影響している。医者に行くと栄養を摂りなさいと言われるが今は食料品も高くて買えないのである


●職業の相違で互いに理解できない


世代的には戦前世代があり、戦後世代がある。戦後世代はすでに80から85以上の人であり少なくなっている。団塊の世代の親は?戦争を経験している。だからその語ることが。重みがあった。何か別に知識人でなくてもその経験した重みがあったのである。なぜなら、戦争というのはあまりにも特殊なことだから理解できないからである。人が殺しあうということなど理解できないからである。だから今ウクライナ戦争でプリゴジンという民間の傭兵隊が官僚に対して戦場に来て戦ってみろという言葉を吐いたが。そこに重みがある。命がけで戦っているからである。 そこでバタバタと仲間も死んでいるからである。でもそれがいいのかというとそうでもない。なぜなら自分の母親が戦争を経験したが一番威張っていたのは軍人だったと言っていたからである。


それで今でも墓に二等兵とか上等兵とかその軍隊の位を記した墓を見る でも今になればその墓に注目する人がいるだろうか?戦争とは異常な状態のことでありそこで人間の価値も変わる。プリゴジンは凶悪な犯罪者でありまた受刑者を戦場に出したその数も多いことに驚く。でも戦争に向いているのは、人を平気で殺せるような人なのである。そんな時代が良いのかとなれば、とてもそうは思えないからである。 でも戦争の時は軍人が一番活躍して偉いとなっていたのである。 


ただ、平和な時でも。価値観の対立は必ずある。現場で働く人たちブルーカラーがいるがその人たちは何か事務員などは楽だと見る。もちろんまた学者なども尊敬しない。何故ならその人たちは、高いところに登ったり、危険な仕事をしているからである。それで私も大工さんにお前はただ椅子に座って本読んでいるだけだとと言われたのである。ある意味でそういう人たちを軽蔑しているとまでなる。 

それも一理あるわけである。ただ金融関係に勤める人で金を右から左に移して巨額の暴利を貪る人がいる。それもまた同じであろう。なぜそのそういう人たちがそんなに金が入るのかと命がけで現場で働いている人は不満になるのは当然だとなる。


ただ、事務でも知的労働でも頭を使うから結構疲れることがあるでもそういう人たちにはそれを理解できないのある。その価値も理解できないのである。だからここに職業によって、互いに理解できないことがありそれが協力できないことにもなるのである。


●世代間の差や氷河期世代の問題


それは世代間の差でもあり、世代が十年年齢が違うと理解できなくなるので氷河期世代とは何かということが分からなかった。何か自由に非正規として働く事が良い事のように見られていたのである。だから今になって非正規の人が多いからそれが貧困化している。そのことがわかったのはこうして時間が過ぎて分かるのである。人生もまたふりかえれば老人になってわかることが多いのはそのためである。


40歳後半から50くらいまでは氷河期世代になる。そういう人田舎でも結婚してないたいがい結婚しているのが普通だからである。でも40後半から50くらいまで結婚していない人が多いことが最大の特徴でもある。団塊の世代だったらもう結婚しない人は例外的存在である。社会的不適応者となる。私自身がそうだからである。 だからこそ、少子高齢化社会になっているのである。独身世代が本当に多いのである。そしてその人たちは貧困でありその日暮らしのようになっている。正社員になれないからアルバイトのようなもので稼いで年をとったのである。スキルも身についていないとなる


ともかく世代間の差も大きいし職業の相違も互いを理解できなくさせる。現代はさまざまな職業があり、その種類も多く互いに意思疎通させることが難しくなっている。そこにまた世代間の差か男女の差とか地域の差とか色々あって人は理解しにくくなっているのである。 

それで人をまとめるときは個々人に対応することはできない。ナチス的一方的な強制であり軍隊組織にしてまとめるのでる。カルト教団などはみんなそうである。なぜならそこは参謀とか隊長とか軍隊組織だからである。それはカルト教団だとみんな同じなのである。


だから一見平和団体のように見せているが。実は武装すれば、それはすぐに軍隊になるのである。だからこそオウムでも武装していたし他でも創価などでも実は軍隊である。会員に武器を持たせればそれは軍隊になるのである。参謀とか隊長とか組織なのどだからそうなりやすいわけである。だから、それは本来の宗教とは何の関係もないのである。それは宗教を掲げていても容易に簡単に人を殺せと命令されれば組織に人を殺す軍隊と化すのである。



いずれにしろ、今日本が貧困化しているということは大きな問題である。 貧困化しているからこそ氷河期世代が結婚もできなかったということもある。そして大学に上がるにも借金して奨学金をもらって大学に上がっている。でもその大学もFラン大学とか三流大学が多く果たして価値あるものかどうかわからない。まず文系などは独学でもできる。むしろ自分は大学を卒業してから勉強したからである。大学時代はほとんど勉強してなかったからである。それも失敗だった。理系なら価値があるが文系は価値はない。独学できるからである。今ならインターネットでいくらでも。独学できる時代になったからである。


でもなぜ氷河期世代が、大きな問題になるということを予知できなかったのか?それは会社とか政府の都合でそうされたともなる。それが今になって大きな問題となったのである。何か非正規は自由な働き方であり奨励されてもいたのである。実際は政府とか会社の都合で良い様に使われたとなる。それで政府とは会社は良かったが大きくさらに全社会の問題として考えれば。今になるとそれは大きな損失となったのである。


ただ不思議なのは戦争で日本が焼け野原になってもそれが必ずしも悪いものでもなかった。確かに犠牲も多かったからそのことは問題である。でもそこで既得権者が財閥とか解体され小作が土地を得て農業は発展した。だから一見悪いようなことでもそれがのちに良いものとして働くこともある。ただその時代時代にその中で生きているとその時代が見えないのである。今になって非正規のことか氷河期世代のことが話題になっていることでもわかる。その時は見えないのである。そこに人間の問題がある。人間は個々人でもそうだが、集団でも個々人でも先が見ることができできないのである。だからそこに大きな過ちが生まれるのである。それで求道にしてもそうである。


若きうち神をしれ


それは20代で神を知らなければ知ることができなくなるという恐怖である。でも20代はの飲めや歌いや恋愛だとかで、心も身も奪われて終わる。あっという間に青春は終る。でも20代でだいたいその人は決まる。そからこそ大卒、新卒は会社では重要になる。20代でその方向が決まるのである。女性でも同じである30過ぎるとおばあちゃんとか言われるようになる。そして35になるとなかなか出産もしにくいとなる。だから婚期のことをうるさく親は言うのである。それは男性にしても同じなのである。20代でだいたいその人は決まってしまう。それから先がいくらでもあるじゃないかと言うがそうでもない。あっという間に40代になり白髪も入ってきて50となり60となってしまうだからみんななんでこんなに早く時間が過ぎてしまったのかと老人になると思うのである。


現実自分自身にしても何かしようと思ったけれども、何もできずに終わったのである。自分の場合は文学を追求してきたのである。その他でも何かやろうとしたが、何もできなかったのである。ただちょっと試したというくらいで、なんにもできなかったのである。それだけ時間が過ぎるのは早いのである。そして一番無駄にしてるのが時間だったのである。それで非正規の人もう50ぐらいになるともうその時間が取り戻せないのである。何かしようとしても身につけようとしてもできないのである。そして。人生も終わりとなってしまうのである。






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毎日くらい自分の家の墓の前を通っている。その隣に軍隊の位を記した墓がある

二等兵は内地等で教育中のことが多いので、戦地にある兵卒はそれまで上等兵一等兵のみであるのが原則であった。ところが、1937年に始まった日中戦争の長期化に伴い、現役満期(通常の陸軍徴兵は当時2年)即日再召集される場合が増加し、古参一等兵や古参上等兵が増加し、人事運用上の不都合が生じるようになっていった。そこで、上等兵の上に兵長を設けた。

兵長は高い位だった、でも今注意してその位を見ている人がいるだろうか?
ただ墓とはこうして何か人死んでも訴えている場なのである。でも墓でも維持できなくなる。





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野馬追い迫るー南相馬市、鹿島区に旗が立つ (霊山城から落ち伸びた南朝の只野氏一族)



野馬追い迫るー南相馬市、鹿島区に旗が立つ


(霊山城から落ち伸びた南朝の只野氏一族)




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この御家は小高の人が原発事故で鹿島区に移住した、それで旗もでている
これは歴史に忠実ではない、もともとは小高に最初に相馬氏が城を築いた
だからこそ相馬氏の基であり御家なのである

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ノウゼンの通りに咲きて野馬追の旗の立つかな風になびきぬ



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菊の紋二つそろいて坂のぼる南朝の末裔誇らしきかな



菊の御紋は南朝の旗であり只野氏と菊池氏の旗でありわかりやすい、南北朝の争いは日本全国に深い傷痕を残した。

なぜなら明治天皇は南朝であるというのもそうである。南朝こそ正統とされたからである


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秋葉神社は多田野村から霊山城が炎上し落ち伸びた時にもたらされた神社である

だからふるいとなる。最近その子孫で神社を守っていた人は死んだ








野馬追の旗が町に掲げられた。 野馬追は旗祭りでもある。その肌の紋様は3000とか多いので。そのは他の文様もう皆違っているのでそれが気になるのである。それにも謂れがありそれを全部知ることはできない。


鹿島区だと霊山城から落ち延びた郡山市の多田野村に発する只野一族が先祖となっている。だから鹿島区は50人くらいの只野の姓の人がいるのである。この多田野氏は杉の紋様である


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三輪山神社(大神神社)神紋『三本杉』と『三つ鱗』 | 毎日の積み重ね (ameblo.jp)


三輪山は山自体が御神体であり。山に向かって祈るのである。その中で杉は千年とかの樹齢ものものもあり神聖なものとされたのである。

縄文杉などがそうである。それは木材として利用されるものとは違っている。自然のままの木なのである


野馬追の旗印を知るには相馬市がこの地を支配した相馬氏は馬を操作することに長けていた。それで騎馬軍団を形成して強かったのである。それで伊達氏とも戦ったのである。 

相馬氏の領地は最初は小高に来てそこに城を築いた。だから最初の中心地は小高なのである。その後浪江とかに拡大したのである。

でもその中心地域は相馬市。南相馬市(鹿島区。原町区。小高区)になる。宇多郷(相馬市)、北郷(鹿島区)、中の郷(原町区)、小高郷である

それで神社の旗は三色旗は小高神社ー太田神社(原町ー中の郷)ーそして宇多郷(相馬市)となる。原町区の雲雀が原に神旗争奪戦でこれらの郷が結集するのは壮観である。その前日に北郷で宇多郷から殿を迎えて合流するのである。


相馬野馬追は歴史の再現であり野馬追には武家の出でないと行列には出れないのである。勝手に誰でも参加できないのである。

相馬藩の特徴は主君が代変わりしても相馬氏であり変わらなかったのである


三春城を築いた田村氏は、三代80余年で終わり、その後、伊達政宗の勢力圏に入りますが、やがて田村全域が会津領となり、三春城は、本城若松の支城のひとつとして城代がおかれるようになりました。

城代(主君に代って城を守り、命令を伝える者)や城主も目まぐるしく変わりました。

やがて江戸時代になり、正保2年(1645年)秋田地方に勢力のあった、秋田実季の子、俊季が五万五千石で三春城の城主となり、以後11代約220余年間にわたって、奥州三春藩として徳川幕府外様大名として幕末まで続きました


相馬藩の場合はこのように城代が変わらなかった、相馬氏によって受け継がれてきた、それは日本の歴史ではめずらしいのである。それで相馬藩政記は記録として貴重なのである。一貫して相馬藩の継続した歴史を記したものだからである。それで学者も参考にしているのである。

そして今も野馬追には相馬藩の殿様の子孫が大将となって野馬追に出るのである。つまりまだ殿様が現実に活きているとまなっているのである。殿様を家臣一同迎えるとき再興に盛り上がるからである


とにかく野馬追は旗祭りでもある、でもその旗の由来を解き明かすことは至難である。霊山で北朝に敗れて落ち伸びた只野氏は歴史としてわかりやすい、その他はわかりにくいのである。そもそも旗の由来は鎌倉時代とかにもさかのぼるから解明できなくなる

でも野馬追は忠実な歴史の再現であり勝手に由来も明確でないものは出れない、勝手に旗も作れない、先祖伝来の旗生とかっ甲冑を身につけて参加できるものだからである


ただそこにどうしても全員地元の人でも参加できないから盛り上がらない、そもそも野馬追に出る家は限られている、500騎出たとしても全体からすれば極一部になるからである

ただ歴史の忠実な再現だから変えられないのである

だからそもそも地元の人でも限られたわずかの人しか参加できあないとなればそこに限界がある。ただ見ているだけではつまらないとなる

そこで地元の人たちでも何か盛り上がらな理由がある


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http://musubu2.sblo.jp/category/701974-1.html


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posted by 天華 at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)