2023年06月09日

日本衰退の原因は低金利、発展のために金利を引き上げるべきだ (利子は資本主義に不可欠である利子がなくなれば終わる)


日本衰退の原因は低金利、発展のために金利を引き上げるべきだ

(利子は資本主義に不可欠である利子がなくなれば終わる)



低金利は借り入れ側の企業などには有利だが、預貯金を行う国民の側からすれば「富を奪われている」ということになる。本来もらえるべき金利を受け取ることができないということだ。

この「本来もらえるはずの金利」を国民が受け取ることによって、経済が活性化し老後不安も大幅に減少するのではないだろうか。

低金利政策によって「借り手」は大いに潤ったが、預貯金を中心とした資産を持つ国民は富を奪われてきたともいえる。
ところが、2%で貸し出して0.2%の利ザヤしか無ければ優良企業以外には貸せないということになる。

日本産業からチャレンジ精神が失われ沈滞ムードが覆っている大きな原因は低金利なのだ。
そもそも、優良企業は金利が高くても問題は無い。金利コストを十分負担できるし、事業で得た収益を活用すれば、借金する必要さえない場合もある。むしろ運用でさらなる収益を得ることができるかもしれない。
また国民も、利子という一種の「不労所得」は思い切って使う。


前述のように、ほとんど金利がつかない預貯金を取り崩すことには大きな抵抗があるが、利子収入であればもっと気軽に使える。したがって景気浮揚効果が大きいのだ。

こういうことはほとんど聴かない。金利をあげないでその金を回して金を借りさせて事業を起こさせて儲けさせる
でもこのことがうまくいかなかったとここでは指摘している。
このことは国民の貯金した金が奪われていると指摘している。

その金はどこに行ったのか?それは東京などの大都市に流れた。
または地方でわ中核都市に流れた。そしてその他の地域は金利がゼロでも別に金を借りて事業お起こして儲けることもできなかった。大企業を除いて金利をゼロにしても効果はなかったとしている。

●ゼロ金利で老人も不安になり使わない、金もまわらない

それより利子がつかないので消費意欲が減退した。多少金を持っている貯金している老人でも金は使いにくいのは全く利子がつかないからである。人間の心理としていくらお金があっても金を減らすことに抵抗がある。だから金が減るだけだとすると使いたくなくなるのである。もうし高度成長期のように利子がついていたらお金を持っている老人でも相当に消費した。

それが今は利子がゼロであり今になると返って銀行を利用すると金は取られるのである。そしてその預金すら利子がつかないというだけではない。預金封鎖があり貯金は国家に奪われてしまうということが常に言われる。だから今銀行に貯金していても安心がないのである
でもこの金利ゼロからマイナス金利にまでなっているのは日本の景気の浮揚策としてしているということでみんなしょうがないと思い是認していたのである。それで効果があれば何も言わない。
結果的には効果がなかったからこういうことを言う人も少数派でも出てきたということである。
本当に金利を下げて経済がよくなればそれも仕方がないとも貯金する人も我慢する。そうでないとしたらいったいなぜ金利をあげないのかと言う人がいても不思議ではない。
地方の経済でも一向にに成長しない。それはまた大企業や大都市中心にお金がまわり地方には回らない。

現在比較的繁栄しているのは、福岡や札幌などの地方の中核都市である。交通網が整備されたことによって、それ以外の地域から、人もビジネスも「よりよい環境」の中核都市に流れてくるのだ。

東北だったら仙台市に震災後は帰って人が集まり増えた。そして常磐高速とかが開通した結果かい余計に人でも金の流れがそうした中核都市に集まるようになったのである。

もともとは地銀とかは地域の経済の活性化をになっていた。でもその役割もなくなった。そもそもが利子がつかないということが原因でもあったのだ。あとそれはなぜかといえばもし老人が貯金していて利子がついていれば地域でもお金を使うということである。高齢化社会でも地域で消費すれば彼は金も地域に回ってくる。利子がゼロだということは物価が上がれば目減りしているし余計に金を使わないのである。
だから利子がゼロとかさらにマイナス金利にもなっている。このことがかえって経済を停滞させている。もしゼロ金利でも経済が活性化すれば仕方がないとなる。
でも現実は地域でも経済は活性化しないし向上しないのである。

●低金利政策は効果がなかった

ただ私がこういうのはやはりそれなりの貯金があるからだとなる。でも銀行が勧める投資信託とかは銀行の手数料商売でありそれで儲けることはかなりハードルが高いのである。
地銀ではもともと株とか投資信託とかの金融商品は扱っていなかった。それはやはり金利が高く金を貸せば儲かるという時代だったからである。銀行側にすれば金利が高い方がいいわけである。貯金している人も金利が高い方がいいのである。
でも景気を良くするために金利をゼロにしてマイナスにまでしたのである。それでも効果がなかったとすればその政策は間違ったものだったともなる。

低金利政策によって「借り手」は大いに潤ったが、預貯金を中心とした資産を持つ国民は富を奪われてきたともいえる。
ところが、2%で貸し出して0.2%の利ザヤしか無ければ優良企業以外には貸せないということになる。

低金利政策でもう儲かったのは大企業とか一部の優良企業でありほかの大部分は別にを利子無しで借りられたとしてもそれで景気がよくなるとか活性化することもなかったのである。
つまりゼロ金利政策は効果がなかったともなる。

日銀からの融資はやればいくらでもできるが。結局は日銀納付金の減少という形での公的資金てんつまり税金不足という形での税負担がおかしな形での通貨供給量の増大を招き将来のインフレをもたらす
融資先は基本的に日銀融資は目先の資金繰りの話であってツケ回しに過ぎない当面のごまかしが定着してしまうだけである
結局は税金かほかの金融機関からの援助の二つしか資金源はない。ところがほかの金融機関の援助というのは貯金している預金者から見ればその炎上しなければを受けられたであろう利回りの上昇とかサービスとかその金融機関の株価上昇するメリットなどを奪われるだけである-日本には日本の経済があるー菊池哲郎」

日銀の政策でもやることはたいして効果がないとなる。結局預金者がの利益をないがしろにして成り立つものだったのである。

ただ私にしても貯金がある程度ある人はやはり私益から考える。
だから必ずしも公正にはならない、でも現実問題として確かにゼロ金利政策が効果が無いとしたらやはり金利を上げるということも考えねばならない。貯金がない人には関係がないとかにもならない。地域でも貯金する人がありそれに利子がつけば消費するからである

ともかく百年安心の年金など全くない。みんな将来に対して安心感がない不安になっているから消費もしない。貯金でも利子が着けば消費するのである。
それより預金封鎖があるとかなんとか安心がないそのことが心理的にでも相当に影響している。景気が気だという時気持ちに大きく影響して全体的に波及して景気もよくならないのである。
だからなのか利子をあげた方が地域の経済にとっても活性化して金回りがよくなり効果的だともなる。すると安心感があり貯金している人でも地域で金を使うということになる。

ただ一方で貯金がない人にとってはは利子などは関係ない。むしろ金持ちからは税金を取れとかなるのも当然である。
人間はそもそもが利己的なものであり何か自分のことを考えないで社会のことも考えない。ボランティアでもうやはりそこに利己的なものがあってなされる。
宗教団体でも看板は福祉だとしても実際は私益から運動しているからである。
だから私自身でも金利を上げろというとき私益から言っている。でもその私益でも資本主義社会だとそれが経済を活性化して経済を成長するものとして認めているのである。

●金利がつかないと資本主義も終わる

そもそも資本主義社会で金利をゼロにするということは銀行のの収入もなくなりまたそうなると資本主義自体が成立しない。
だからゼロ金利とかマイナス金利になったらもう資本主義は終わりだとなる。そうなれば金利がマイナスなることはもう資本主義の終わりであり社会自体が成立しなくなり大きい変革が必要になる。つまり資本主義が終わり社会主義も失敗したしたから次は何になるのかとなる。そういう時代の大きな変わり目に来たともなっているのである。

利子の下限は限りなくゼロに近いわけだが、それでもあまりに利子を低くしすぎると、今度は貨幣資本家の貸し出し意欲がそがれる。だから、貨幣資本家がある程度納得できるような水準に決められる。それがどのような水準に落ち着くか、明確な基準はないとマルクスは言う。さまざまな偶然が積み重なって、事後的に決まってくるとマルクスは考えた。

利子を取ることはキリスト教でも禁止されていたしイスラム教では今でも禁止されている。でも利子を容認したことが資本主義が産まれ発展してきた。利子を否定したイスラム教は発展しなかった。それは利子を認めるか認めないかということでそうなったともみる。そもそも利子は高利貸など良いものとして日本だってみられていなかったのである。
ただ利子をとること悪いものだとしたら資本主義はありなかったとなる。だから利子の問題は資本主義の根幹をなし銀行が金を貸して利子をとるということは悪いものではなく正当化されて発展したとなる。だからゼロ金利政策とかマイナス金利になるともう資本主義は成り立たなくなる危機だとなる・

そもそも人間が金を貸すときそれを何も見返りもなく一人は貸す人はまれである。必ず何かの見返りを要求しているしそれが具体化したのは利子なのである。
そいうことで貸す方にしても利子を要求する。また金を貸しても返さない人も多い、それで何か担保を要求する。
でも簡単に金は借りられないから家族でも友達でも簡単に貸してくれないから危険な消費者金融とかに頼み借りるのである
家族とかだったらも返さないということも普通だが消費者金融だとガラの悪い人が取り立てに来る。でもその人が悪いかというとお金を借りた人にも責任がある。簡単に人は金を貸さないからである。
それで消費者金融の取り立てする人が悪役となって金になっている。誰も見返りがなかったら貸さないからである。だから利子ををつけるのはそのためである。それより利子もとれなくて現金も回収できないということもある。そしたら貸す方では商売が成り立たないとなるからである。だから借金する人にも問題があり借金は極力しないのが無難だとなる。

個々人の貸し借りと事業の貸し借りはまた違っている。その金も大きくなるからからである。一人の個人が負担することは限界がある。だから会社組織にして借金したとしても倒産しても負担を軽減する。それで事業もしやすくしたのである。
ともかく銀行に貯金しても利子がつかないということはそもそも
資本主義が成り立たなくなっているとも見る。また個々人が株をやれ投資をしろといわれても簡単にできない、投資のプロでもうまくいかないものを素人がするのだから危険になる
銀行は地銀でも株のことなど素人だし株のこと知る人などいないのである。銀行では顧客の利益など考えていない、手数料とることしか考えていない、何か詐欺的なのである。

●貨幣資本家とは銀行にそれなりの金を貯金している人

今度は貨幣資本家の貸し出し意欲がそがれる。だから、貨幣資本家がある程度納得できるような水準に決められる。それがどのような水準に落ち着くか、明確な基準はないとマルクスは言う。さまざまな偶然が積み重なって、事後的に決まってくるとマルクスは考えた。


貨幣資本家とは銀行に貯金している人である。土地でも資本だし貨幣でも紙幣でも資本だからである。その資本家に利子もつかないとしたら銀行に貯金しても何のためにしているのかわからなくなる。貸金庫なのかとなってしまう、銀行の役割りは消失してしまうのである。

とにかく利子がつかないということは一見事業起こす人にはいいとなっていてもゼロ金利の効果はでてこなかった。すると政策の転換が必要になる。そもそも利子がつけられないことは資本主義自体の終わりを意味しているかもしれないのである。

金は天下の回り物だというとき金が回ることが経済を活性化する
高齢者でも金をそれなりに持っている人でも貯金しても利子がつかないことは金が回らないことである。高齢者でも貯金に利子がつけば金を使うことはある。孫にとか使うことがある。
地域でも使うことがある。利子がつかないということが返って金が回らないようにしているとも見る。それはすでに資本主義が機能しなくなったこととも見る。
ただ貯金がないわずかな人はそんなことは思わないのである。
でも金は回り回ってゆくから貧乏人にも金が回って行くようにもなる。金は天下の回り物だからである。

この「本来もらえるはずの金利」を国民が受け取ることによって、経済が活性化し老後不安も大幅に減少するのではないだろうか。

これも利己的な見方でも一理ある、ゼロ金利政策はそもそも資本主義では成り立たないものであり終わりになることに通じているのである。

posted by 天華 at 19:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題