現代文明はもはや一個の人間が認識する範囲を越えている
(狭い範囲で自然の中で認識しアイデンティティ化することが文化をうむ)
●テレビでは世界を認識できない
現代の問題とは何か。それは人間の認識の限界を超えて世界が拡大したことである。人間の認識は肌感覚で知る世界である。
人間形成にしてもとても現代のような世界では広すぎて世界を認識できない。人間は今や無数の部品とかしてそこにつながりを見出せない。グローバル化したからといって人間の認識が拡大して進化したとも言えない。肌感覚で知りえたものではないからそこに錯覚が生じているのである。
それでイラク戦争の時油まみれの海鳥がテレビい映されたその周りは別に油がで汚されていたわけでなかったのである。
その海鳥だけを取り出して作られた映像でありそれで世界中の人がイラクはフセインはひどいやつだとされたのである。それはアメリカの一方的な横暴だったのである。
つまりテレビと言う小さな箱からの映像では本当のこと真実は映し出されないし知り得ないのである。それで映像によるやらせがテレビを通じて行われてきたのである。
だからマスコミをとうして世界を見る日本でもそこで本当の真実を認識できるかとなればできないのである。
●人間の認識する範囲は狭い
そもそも人間の認識は限られたものでありそこに必ず人間の認識を超えたものがあり問題が起きる。 孫悟空のように地球の果てまで言ったと思ったらそこはお釈迦様の手のひらのうちだったのである。つまり人間は地球とか宇宙とかとても肌感覚で認識できない。その広さとか認識できない。
世界のことでも地理でもあまりにも広大で理解できない。日本では砂漠もないし草原もないするとそもそもがとても大陸を理解できないとなるのである。
そこにどうしても肌感覚で理解できないものがあり誤解が生まれるのである。世界地図をいくら見ても世界がわかることなどありえないのである。
人間は認識できる世界は実は狭い。そのその範囲は私の住んでいる相馬藩くらいなのかもしれない。でもそこにも海があり山があり全体を把握することは認識することは難しいのである。それで福島県となるとその地理を認識することが難しい。なぜなら浜通りだと阿武隈高原み遮られて中通りとか会津の方は全く高い山でも見えないからである
地理の一体感は常に見えることによって認識する。
常に見えなければそれを認識することは難しいのである。
福島県は広いからそれで一体感を感じないのである。
むしろ山からでも牡鹿半島が身近に大きく見えたことに驚いた。
すると宮城県の方が地理的一体感があり身近なものとしてある
交通でも仙台市が鉄道で通じているから宮城県の方が生活でも関わりが深くなっている。
●なぜに日本では小国という地名が多いのか
とにかく人間の認識は日々の生活で見える範囲が認識する
見えなければその存在すらなく一体感もないのである。
日本は山が多いから山に遮られて分断されている。
だから地理的には日本は統一することが難しいようにも見えた。
外国だと大陸だと広大な土地があり山もない平原が森林でも続く。そういう世界では大帝国が生まれやすい。遮る物は無いから平面を平原を遊牧民が移動すればそれによって既にジンギスカンのような大帝国はおのずと生まれたのである。
日本の場合なぜ無数に小国という地名が多いのか。それは山に遮られて人間の行き来が少なく小さな世界に閉ざされて自給自足していたからだともなる。だからその小さな国が一つの独立した国のようになっていて小国という地名が多いと思うなる。
とにかく人間の認識には限界がある。アメリカのグランドキャニオンやモンゴルの遮ることのない広大な平原は砂漠など日本ではとても肌感覚で実感できない世界なのである。
ただ人間はその精神を育むとしたら基本的にはやはり小さな世界でも村のような社会でも何かそこに共同性がありアイデンティティ化するものがありそこで認識を深め社会でも世界を知るということになる。
基本的にそういう場がない時人間はアイデンティティ化できず不安定なものになる。それで現代文明はグローバル化しても世界を認識できたとはならなかったのである。
むしろ人間はもともとは狭い範囲で認識して外界でも自然でも社会でも一体化していた。それができなくなったとき人間の精神でも心でも分裂状態になってしまったのである。なぜなら東京のようなところでどうしてそこで世界を認識し一体化できるのか。その東京を見れば何か既に核分裂状態にあるのではないかとぴカートが言ったがそれも説明しなくても東京のような大都会を見れば一目瞭然だとなる。
●言葉で表現できな世界の異常性
そこではもう言葉も通じない。言葉でそもそも表現できないので摩天楼のようなビルを見上げて人間は粒のようになってただその巨大なものを見上げている蟻のようになっているのである。
そこに人間がどのように繋がっているかもわからない。核分裂状態になっているから核兵器も生まれたと言っても言っているのも分かる。
つまりもう人間の認識を遥かに超えた社会になっていて精神がそこで作用することができなくなっている。
それはすでに言葉で表現できないということで分かるのである。何かすでに言葉で表現できないものが無制限に拡張して隙間もなく埋め尽くされている。そこはカオスとなりその大都会時代がすでに核分裂状態にある。
だからその異常なカオスから分裂状態からヒットラーがナチスがまだオームのようなカルト教団や団地から生まれた選挙宗教となった創価などが生まれた。それは現代文明の病理的現象として生まれたものであれ本来の宗教とは何の関係もないのである。
でも怖いのはその病理的現象が大衆ファシズムとなりナチスとなってゆく怖さがある。だから今や人間は人間として存在しえない。そのために天才とか特別優れた人間はアウトサイダーとなり文明を拒否するようになったのである。
●動物とも一体化したアイデンティティ化したエジプト文明
文明というときエジプト文明だとあらゆる動物が神聖化して人間と一体化した。それはアニミズムになるがそれでもなぜそうなったかというと動物が自然の中で生きている姿を見てそれが神のように見えたのである。鳥でも牛でも神格化されたのは自然の中でそれを常に見ていた結果自然に調和しているから神格化されたのである。
それは確かにアニミズムなのだが偶像崇拝にもなるが現代人ではそういうことはありえないということ自体また人間がいかに自然から遊離したものになったかであるお示しているのである。
大都会に居ればまずそうして自然の中に調和している動物であれ植物であれ見ることがないからである。そして機械化してロボットを作り自然に生きる動物は駆逐されたのである。
動物が生きているということはやはり自然があるからであり日本に熊がなお生きているということは山に熊を生かす自然がなおあるということである。だから動物が絶滅することは自然も消えてしまうということにもなる。
だから依然として日本に山に熊が生息していることは自然がまだ残っているからだともなる。ヨーロッパあたりでは熊がいたとしても居なくなったからである。それだけ自然が破壊されたことをそれは物語っているのである
●教育する場の共同体の喪失
そしてなぜ今現代文明の中で人間形成することが難しいのか。
それはそういう場が消失したからである。学校があるとしてもそこは何か人間を教育するというよりは膨大な知識をつめこめさせて競争させて選別する。そこには何か人間を作るとかはない。
ただ膨大な知識を詰め込む場所でありそれもそこで何か連関的に知識を習得する場ではない。それがないのはそもそもは教育の基盤である村のような共同社会がなくなったからである。
子供はそうした狭い世界で世界を認識し育つからである。その狭い世界でもグローバル化したり広域化したりすると相互のつながりを認識できなくなる。そこでどうしても分裂状態になるのである。
それでなぜ江戸時代に明治維新でも多くの偉人を産んだのかというとそれはそれぞれの地域の藩内で藩校とかで教育されたからかもしれない。それは狭い範囲でも具体的にその土地とかその人間とか社会とか歴史でも共同性があり認識されていた。おのずとその社会自体が教育の場であり誰か立派な先生がいなくても教育されていたと思う
そういう場が明治以降はなくなり学校中心の教育になり人間形成がうまくできなくなったともなる。ただ明治以降でもやはり農業中心の世界だから地方でも田舎でも江戸時代からの連続性があり共同性があり人間はそういう場があり教育されていたともなる。
ただ戦争の時は村の中心の神社は戦争の勝利を祈るものとなった。テレビドラマでで八幡神社の誓いで8人くらいの同士となり特攻隊になったのである。
だから太平洋戦争でも村々の小さな神社がもともと共同隊として継続していたからそうなったともなる。
ただそれは国家によって悪しく利用されたのである。もともとは村々の神社は五穀豊穣を祈るものでありそういう戦争のために祈る場所でわなかったからである。
ただ神社とはやはり日本の共同社会のなかから生まれたものであった。それは農業社会だからありえたのである。今大都会で小さないやしろなどがあっても存在感が亡くなったのは農業社会でわなくなったからである
●拡張、拡散。拡大の世界の終焉ーclose,deep,rootがキーワードに
今必要なのはグローバル化のように拡張拡大拡散することではない。そこで確かに外国の物産は入ってきても物と心は分離している。貿易は必要でもそれで人間は一体化して協力するとはならないのである。
むしろ物と物だけの関係だったら何かあれば対立して戦争にもなるのである。人間の認識できる範囲はまた相互に繋がれる範囲は狭いのである。認識できる範囲が人間には限界があるからである。人間の正常な精神の育成できるのは狭い場所でなのである。
そこで精神のアイデンティティ化できて自然と調和した精神が育成されるのである。そこでは物と心も一体となるのであるもちろん貿易は必要である。でも今のようなグローバル化経済は金融経済などは人間の精神からはかけ離れたものとなりもう制御もできない頃突然天災のように恐慌になっ崩壊するクラッシュするのである
そもそもグローバル化したからといって人間が教育され育成されることはなかった。むしろ逆に狭い範囲でこそ人間は正常に認識して人間も形成され精神も形成されたのである。
いくらグローバル化したとしても物質的には交流しても人間の精神は認識は限界があり形成されない。
だからこれからの世界は逆に江戸時代とか中世の閉ざされた世界へ回帰する伴う。文化にしてもフレンツェルのような5万くらいの都市でもあれだけの芸術と文化創造はあった。そこにはそれだけのものを作り出す基盤があったとなる。
でもグローバル化したからといってそうした文化は生まれていないのである。返って食べ物でも飲み物でもコカコーラとかマグドナルドとかその国独自の料理が生まれなかったのである。ただ寿司などは世界的になり日本の文化が広まった永遠なる。
とにかくこれからの世界は拡大拡張拡散することではない
キーワードとしてはclose.deep.rootになる
close identified place
deep identified place
steady rooted place
こういう志向になる。精神の充実が形成が優先される世界になる。これは木のようそれぞれの土地に根を張る植物的志向だとなる。
大航海時代から世界は拡張拡散拡大になったがそれも限界にきてもう投資でも開拓する場所もなくなったのである。これ以上増産拡張拡大していけば世界の自然環境も破壊されるからである。
それは世界の人も気づき始めたのである。それで持続可能社会(SDGs)を志向するようになったのである。